ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

社会とはどこを指しているのか

2015-01-30 | 雑記
また来年、とか元旦に言っておきながら、今月だけで三回目の更新となる。

記録は更新したことはないが、思い立ったら即行動!という質でもなく、ずっと頭から離れていなかった話を書こうというわけである。


タイトルの話まで持って行ければ良いが、ともかく。



いきなりだが、前々から、アリス・ミラーの分析で、ヒトラーは幼少のころ殴られていたので、長じて「殴る」立場になった、という風な話を書いてきた。

あの話自体にも諸説あって、実際は書かれているようなひどい環境で育ったわけではない、という話もある。殴られて育った、というのは通説として以前からあったもので、実際は目新しい訳でも、新事実だったわけでもないということである。

以前紹介した、「アリス・ミラーの仕事」というPDFの内容でとりわけ重要だといえるのは、フロイトがやったことだといえる。これはヒトラー自体よりも大きい。

別にヒトラーが小さいだとかいうわけではなく、ナチスの影響そのものにあったわけでもない他の社会の存在に対しても、多大な影響を与えているという点で、見えやすく大きいというわけだ。

ヒトラーが神経症の狂気でユダヤを滅ぼそうと思っただけ、というには不審な点が多い。ただし、それにつられて動いたであろう社会情勢については、真実だとは思われる。

アリス・ミラーはヒトラーを分析したつもりで、当時(それまでの流れも含めて)の社会情勢などの影響を被った不特定多数の個人とその集合体、つまりは社会だった、というわけだが、ヒトラー自体には謎が残っているような気がする。

ヒトラーの先見の明だとか霊感染みた話が、神経症だからというのも間違いではないだろうが、ヒトラーが当時の社会の犠牲者の神経症の患者だという話にしたところで、何が判るのか?とつい思うのである。

むろん、社会自体が神経症染みて、さらにその範囲内の存在(つまりは人である)を神経症にしていくメカニズム自体の分析を否定するわけではない。


妙な言い回しをすれば、アドルフとジークムントの二人を並べて見たとき、何か感じるのはアドルフの方だと。そーゆー感じだと思っていただければ結構である。


この二人の仕事、というとあれだが、神経症の症状としてそれを比較するなら、こういえるだろう。

アドルフは、神経症の症状を極限まで表出することによって社会に示し、
ジークムントは、己の神経症の傷に蓋をすることによって、隠微な形で社会に影響を与えることになったと。


こうかくと、さっき言ったことと正反対のような気がするな。「フロイトの方が見えやすい」とかいっておったのに。

ま、出方の違いで大きさには差はないのだろう。



さて、話は変わるが、電子レンジの話をしようと思う。


はあ?電子レンジ?

そう。レンジで朕、じゃなくてチンのあれ。



ずっと前、といって二、三年前か。健康健康と言ってる人達の話から持ってきた話で、確かこう書いたりしゃべったりしたはずである。


「電子レンジの使用による健康への悪影響は、ソ連の科学アカデミーが発表している」と。


現代の科学技術の悉く、ではないが、特に軍事技術については実際はナチスの技術から来ている、という話はその手の話に詳しい方には必要はないことであろう。

なにそれ?という人にはいちいち説明せんが、ロケットを作ったのはナチスである。以上!


それはともかく、電子レンジもナチスが作ったのかなぁ?と思っただけで、他意はない。


さあてこれ、1945年に、アメリカで特許を取得して売り出された、というのがWikiにあった話。レーダーの開発だか試験中だかにできた、というのも作ったような気がしないでもない。

そもそも1945年というのもわざとらしいなぁと思うが、そこにいちゃもんをつけようというわけではない。

世界初がアメリカ、そして害悪であると発表したのがソ連。ここが重要である。


ソ連。ソ連とは何か!それは・・・哲学である!!とかそんな冗談染みた言い草は捨て置くとして、共産主義国家のソビエト連邦とは、一体どういう頭の中身だったのかを簡単に言う。


「科学は政治に従属する」というのが党是である。共産党のドグマ、いや、ドクトリンというべきか?である。


戦後、アメリカとソ連は冷戦状態だった、というのが通説である。本当か嘘かはしらんが、そう習ってきた。

その通説通りいくなら、その通りにいかなくてもいいんだが、つまりはこうである。

「アメリカが売り出した電子レンジで我がソ連は侵略されているから、こじつけて放り出せ!」

と、こういう動きがなかったとは言い切れないのである。

科学は政治に従属する。これを字義通りにやった、政治的な「研究結果」である可能性は非常に高いのである。

当時のソ連の、まるで中世世界に戻ったかのような頑迷固陋な、迷信の中で暮らしているかのような世界というのは、今の我々には想像しづらいものなのである。

まあ、どこも変わりゃせんが。


さて、今も冷戦状態ではないが、同じ動きをしている。


例えば、遺伝子組み換え作物について、古風な言い回しをすれば、西側が報じようとしない、食わせた実験についてだとか、上記の動きがまったくないとは言い切れない。

THINKERの鶴田さんが講演で、このこと(遺伝子作物のこと)についていう時に「ロシア側のプロパガンダの可能性もありますがね」と、付け加えていたものである。

そーゆー感じなのに、なんでかどこぞのおっさんは「鶴田さんはロシア推ししてる」だのと、戯言をほざいているのだった。

あとはブログで小沢のことを書いたりしていたのを見て、「小沢推ししている。ダメだ」などと。

講演に来たり、ブログを読む人全員が、みなお前のようなオタクじゃねえんだぞ!ハゲ!講演が何なのか、断るような間抜けには判らんか。と、話が逸れた。

ああ、断っておくが、遺伝子組み換えは体にいい!とかいう話ではない。これもわしのプロパガンダの可能性があるゆえ、勝手に考えてくれ。

別に電子レンジは体に悪くないので気にせず使いましょう、でもない。

体に良いか悪いか、で判断なさるのでしたら、息の根を止めるがよろしかろう、というだけである。

冗談抜きでもっとも体に良いだろう。それ以上良くもならんが悪くもならん。良い悪い自体が、頭の中でこしらえてきたものに合致しているかどうかでしかないわけでな。



さて、余談はここまで。


まあ、そもそもここでツラツラ書いてること自体が何かの余興のようなもので。


これもまた古い話になる。わしも少々怒りん坊なところがあるゆえ、カッとなって言い過ぎたところもある。が、別に間違えたつもりもない。


なんの話かというと、「社会運動」とかいう単語についてである。


話は為清上人が運営なさられていられやがりました、瑕、じゃなくて暇人会館という会員制掲示板の時代から。

ある女性が、最終回のラヂヲの時に、ここに書き込んだコメントについて、上人がほざいたことはというと、「私は社会運動を起こしたかったのだが、誰も理解しなかった」という話。


そして時はくだり、飲んだくれが飲みながら何事かわめくあのラヂヲで、この件に触れたら、その女性からコメントがあった。


「社会運動、したほうがいいですか?」という風なのが、コメントの最後に。


で、コメントで返信したかと思ったら、その何日か後、なんだか怒ったような文章を書き上げたというのを、今でも思い出す。あの人はお元気であろうか。ワカラン。


その時もいったが、社会運動とかいう、何か決まったような動きをすべし!、などとは言っておらん。するな!とも言ってないとは思うが、内容のほとんどはハゲの上人が戯言に憤りをぶつけただけである。
なら何ゆえ講演を断った?と。高みに登って人を見下すのがご趣味なんじゃないですか?と。


それなんで、社会運動がどうこうということ自体には触れなかったかと思う。

もしかしたら触れたかもしれないが、伝わったかどうかは不明なので、つい思い出してここまで長ったらしく書いたわけだが、もうしばし続く。


さて、何気なく口にする、この「社会」というもの。これはなんであろうか?それは・・・言語である!!と、まあ言ってしまえばそうである。

はい終わり!ではないので、逃げないように。


社会というのもを、類似したものに置き換える。例えば、国家。小さくしたら、地方というそれぞれの社会。東京という社会、その中の市区町村という社会。隣近所という社会。冗談みたいだが、会社という社会。

社会の最小単位というのは、学者の定義だったかは忘れたが、家族になる。

つまりは、人が複数いる状態は常に社会性を帯びるということである。

家族が最小単位といえども、一様ではない。夫婦だけだったり、片親とその子、というのもある。

これがきっと最小単位だろうと思いがちであるが、しかし・・・。


己自身とそれに対峙している一人以上の誰かがいる状態を社会というわけだが(己自身というのは別にわしやあなたというだけではない)、よーく考えてもらいたい。

あなたが一人で家に居て考え事をしているとする。その時頭の中で出てくる言葉はどこからどこへ向かうのか?あなたが裡で投げかけたりかけられたりする言葉は、裡なる自身や想起したものも含めて他人ではないか?

社会性を帯びた生き物というのは、その個体自体でそもそも社会なのである。


病んだ社会性を帯びた存在が、個体から出ているそれを自覚せぬままであれば、アリス・ミラーが分析したようにナチズムに飛び込むであろう。

ナチズムとかいうものでなくても、似たようなものは手に余るほどある。

果物こそ人間の食べ物!それ以外は無意味!とかいってたのに、発酵食品も、とか言い出して恥じ入ることを知らぬのも、似たようなものである。

そのおっさんがかつて紹介していた、ライヒによると、「神経症(オーガズム・インポテンスだったかな?)が完治していくと、表面上は個性がなくなっていくように見える」とのことだが、そうやって「新しいこと」に次から次へと乗り換えていく様は、まさしくオーガズム・インポテンスであろう。実に表面上の個性が横溢しておる。


別に社会のことをほうっておけ、とは思わんが、大抵は己自身という社会から目を背けているだけに過ぎないのである。


そういう状態の徒党が、今ある「良くない社会」を正すとしよう。つまりは「社会運動」である。古くはフランス革命などのように、近くはジャスミン革命なんぞというのがあったかな?

彼らは自分の病をその作り上げた社会に投影するに決まっている。フランス革命の顛末を見よ!ロベスピエールは己が振るった断頭台の露となった。



さて、ライヒの話をしたが、ウィルヘルム・ライヒは元々は精神科医である。

アリス・ミラーも心理学者というわけで、この二人は似たような結論をしている。


表面上は個性がなくなっていくように見える、というのがライヒの観察からの結論であった。


ミラーもほとんど似たことじゃないかと思うようなことを書いていた。

「魂が殺されることなく育った子供は、とても力強いが、それを振るうことはしないでしょう。振るうとしても、決して他人を傷つけるためではなく、自分の命を守るためにしか使わないでしょう」

という風に。


神経症に裏打ちされた、いわば凝り固まったパターン化されたものによる行動と知識で他人を攻撃するのが人間だというのなら、これ以上馬鹿げた話などないのである。

これは別に、為清勝彦個人だけではない。まったくこの通りだから、話の流れで出しているだけである。



社会は変えるべきである。己自身という社会をまず変えるところからである。

人をギロチンに掛けるのが趣味になって、挙句自分の首を刎ねるところまで極まっているのなら、どうぞお好きなように。

誰がマクシミリアンで、何がギロチンかは枚挙に暇がないので、ご自身でお考え頂く。十人十色だが、どれもこれもマクシミリアンというわけだな。

あなたの裡にマクシミリアンがいるままで、他のマクシミリアンを打ち倒そうがギロチンを世界から排除しようが、ギロチン以外の処刑器具が現れるだけである。

そして、あなたがマクシミリアンになる。今までそれを繰り返してきただけである。努々お忘れなきよう。

去年、2014年の夏前からここに書き連ねてきたことは、それらの一翼である。ご参考までに。

では、また来年。


チェックアウトは10時です

2015-01-18 | 雑記
これを書いている日の前日、夜勤に入っていた。

そこで盛大に怒られたのである。盛大、というのはちょっと盛りすぎたかな。


理由は、わしがちょくちょく奥でタバコ吸ってて、出ようとしないからである。まったく出る気がないわけではないが、そう取られてもおかしくないし、言われたこと自体に対して弁解する気などない。


茶化して言うなら、「前から言おうと思ってましたが」と鬼のような形相で言い始めたときに、「これで二回目ですね」と付け足しておくべきだったかというくらいである。

この日、以前のことだが同じことで怒ってきた人がもう一人いた。この日の夜勤の主任である。


敬称略で、イニシャルを書くと、鬼のような形相はM、夜勤の主任はHとしておく。いや、本名じゃねぇか!というのは気にしないでいただく。



Hの方にも以前、同じく怒られたと書いた。「なんでお前はすぐ奥いくんだ!」と言われたら、こう答えたものである。「一人フロントにいるから大丈夫だと思って」と。




このやりとりを思い出しながらの(昼寝からの)目覚めで思い至った、どうして仕事をひどく嫌がるのかという自分の癖について書こうかと思う。




わしは、周りから見たらひどくじれったいようなところがある。どうにも、一呼吸やら一拍おかないと、少し不安というか、やりすぎやせんかとつい思うわけである。



とはいえ、現場に立つとなると、そうも言ってられない。おっかなびっくりでも少しずつ覚えてきて、基本的なやり取りは問題なくなっていくというわけではある。



さて、慣れてきたとはいえ、不安もある中、ある日、チェックインの手続きを済ませた客がチェックアウトの時間を聞いてきた。

基本的に、鍵を渡しながらこちらから伝えるのだが、先に聞いてきたか忘れたかで客の方から言ってきたのである。


隣にはHが立っていた。客はその質問をこっちの顔を見ながら言うのだが、わしが声を発する前にHが「チェックアウトは10時です」とやるわけである。


一回なら別になんとも思わないが、どうも一緒にフロントに立つと、ことあるごとに先に言われていた覚えがある。

ワカランことなら上のそのHに聞いて対処するのだが、もうこちらも承知のことを、何ゆえか先に言っていく。

何度もやられると、別にあちらはそうは思っちゃいないのだろうが、こう勘違いしてもおかしくないだろう。


「わしはいらんのじゃないか?」と。


さて、鬼の形相のMについても同じことが何度かあったものである。

場合によってはなんだか、「お前は仕事の邪魔だ」と言われているのかと思うような動きである。別に酷い人物ではないことは承知しているが、横にこちらがいることを無視したかのような振る舞いは、上記のHと同じである。

こうなると蛇足のようだが、別にHもわしを邪魔者扱いにしようとしてやっていたわけではないことは承知してはいる。



他の人でも大なり小なりあったもので、「いらないんじゃないか?」と常々思っていたのかもしれない。



そういうのが重なると、仕事なんぞ嫌になるわけである。何で嫌になるかがよく判らないままに、嫌になる。


そういう感じで鬱屈したまま、結構長い間過ごしてきたようである。それが、今回のタバコの件で顕になったと思われる。


仕事自体は馬鹿馬鹿しいし下らないので、嫌には違いないが、トイレで大便を気張るのが嫌だ、といっているようなものである。その程度。

そうではないところで嫌だという理由は、こんな些細なことの積み重ねに由来している、ということである。

今回、そんな二人と丁度同じ時間に仕事についていて、ああいう展開になり、こう思い至る。よく出来た話だなぁと感心する。


わしはある意味、仕事の邪魔をされてきた仕返しをやっていたというわけである。別に、タバコ自体は好きで吸ってはいるが、キセルに張り付きすぎた理由である。



今こういう風に振り返って考えているが、昨日は「わしは他人をあてにしすぎたから、これからは、いてもいなてくも関係ないものと見なしてやろう」と思ったりしたものである。
それは気持ちだけにして、平常どおりの仕事をするだけである。(この辺りの心境についてはここには書いてないが、思うところはある。本題ではないので棚上げ)
この「」内の気持ちで完全に動くとなれば、MやHがこちらにしてきたことをやり返すだけになるので、無意味である。


かつて、MやH(といっても象徴というやつだが)に邪魔された時に、わしはこう言うべきだったのに言わなかった。

「今のお客さんは、僕に質問をしていました。邪魔しないでください」と。


これがわしの間抜けさである。そして、何年か経った今、問題となったわけである。めでたしめでたし。


言おうとして言えなかった「チェックアウトは10時です」は、今どこに行ったか。ようやくキセルの先から煙になり、事務所を漂い、長年の恨みを晴らしたのだろうと思う。


いて邪魔をするだけの無能者は死んでしまえ、という話が、事務所内でたまに出る。

本来はわしのことではないが、キセルの先から出てきた怨念が憑いたことによって文字通り「いて邪魔をするだけの無能者」となりおおせたので、死なねばならぬ。

そして、消える前の言葉はこうである。

「チェックアウトは10時です」


齧りたい顔面

2015-01-01 | 雑記
信念、いや、新年明けまして・・・などというと思ったか!

というわけで、おめでとうございます。

何がどうおめでたいかなどという、野暮なことは考えないのが、お祝いというものである。恐らく。



去年は遣り残したことがある。それは・・・ラヂヲを終らせること!と思ったのだが、続けているのか続けないのか判らないような状態が常態なので、気にしない。

それに、酔っ払いの話なんぞ別に面白いものでもない。酒飲んでもないのに酔っ払っている人はこの世に、というか全世界の大半なので、どっちにしても面白くない。



さて、そんな話は措いて、久々に何を書くのか、思い出しながらやっていこうかと思う。部屋が寒いので、さっさと終らせてゲームやりたい。


去年の最後の更新で何書いたかを、家にたどり着くまでに思い出したら、矢毒がどうこうとか書いていた。記憶は定かではないがきっとそう。


そのことでまた何か思いついた気がしたが、思い出せない。



では、去年の暮れに行き当たった話をしよう。



それは・・・十年前のことであった・・・いやいやおかしい。


数年前にその話の原因となった事件が、米(国産)じゃなくて、米国で立て続けに起こっていた。

日本のとあるホラーゲームが現実になったかのような事件、といえば思い当たる人もいるだろう。


ゾンビ事件だとかで検索したら出てくるかと思われる。

一例を挙げると、なんでも、相手の顔、しかも行きずりの浮浪者の顔を、殴り殺すでもなく、生きたまま齧り続けた男が現れた。

警察が何言っても止まらないので銃を撃ちこんだが、ひるまず齧り続け、そのまま射殺されたそうな。

そういう、カニバリズムとか横文字でいう事件が立て続けに起こっていた。


とある陰謀論のおっさん(※為清上人ではない)が、「ゾンビ化ウイルスでも出たか!?」みたいなことを当時書いていたよーな気がする。

上人は、「こいつはまともに英語が出来ないので、相手にしてはならぬ」とけなしていた人物なので、消え去ったBeなんとかとかいう上人のHPに注意喚起されていたこともあるが、この事件自体は本当である。


ただし、ウイルスではない。


去年、都内の繁華街で自動車が暴走して、人を轢き殺した事件があったのを覚えているだろうか。

あれの原因となったもの。それは・・・自動車!!ではなく、運転手が乗る前に摂取したものである。その当時まで「脱法ハーブ」と呼ばれていた、「危険ドラッグ」というやつである。

上記の例に挙げた「ゾンビ」も、その類の物を摂取していたそうな。


ま、別に脱法ハーブだとかの話をしようというわけではない。


そういう物を摂取した人物が人の顔に齧りつく理由を考えていたわけだ。考えていた、というよりは思い当たることがあったというだけだが。



以前から書いたりしゃべったりしていたが、野生のチンパンジーは時々、他の哺乳類だとか(映像で見たことがあるが、他種の猿だった)を捕まえて食べる、という行動が観察されている。


ゴリラはしないのかな?とずっと疑問に思っていたが、調べてはいなかった。

だが、上記の事件についての話で、小耳に挟む程度に知ったことだが、ゴリラやオラウータンなどは、時々、相手の顔に齧りつくという行動に及ぶそうだ。


一体誰だ?野菜や果物を食うやつらは大人しいと言ったのは?ゴリラが言ったのか?脂ぎった尊師と脂が少し減ったフタコブラクダか?



猿と人間の祖先はまったく同じではないようだが、森の中にいたわけである。

チンパンジーやゴリラの祖先もまた、森にいたわけだが、その歯を現在になって顕微鏡で調べたら、肉を食っていないと出るだろうが、それで生きていた状態を知った気になるのは科学者の間抜けである。

それはともかく、所謂栄養学的に栄養を満たすために、俗に言えば空腹を満たすために、肉を食おうとしていたわけではないようである。


上記の「ゾンビ」は、齧り取った肉片を、胃には入れていなかった。歯には挟まっていたそうだが、噛み切っていただけだそうな。



さて、「人間は自然に戻れば素晴らしくなる」という話を、常々為清上人だけでなく、色々な方々もおっしゃられている。

動物は自然に沿っているから素晴らしい、人間は自然でなくなったから、動物を殺したりお互いを殺しあったりしている、という論法である。


教えて欲しい。いや、教えられなどしまいが、どうして自然に沿って生きているはずのチンパンジーはたまに他の哺乳類を食らい、ゴリラやオラウータンは相手の顔に齧りつくのだ?

野菜や果物で生きる存在はそんなことをしないはずではないのか?


動物は人間、つまり現代人のような理性はない、といわれてきた。その理屈からいけば、危険ドラッグで理性が欠片もなくなった「ゾンビ」こそ、「自然そのままの人間」の姿ではないのか?



『金枝篇』にある話だが、首狩り族だとかは、人間の首に霊的な力が最も宿っているという考えがあるのだという。生贄として首を捧げたりするわけである。


現代人の理屈ではなく、「自然」とやらの直感で、ゴリラは顔、つまりは首に齧りつくわけではないのか?


現代で置き換えれば、いかに相手の心を屈させるか、と言えるかもしれない。西洋で研究されているとかいう、エナジーヴァンパイアの理屈である。
(余談だが、日本では、そのことを「生霊」と呼ぶというのは、去年の秋ごろ知った)

だから、あのように選民染みた高慢な心根が充溢していたのではないのかな?それと、大体自然がどうこうというやつらは大抵そうなっている。



愛国心は悪党の最後の隠れ家、という言葉がある。アメリカの作家ビアスは、『悪魔の辞典』という自著で、「愛国心は悪党の最初にして最後の隠れ家であるというべきである」とさらに皮肉っていたものである。

愛自然心だとか、愛地球心だとかに言い換えてみたら、ぴったり重なるような気がする。面倒くさいので、ご自身でお考えいただきたい。


人が作った風景、田園風景だとか、文明社会の風景、ひいては国家が幻だというのなら、我々が今生きている地球とやらも作り上げられた幻に過ぎない。

己らが自然と呼び習わしている「生活環境」以外は幻である、という幻覚に厳格に従っている、ドラッグ中毒者なのである。



肉体は魂の器、というような言い草がある。肉体は精神と本来はセットなので忘れられがちだが、精神自体は魂とは完全に同じではないのだろう。

そうなると、魂とやらも己自身ではないことになる。何を言っているのだ?と思われそうだが、そう感じる。


刺身を盛った皿を想像していただこう。刺身があって、ツマがあって、おろした山葵も添えてある。

それがあなただ!!というとして、「それがあなただ!!」と言っている奴は誰なんだと。

言われないとしても、刺身盛りを見ているのは誰なのかと。

刺身盛りを見ている誰かがいないと、刺身盛りは存在しないのである。

なのに、我々は刺身盛りを自分だと言い張り、ああでもないこうでもないとやっている。

腐って来ているのに「これこそ最高の刺身だ!」と有頂天になったりもする。

刺身盛りを見ている、ということを見るべきである。


刺身に夢中になるのは構わないが、傍らに置かれた杯や、腕を振るった板前のことを、たまには思い出してあげてください・・・。


酒の飲み方も判らんのに、そのくせ栄養学は否定しながら、栄養学の理屈でもって良いか悪いかいうくらいなら、危険ドラッグでも吸って、ありのままの自然の姿に戻るのがもっともよいだろう。


そんなアホウになるぐらいなら、酒飲んで寝ているほうが比べるまでもなく、よい。あー酔い酔いとぉ。

と、なんだか冗談が強くなって来たのでここで終わりにしようと思う。では、また来年。