また来年、とか元旦に言っておきながら、今月だけで三回目の更新となる。
記録は更新したことはないが、思い立ったら即行動!という質でもなく、ずっと頭から離れていなかった話を書こうというわけである。
タイトルの話まで持って行ければ良いが、ともかく。
いきなりだが、前々から、アリス・ミラーの分析で、ヒトラーは幼少のころ殴られていたので、長じて「殴る」立場になった、という風な話を書いてきた。
あの話自体にも諸説あって、実際は書かれているようなひどい環境で育ったわけではない、という話もある。殴られて育った、というのは通説として以前からあったもので、実際は目新しい訳でも、新事実だったわけでもないということである。
以前紹介した、「アリス・ミラーの仕事」というPDFの内容でとりわけ重要だといえるのは、フロイトがやったことだといえる。これはヒトラー自体よりも大きい。
別にヒトラーが小さいだとかいうわけではなく、ナチスの影響そのものにあったわけでもない他の社会の存在に対しても、多大な影響を与えているという点で、見えやすく大きいというわけだ。
ヒトラーが神経症の狂気でユダヤを滅ぼそうと思っただけ、というには不審な点が多い。ただし、それにつられて動いたであろう社会情勢については、真実だとは思われる。
アリス・ミラーはヒトラーを分析したつもりで、当時(それまでの流れも含めて)の社会情勢などの影響を被った不特定多数の個人とその集合体、つまりは社会だった、というわけだが、ヒトラー自体には謎が残っているような気がする。
ヒトラーの先見の明だとか霊感染みた話が、神経症だからというのも間違いではないだろうが、ヒトラーが当時の社会の犠牲者の神経症の患者だという話にしたところで、何が判るのか?とつい思うのである。
むろん、社会自体が神経症染みて、さらにその範囲内の存在(つまりは人である)を神経症にしていくメカニズム自体の分析を否定するわけではない。
妙な言い回しをすれば、アドルフとジークムントの二人を並べて見たとき、何か感じるのはアドルフの方だと。そーゆー感じだと思っていただければ結構である。
この二人の仕事、というとあれだが、神経症の症状としてそれを比較するなら、こういえるだろう。
アドルフは、神経症の症状を極限まで表出することによって社会に示し、
ジークムントは、己の神経症の傷に蓋をすることによって、隠微な形で社会に影響を与えることになったと。
こうかくと、さっき言ったことと正反対のような気がするな。「フロイトの方が見えやすい」とかいっておったのに。
ま、出方の違いで大きさには差はないのだろう。
さて、話は変わるが、電子レンジの話をしようと思う。
はあ?電子レンジ?
そう。レンジで朕、じゃなくてチンのあれ。
ずっと前、といって二、三年前か。健康健康と言ってる人達の話から持ってきた話で、確かこう書いたりしゃべったりしたはずである。
「電子レンジの使用による健康への悪影響は、ソ連の科学アカデミーが発表している」と。
現代の科学技術の悉く、ではないが、特に軍事技術については実際はナチスの技術から来ている、という話はその手の話に詳しい方には必要はないことであろう。
なにそれ?という人にはいちいち説明せんが、ロケットを作ったのはナチスである。以上!
それはともかく、電子レンジもナチスが作ったのかなぁ?と思っただけで、他意はない。
さあてこれ、1945年に、アメリカで特許を取得して売り出された、というのがWikiにあった話。レーダーの開発だか試験中だかにできた、というのも作ったような気がしないでもない。
そもそも1945年というのもわざとらしいなぁと思うが、そこにいちゃもんをつけようというわけではない。
世界初がアメリカ、そして害悪であると発表したのがソ連。ここが重要である。
ソ連。ソ連とは何か!それは・・・哲学である!!とかそんな冗談染みた言い草は捨て置くとして、共産主義国家のソビエト連邦とは、一体どういう頭の中身だったのかを簡単に言う。
「科学は政治に従属する」というのが党是である。共産党のドグマ、いや、ドクトリンというべきか?である。
戦後、アメリカとソ連は冷戦状態だった、というのが通説である。本当か嘘かはしらんが、そう習ってきた。
その通説通りいくなら、その通りにいかなくてもいいんだが、つまりはこうである。
「アメリカが売り出した電子レンジで我がソ連は侵略されているから、こじつけて放り出せ!」
と、こういう動きがなかったとは言い切れないのである。
科学は政治に従属する。これを字義通りにやった、政治的な「研究結果」である可能性は非常に高いのである。
当時のソ連の、まるで中世世界に戻ったかのような頑迷固陋な、迷信の中で暮らしているかのような世界というのは、今の我々には想像しづらいものなのである。
まあ、どこも変わりゃせんが。
さて、今も冷戦状態ではないが、同じ動きをしている。
例えば、遺伝子組み換え作物について、古風な言い回しをすれば、西側が報じようとしない、食わせた実験についてだとか、上記の動きがまったくないとは言い切れない。
THINKERの鶴田さんが講演で、このこと(遺伝子作物のこと)についていう時に「ロシア側のプロパガンダの可能性もありますがね」と、付け加えていたものである。
そーゆー感じなのに、なんでかどこぞのおっさんは「鶴田さんはロシア推ししてる」だのと、戯言をほざいているのだった。
あとはブログで小沢のことを書いたりしていたのを見て、「小沢推ししている。ダメだ」などと。
講演に来たり、ブログを読む人全員が、みなお前のようなオタクじゃねえんだぞ!ハゲ!講演が何なのか、断るような間抜けには判らんか。と、話が逸れた。
ああ、断っておくが、遺伝子組み換えは体にいい!とかいう話ではない。これもわしのプロパガンダの可能性があるゆえ、勝手に考えてくれ。
別に電子レンジは体に悪くないので気にせず使いましょう、でもない。
体に良いか悪いか、で判断なさるのでしたら、息の根を止めるがよろしかろう、というだけである。
冗談抜きでもっとも体に良いだろう。それ以上良くもならんが悪くもならん。良い悪い自体が、頭の中でこしらえてきたものに合致しているかどうかでしかないわけでな。
さて、余談はここまで。
まあ、そもそもここでツラツラ書いてること自体が何かの余興のようなもので。
これもまた古い話になる。わしも少々怒りん坊なところがあるゆえ、カッとなって言い過ぎたところもある。が、別に間違えたつもりもない。
なんの話かというと、「社会運動」とかいう単語についてである。
話は為清上人が運営なさられていられやがりました、瑕、じゃなくて暇人会館という会員制掲示板の時代から。
ある女性が、最終回のラヂヲの時に、ここに書き込んだコメントについて、上人がほざいたことはというと、「私は社会運動を起こしたかったのだが、誰も理解しなかった」という話。
そして時はくだり、飲んだくれが飲みながら何事かわめくあのラヂヲで、この件に触れたら、その女性からコメントがあった。
「社会運動、したほうがいいですか?」という風なのが、コメントの最後に。
で、コメントで返信したかと思ったら、その何日か後、なんだか怒ったような文章を書き上げたというのを、今でも思い出す。あの人はお元気であろうか。ワカラン。
その時もいったが、社会運動とかいう、何か決まったような動きをすべし!、などとは言っておらん。するな!とも言ってないとは思うが、内容のほとんどはハゲの上人が戯言に憤りをぶつけただけである。
なら何ゆえ講演を断った?と。高みに登って人を見下すのがご趣味なんじゃないですか?と。
それなんで、社会運動がどうこうということ自体には触れなかったかと思う。
もしかしたら触れたかもしれないが、伝わったかどうかは不明なので、つい思い出してここまで長ったらしく書いたわけだが、もうしばし続く。
さて、何気なく口にする、この「社会」というもの。これはなんであろうか?それは・・・言語である!!と、まあ言ってしまえばそうである。
はい終わり!ではないので、逃げないように。
社会というのもを、類似したものに置き換える。例えば、国家。小さくしたら、地方というそれぞれの社会。東京という社会、その中の市区町村という社会。隣近所という社会。冗談みたいだが、会社という社会。
社会の最小単位というのは、学者の定義だったかは忘れたが、家族になる。
つまりは、人が複数いる状態は常に社会性を帯びるということである。
家族が最小単位といえども、一様ではない。夫婦だけだったり、片親とその子、というのもある。
これがきっと最小単位だろうと思いがちであるが、しかし・・・。
己自身とそれに対峙している一人以上の誰かがいる状態を社会というわけだが(己自身というのは別にわしやあなたというだけではない)、よーく考えてもらいたい。
あなたが一人で家に居て考え事をしているとする。その時頭の中で出てくる言葉はどこからどこへ向かうのか?あなたが裡で投げかけたりかけられたりする言葉は、裡なる自身や想起したものも含めて他人ではないか?
社会性を帯びた生き物というのは、その個体自体でそもそも社会なのである。
病んだ社会性を帯びた存在が、個体から出ているそれを自覚せぬままであれば、アリス・ミラーが分析したようにナチズムに飛び込むであろう。
ナチズムとかいうものでなくても、似たようなものは手に余るほどある。
果物こそ人間の食べ物!それ以外は無意味!とかいってたのに、発酵食品も、とか言い出して恥じ入ることを知らぬのも、似たようなものである。
そのおっさんがかつて紹介していた、ライヒによると、「神経症(オーガズム・インポテンスだったかな?)が完治していくと、表面上は個性がなくなっていくように見える」とのことだが、そうやって「新しいこと」に次から次へと乗り換えていく様は、まさしくオーガズム・インポテンスであろう。実に表面上の個性が横溢しておる。
別に社会のことをほうっておけ、とは思わんが、大抵は己自身という社会から目を背けているだけに過ぎないのである。
そういう状態の徒党が、今ある「良くない社会」を正すとしよう。つまりは「社会運動」である。古くはフランス革命などのように、近くはジャスミン革命なんぞというのがあったかな?
彼らは自分の病をその作り上げた社会に投影するに決まっている。フランス革命の顛末を見よ!ロベスピエールは己が振るった断頭台の露となった。
さて、ライヒの話をしたが、ウィルヘルム・ライヒは元々は精神科医である。
アリス・ミラーも心理学者というわけで、この二人は似たような結論をしている。
表面上は個性がなくなっていくように見える、というのがライヒの観察からの結論であった。
ミラーもほとんど似たことじゃないかと思うようなことを書いていた。
「魂が殺されることなく育った子供は、とても力強いが、それを振るうことはしないでしょう。振るうとしても、決して他人を傷つけるためではなく、自分の命を守るためにしか使わないでしょう」
という風に。
神経症に裏打ちされた、いわば凝り固まったパターン化されたものによる行動と知識で他人を攻撃するのが人間だというのなら、これ以上馬鹿げた話などないのである。
これは別に、為清勝彦個人だけではない。まったくこの通りだから、話の流れで出しているだけである。
社会は変えるべきである。己自身という社会をまず変えるところからである。
人をギロチンに掛けるのが趣味になって、挙句自分の首を刎ねるところまで極まっているのなら、どうぞお好きなように。
誰がマクシミリアンで、何がギロチンかは枚挙に暇がないので、ご自身でお考え頂く。十人十色だが、どれもこれもマクシミリアンというわけだな。
あなたの裡にマクシミリアンがいるままで、他のマクシミリアンを打ち倒そうがギロチンを世界から排除しようが、ギロチン以外の処刑器具が現れるだけである。
そして、あなたがマクシミリアンになる。今までそれを繰り返してきただけである。努々お忘れなきよう。
去年、2014年の夏前からここに書き連ねてきたことは、それらの一翼である。ご参考までに。
では、また来年。
記録は更新したことはないが、思い立ったら即行動!という質でもなく、ずっと頭から離れていなかった話を書こうというわけである。
タイトルの話まで持って行ければ良いが、ともかく。
いきなりだが、前々から、アリス・ミラーの分析で、ヒトラーは幼少のころ殴られていたので、長じて「殴る」立場になった、という風な話を書いてきた。
あの話自体にも諸説あって、実際は書かれているようなひどい環境で育ったわけではない、という話もある。殴られて育った、というのは通説として以前からあったもので、実際は目新しい訳でも、新事実だったわけでもないということである。
以前紹介した、「アリス・ミラーの仕事」というPDFの内容でとりわけ重要だといえるのは、フロイトがやったことだといえる。これはヒトラー自体よりも大きい。
別にヒトラーが小さいだとかいうわけではなく、ナチスの影響そのものにあったわけでもない他の社会の存在に対しても、多大な影響を与えているという点で、見えやすく大きいというわけだ。
ヒトラーが神経症の狂気でユダヤを滅ぼそうと思っただけ、というには不審な点が多い。ただし、それにつられて動いたであろう社会情勢については、真実だとは思われる。
アリス・ミラーはヒトラーを分析したつもりで、当時(それまでの流れも含めて)の社会情勢などの影響を被った不特定多数の個人とその集合体、つまりは社会だった、というわけだが、ヒトラー自体には謎が残っているような気がする。
ヒトラーの先見の明だとか霊感染みた話が、神経症だからというのも間違いではないだろうが、ヒトラーが当時の社会の犠牲者の神経症の患者だという話にしたところで、何が判るのか?とつい思うのである。
むろん、社会自体が神経症染みて、さらにその範囲内の存在(つまりは人である)を神経症にしていくメカニズム自体の分析を否定するわけではない。
妙な言い回しをすれば、アドルフとジークムントの二人を並べて見たとき、何か感じるのはアドルフの方だと。そーゆー感じだと思っていただければ結構である。
この二人の仕事、というとあれだが、神経症の症状としてそれを比較するなら、こういえるだろう。
アドルフは、神経症の症状を極限まで表出することによって社会に示し、
ジークムントは、己の神経症の傷に蓋をすることによって、隠微な形で社会に影響を与えることになったと。
こうかくと、さっき言ったことと正反対のような気がするな。「フロイトの方が見えやすい」とかいっておったのに。
ま、出方の違いで大きさには差はないのだろう。
さて、話は変わるが、電子レンジの話をしようと思う。
はあ?電子レンジ?
そう。レンジで朕、じゃなくてチンのあれ。
ずっと前、といって二、三年前か。健康健康と言ってる人達の話から持ってきた話で、確かこう書いたりしゃべったりしたはずである。
「電子レンジの使用による健康への悪影響は、ソ連の科学アカデミーが発表している」と。
現代の科学技術の悉く、ではないが、特に軍事技術については実際はナチスの技術から来ている、という話はその手の話に詳しい方には必要はないことであろう。
なにそれ?という人にはいちいち説明せんが、ロケットを作ったのはナチスである。以上!
それはともかく、電子レンジもナチスが作ったのかなぁ?と思っただけで、他意はない。
さあてこれ、1945年に、アメリカで特許を取得して売り出された、というのがWikiにあった話。レーダーの開発だか試験中だかにできた、というのも作ったような気がしないでもない。
そもそも1945年というのもわざとらしいなぁと思うが、そこにいちゃもんをつけようというわけではない。
世界初がアメリカ、そして害悪であると発表したのがソ連。ここが重要である。
ソ連。ソ連とは何か!それは・・・哲学である!!とかそんな冗談染みた言い草は捨て置くとして、共産主義国家のソビエト連邦とは、一体どういう頭の中身だったのかを簡単に言う。
「科学は政治に従属する」というのが党是である。共産党のドグマ、いや、ドクトリンというべきか?である。
戦後、アメリカとソ連は冷戦状態だった、というのが通説である。本当か嘘かはしらんが、そう習ってきた。
その通説通りいくなら、その通りにいかなくてもいいんだが、つまりはこうである。
「アメリカが売り出した電子レンジで我がソ連は侵略されているから、こじつけて放り出せ!」
と、こういう動きがなかったとは言い切れないのである。
科学は政治に従属する。これを字義通りにやった、政治的な「研究結果」である可能性は非常に高いのである。
当時のソ連の、まるで中世世界に戻ったかのような頑迷固陋な、迷信の中で暮らしているかのような世界というのは、今の我々には想像しづらいものなのである。
まあ、どこも変わりゃせんが。
さて、今も冷戦状態ではないが、同じ動きをしている。
例えば、遺伝子組み換え作物について、古風な言い回しをすれば、西側が報じようとしない、食わせた実験についてだとか、上記の動きがまったくないとは言い切れない。
THINKERの鶴田さんが講演で、このこと(遺伝子作物のこと)についていう時に「ロシア側のプロパガンダの可能性もありますがね」と、付け加えていたものである。
そーゆー感じなのに、なんでかどこぞのおっさんは「鶴田さんはロシア推ししてる」だのと、戯言をほざいているのだった。
あとはブログで小沢のことを書いたりしていたのを見て、「小沢推ししている。ダメだ」などと。
講演に来たり、ブログを読む人全員が、みなお前のようなオタクじゃねえんだぞ!ハゲ!講演が何なのか、断るような間抜けには判らんか。と、話が逸れた。
ああ、断っておくが、遺伝子組み換えは体にいい!とかいう話ではない。これもわしのプロパガンダの可能性があるゆえ、勝手に考えてくれ。
別に電子レンジは体に悪くないので気にせず使いましょう、でもない。
体に良いか悪いか、で判断なさるのでしたら、息の根を止めるがよろしかろう、というだけである。
冗談抜きでもっとも体に良いだろう。それ以上良くもならんが悪くもならん。良い悪い自体が、頭の中でこしらえてきたものに合致しているかどうかでしかないわけでな。
さて、余談はここまで。
まあ、そもそもここでツラツラ書いてること自体が何かの余興のようなもので。
これもまた古い話になる。わしも少々怒りん坊なところがあるゆえ、カッとなって言い過ぎたところもある。が、別に間違えたつもりもない。
なんの話かというと、「社会運動」とかいう単語についてである。
話は為清上人が運営なさられていられやがりました、瑕、じゃなくて暇人会館という会員制掲示板の時代から。
ある女性が、最終回のラヂヲの時に、ここに書き込んだコメントについて、上人がほざいたことはというと、「私は社会運動を起こしたかったのだが、誰も理解しなかった」という話。
そして時はくだり、飲んだくれが飲みながら何事かわめくあのラヂヲで、この件に触れたら、その女性からコメントがあった。
「社会運動、したほうがいいですか?」という風なのが、コメントの最後に。
で、コメントで返信したかと思ったら、その何日か後、なんだか怒ったような文章を書き上げたというのを、今でも思い出す。あの人はお元気であろうか。ワカラン。
その時もいったが、社会運動とかいう、何か決まったような動きをすべし!、などとは言っておらん。するな!とも言ってないとは思うが、内容のほとんどはハゲの上人が戯言に憤りをぶつけただけである。
なら何ゆえ講演を断った?と。高みに登って人を見下すのがご趣味なんじゃないですか?と。
それなんで、社会運動がどうこうということ自体には触れなかったかと思う。
もしかしたら触れたかもしれないが、伝わったかどうかは不明なので、つい思い出してここまで長ったらしく書いたわけだが、もうしばし続く。
さて、何気なく口にする、この「社会」というもの。これはなんであろうか?それは・・・言語である!!と、まあ言ってしまえばそうである。
はい終わり!ではないので、逃げないように。
社会というのもを、類似したものに置き換える。例えば、国家。小さくしたら、地方というそれぞれの社会。東京という社会、その中の市区町村という社会。隣近所という社会。冗談みたいだが、会社という社会。
社会の最小単位というのは、学者の定義だったかは忘れたが、家族になる。
つまりは、人が複数いる状態は常に社会性を帯びるということである。
家族が最小単位といえども、一様ではない。夫婦だけだったり、片親とその子、というのもある。
これがきっと最小単位だろうと思いがちであるが、しかし・・・。
己自身とそれに対峙している一人以上の誰かがいる状態を社会というわけだが(己自身というのは別にわしやあなたというだけではない)、よーく考えてもらいたい。
あなたが一人で家に居て考え事をしているとする。その時頭の中で出てくる言葉はどこからどこへ向かうのか?あなたが裡で投げかけたりかけられたりする言葉は、裡なる自身や想起したものも含めて他人ではないか?
社会性を帯びた生き物というのは、その個体自体でそもそも社会なのである。
病んだ社会性を帯びた存在が、個体から出ているそれを自覚せぬままであれば、アリス・ミラーが分析したようにナチズムに飛び込むであろう。
ナチズムとかいうものでなくても、似たようなものは手に余るほどある。
果物こそ人間の食べ物!それ以外は無意味!とかいってたのに、発酵食品も、とか言い出して恥じ入ることを知らぬのも、似たようなものである。
そのおっさんがかつて紹介していた、ライヒによると、「神経症(オーガズム・インポテンスだったかな?)が完治していくと、表面上は個性がなくなっていくように見える」とのことだが、そうやって「新しいこと」に次から次へと乗り換えていく様は、まさしくオーガズム・インポテンスであろう。実に表面上の個性が横溢しておる。
別に社会のことをほうっておけ、とは思わんが、大抵は己自身という社会から目を背けているだけに過ぎないのである。
そういう状態の徒党が、今ある「良くない社会」を正すとしよう。つまりは「社会運動」である。古くはフランス革命などのように、近くはジャスミン革命なんぞというのがあったかな?
彼らは自分の病をその作り上げた社会に投影するに決まっている。フランス革命の顛末を見よ!ロベスピエールは己が振るった断頭台の露となった。
さて、ライヒの話をしたが、ウィルヘルム・ライヒは元々は精神科医である。
アリス・ミラーも心理学者というわけで、この二人は似たような結論をしている。
表面上は個性がなくなっていくように見える、というのがライヒの観察からの結論であった。
ミラーもほとんど似たことじゃないかと思うようなことを書いていた。
「魂が殺されることなく育った子供は、とても力強いが、それを振るうことはしないでしょう。振るうとしても、決して他人を傷つけるためではなく、自分の命を守るためにしか使わないでしょう」
という風に。
神経症に裏打ちされた、いわば凝り固まったパターン化されたものによる行動と知識で他人を攻撃するのが人間だというのなら、これ以上馬鹿げた話などないのである。
これは別に、為清勝彦個人だけではない。まったくこの通りだから、話の流れで出しているだけである。
社会は変えるべきである。己自身という社会をまず変えるところからである。
人をギロチンに掛けるのが趣味になって、挙句自分の首を刎ねるところまで極まっているのなら、どうぞお好きなように。
誰がマクシミリアンで、何がギロチンかは枚挙に暇がないので、ご自身でお考え頂く。十人十色だが、どれもこれもマクシミリアンというわけだな。
あなたの裡にマクシミリアンがいるままで、他のマクシミリアンを打ち倒そうがギロチンを世界から排除しようが、ギロチン以外の処刑器具が現れるだけである。
そして、あなたがマクシミリアンになる。今までそれを繰り返してきただけである。努々お忘れなきよう。
去年、2014年の夏前からここに書き連ねてきたことは、それらの一翼である。ご参考までに。
では、また来年。