ウヰスキーのある風景

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曇り空の先には

2019-06-23 | 雑記
相も変わらずの不定期更新である。

何をやっていたかというのは、あまり意味がない気がするので、割愛する。

ゲームだったり、ゲームだったり、後はゲームだったりする。割愛してないな。


というわけで、ここしばらくであったことを思い出しながら、何を書こうか考えていくことにする。



ある日、弟が帰ってきて語りだした。

内容はというと、自転車での帰宅の道中、相手の余所見だかは忘れたが、爺さんとぶつかりそうになった、腹が立った、というもの。

あんなの死んでしまえ、と言っていたものである。

昨今の老年というのは悪名高い話があったりする。元官僚だかの爺さんの車が云々というのは記憶に新しい方かもしれない。ただの爺さんはすぐしょっ引かれるというのに、というと話が脱線する。

高齢な方々の横暴ぶりは、犯罪の統計でも高く出てくるほどで、警察沙汰にならなくても問題になっていたりするというのは、人によっては覚えがあるかもしれないだろう。

少年犯罪の凶悪化だのなんだのというのは、実はセンセーショナルな話を取り上げただけで、少年犯罪と件数自体は減っており、増えているのは高齢者の方だったりする。

この語り口を羊頭狗肉というのかどうかは知らんが、やっていることは同じである。針小棒大の羊頭狗肉といっておこう。

仮に弟がぶつかりそうになった爺さんがそういう危い存在であったとしても、いや、そうであったとすればなおさらともいえるのだが、本当に非は相手方にしかなかったのだろうか?などと思うのである。

実は、そんな事態を誘発したのは、弟自身ではなかったか?といえるわけである。またこの手の話か、と思われたなら、あなたは立派なここの読者である。自分で自分を褒めてあげなされ。


それはそれとして、こう考えるべきである。

ぶつかりそうになっただけで、実際はぶつからなかったわけである。仮にその爺さんが悪くてぶつかったとしても、スポーツバイクをこいでいた弟の方が与える被害は大きくなっていた可能性が高い。

寸でのところで大事にならずに済んだ上に、もう少し気を付けた方がいいのかもしれないと考える余地を与えられたのだといえよう。

余地があったとしても、考えるかはその人しだいではある。それは拙の仕事ではないゆえに。

しかし、腹が立ったのならその爺に言ってもらいたいところではある。こっちに言っても返答の仕様がない。しばらく考えてこんな返事が来た日には、弟の怒の炎に油を注ぐことにしかならないのは明白である。

何故返答に困るのか?というのは、弟はその爺さんに腹を立てたと言っているつもりなのだが、実際はこちらに腹を立てているのと同じにしかならないからである。

おかしなことを、と思うのが普通であろう。だが、普通だなどと言ってふんぞり返っていては、そのうちひっくり返るだけである。


人は意識でもって言葉を受け取り解釈し理解し、納得しようとするわけだが、実は納得しない。

評論家の小林秀雄の言で、「人は他人と同じように理解するが、自分独自にしか納得しない」というのがある。うろ覚え引用なので、同じ文章でない点はご容赦願う。多分、書かれたものそのままではない。

理解するというのは、言ったことをそのままの受け取っていることだとするならば、納得とはどこになるかというと、感情の動きや力だと言える。

弟の上記の件でいうならば、拙にはこう聞こえているというわけである。「腹が立った。死んでしまえ」である。

拙にはと書いたが、相手にはと訂正する。

無論、言葉そのものというよりは、そこに込められた感情である。

発する方も受け取る方も、意識上では上記の内容を語って聞いているつもりだろうが、そうはなっていないのが人なのである。


面白いことに、拙は弟が嫌なことがあったという態度で怒りながらの「あんなの死んでしまえ」まで聞いた後、こう返したものである。

「まあ、そう簡単には死なんよ」と。

今思えば、それを言っているときは「そういう爺はそうそうくたばらない」と思いながら口にしていたと思うのだが、ほんの少し、どう返答するべきか逡巡したうえで出たものであった。

よくある道徳的なことを言えば、そういう言葉を使うなだの、怒ってはいけないだのというところではあるが、それもまた、少し違う。

汚い言葉は使わないにこしたことはない。まるで薬物中毒のように怒りに囚われやすい人は、感情をコントロールする術を知るべきではある。

その手の話で、昔も度々引用した話を書いておく。

整体の創始者、野口晴哉が語っていたことである。


ある人が怯えた感じでやってきて、「昨日、強盗に遭いまして」と語りだし、語りながらまるで今強盗に遭っているかのように青ざめて震えだしたという。

「今強盗に遭っているわけじゃないだろう」と野口は諭すが、相手はその内容を青ざめた顔で語り続けたという。


その時沸き起こった感情は、その時の物であって、それをしかと味わったのなら、手放すべきなのである。

野口の知り合いが、昨日強盗に襲われていた時と同じような心身の状態を引き起こしたのは、その時手放すべきであったものを、後生大事に握りしめていたからである。


その時は腹が立った、で済んだのなら、弟はああは言わなかっただろう。

「爺さんとぶつかりそうになったよ。危なかったわ」で済む。


後生大事に握りしめておくべきは、ぶつかってきそうになった爺さんに対する腹立ちや、強盗に襲われた時の恐怖心ではなかろう。

ぶつからなくてよかったとか、強盗に襲われたけどお金取られただけで怪我もなくてよかっただのと、いくらでもある。

それを「納得」しないのは、「理解」が全てだと思うが故なのである。



さて、本日は夏至。北半球では日照時間が最長の日となる。

なるのだが、曇っている。

曇っているが、夏至のお天道様は雲の上には確実にある。ここでは見えなくても、晴れたところでは見えるであろう。

今日は曇っているから夏至は明日に延期、などという話はないだろう。地球の公転だとか地軸がずれたとかの要因がない限りとはいえ、曇り空で太陽が見えないからといって、太陽がないなどと「理解」はすまい。

お天道様が見えなくても、そこに確実にあることは、皆感じて「納得」してもらえることだと拙は思う。


では、よき終末を。