ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

他者の怒り

2021-10-08 | 雑記
ツイッターもブログもサボっているが、今も何とか生きている。

拙は生きているが、先ほど、とある人の訃報を聞いた。

顔見知りではないし、その方のブログをよく読んでいただけではある。

そのブログもツイッターも更新がピタッと止んだのが今から二カ月ほど前。

ツイッターの方は余り日を置かずに更新されていたのでおかしいなと思ったが、余り氣にしていなかった。
きっと忙しいのだろうと。

ご冥福をお祈りする。


さて。話を変えて、身近なことを少々。

ある人物の不興を買ってしまった。ついでに昨日は弟にも怒られたものである。

不興を買ってしまったというのは、勿論、拙の行動が問題だった。
単純な話で、謝罪すべきところで謝罪しなかった、というのが続いたのである。

酷い奴だと思われるだろう。それだけならば。

以来、その方は拙を視界に入れるのも嫌なようで、他の人達との態度の差が歴然としている。

つまり、「あいつ(拙のこと)はまともな人間じゃないからまともに扱わない」と。こういう態度である。


そこで少々思い出したことがある。


改めて書くと、その人物というのは今の仕事場の人間である。

丁度二カ月前にそこへ初出勤した。その日だったかは思い出せない。初対面の時だと思われるが、何をどう見て考えたのか、恐らく予防線でも張ろうとしたのだろう。簡単な作業をしつつ他の人たちも交えた雑談の最中、いきなりこう言われたものである。
「あなたを男性と思ってないから」と。続けて、「わたし、結婚してるから」と言っていたかもしれないが、その辺りははっきりとは思い出せない。

拙は背が低く、筋骨隆々といった男らしさが横溢しているような容姿ではない。
昨今話題のLGBTだとかにも当てはまらない。

昔のとある有名漫画みたいに「おれは男だ」と一々確かめながら暮らしているわけではないが、己を構成するものに、男性というものがあり、それが極度に自己との同一性が乖離していない状態である。

この同一性の乖離が著しく、病的なほどの場合を、「自己同一性障害」という。
男の姿で生まれたが、実際は女性なのだとか、またその逆の場合も同様。

一昔前から、ジェンダーフリーという思想が吹聴されているし、昨今はLGBTと頭文字を並べて、非多数派の性愛者に権利を、というのはお聞きになった方は多いだろう。

それの良し悪しはともかくとして、権利を認めるか認めないかもここでは語らないし、そういう話題ではない。

世の中は男性と女性が必ず存在するわけである。先日、「中性」と言っているモデルだかの話題があったのを見たものだが、それも男性と女性があるから中間の性と表現できる。

とまあ、ややこしく話を続けても仕方がない。

中身が女性の男性に向かって、「男性とは思わない」と告げた場合、それは「女性だと認めてくれた」と受け取られてもおかしくない。

では。中身も外見も男性に向かって「男性とは思わない」と告げた場合。これはどうなるか。

前者の場合、女性という人格を認められたといえる。

翻って、後者はというと。

これは人格の否定である。つまりは侮辱である。

ありのままのものを何かの意図でもって削り取り、捨て去る、というと何か物騒な響きだが、意味は変わらない。

別に女性の真似をしているだとか制服を女性の物を着ているだとか、そういうものは一切ないのに、己の都合でありのままを無視するというのは、つまりはその対象を、この場合は男性たる人物の人格を蔑ろにすると宣言しているのである。

当人にそんな意識なんぞなかったろうが、このことを何人かにどう思うかと尋ねたら、ある一人はこう返してきた。
「何かしたのか?」と。
拙がその女性を口説こうとして振られた言葉だとしたら、あり得るだろうが、何もしていない。

当時は新しい環境で緊張していたのもあるし、自分が何を感じていたかは分からなかった。

しかし、昔にもこういう事があった。書いたこともあったかもしれないが、簡単に述べておく。

大学時代、とあるクラブにいた。文化系のクラブだが、だからといって重労働が無いわけではない。

同期のかしましい女性達、というと語弊がある。目立ってたのは一人で、後はその取り巻きとでもいうか。

女性でも三人集まって物を運べば、男性一人よりは効率があがろうもの。

それをこう、自らで評していた。拙に向かって直接言って詰る、というような具合ではなかったが。
「わたしたち、ここの男組だからねぇ」などと。

目の前の男性一人よりも女性の集まりのほう力が出ている、と言っているわけである。

とても空しい言葉である。徒に男性を傷付けるだけで、いくら集まっていようが女性は女性でしかなく、そんな言葉を吐いたところで男性になるわけでもない。寧ろ一人だと非力です、というアピールをしていることになる。

あのような言葉を紡いだのは、やはり男性にコンプレックスがあるからだろうとは、その後に思ったものである。

個人の事なので細かくは言えないが、幼少の頃に「男性に傷付けられた」という過去を持っていたからである。

傷付けられたからといって傷付けて良いわけではないのは言うまでもないが。


話が長くなった。

どうして特にその件の人物について無礼を重ねることになったのか。まるで狙ったかのように状況が重なった。
広い職場ではないとはいえ、共有で使うものとはいえ、あちらが使おうと準備しかけていたものをこちらが先に使ってしまったりだとか、一方的にこちらが迷惑をかけている状態ではあるのだが、謝罪しなかったり、できない状態になっていたりと、少し思い出せる限りで、まるで冗談のように重なっていた。

人の意識の九割ほどが無意識という。心臓の鼓動だとか胃腸での消化、目に何か飛び込んできた時に目を閉じようとするといった分かり易い例も含まれる。

その無意識に働きかける事によって物事を好転させよう、というのが引き寄せの法則というわけだが、まるで引き寄せたかのようであった。

何せ、当人がどう思っているかは知らないが、いきなり「人間扱いしない」と宣言したわけである。
それで、そう感じたとおり拙が人間扱いされないような動きになっていき、ご覧の結果となったと。
その態度を見ていて思ったものである。

あれはもしかしたら、拙が取る可能性があった態度ではなかろうかと。

人によってはなんてことはない言葉かもしれない。が、説明すれば理解は出来るだろうし、簡単な具体例を対比として述べておいた。
心の奥底に沈めていたが、とんでもなく怒っていたのだろう。大学時代の話を思い出して喋ったり書くだけでも嫌な氣分があった。
そこで不甲斐ない顕在意識に代わって、無意識がこういう事態を引き起こしたのかもしれないな、などと。


ついでに弟に怒られた話もしておく。

こう怒られた。
「頼んだこともちゃんとしてくれず、こっちへの頼み事ばかりでちゃんとしてなかったら怒って物を壊すし、上から目線で偉そうに物を言うし、やってあげたことにありがとうもない。二人よれば社会だろう。ふざけるな」と。
こんな具合であった。

怒って物を壊したのは数日前にあった。些細な理由ではある。その事を踏まえての話である。

しかし思うのである。恩着せがましいなぁ、などと。

弟のトイレの後に便器にこびりついた糞便をこすり落としたことは一度や二度ではないし、部屋の掃除は毎日ではないとはいえ、台所や玄関、風呂場の脱衣洗面所に至っては髪の毛が目立って落ちており、掃除は拙がやっているが、それにお礼を言われたことは無い。無い、は語弊ありだが、氣付いた時に、もしくはしておいた、といった時だけである。トイレについては、糞便のこびりつきにそもそも氣付いてないか、時間が経っていて向こうには経緯不明という奴だろう。最近は余り見かけることはないので、自分でも行っているのかもしれない。
これも毎日ではないが、水場に設置してある手拭きタオルは、拙の洗濯の際に交換しているが、その事についてお礼はない。日常と化したので氣にしていないからである。
くれという気もないが、してあげたことに云々なら、まったくもってお互い様である。
怒って物を壊す、という点なら昔に書いたが、ゴミ箱とザルの粉砕の件は拙自身とは関係のない八つ当たりだった。関係あれば壊していい、ではないが。なんだか先ほども似たような断りを書いた氣がする。
などと、言えなくもない。

ガミガミ怒れば怒るほど墓穴を掘っているような気もする。そして先ほどの件で触れたが、その態度は自身が取り得るものだったのかもしれないと。
というのはつまり。相手の不満は、自身の不満の投影なのだろうと。自覚しているかしていないかはあるが。
冗談みたいな言い草に聞こえるが、昨日怒られた件も踏まえて、相手が怒っているのは、拙の代わりに怒っているのかもなぁ、などと思う。どちらの件も、先に拙が怒りだしてもおかしくない話だからである。
上記のようにあげつらえば腹も立ってくるが、立たせる腹の意味がないとなる。
切っ掛けがあって怒るのではなく、怒っているから切っ掛けが来るのである。
怒っているなと自覚できれば、切っ掛けは切っ掛けとはならずに素通りするのだろう。

もう既に腹は立てた。ただ、主語がないだけである。

だが、あっても変わらない。「わたし」が腹を立てたのだから。


では、よき終末を。


話すと長くしてしまう

2021-09-01 | 雑記
ツイッターもブログもしばらく更新をしなかった。

ブログよりはツイッターは更新がしやすいかと思ったとはいえ、何か人に向けて物を言う意味を思い出せなくなったので、やはり放置となった。

とりあえず、手短に近況を。

今年四月に仕事をリストラという横文字の言葉で放逐された。
例の疫病による不況の故である。

そして三カ月ほどぶらぶらしていた。

それから詳細は省くが、仕事をしようと思ったので、八月の頭に清掃関係の仕事へ就いた。

これを書く直前のツイッターに仄めかすようなことを書いておいたので、何の仕事かは想像が付く人はいるであろう。

とはいえ、あれも医療従事者となるらしい。

きっと所謂陰謀論界隈で拙も悪辣な存在として非難の的となるのであろう。ファファファ。

しかし、あの疫病がそれほど酷いなら、直接関わるイメージ通りの医療従事者はもちろんのこと、色々と触れるこの仕事にかかわる人々はもっと罹っていそうなはずだが、この三週間ほど、何もなかった。
それに纏わる話も直前のツイートに書いてはある。

拙以外の大半がヴァクチンを接種しているから、という理屈も成り立たなくもないだろうが、それで済む話かは知らぬ。九割以上防げる抗体が出来ていようが、十割ではないだろうに。

それはともかく。
自宅待機で逝ってたという話がよく出てきた。だが、病は氣からである。
この状況、一般的な目で言う所のひねくれものでもなければ、「あれに罹った!」となって家に籠っていたら、重度の鬱病の如くになり得るだろう。
マスクや報道含めたストレス攻勢で身体は氣付かぬうちにボロボロ。
そしてベッド(拙は畳の上に布団だが)で絶望に打ちひしがれて飯を食う気力も失って・・・、となってもおかしくはない。

たかが三日で?と思われるだろうが、無いとは言い切れない。

前にも書いたが、『金枝篇』で紹介されている話で、「バナナを食べると死ぬ」という掟(トーテムと言っていたか?)の部族の人が「先ほどの料理にバナナが入っていましたよ」と聞いたら卒倒して死んだという。

現代人とそんな未開部族を一緒にするなとお叱りを受けるところだが、「飛沫は防いだり飛ばしにくくはするだろうがウイルスは通す」マスクでウイルスによる感染症を抑え込めると考えるのも、実に迷信深いと言える。

もう少し理屈っぽくいえば、既に誰かが言っているだろうが、鼻腔や喉の粘膜に着いたウイルスを咳やくしゃみで飛ばすのが人の生理現象。
健常な人同士なら、飛んで来ても別に何ともない。精々、嫌な氣分になる程度。それで罹ったように見えたりもするだろう。
「そんな氣がした」でそう無意識に身体が動くものである。

そこはともかく。

本来は飛沫と共に飛んでいくはずのウイルスが、マスクの顔側に残る。
それを何度も吸い込む。何度も吸ううちに、体内に侵入を許すことになるだろう。
鼻腔や喉の粘膜は謂わば前線。突破されると体内で激しい戦いを引き起こすことになる。
そして重篤化して・・・。三日で死んだとかニュースになったりするわけである。

とはいえ、その割には拙が勤務している病院(医者ではない)で、毎日何人も死者が出ているというような状況には出くわしてはいない。
すれ違う医者も数が減ったりせき込んでいたり人手が減ってもっとピリピリしているかと思ったが、そういう風にも見えなかったものである。
日本は平和である。頭のおかしな意味で。


では、よき終末を。


複雑怪綺

2021-07-17 | 雑記
先日、とある事が切っ掛けとなり、「己は何をしたいのか」を考えていた。

要するに仕事の話である。何を隠そう無職になって三カ月ほど経っている。

結論からまず書くと、このような事に思い至った。

「何かを綺麗にしたい」と。

そのように至った理由のような物を少し書いていく。


拙の前職はホテルのフロント勤務だった。規模の大きなホテルではないので、接客業としては難度の高いものではなかったと思う。
フロントでの応対や事務所での仕事以外に、ちょっとした肉体労働があった。
昼間に休憩で貸した部屋を掃除して夜に売れるようにする、というものがある。ベッドメイクである。
経営方針やら景気の具合でまちまちではあったが、拙が詰めている日はこれの多い日が多数を占めていた。

かつての上司から聞いたものだが、ホテル勤務に憧れて入社したものの、望んだ形と違うと言ってすぐ辞めていく、という人が結構いたという。他のホテルの話だが。
石ノ森章太郎の『ホテル』のような華やかな仕事を夢見たものの、実は雑用だらけで絶望したと。

かくいう拙はというと、まったく興味がなかった。接客なんぞやりたくなかったが、兄にそこのバイトを辞めるから代わりに入れと言われて入り、四苦八苦しながら働いていたのである。

時は流れ。四、五年ほど前だったか。事務所の改装が行われ、今まで手狭で混みあった具合から広々とした事務所になった。この話は直接関係はないが、一応。

それから一年ほど経ったぐらいで、週一に昼間のシフトに入っていたご老人が変な具合で辞めていった。
少し精神的に不安定だったようにも思えるが、今年か去年ぐらいに、恐らく亡くなったらしいと聞いた。
身体が悪くなってきていたのを感じていたのかもしれない。

話を戻す。

そのご老人は若い頃からの習慣だったのだろう。一時間以上も早く出勤して着替え、事務所内の電話やらフロントのカウンターを拭いていた。毎回見ていたわけではないが、掃除する箇所は決まっていたように思う。

当たり前の話というのもなんだが、そのご老人が辞めてからというもの、そういった掃除をする人間はいなかった。
清掃業者による床やフロントロビーの掃除はあるが、事務所の備品などは触れることは出来ないので、そういったところはずっと手付かずであった。

事務所内ならまだよしとしよう。しかし、カウンターの記帳に使うタブレットPCの台座(冷却用の台座である)の下にホコリが溜まっているのまで誰も気にしていなかった。

自分などは昔から嫌々していた仕事だったし、他の人も似たり寄ったりだったり、他の仕事に追われていたりもする。
しかし、これで接客するのか?と疑問が沸いた。ネット予約の宿泊プランの値段やオマケの具合を考えるのは必要だろうが、これが客を迎える態度かと感じた。

人に命令する立場でもないし、向こうもされる道理がない。清掃業者が手を回さない箇所の清掃は業務内容には存在しない。
ならば、いなくなったご老人がやっていたように自発的に掃除を始めようと考え、時間のある時(夜勤は夜中暇な時間も多い)にホコリをはたいて机の脚まで拭いたりしていたものである。

その時は業績が落ち込んでいたが、たまたま上り調子だったのだろうとはいえ、掃除を始めたころから毎月伸びていった覚えがある。掃除すると開運するだとかは何かで聞くし、そういうことも念頭にあるにはあった。

「Aさん(前述のご老人)の後継者だ」などと、先輩アルバイトの女性が微笑みながら言っていた。
「皆後継者になってもらいたいものだ」とは思ったがそれは口に出さず、やんわりと掃除の必要性は訴えたかもしれないが、そこはもう覚えていない。

そしてコロナ禍。望んだ形には臨めなかったが、周りのスタッフも掃除の真似事をし始め、「皆始めてくれて嬉しいなァ」などとおどけながら言ったものである。
言うまでもないのだろうが、自発的な部分は一切ないもので、ケチって使い始めた手指消毒アルコールを撒いて拭くというとんでもない事態になっていった。
おかげで記帳のタブレットPCには綺麗な弧が描かれていたものである。そしてそれを拙が拭き取るという。

もうそろそろ辞めるか。無意味にマスクさせられながら仕事を続けるのはバカバカしさの極みだと感じていたころ、ある夜勤の日、電話があり、次の日の明けに本社に来るように言われ、そしてクビを言い渡された。

すまないが受け入れてもらえるか?という風に尋ねられたが、上記のように感じていたので、「そろそろ辞めようかと思っていたので、なんだか不思議です」などと答え、晴れて退社となった。クビを晴れというのはおかしいが。


長々とクビになるまでの経緯を書いただけになったが、何を感じたのかというと、己は何かを綺麗にすることを望んでいたのだなと、業務としてのベッドメイクも、自発的に始めた掃除も、ここで大した内容でもないが何やら書いてきたのも含めて。
それが冒頭の「何かを綺麗にしたい」なのだと。

というわけで、清掃関係の仕事を探すことにした。十七年ほど続けたホテルのフロントという稼業には微塵も興味を持てなくなった。
そもそも、さっきも書いたが嫌々始めたものだった。役に立つ部分はあるが、仕事にするかどうかはまた別である。


このように感じ始めていたせいなのか、少し前からTwitterの方は滅茶苦茶な話を始めて、今まで見に来ていいね!をたまにしていく人も離れていったようである。

ワクチンは危険だから反対!というのは安全でむしろ身体をよくするなら打つと言っているようなものだ、などと言われていい顔をする人がいるわけがない。
全員がそう考えているのかは分からないが、西洋医療の利権構造や危険性を指摘しつつそう訴えるのなら矛盾も甚だしい。その立場から言うのなら効こうが効くまいが無用、である。

添加物などの毒をなるべく排除した食べ物で身体の調子が良くなったことを健康だなどと宣うのは、二日酔いが治ってスッキリしたのを最大級の健康を手に入れたと騒いでいるのと変わらない、などと言われて喜ぶ御仁が居たらお会いしたいものである。

絶滅収容所に放り込まれたフランクルのような極限状況に身を置けとは言わないが、人には生きようとする力が備わっている。
あれがあるからないからというのは、その力を自分から眠らせているのである。
例えが特殊な具合になるが、物理学者の湯川秀樹は『老子』や『荘子』を愛読書としていたから画期的な発見が出来た、という風に語られることがあるが、湯川だから出来たのであって物理学者が皆それらを読んだからといって画期的な発見が出来るわけではない。

十年ほど前にも出くわしたこの手の話。「正しいものを食べれば正しくなる」と表現してきたが、このように拙の前で言い出したのはとある御仁であることは昔から書いてきたものである。
「バラモンは生まれによってではなく、その行いによってバラモンとみなされる」という風に仏典にあるが、正しい行いをすれば正しくなるとは言っていないことに注意してもらいたい。

ところで、世界規模の大金持ち(例:ロスなんたら)は前述の様な毒の少ない「正しいもの」を食べているそうだが、陰謀論界隈では大悪党として散々非難されているのはどういうことだろうか?世界支配が本当として、彼らのその仕事は「正しい」ということにならないのか?


複雑な幾何学模様は美しく見えるだろう。これを分解して一本の線に作り直すのは綺麗と言えるだろうか?
その模様が歪んだ場合、それを整えるのを綺麗にすると呼ぶべきである。

一口に「綺麗」と言っても様々である。ただただ短絡な思考に絡めとることだけを綺麗だと言い張るのなら、汚くて結構である。

では、よき終末を。


怨舞に奪己

2021-07-10 | 雑記
ここしばらく、毎度のように野口晴哉がいわくとやっていて大半の人は飽き飽きしていることだろうが、まだ続ける。

子供の頃から例えば味の素や、本来なくても良かったはずの食品添加物だとかが気になっていた。
影響の一つに漫画の『美味しんぼ』もあっただろう。小学校か中学校でそういった教育があったように思う。
そこでコーラで骨が溶けるとか、とある着色料は何かの虫からとっている、というのは見た覚えがある。

風邪に付いても、小林よしのりがコラム漫画『新ゴーマニズム宣言』で、自身の風邪の処置について、森鴎外の言葉を引用しつつ述べていたのを見、「風邪は寝て治すもの」と思ったものである。
つまりは風邪を引いたからと薬を飲んでいては、自身の免疫が落ちていくだけだと思い、以来、風邪を引いても市販薬は薬局などで売られている「葛根湯」と銘打った顆粒状の薬を飲んだことが何度かあったぐらいで、もう二十年近く飲んだ覚えはない。

医者にかかったのはこれも十数年ほど前に、腕と顔がアトピーのような症状になり腫れ上がったのを診てもらい、その時貰った薬を塗って治って以来、再発もなく、医者にかかった記憶もそれ以降ない。

医者にかかるかからないはともかくとして、なるべくそうしてきた。

顔と腕が腫れた時とどちらが先だったかは忘れたが、これまた十数年前のある日立ち寄った本屋で野口晴哉の『整体入門』と『風邪の効用』というものを見つける。

その時の本の帯に「身体への信頼感があがる」とかいう読者の声が書かれていたように覚えている。

専門書でもないのに整体入門と書かれているのがひどく気になったのと、帯にあった『風邪の効用』と一緒に読めば身体への理解がもっと深まる!という煽り文句も気になり、両方買って帰った。

風邪の症状や身体の状態によって効果的な対処が違ったりはするようだが、自分が思ったことは間違っていなかったのだなと、読んでやたら感動したものである。
風邪は身体の調整作用であって病気ではないというのも、他では聞いたことの無い話であった。

『整体入門』の最初の方に「氣」(現在売られている文庫では「気」)について話しているのだが、氣については野口晴哉のオリジナルではないだろうが、こう具体的に語るものも読んだことがなかった。

ただ、気功で人を治療するという意味合いではなく、氣を操作して自身の身体を健康にしていくというのが目的だという。そのための色々なコツが書かれていたり、ちょっとしたからかうような引き合いに出した話が笑えたりと、読み物としても面白かったりする。


思い出話を長々と書いたが、冒頭の最後にこのように語っていた。

ある作家の方が整体協会に入会したら、作家仲間から「お前も野蛮人の仲間入りか」と言われたそうですが、わたしたちが求めているのは文明生活の中で野蛮人の力を発揮できるようにしていくことです。

見て書いてるわけではないが、こういう風だった。

つまり、人が健康に生きていくというのは、身体の中で眠っている力を引き出してこそ、ということなのだと。

整体入門の終わりの方には、病状と依存の関連性について語っている。

ある子供が風邪を引いたというので野口晴哉の所に連れてこられる。
まるで手品みたいな話だが、野口はぐいっとやって風邪をあっという間に治してしまう。
そして親子は帰っていくのだが、また何日かするとまた風邪を引いたと連れてこられる。

どうやらその子供は、母親に構ってもらいたかったようで、風邪を引けば構ってもらえるからまた風邪を引く、という風になっていたという。

こんな感じで、病気になったからと人に世話をしてもらって当然だと思っている人を治すのは難しいという。
口では治りたいと言うが、本心ではそう思っていないというわけで、治るものも治らない。

現代でもメンタル・ブロックという言葉があるが、こういう風な心理が語られている。
わたしは不細工だからもてない、としよう。別にそうでもないのだが「不細工だから」という建前にしがみつき、もてないことを僻むのに、もてないこと自体をどうしようもせずに言い訳に終始するというものである。
言葉はそれぞれ違うが、人はこういう心理状態にはまっていたりする。
ちょくちょく自身の内の言葉に耳を傾けると、そういう動きがあるのに気付く人もいるだろう。
つまり、建前に依存しているのである。病気同様、否定したいはずなのにそれに安住してしまうと。

こういう話を聞いていたりしたものだが、結局理解が半端だったのか、後年「~が悪い」という話ばかりする人と付き合うことになってしまった。その件は昔からちょくちょく書いてきた。
ま、類は友を呼ぶという奴か。

そこで先ほどTwitterで「添加物を目の敵にしているが、それは食べ過ぎのせいではないか」という趣旨の一文を書き上げた。反応はない。

どうして添加物が使われるのかを考える必要がある。

それは国民の健康を損なうため・・・というのが陰謀論という奴だが、結局は周り周って国民の要望である。

いつでもどこでも安心して綺麗な色をした食べ物をたらふく食いたいというのがあるから、腐りにくくしたり色鮮やかにしたり、味も再現する。
昔は戦後の飢餓の時代を生きてきた人が多かった。その要望に応えざるを得なかったはず。
そしてその当初の理由は忘れて、食べ物がふんだんにある社会を維持するためになっていったわけだ。

しかし疑問に思う。国が認可を出した添加物を疑うなとは言わないが、国は添加物を入れたものを毎日食べなさい、とは言っていないはず。
三食食べるというのは大昔に根付いた習慣だというが、農民にしろ武士に江戸の町の商人や職人しろ、現代より動き回る事が多いので食わねばならなかったところが大きいなら、現代の実態にはそぐわない。食べるなという話でもないが。
栄養学を根拠に三食をというのが現代にも続いているが、三食食わないと罰せられるというわけでもない。

それを入れた方が推進した方が悪い、というのはいったいどういう了見なのかと疑問に思う。
政府や企業の思惑というものが全く無いわけでもないが。

Twitterで書いた意見を改めてここにも示しておく。

添加物は確かに物によっては毒だろうが、それなら栄養も毒となり得るものがある。日常の量では遥かに及ばないが、それでも大量に摂ればその分身体に負担がかかるといえる。
そんな風に身体を疲れさせてるところに添加物を解毒せよと来れば、さらに疲弊する。
そして栄養が摂れてないからとさらに食べる。
それなら普段から摂取している毒も節制しなさい。

と、このように書いた。その後しばらくしてからまた別の話を持ち出した。

腹が減って食べたいと思った時に、例えばコンビニ弁当を平らげる。
さして食べたいと思わないが、栄養が不足するからと例えば薬膳料理を無理に食べる。
どちらが健康的か?食事に付いては後者とはいえる。
現代は後者の方が多く、これは頭で物を食べている。
己の健康を発揮しようとしているのではなく、食べ物に健康にしてもらおうとしている。
人の身体はそんな小賢しさを悠々と超えていく力があるのだ。

と書いて最後にはちゃんとフォローもしている。

だからといって、毒だけ選んで食え、ということではない。


添加物の危険性を指摘するのはおかしなことではない。
それを避けるのもおかしなことではない。
そもそも毎日ふんだんに食えとは国も言っていないし、守られているのか本当に大丈夫なのかは分からないとしても、ある程度の基準を設けてはいる。

そういうものなのに、認めた国が悪い入れる企業が悪いという風に話を持っていくというのは、国やらが最初から最後まで自分を守ってくれることを前提にしている、依存の態度ではないのかと考える。

食べ物に健康にしてもらおうというのも、国に保護してもらおうというのも、行き過ぎればただの「おんぶにだっこ」である。「おんぶにだっこ」が日常となれば、もはや自分の脚で歩くことも叶わなくなる。

では、よき終末を。


叫び声が氣になる

2021-07-09 | 雑記
昨日、ちょっと遠出をして馴染みのカフェに行った。

少々飲み過ぎたが、久しぶりの顔なじみや店主とでわいわい喋って過ごしていた。

それはさておき。

これを書いている日の未明。はたと目が覚めると、叫び声のような物が聞こえている。

酔っぱらってPCを付けたままだったせいというわけでもなく、外から聞こえる。
カーテンを避けて見てみると、目の前の一軒家も不審に思ったのか、明かりを付けた。

しばし外の様子を伺ってみたが、収まる様子がない。もし人だったら警察を呼ぶべきかとも思い、捜索することにした。

家が密集しているという程ではないが、二車線の道路分くらいの土地を挟んで向かいにアパートもあり、部屋から見える一軒家も部屋から見ていうと、向かいのアパートの右にある。
そのアパートと一軒家の間から公園の一部が見える。よく近所の少年野球が週末に練習しているような、遊具のない公園である。

どうもそちらから聞こえているような?と感じ、耳を澄ましながら公園の方に向かった。

しかし、公園に付くどころか、すぐに声の方向が分からなくなった。向かいの道に行ってみたが違うと悟り、また公園の方に引き返すと、歩道わきの排水溝から声がする。

ここから声がするにしても、部屋まで真っすぐに聞こえてくるとは思いづらかったが、声は続く。

どうしようもないので引き返そうと思ったら、今度は窓から見た時に聞こえてきた方面から声がする。

恐る恐る近づくと、先ほど書いたアパートと一軒家の間は公園の敷地で、区切りの金網が貼られている。

金網のすぐ裏側に排水溝があった。声はそこから聞こえているようだ。

恐らく、何かの小動物が落っこちたのだろうとは思うが、悲痛な声が続く。

別の排水溝から声が響いた理由と、原因が特定出来たのはいいが、どうしようもない。
声は大きくなったり小さくなったりをしばらく繰り返していたが、少し小さくなったようだと思い、部屋に戻った。

気になったのでメモ帳(物理)に書き記す。一時間もしないうちに、声はかなり小さくなり、そして消えたのを確認して、横になった。

消えないようなら後で警察に連絡しようかと思ったが、その心配はいらないようである。
人が襲われているのではないのは幸いだったが、そこに落っこちたと思われる小動物には災難だったろう。


また冒頭の話に戻る。

たまたまワクチン接種の話になって、店主はこう語る。

「危なそうなのにどうして皆打ちたがるんでしょうね」と。

店主がワクチンのことについてどういった見解を持っているかまでは分からないが、こういう反応が普通だと言える。

こちらは別に学者でもないが、話のネタとして、今回とそれまでのワクチンの違いについて簡単に説明した。


既にご存知の方には釈迦に説法という奴だが、どちらにしても体内に抗体を作らせるという点では同じである。

血清と言う、蛇の毒などにやられた時の治療薬があるが、これはかつては馬に弱めた毒を注入し、死の間際まで抵抗させて抗体を作らせ、その血を抜き取って精製するというものだった。現在は合成である。
今までのワクチンは、丁度この馬のと同じ流れだった。死んでしまうような毒ではないが。

だから人によって抗体の出来が違うから安定しない、というのが医者の理屈である。

そこで騒ぎになっている今回のワクチン。

ウイルスの遺伝子の一部を取り、それを書き換えたものを入れている。
細かい理屈は忘れたが、それが特定の細胞に取り付き抗体を作らせ続ける仕組みだと、どこかで読んだ。
mRNAと言ってたか。mはメッセンジャーの頭文字である。
だから効果が段違いだ、ということだそうな。
これが遺伝子を書き換えてしまう恐れがあるので危ないという指摘もあるが、動物実験でも騒がれているような問題が出ていないだとかは聞く。
どちらが本当かまでは分からないが、結構な割合で死者や重篤な反応が出ていることは、メインのメディア以外とはいえ、よく目にする。直後に死亡したというニュースもメインメディアで出るくらいでもあるし、厚労省のHPにも死者数や副反応のデータが載せられているという。

mRNAワクチンの話で騒がれている、遺伝子が書き換えられてしまうから人間じゃなくされる、という風な話も出ているとは伝えたが、別に打てとも打つなともいう話ではなく、それから店主が「ワクチンを考え出した人はどうやって思いついたのかな」と素朴な疑問を返してきた。

昔読んだか子供の頃の解説漫画で読んだかの、天然痘対策が始まりだったようだ、と色々喋っていた。
天然痘という病気があるが、牛にも牛痘という同じ症状の物がある。発症した牛の体液だかを取ってナイフで肩や腕に傷つけて塗り込むというものだったとか。
定かではないが、どこかの部族が行っていた風習を、然る貴族が真似したとも聞く。

ワクチンはまじないみたいなものかもしれんな、などと笑い話にしておいた。

話は前後するが、抗体も身体の一部なら機能がまともな場合に有効になると思う、例えば身体が弱っている人に抗体だけ作らせたところで防げるとは思えない、という自説も付け加えておいた。


とはいえ、この辺りは一般的な理論に則った話ではある。


野口晴哉が「風邪はうつらない」と語っていた事を度々書いているが、ではどうして風邪やインフルエンザがうつっているのだ?と尋ねられる。コメントではなく、人と話した時のことだが。

風邪が流行る時期に風邪を引かないというのは身体の反応が鈍いので、そういう人は時季外れに引いて重くなったりする、という話も言っていたか。つまり、時期に合わせて身体がそう動くのが大半だからうつったように見えるといえる。
普段から滅多に風邪を引かない人が風邪を引くと症状が重くなる。もしくは後々大きな病気になってぽっくり逝くことが多いとも。コロナが重症になった人は、そういう人なのかもしれないと推測している。
重症患者が普段から風邪を引いてなかったかどうかを調べている医者は恐らくいないので調べようがないが。

風邪という観念が人にうつすという事も言える。野口晴哉のいう所の「氣」である。
よく、楽しそうな人の近くにいると、こちらも楽しくなるというのがある。
反対に辛そうな人の場合は、こちらも辛くなったりというのがある。
感情が伝播しているのである。
風邪を引いているという感情が他者に風邪を引き起こしているということも考えられる。


急に話を変えるが、去年の三月ごろに見た記事で、アメリカで三週間ほど夫とも顔をあわせない自主隔離生活を続けた女性がコロナに罹ったという話があった。
あの時期のコロナは肺が苦しくなって、という報告が多かった。今もあるのだろうが、それはともかく、自主隔離前に買い出しでドラッグストアの店員とのやり取り、後は夫とも離れているので、食事の宅配サービスなどを受け取った時に人と話したぐらいだったとか。

こんな話を聞くと、怖いと感じるだろう。そうすると、コロナの事で頭が一杯になり、テレビでも散々流すし、そういう記事も追いかける。人を見たらコロナだと思うようになる。

野口晴哉が言うには、「氣の動くように心が動く」と。後、読み返してみたら氣は心そのものではないとも。

氣は感情で操作することができるという。つまり、コロナが怖いという感情を持てば、氣は自然とコロナの恐ろしさばかり追いかけ、報告されている罹った場合の恐ろしさを見るあまりに、本当にそのような状態を作り上げてしまう。厚労省はマスクを年中しろとは言っていないらしいが、年中マスクしたりさせたり、ワクチンが出ましたと聞けば何を置いてもすぐに打ちにいったり、半ば強制的に打たせようという道理も理屈も無視する空氣の理由でもある。

3密回避はこの意味では対策と言えなくもない。近くよりは離れた方が他人の氣による影響は減るだろうから。
ただし、多くの人がテレビや大手新聞系列の情報を見ているという点で、無意味に近い。

テレビを捨てて似たり寄ったりの報道をする新聞やそれに沿ったネットのニュースを排除すれば、否が応でもなくなるとはいえる。捨てるのが無理なら報道が無くなればだが、一度乗った勢いは行き着くところまで行かないと止まらないだろう。

ただ、もう一つ懸念はある。

コロナは嘘だとか、ワクチンは危険だ、というのは結局コロナ騒動から離れてはいない。
これらはネットを介した媒体で盛んである。
現状、この騒動をまったく無視するのも無理なので、致し方ないところではある。
それらの主張の正否は関係ない。

前述した話からしたら、感染症すべてが嘘だともいえるようなわけで、ことさらにコロナだけが嘘っぱちと言う意味もない。

と分かればそもそもワクチンなんぞ必要なく、危険か安全か、効果の有無なども無意味となる。
だが、現代の多くの人にこのような観点を伝えても理解されないだろうとは思う。
胡散臭い話という奴だからだ。

マスクしてワクチン打って隔離していればコロナはなくなると思っている人は、そういう氣の下で動いている。
正反対の氣をぶつけても反発を起こすだけで、頭で言葉を理解しても心に響かないので本当には理解しない。
氣が合わないというが、そういう人とは話が噛み合わないだろう。現状は正にそうだと言える。皆が皆そうだとは思わないが、確実に凝り固まっている人はいる。

文字通り氣付かない限りは、話を聞かせても無駄である。
自身の感情が如何なる理由で動いているのかを本人が自覚しない限りは。
別に「氣」を知りなさい、という意味ではない。

こう言うと反発されるとは思うが、コロナは嘘だとかワクチンは陰謀で危険だとかというのは、却ってこの騒動を補強するのではないかと考えている。
陰謀と言われるような物はないという訳ではない。

メインメディアでも陰謀論がどうとか言い出すほどで、それを切っ掛けにして中途半端に知り得た人が怒りの余りに騒ぎ出し、そして事態は悪化すると言えなくもない。
今まで書いたことを踏まえてまた言うならば、結局コロナとワクチンで頭が一杯であり、立場が違うだけの現代で大多数の人がそうであると推測される状況と変わらない。コロナとワクチンという概念を補強している。

Twitterで余りコロナが如何に嘘かだとかワクチンが危険だという風な話を直接的に持ち出さないのは、こういう理由である。寧ろ当初は正反対の事を言ってもいた。その時は少し迷ってもいたし、ここまで確信してなかったからだ。とはいえ、人気はないので影響力はほぼない。ボ〇ムズ次回予告パロディは空振りである。

現代医療が正しいか正しくないか、ワクチンは良いか悪いかといった二項対立は、結局現代医療を前提にして考えられている。
拙が上記に示したような観点で病氣を見る人は多くはいない。
風邪になったらすぐ医者に行ったり、薬を飲むとかいう人が件のワクチンについて騒いでいたとしたら、ワクチンに問題がなく効果があれば打つつもりだと言っているようなもの。

己の身体は己がどうにかするのが基本である、ということを忘れてはいけない。
現代はどこまでも行っても「どの医者に頼ろうか」という具合なのである。

では、よき終末を。


ドし難い話

2021-07-05 | 雑記
フランスの作家だったか、オノレ・ド・バルザックという人がいる。
いきなり話が逸れるが、同じくフランスはスタンダールの小説『赤と黒』の主人公の名をジュリアン・ソレルというのだが、途中で貴族に成り上がって、ジュリアン・ド・ソレルと名乗るようになる。
貴族になったらド、が付くから、王や皇帝になったら超ド級か、などという分かりにくい冗談は措くとして、バルザックのド、は貴族でもないのに勝手に名乗っていたという。おのれバルザック!

そのバルザックの著作に『役人の生理学』というものがある。生理学、と銘打たれているが学術的なものではなく、風刺である。生理学という言葉が流行った時期があったそうで、なんとかの生理学、と題された学術書ではないものが多く出版されていたという。
『役人の生理学』もその流行に乗ったものの一つで、バルザックの目でもって役人の生活振りを風刺したものである。

そこで拙もそんな話を書こうか、などと思ったが、そんなに体系立ててまとめる力量はない。
というわけで、昔話の絵本のような語り口で書こうかと思った。
当初はTwitterでやろうと考えていたが、TLとやらを汚しまくっても仕方あるまいと、思い直した。

お話の題目は『陰謀論者の生理学』と、冒頭で触れた話から付けようと思ったが、単純に『インボーロンジャのオジサン』で行こうと思う。ではでは、行き当たりばったりで書いていくが、ご覧あれ。

インボーロンジャのオジサン


むかーしむかし。あるところに。インボーロンジャのオジサンが住んでおりました。長いのでこれからはオジサンにします。
オジサンが若い頃大学で書いた卒業論文は、キョウサンシュギだかキョウサントーが世界を牛耳っているというものだったそうな。
その論文で出した図解を見せながら「キョウサントーをイルミナティに入れ替えれば、ゲンダイにも通じる」とかなんとかと、語っておったとか。

そんなオジサンは、商社勤め時代の食事の影響で、ブーチョッチョとなり果ててしまいます。
これではいけない、と一念発起してダイエットに励みます。調べていくうちに、これは魔女の呪い、ではなく食べ物も既にインボーまみれなのだと思い至ったそうな。

それからオジサンはベジタリアンだとかヴィーガンだとかを試していきました。
如何に肉を食べることが酷いことであるかという事も知り、その事に気付かない普通の人々を蛇蝎の如く嫌うようにもなりました。
努力の甲斐あって、見事ブーチョッチョからちょいブーチョッチョかもう少しぐらい痩せて、自慢しておったそうな。

オジサンの頭の中では、こんな閃きがあったのです。
「人は正しいものを食べなければならない」と。
そして「正しいものを食べれば人は正しくなる」とも感じたようです。

普通の人々は正しいことに気付いていないので、HPで周知したり、見込みのありそうな人を会員制掲示板に引き込んでは「気付かない愚かな民衆は滅んで当然だ」などと当たり散らしておりました。

そんなある日。その「正しさ」に沿った理論と実践に出会います。
それはアメリカのスポーツドクターが提唱した、果物と葉野菜を主食とする、フルータリアンダイエットというものでした。
感動の余りオジサンは叫びました。叫んだかどうかはわかりませんが。
「わたしはフルータリアンになるために生きてきたのかもしれない」とかなんとか。

それからなんやかんやで農地を手に入れ、一番の理解者である奥方と共に自給自足のフルータリアン生活を始めるとのことで、HPや掲示板も閉鎖しました。

月日は流れ。人の考えというのは良くも悪くも変わるものです。

オジサンが「このために生きてきた」と叫んだこと自体は変わってはなかったのですが、ただ一つ、大きく変わった点が増えておりました。
なんと、放牧で育った牛を食べているのです。
かつて「動物の死体を食う奴は死んでしまえ」とすら言っていたのはどこ吹く風。

さっき出てきたスポーツドクターはこう言っていたそうな。
「肉が美味いと感じるのは習慣に過ぎない」と。
肉を食うようになってオジサンは言いました。
「肉を食べるのは身体が喜ぶから」とか。

オジサンは別に棄教したわけでも転向したわけでもないのです。

ただ、人より正しいと思うことを実践しているから正しいと思う人なだけだったのです。

お釈迦様はこうおっしゃられました。
「バラモンと呼ばれるというのは、バラモンの家に生まれたからとかではなく、行いによるのです」と。

オジサンはこれからも正しい物を食べて、正しく生きていくのでした。

めでたしめでたし。



うむ。Twitterじゃ収まらないな。

では解説へ。というほどの事ではないが。

詳しくは昔にも書いたが、「人は正しい食べ物を食べなくてはならない」や恐らくそこから導き出されるだろう「正しいものを食べれば正しくなれる」という理屈について。

後者はありきたりなものである。「これを拝めば幸せになれますよ」と変わらない。

少し遡って考えてみよう。

「正しい」ことに気付くまでは、「正しいもの」を食べていない、「正しくない」心身であったと。そこから「正しくないものを食べてるから大衆は気付かないし滅んで当然」となる。

では。どうしてその「正しい」ことを「正しくない」はずの人間が気付くのだ?となる。
オノレ、ではなく己は気付けて大多数は気付かないのは何なのだと。洗脳されているから?だったらかつてのあなたは?となる。

以上から導き出した答えはこうなる。散々書いてきたが。

「如何に己が他人より優れているかを示すための正しさを求めているだけの選民思想」だと。

とはいえ。人のことは言えない。身に覚えありという奴ではある。


個別具体的なものごとに関して言えば正不正はあるだろうが、問答無用でこれが正しいとは一概に言えない。上記の「オジサン」の如くである。
インボーロンジャのオジサンが~♪

それこそ真理だとかと言われるようなもの以外は常にこのようになるだろう。

力強く生きようと、またはそう生きた人類の後塵を拝すだけでは正しいとは言えない。
それこそ「これを拝めば幸せになれますよ」と言っているのと変わらないからだ。

思うに、人は己の生命を存分に働かせることが正しいのであって、理屈を捏ね上げて作った正しさというのは小賢しさにすぎず、風の前の塵と同じである。

それが過去の人類の足跡と軌を一にするか、それとも現代社会を破壊したりもしくは発展させるようなことになっていくのか。そこは未知数である。


では、よき終末を。


目にも止まらぬ訓練

2021-06-18 | 雑記
先日書いた、「筋トレ不幸論」なる記事が面白かったと、Twitterで知り合った人に感想を頂いた。
それで気分を良くしたので調子に乗って何か書こうという。単純な奴である!

しかし、ふとした事で気になったりすると、それに纏わる話が舞い込んで来たり、思い出したり、はたまた身に覚えがあったなどととなったりする。不思議なものである。


感想を頂けた方とは別の方とのやり取りの件で、そういえば・・・と思う話を少々書いておく。

詳しくはTwitterの記事を!と言うのはここしか見ていない人には困るので、簡単に話をする。

タバコのニコチンというものは、体内の神経並びに筋肉に受容体があり、これに取り付くことによってエネルギーとして利用されるという。
これが不足する場合は、ATPというのが余分に生産されるという。アデノシン三リン酸の略称のようである。
こうなると、筋肉と運動野が強固な共鳴を維持することになる、という。

この話からすると、これが昔読んだ、喫煙者のアスリートの成績が良かったという比較実験の報告の原因なんだろうと。躁うつ病や花粉症が治るのは、神経だけでなく筋肉にも影響があるからかなんだろうと。身体のこわばりが和らぐのかなと。
そんなことを書いたら、返信があった。こういう内容である。
「自分は余り動かない日もあるが、その場合は物を書いたり深く考えて脳を鍛える。脳を鍛えていけば筋肉を増やすことも可能だ」と。

その話を受けて即座に思い出したことがあり、こちらも返信した。


とあるセミナーを開いていた氣功士の方が語っていたが、身体と脳は連動している。頭を良く使う、例えば教授だとかは特に鍛えていないのに結構丈夫だったりするものだと。

それで脳力開発のために、普段脳の内で働いていない部分を活性化させる氣功の訓練へと話は続いているのだが、その内容はネット上から消えているので、参照することが今は出来ない。

とはいえ、理屈は簡単で、両手のひらでボールを持つような具合にして意識を集中するという、氣功の初歩訓練だったように覚えている。それを毎日やっていくと、脳の内で神経回路が繋がり、さらに強化されていくと語っていた。
日常では繋がり得ないものが繋がって、幅が広くなるのだと言える。

この話と思考で筋肉が増えることに何か関連があるのか?と思われるだろう。

件の氣功士の方が引き合いに出したのは、日常レベルの延長上の賢さの大学教授である。

とすると、日常では中々使わない脳の部分を開発していくとどうなるか?常人離れとまでは行かなくとも、余り動かなくても鍛えられるという具合になってもおかしくはない。

拙自身も、前腕部は、ビルダーみたいにはならないが、鍛えてもないのに意外と筋肉があるなどと評されたことがある。
その時は、マウスとキーボード操作で文字チャットしながらゲームしてるから、そのせいで鍛えられたのだ、などと冗談を返したものである。

関連した話で有名人を引き合いに出すと、ブルース・リーがいる。

リーは映画の中でとても素早い攻撃を繰り出して相手を倒すのがカッコいいのだが、リーが普通にアクションを取ると速すぎてまともに映らないので、リーに速度を落としてもらって撮影していたという。

また、相手の手のひらにあるコインを手が閉じるまでの一瞬で相手が気付かないうちに奪い取るといった、とんでもない早業が出来たとかいう。この「コインマジック」はよく人に見せびらかしていたそうな。
また逆に、相手が気が付かないうちにその手のひらに戻すだとか、目を疑いたくなるような具合である。

何故このような身体を持つに至ったのかというのを、この話を紹介していた動画が語るには、「脳を極限まで鍛えた」というようなことを述べていた。
実際に、リーは脳浮腫で亡くなっているので、脳の使い過ぎのせいというのも、あり得そうではある。


この世は思考した通りになるという。意識したことが起るのだと。

筋トレで筋肉が付くのは、筋肉を鍛えようと脳を働かせて付いたからであって、筋トレが原因ではないのかもしれない。

とあるスポーツドクターの話だが、筋肉が膨張するのは、リラックスしている状態だと述べていた。
勿論、トレーニングを行った上での休息という話だが、ここでもう一つ面白い話がある。
脳が一番働いている状態は、実はぼんやりしている時なのだとか。
あれやこれやと思考を巡らせて整理をつけたりしているという説がある。
ぼんやりしてくるのには何かがあったからと言えるので、上記のスポーツドクターの話となんだか似てくる。

思考というものは目には見えないが、見えないものが見えるものを作り上げるというのは、度々ここで書いてきたことではあるが、改めて目にすることになったわけである。いや、見えないか。


では、よき終末を。


引き寄せの黒っぽい鳥

2021-06-16 | 雑記
昨日の夕方、コンビニへタバコの補充に向かった。

ここでたまに話に出る、近所の池のある公園を通った時の事である。

その公園の前辺りで、電線の上でカラスが鳴いているのを見た、かどうかは忘れてしまったが、池の淵に降りていく階段の横を通りかかった時、カラスが舞い降りて階段の手すり辺りにとまった。

その時ふと思い出した。そういえば、たまに池の淵に降りて日光浴がてら読書をしていると、先ほどのカラス同様、手すり辺りをうろついていたのを。

同じカラスなのかは流石に分からないが、何となく氣になったので「元氣そうだなぁ」と低く声をかけておいた。


2ちゃんねるなどの面白い話をまとめたサイトで昔見たものに、カラスに纏わる話があった。

要約すると、いつも見かけるカラスに挨拶していたら、ある日不良に絡まれた時に助けられた、といった具合のものである。
カラスに限った話ではないのだろうが、その脳の容量では考えられないほどの知能がある、という報告もあるという。

その話を読んだせいかは忘れたが、なんでも、カラスの色は真っ黒ではなく、少し青みがかっているというので、いくつか見て回ったこともあった。それとも、日本語訳でどれもカラスになるが、英語では種類を区別していて、それがどう違うかを調べた時だったか。
種類にもよるのかもしれないが、氣になる方はお調べのほどを。


さて。最近、新型コロナのワクチン接種で色々大変なことになっていると騒ぎになっているのだとか。
滅多なことは言えないが、打った後ほどなくして死亡したというのはニュースにもなっているようである。

打った人から妙な化学薬品の匂いがするという話も目にしたが、これはワクチンに限らずある。
影響があるのかないのかまでは分からないが、体調の悪い人が独特の体臭を放つことはよくある。
ましてや現代人。何かの処方薬を飲んで症状を緩和させるというのが大多数であろう。
拙の周りにも、毎日薬品のような匂いを漂わせてる人がいた。身体も大きいが故に目立つのだろう、喘息もちだったり花粉症もあるしで、色々服薬しているせいかと思われる。
体内で普段行われていない化学反応が起きている証拠なのだと言える。
つまり、この点のみで危険だと断定するには判断材料に欠けると思われる。

ただし。体内で普段行われていなかった化学反応という点に注意してもらいたい。その前の体調の悪い人の体臭という点もである。

少なくともそのような状態は平常の身体とは言えない。要するに体調がおかしくなっている。

詳しくは調べていないが、ワクチン接種をした地域で何故か感染が増えた、という報告が出ていたことがある。
真偽のほどはともかくとして、今回のワクチンは遺伝子組み換えだと騒がれるような具合で、ウイルスそのものは入っていないという。ウイルスの遺伝子の一部にある、細胞への取りつき方を司るものを利用したという。
専門的な話は他に譲るとして、それで体内で抗体を作り続けるシステムを構築させるものだとか。

これが危険だ危険ではないと騒がれているのだが、危険でなく効果があるものとして、それと何故接種後に感染が増えたのか、というのも本当の事と仮定して話を続ける。


現代の感染症の定説というのは、パスツールが提唱した「病菌原因説」が根底にあるというのは知る人ぞ知るというところだろうか。

この論を大雑把に言えば、「殺菌すれば病氣にならない」となる。
コロナ以前から殺菌消毒の製品が売られまくっているのがその証左と言えよう。

しかし。ご存じだろうか。食中毒が起りやすい飲食店というのはどういうところか?
汚らしい店だと思われるだろうが、殺菌消毒を徹底している店で発生することが多いという。
その逆の店で起きていたとしても、不真面目なので報告していないだけでは?と言えなくもないが、それなら徹底すれば起きないはず。だが起きている。

これは有名な話かもしれないが、メチシリンという抗生物質がある。
黄色ブドウ球菌という病原菌を殺菌できるというので、その感染症状が現れた際によく使われていた。
だがある時。明らかに黄色ブドウ球菌の猩々、ではなく症状なのにメチシリンが効かないという症例が出始めた。
調べると、黄色ブドウ球菌はメチシリンに耐性を持って逆襲してきたのだという。メチシリン耐性黄色ブドウ球菌、英語の頭文字でMRSAとかそんな名前である。逆襲の黄色ブドウ球菌!

孔子のある二人の弟子が論争していた。片方は知識がとてもある。片方は知識がとても少ない。知識が多い方がいい少ない方がいいといった具合の論争をしていたそうな。
そして「先生!どちらが正しいでしょうか!?」と判断を仰いだ。
孔子はこう言われたという。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と。

黄色ブドウ球菌に耐性が付いたのは、使い過ぎたからという指摘がなされていたものである。
ちょっと風邪引いたと言っては医者に行くと薬を貰うものだが、それで抗生物質をちょくちょく配っていたというわけである。
だが、これを医者の責任だけに還元することは出来ない。

「風邪ですね。家で寝てください」と言う医者と「では、念のため、お薬出しておきましょう」と言う医者では、後者のほうを信頼してしまう心理があるからである。

話を戻すとして、ワクチンで抗体が出来たであろう人々がまた感染する。

抗体が出来ているなら、かなりの確率で防ぐはずだが、そうはならなかった。もっとも、ワクチンは病気にかからないようにするためだという触れ込みはいつしか軽症にするものだとか、話が二転三転している。インフルエンザなんかはいつの間にかそうなっていた。

これはつまり。体内で出来た抗体というものも身体の一部なわけなら、体調が悪いとまともに働かない。
以前からのワクチンでも打つと体調を崩すという人は少なからずいた。そんな状態では罹るのもおかしくない。
何せ体臭を放つほどの尋常ではない化学反応を体内で起こしているのだから、予想以上に身体は疲れているだろう。
抗体はその病気を防ぐ能力はあるだろうが、その能力を働かせる人体については無視しているのである。
これが西洋医学の伝統とでもいうべきものの見方であることは、ご存知の方もおられるだろう。


この件も何度か触れてきたが、パスツールの同僚で、その説に反対をしていた人物がいた。

彼の主張は、健康を保って免疫を付けろというものである。名前をいつも忘れる癖に調べていない!

二人の論争はパスツールの死の間際まで続き、病床にあったパスツールは最後に説を撤回したと伝わっている。


人のことは言えないのだが、これらの事は人の心理における問題点を示している。

パスツールの理論はつまり、「他のせいにする」である。
彼の同僚の理論はその逆で、「己のせいにする」である。
これは文字数を揃えただけで、深い意味はない。

どちらが楽か?それはもちろん「他のせいにする」である。
医療業界に限って悪く言うなら「己のせいにする」と儲からない。


よく口をついて出る非難の言葉というものがある。

「こんなことをして、死んでしまったらどうしてくれるのだ」などと。

死ぬだと極端だが、怪我したらどうしてくれる、とかいうぐらいでよかろうか。

怪我をしたら治るまで療養するしかないだろう。だが、これは「他のせいにする」が常態化しているが故に飛び出す言葉である。
これを「被害者意識」という。その逆は「当事者意識」とでも言うのかな。


この被害者意識というものは、恐怖心に彩られている。恐らくは、恐怖心が被害者意識を作り出すのだと思われるが、細かい話は措く。

つまりは、何かにつけて原因を外に求めるのが人間の悪い癖なのだと言える。

いつもの道を歩いていたら、暴走した車が突っ込んできた。巻き込まれて怪我をした。その運転手が悪い。

確かにそうではある。だが、果たしてそれだけで片付けられることだろうか?

いつものように怪しげな話に持っていく。

あなたはいつものように起きて準備し、いつもの道をいつもの時間に歩く。

しかし、風邪を引いたわけでもないのに、何か変な氣がする。氣分が悪いというわけでもない。胸騒ぎという奴か?
などと感じたかもしれないが、些少の違和感は夕べの食べ過ぎや飲み過ぎやちょっとした夜更かし等のせいだろうと無視する。
そしてその日その時。上記のような事故に遭う。
そのほんの少しの違和感に耳を傾け、それで数分でも遅れて歩いていたとしたら、事故に遭わなかった可能性もある。
つまりは「己のせい」で事故に遭ったと言えなくもないのである。
これを客観的に証明するのは無理だが、そういう経験をした人もいるだろう。

とはいえ。怪我をしたから嫌な目に遭った、だけとも言えないということも述べておく。

遠方の恋愛成就の神社に参拝した人がいた。そしてその神社から出たら交通事故に遭ったという。旅先で入院することになって、途方に暮れていたが、なんとその世話をしてくれた看護師と結婚することになったという。
まあ、余談である。


話があちこちに飛んでいるが、MRSAの件で思いついたことを書いて終わる。

所謂新型コロナの症状は今まで見たことが無いものだ!肺がおかしくなっている!という報告がある。
肺の細胞が繊維状に変質してしまうとかいう話をどこかで見かけたものである。人工呼吸器が原因だとかなんとか、いろいろ騒がれていた。

MRSAが発生するような西洋医学の流れが今も続いているのなら、新型コロナはどこかの研究所から漏れたものではなく「他のせい」にしてきたツケなのではなかろうか、などと考える。逆襲のコロナかもしれないと。

昨日カラスが近くに舞い降りたと書き始めて、気が付けばこんな話になっていた。
これはきっと「カラスのせい」だろうとしておく。


では、よき終末を。


筋トレ不幸論

2021-06-08 | 雑記
この前の日曜、馴染みの店に久々に立ち寄って、昼飯を食べていた。

そうすると、こんなことを言われた。

「前より顔色が良くなった」と。

実は二日連続で来店しており、その日は前日にはいなかった店員さんもいて、その人が言う。

店主までそうだなぁと言い出し、挙句の果てには小学生のその息子までが言う。

ちっとも健康的な生活をしてないのだがなぁと思い、そう答えたが、後は以前は夜勤だったからだろうと付け加えると、それもあったんだろうとのこと。

何が健康にいいのか。悩ましいところである。


さて。面識はないが、とある人物が「不眠症は死ぬほどつらい」と言っていた。

筋トレしていて身体もかなりムキムキのようである。といってもネットで見たというだけの人なので、本当にそんな身体なのかはわからない。身体を動かしているのに不眠症で悩むというのは不思議だが、そう言っていた。

昨今、筋トレがブームらしく、その関連事業も広まっている。トレーニング・ジムが増えたり、プロテインがよく売られているのは周知の通りかと思われる。

ある程度の運動をすると幸福感が増すという報告もあるという。弟がそんな話をしていた。
そんな弟も毎日筋トレをしている。拙なんぞと比べたら圧倒的に引き締まった身体をしている。
幸福度が増すのかは知らんが、男の喘ぎ声の如きを聞かされるこちらは不幸になりそうである。

さて、そんな悪口は措くとして。
ではきっと幸福そうなんだろう、と思われるが、ストレスの方が多いので、いつも疲れた感じである。
そして疲労がピークなのか、調子を崩して先週末から寝込んでいる。医者に行ったら胃腸炎だとのこと。

あらかじめ断っておくが、筋トレをするな!とも、しろ!とも思わない。ただ、西洋的な唯物主義的考察で成り立っている機械的な筋トレをするというのは、脳を機械的に動かしているにすぎず、徒に繰り返せば、ただただ「硬い身体」にしかならないだろうとは思う。

プロレスラーのアントニオ猪木の修業時代は、山奥で岩石を持ち上げるといったことを行っていたと聞くが、こういうものの方が柔軟性の高い頑強な身体を作り上げるだろう。しかし、現代人にそれをやれるかというと厳しい。
拙も岩石を持ち上げに行きたいとは思わぬ。

筋トレの効用、みたいな説明を見たか読んだかしたことがあるが、利点の一つとして、結果が分かり易いというのがある。やればやるだけ効果が見えてくるからである。腕が太くなるとか、腹筋が割れてくるだとか、目に見える。
それで徒に繰り返しやすくなると。有体に言えば、依存症である。
機械的に繰り返す筋トレを行って結果が見えてくると、病みつきになってさらに機械的に繰り返すだろう。

広告媒体が散々取り上げるというのは、流行らせるのが目的であって流行った結果ではない、という点を感じているなら、こう疑うのもそれほどおかしくはないだろう。
何も筋トレだけに限った話ではないが、名詞を変えれば他の事も同じである。

さて。不眠症の話で思い出したことを一つ。

またもや野口晴哉の逸話を。

とある不眠症で悩んでいる青年がいた。もう死んでやる!とまで追い詰められていたそうだが、野口はその青年をとっ捕まえて将棋を指す。わざと下手くそに指し、何度ももう一戦!と繰り返し、三日徹夜したという。
さすがに疲れ切ったわけで、件の青年はその夜はぐっすり眠れ、以後は不眠症で悩むこともなくなったという。


この話はいくつか解釈があるだろうが、拙が思ったことを続ける。

まず、青年個人については、不眠症で眠れないから辛い、という観念に憑りつかれている。死ぬほど眠れないからこの辛さから解放されるためには死んでやる!とこうなっていたわけだ。そして死ぬほど眠れない状況を続けさせたら、死ぬほどよく眠れたと。
つまりは思い込みだとなる。思い込みを侮ってはいけない。「想像妊娠」というものを聞いたことがあるだろう。
あれはただの狂言ではなく(そういうのもあるが)、実際に女性の体内では妊娠した時と同じような体勢を取ることがあるという。

なら、不眠症は眠くなるまで放っておけばいいと言えなくもない。試したら死んでしまったとか言われても困るが。

眠れないから辛い、というのは実際にあるが、これは「条件付け」というもので、依存的傾向を強める。

以前からよく書いたものだが、例えば「これを拝めば幸せになる」という、胡散臭い宗教だとかの謳い文句があるだろう。

転じるとつまり「これを拝まなければ不幸になる」と言っているのである、と散々書いてきたものである。

死ぬほど辛いが、辛いだけでは人は死なないので、死ぬまで生きるだけである。本当に死ぬほど辛い環境なら、既に自殺するだとか過労死だとか他の死に至る病に侵されるだろうし、よく眠れている人も次の日にコロッと亡くなったりする。

話を戻すが、将棋を指している間は、眠れないだとか余計なことを考えることがなくなり、自身がしがみついていた観念を捨てさせることが出来たというわけである。

表面上はふざけたやり方だが、三日も親身に付き合ったというのは、青年もありがたかったことだろうと思われる。

とはいえ、世の中そんな有難い人だらけでもない。

個人で個人の問題を解決するというのなら、自身で自身を親身になって付き合うということになる。なんだか意味の分からない言い方だが。

不眠症というものが必ずしも思い込みだけで成り立っているとは言えないかもしれないが、こう考えてみてはいかがだろうか。
※実際に脳機能の異常で眠らない人というのはいたという。不眠症とは違うだろうが。

「辛いとどうなるのか?」と。

本当に辛かったら動けなくなるので、それでもうよかろう。ぐっすり眠れる。
こういうと怒られるだろうが、死んでしまったらそれはそれで死ぬほど辛いと思っていた通りになったと。

辛い、というのもこれまた次の条件付けに繋がっていくというのもある。

辛いから調子が出ない。出ないから仕事をミスする。ミスをして怒られてさらに辛い、といった具合になっていく。

これがまた最初に問題として条件づけられた不眠症に戻っていく。辛いのは不眠症のせいだと。

作家のひろさちやのある著作に書かれていたと思うが、まるでガンを治すために生きているかのような人の話があった。もしかしたらそういう状態になっていく、のかもしれない。

辛いけど頑張ろう、と考えるのも逆張りという奴になるだろう。前提条件の「辛い」から抜けていないからである。



やり玉にあげる形になってしまった例の人物は、所謂陰謀論者という具合の人物であった。

陰謀というものがこの世に存在しないとは思わないが、「常識」も陰謀論も「条件付け」が上手く利用されているので、深入りしないのがよろしいとは思う。前回書いた、昭和天皇の発言の趣旨の曲解などは「天皇は悪党に決まっている」という前提からなされているわけで、発言の前後の文脈を読み取る気がなく、これはそもそも貶めるための悪意か、前提による思い込みでしかない。仮に昭和天皇が悪党であったとしても、それはまともな感覚から逸脱している。マスメディアがよくやっているという、発言の切り貼りと同じになっている。

もし、拙の指摘したような硬直化した思考が故に不眠症(陰謀論もか?)だというのなら、機械的に筋繊維を肥大化させることは決して人を豊かにしないのだろう。

身体を鍛える必要はあるが、筋線維を肥大化させることは手段であって身体を鍛えるという目的に置き換わるものではない。

何が健康にいいのか。実に悩ましい所である。


では、よき終末を。


キャラメル箱の中の標本

2021-06-02 | 雑記
ついさっき書いたのにまた書くとかいう暇人ぶり。自慢にならぬ!

それはさておき。先ほどの記事で「今まで書いてきたことが本当なのかわからない」と述べた。

先月にTwitterを始める前から、新型コロナの話を色々見て回ってきたが、まあ、多く見てきたのは「新型コロナは嘘だ」とかそっちの方面ではあった。

じゃあどういう立場なのか?というと、どっちも本当かもね、とはぐらかすことにする。

お互いがお互いをデマ呼ばわりしているような見苦しいのもあれば、証拠立てて話しているのにまったく取り合わないというようなのもある。ま、このことに限った話ではないが、怪しげな証拠で騒いでいるなと思えるのは、所謂陰謀論の立場の方かなとは思う。

何故こういう風に語るのかというと、既存の科学や常識が一片の疑いもないようなものの場合、「新型コロナは危険」というのは間違いがなくなる。もちろん、その逆では「新型コロナは嘘」となる。しばらく前に紹介した風刺漫画の如くである。

スピ系と呼ばれる方面では、現代世界は「二極化」が進んでおり、光と闇がどうこうと騒いでいる。今は光が闇を駆逐しているのだ!とやっている。
その動きが本当かは判断しかねるが、言ってしまえばテレビドラマの水戸黄門だとか暴れん坊将軍の悪役が斬られるシーンに差し掛かっているというわけだ。

ぱっと思いついた例えではあったが、丁度良い。

オカルトの言だが、「闇は光の量の違いでしかない」という。

光と闇という区分なんぞ、そもそもなかったというわけである。闇の正体は光だったと。

ドラマで斬られる役の俳優と斬る側の主人公の役者は、撮影や舞台以外でまでそうなるか?そうはならない。
人気が出すぎて、悪役が板についた俳優の子供がそれでいじめられた、などという話はあるが。

つまり、ただの配役に過ぎないのだが、真に迫っていたりすると、視聴者が真に受けてしまったりするわけだ。

コロナが嘘だというのも、危険だというのも、どちらもいわばテレビドラマの脚本通りなのだろうと。

実際に死んでいる人がいるのにけしからん!とお叱りを受けるところだが、内実はともかく、死んでいる人は実際にいる。

それも含めて、我々は脚本通りに動いているだけなのかもしれないなと考えるわけである。言葉遣いは違うが、こういう話は受け売りみたいなものである。


さて。話は代わるが、所謂陰謀論で、「天皇は酷い奴だ!」という言説がある。

二次大戦終了時に、時の昭和天皇がGHQのマッカーサー元帥と対談した際に、その時に語った内容がアメリカの機密文書の期限切れで公開され、それが出版された、のかは忘れたが、その時に話していたという内容がある。

曰く「日本人は頭が空っぽだ」と。よく陰謀論者の間で広まっていた。

酷い!と思われるが、実際はこうである。

曰く「日本人は主体性に欠けるところがあり、上からの命令に従いがちで、民主主義的風土が育ちにくい云々」

と、こういう感じの冷静な分析を、日米との比較を交えつつマッカーサー元帥に伝えていた。細かいところは忘れたが、アメリカに見習いたいところだという風に続けて語っていたように覚えている。

思い切り歪曲すれば、「頭が空っぽ」と言えなくもない。~に欠けると言われれば、その分の頭の中身が足りていないと言えなくもないからである。

それを所謂陰謀論者というのが上記の如く誇張して広めていた、というのがあった。
まあ、人のことは言えないが、この件については、見たすぐ後に知って訂正をした覚えがある。

あとは昭和天皇は当時英国から陸軍大佐だかの称号貰ってるからグルだ!というのがあった。ガーター勲章もだったか。
ガーター勲章については、明治天皇も大正天皇も拝領している。この大佐だかの称号は、儀礼的なもので、昭和天皇だけの特別ではない。第二次世界大戦開始時には、ガーター勲章もだったか、英国王室に一時返還している。

だからといって、グルでない証拠にはならない!というのが陰謀論だが、仮にグルだったからといって悪いかどうかはまた別である。納得できない部分があるだろうが。


「あ、そう」というのが昭和天皇の口癖だが、こうだけ書くと素っ気なく聞こえる。

気になっていたので後年、その口癖が写っている映像を見てみると、「あぁ、そう」という具合だった。
その映像は、戦争で親を亡くした子供がしゃべっているのに相槌を打って「あぁ、そう。あぁ、そう」とやっていたものである。

この世に完全な善も悪もない!とは言わんが、過ぎたるは猶及ばざるが如しというし、大賢は大愚の如しともいう。

拙は昭和天皇のエピソードで一つ好きな話がある。実家の和歌山が生んだ大学者、南方熊楠との話である。

ある時、南方熊楠が天皇陛下に研究標本を差し上げて、講義するというのがあった。後で調べたら、ご進講とご新献という。
昭和天皇は和歌山は田辺の沖に浮かぶ、神島(かしま)に行幸された。
なんと、その時南方は標本を大きなキャラメルの箱に入れたのを献上したそうな。

その後は南方の講義となるのだが、昭和天皇は予定の時間を過ぎても聞いていたそうな。

昭和天皇は生物学者でもあり、それでこの話になったというが、南方が感激するのは当然として、実は憧れの学者に会えたと昭和天皇も感激していたのかもしれないな、などと思う。

と、話が長くなってしまった。

なんにせよ権力者と言われるような立場の人物は何かと言われる。
実際にそういう点があるのかもしれないし、本当に悪人と呼ばれるようなことをしていたのかもしれない。

だが、憧れの学者に会ってプレゼント貰って予定の時間を越えても講義を聞いてたとかいうのなら、大悪党と断罪するのもバカバカしくなる。

少なくとも、正義感に憑りつかれて発言を歪曲する人よりは、遥かに人間らしい。

天皇が善人か悪人かであるかという単純な話でもない。
所謂陰謀論では(全部かはわからないが)天皇は悪党というのが常識ではある。
一般的には新型コロナは危険で、ワクチン接種が必要だというのも常識である。
常識というのはつまり、ある一定範囲内においての多数が善と認めるものということになる。
人が生きるのは善で死ぬのは悪。大雑把な言い方だが、これもまた常識といえる。
コロナ危険という方も反コロナという方も、その点では共通している。これも全部かはわからないが。

さて。その個人や集団が生きるのは善か悪か?生き延びた場合は問答無用で善たり得るか?
そのような思索は常識ではなしえないので、「歴史が決める」としか言えないと述べておく。

ふと、ニーチェの著作に『善悪の彼岸』というのがあったなと思い出したところで終わる。

では、よき終末を。