ウヰスキーのある風景

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頭が重い

2016-04-15 | 雑記
先日の更新は、なんだかよくわからん感じになった。

「俺は結婚なんてしなくてよかったナァ」と言っているように聞こえる。

正直に言うが、わしはもてる要素もないし、表面にしか興味がないような頭の軽い生き物に付き纏われたくもないので、結婚なんぞ出来ないのである。

といったらひどいか?女性差別だって?差別というなら、上に当てはまるのは大抵の人であるので、わしは全人類を差別している!!

となる。


頭の軽い、と書いた。

それにちなんだ話で。ずっと前に某千葉の歯医者に切羽詰ったようなメールを送ってわしに引き合わされた奴のことを書いたのを覚えているだろうか。

メールの最初にあった言葉である。

「フルータリアンで子供を育てたいからパートナーを探している」といった具合である。

当初のわしも、某尊師改めお然るさんの話を真に受けて、男女の肉体的結合がないと人間病気になると思っておったので、それでもなんともいえない気分で待っていたところに来たのがこれである。

なんだか腑に落ちないなと思いつつ、しばらく相手していたが、いつの間にか消えた。消えた理由はラヂヲやらブログで別の女性がいるような話をしていたからというところかと思われる。

どっちが先だったかはあまりはっきりしないが、もしくはメールの内容かもしれん。

それは確か、疲れは股関節をほぐすとよいぞ云々と、変な話を送ったものである。微妙にその女性の肉体に興味を持っているような言い回しというかなんというか。

ま、ふざけていたつもりはないが、おどけを盛り込んだわけである。記憶違いでなければそれっきりである。

正直、人に難癖つけられるほどわしも頭が「重い」わけではないということではある。



さて、こんなキチガイなもんで、結婚は出来ないだろうし、恐らくしないであろう理由を書き述べてみようと以前から考えていた。


先日は子供のころに、世界に殺されると感じたと書いたと思う。

一言にするならそれである。


ああ、世界?お前がいつもいってる陰謀がどうたらか?

繋がっているが、それよりも少し手前からである。手先の創価と家のことである。


兄は結婚するなら、相手が一般人なら創価にいれる、と宣言していたそうだ。

そして実際にした。

弟についてはしらん。元々がそうだったと聞いたような気がするが、忘れた。


兄がわしの胸倉をつかんで脅しをかけてきたり、親父なんぞ、一般人と同じものを奉じている、つまり物の見方の出所が同じなのに、我々は馬鹿な一般人と違うと意味のないことを言っていた。

こんなキチガイを生む家とその子供である。それを産んだ原因は創価学会である。近づくべきではなかろう?

兄に胸倉をつかまれた理由は、「創価学会は気持ち悪いから離れたい」といったら、「お前は家族を気持ち悪いと思うのか!そんなお前を家族とは思わんぞ!」と激高してつかみかかってきた。

それだから離れたいんだが、頭が腐っておる。

家族家族というなら、創価なんぞなくても家族だろうに、創価でなければ家族でないというならば、奴隷の結束でしかあるまい。

だから、わしは多少仲のよい人に応対するぐらいの気持ちしかもたなくなったので、両親が遊びに来たときにも飯を食いに行ったりはする。



弟に世の一端の話、具体的には創価はキチガイの手下のキチガイ集団だという話をしたのは、半分は酔った勢いと、クソ兄貴よりはマシだろうと思ったからである。



では、それならば親やクソ兄貴にも話をして、目を覚まさせるか?しない。そんな義理はない。

弟に話をしたが、部分的なので、あとは自分でどうにかしろと言った。気になることがあったら聞いて来いとはいったが、恐らくしまい。

創価の頸木を取り去った純粋な家族となったとしたら、どうするか?

その程度で変わるとは思わんので、「多少仲の良い人」対応を続行だろう。



何ゆえか?見た目が変わったとしても中身が変わらんからである。




先ほど、親父が一般と同じ価値観でしかないのに一般人をけなしている、と書いた。


それは何かというと、普段からここで書いたりしゃべったりしていることに繋がっていくのだが、煩雑になるので疲れてきた。


思い出した。こういう述懐をしていた。

「創価におらんかったら、わしらは祈祷師だとかに祈祷してもらったり無意味な寺社やらの初詣いったり、金を稼げば幸せになれると思っておったろう」などと。


世の人々皆がそういう風かはしらんが、現代で言うなら、流行からしか物を言わず行動をしない存在になっていたというわけである。


元々感性が殺されているのだ、と自己紹介をしていたというわけである。


親父の頭は、兄貴もその周りもだが、テレビや「一般の」マスメディアやらの流す流行の代わりに、創価という「流行」に従っていたに過ぎなかったというわけである。


創価という「流行」が消えたら何をするだろうか?また別の「流行」に乗るだけでしかない。



そして、創価も「一般の」マスメディアの流す流行というものは、同じところから出ているのである。


老い先短い親をわざわざどうしようとも思わんので、わしは黙っていることにする。次に兄貴に胸倉つかまれたら、わしの方がどうでるか判らん。

ひどく腹立たしいが、下手したら普段の生活すらしづらくなる可能性が大きいが故に、新聞すら断れん。聖教新聞のほうである。

抜けたら抜けたらどうでるか?そこまではワカラン。が、大きな障害になり得ると思われる。

盆暮れ正月に実家に帰ろうとしないのも、結婚式や葬式にすら出なかったのは、その無言の抵抗の意味合いもあったのかもしれん。

盆だから正月だから皆帰省するという流行に乗るのもふざけた話ではないか。伝統だか風習にかこつけただけでな。

そんなものはどちらも同じで無意味なのだ、気づけ!と。


無論、それらに出向いても同じ意味で無意味だろうが。



仮に結婚したとしたら、相手はどうなろうか?今のわしよりもひどい目にあうことは明白である。

創価に入れさせることが条件にはなってないようだが、付き合いが深まると勧誘するのである。我が肉親どもは。

それで疎遠になった親戚を見たものである。


かといって、わしは恐らく、あなたの家にも染まろうとしない。それは今まで述べた通りである。


そんな艱難辛苦を乗り越えて創価の家の子を産んだとしよう。わしが創価に籍を置いたままとして、だ。


「日本を破壊した邪悪な創価学会の子孫」としての悪名が纏わり付くことになる。

そんな未来が決まっているようなものなので(この現状が続かなかった場合だが)、悪夢の未来が待ち受けているだろうと予想している。



子供のころから具体的にここまで考えていたわけではないが、何か思うところがあったのかもしれん。創価とかいうキチガイのことだけではなく。


わし自身がいくらとらわれてなくても、わしの周りが狂的にとらわれているのである。これがこの世を地獄にしている基本構造といえる。


幾重にも連なるこの縛めを解かない限りは、わしの呪縛も解くことが適わないのである。(ひどく気取った文章だ)

そして、これを解くことは恐らく、現状では適わないことなのだろうとも考えている。

少なくとも一日二日でできるもんではなかろうな。


というわけで、相手とその家族を病的に傷つけかねない立場にいるので、わしは動いてはならぬ、と心に決めていたというわけである。

本当に女が欲しかったら動くだろう?とよく言われたが、どうしても動かない理由だったのかもしれない。




それはともかく。


結婚というのは家族間の繋がりがどうこうというが、つまらん話である。兄貴が結婚するときに色々言ってやったが、そういう風なことを言っておった。


天涯孤独の身同士で結婚した場合、それは無意味だとのたまっているようなものである。その意識は差別であろう。


これもまた、かつてから我々は物質と数字にとらわれてきた由縁かと存ずる。




こんなことを考えて言ったりする奴の相手は疲れるだろう。わしも疲れる。

では、よき終末を。

腹が減っても手は出さぬ

2016-04-10 | 雑記
先日、弟に「創価学会から離れているなら、もうずっと離れて置け」という話を含めて色々と伝えたといった。

家族らしいことをしてやろうとも思って、弟夫婦と娘が暮らす家に出向いたりしたが、そこでは大して何も話できなかった。

ただ、弟は日々の暮らしに追われているだけで、特に大きな理由があって離れていたわけでもなかったようである。


そんな弟の台詞が、たまたま点けられていたテレビ(娘のためには見せないほうが、とは言わなかったが)で昨今の安保法制のことのニュースを見つつ放ったのが以下である。その日は丁度施行日だった。

「俺にはよくわからんけど、やばいんやろう?」と。

やばいかやばくないかは以前の電話で、創価学会云々とともに伝えていたので特に異常はない。

わしにもよくわからん、と言ってしまえばそうなのだが、何も調べる気もなかったようではある。

そう。どうも弟の自宅にはPCがなかったようで、タブレットだかiPadだかは持っているのだが、娘さんがゲームやったりしている。

さして期待してなかったが、そういうものだろうと確認した次第である。



どこぞのキチガイが言うに、「子供のために一番慈悲深いことはその子を殺すことです」などと。

所謂、New World Orderというものの推進者の言葉である。

要するに、貧乏人(削除予定の人種)は断種を己から敢行しろ、ということである。


子供を持つことは本来幸せなことであったろう。

だが、己のためでもあったはずの行いがただ苦しみと重荷を増やすだけになっているとしたら、ただ何かに彩られ演出された「日常」に絡め取られるだけなのなら、幸せといえるのだろうか。

日々の暮らしに終われ、子供を育てるだけに精一杯になってしまう。
魂の抜けた疲れた身体だけになり、一時の慰藉を何かに求める。
今までずっとそう人類はあったろうから、あなたもそうなるべきだ、などと。

別に弟を非難しようという意味で書き始めたわけではないのだが、どうにもこうにも、現代で生活しようとすると唯物的にならざるを得ないのだろうと思う。


さて、こう書くと「お前の自慢をしたいだけだろう」との謗りを受けても仕方がないと思うが、いう。


結婚だとか就職して所謂幸せな生活を追及していくというのは、地獄を目指すことだろう、と恐らく子供のころから感じていた。

もう少し当時どう感じていたかを言うと、「このままわしはこの世界に殺されるだろう」という感じである。
結婚して死ぬまで働かされて、いずれ癌になったりして死んでしまうのだ。バカみたいに働くと癌じゃなくても何かでおかしくなって死ぬだろうと。

わしの場合は、創価学会がある。仕事にしろ結婚にしろ日常のすべてが、どのように見てもまともなものにはならないだろうと感じていた。

そして、親父はよくこういって世間をバカにしていた。世間がバカなのは同意するが。

「世の中の人は、ええ学校いって、ええ会社に就職して金もてたら幸せとおもってんのや」と。別に創価に限った台詞ではない。

で、創価学会は金のために生きてないからえらい!という理屈である。まるっきり嘘である。下っ端に金はないので、嘘も方便というやつか?

創価でがんばれば幸せになれる!という理屈のどこが世間と違うのかわからんが、所謂現金だとか世間に通じるステータス自体でないというだけで、持ちたがっているものは同じだったろうと思う。
難しいというほどでもない言葉で言い換えれば、「物質の充足」である。
学会が繁栄して家族も仲良く世界も平和だ!!という、既定の社会を微塵も疑うこともない、奴隷の理屈である。
いい学校、いい仕事、というのと別に変わらんというわけだ。

キチガイ宗教をやっているバカの熱意には勝てん。その熱意をもっと別のものに向ければいいのに・・・などと、ゲームだとか漫画に熱心になっている子供に親などがいう台詞がそのまま当てはまろう。



わしは子供のころに「世界に殺される」と感じた、といった。


その予感はどうも正しかったようだが、もう少し複雑で広かったようではある。


これは日本人が物質、言い換えれば目先のことにしか関心がないしょーもない生き物だったからではなく、そういう風に「躾け」を受けてきたがゆえである、ということだ。

それがいつからか、実は生き物の性(さが)ゆえかははっきりしないが、昔から、そして一時の流行などではなく、毎日「躾け」られているのである。

マスメディアが、教育機関が、それらに盲従する我々が、あなたがたを、常々「躾け」ている。

そのマスメディアが、その教育機関が、またそれらが彩り演出してきた我々が常識と思い込まされているものはどこから来たのか?

どうも元々日本にはなく、また、暢気に暮らせている人々の間にもなかったものである。


我々に物質は不必要!という、根本的に不可能な言動に持っていく気はないが、物質は我々の為にあるのであって、我々が物質に従属するいわれなどないのである。

物質、なんぞというと目の前の机だとか家だとか、はたまた生き物だとか、まあ具体的に目に見えるもの、と思いがちである。

そうではある。あるが、不十分である。

我々が「躾け」られ不変な確固たるものだと思いがちな概念。これらも物質である。物質と不可分なゆえ、といえようか。

つまりは、我々は我々の個々の脳みそに従属するというところが根本的な問題であると。

アイクのいう「マインド」というわけだ。


わしはよく、「自分の頭を使って考えろ」といったりする。ついでに何か付け加えて言ったり言わなかったりだが、以前の没ラヂヲでしゃべったかもしれんので、未公開かもしれん。


つまり、こうだ。「自分の頭を自分の手足と同様に使って考えろ」である。

脳は記憶するためだけにあるのではないのである。

常識といわれているだけのものを補強するため(思考の反復でしかない)や、既成概念から物事を断ずる(右に同じ)ためだけのものではないのである。

あなたは食べ物に手を伸ばす。その手はどうして伸びる?そしてどうして口に運ぶ?
食べ物に手を伸ばすことは正しいことだと、腹が減ってもないのに「考えて」伸ばしているのか?

我々の思考、区別して書けば「思考」というのは、上記の二行目状態なのである。

「思考」に反逆し、「思考」の反復を疑い、既成概念を金科玉条に祭り上げる態度を戒めるべきである。


では、よき終末を。


自由と独立

2016-04-05 | 雑記
以前、アメリカの暗殺された大統領のケネディが生前の最後のスピーチをこう語っていた、という話を読んだ。

このリンク先からどうぞ。

URLはこれ。http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-44.html

又引用というやつであるが、該当ページの下の方にある。


さて、ケネディというのは、アメリカの金をアメリカ政府自体から発行させていたのだが、というとなにそれ?と思われるので改めて言うと(知っている人には言うまでもないが)、こうなる。

アメリカの金、つまりドルは、国の管理ではなく、民間銀行(FRBという略称)が発行しているのである。

アメリカの場合はそれを「連邦準備券」という呼称がなされている。


ふーん、ああそう?で終りそうだが、終ってはいけない。


アメリカの歴代大統領で暗殺された大統領(一名はされかけた)は、皆ケネディと同じことを命令していたという。

未遂で終った一人は、その後撤回したので、実質暗殺されたようなもんである。


それで殺されたのだろうな、と思っていたのだが、上記の報道陣を前にしたスピーチである。

前にプーチンが「イルミナティと戦う」と演説していたという話を書いたが、ケネディも「秘密結社」や「陰謀」という言葉を繰り返し述べている。

その陰謀がどの規模までいっていて、我々をどのように縛り付けているのか、マスコミには大衆を覚醒させるために仕事をしてもらいたい、という風に語っていたそうだが、マスコミは何もしなかった。そして現在に至る。

政治経済、軍はおろか、科学界とまで述べている。


「メディアの力により、人々はこの世に生まれた目的を果たすことができる。それは自由と独立である。」

と、締めくくられている。


世に生まれた目的。これを蔑ろにされているわけである。現在は。現在どころかずっと昔からかもしれん。


ケネディが暗殺される前くらいに、ニューエイジという思想が現れた。カウンターカルチャーとやらに絶望したヒッピー達に流行りだしたとかなんとか読んだかな。


たまに「あのお然るさんはニューエイジの焼き直しに過ぎぬ」と度々書いたものだが、実際、ニューエイジってのはどーゆーものなのかはよく知らん。

いや、知っているのだが、表面上のことが判らん。

例えば創価学会は一応、日蓮宗のまがい物なので、「南無妙法蓮華経」と書かれた曼荼羅に向かってそれを唱える集団である、というのがワカラナイようなものである。
わかっても嬉しくもなんともないのが現実ではある。


ニューエイジのものどもは語る。

曰く、「本当の自分があるんだ」とか。「本当の世界があるのだよ」だとか。似たような、というか同じ話なら創価でも嫌になるほど聞いたな。

現代ならスピリチュアルとかいう名前で流布していたりもする、怪しげな話である。怪しさならわしも負けとらんな!


それはともかく。真宗大谷派のある寺の僧侶が、ニューエイジの危うさについてHPに書いていた。

こうある

ニューエイジとは、今までの世界が終わって新しい時代(愛と平和と調和の時代、霊性の時代)が始まる、ということです。これはキリスト教の終末論、まもなく裁きの日が来て、古い世界は滅亡し、選ばれた目覚めた人による新しい世界が始まる、という考えが基礎になっています。

とのこと。まんまあのお然るも同じこと言っておる。
それらを演出しようとしているのがケネディの上記の演説のいうところの「秘密結社」だといっておったのにな。


彼らの問題点をいくつか挙げて述べている。そのうちの一つを挙げる。

上記のページの2番目に挙げている、肉体の軽視、現実逃避 ― 夢としての「本当の私」「本当の世界」、と書かれている点である。

上に書いたなこれ!

わしもどちらかというとどうもこの気があったような今もある!!という気がしないでもない。


それで思い出したのが、あのお然るさん、実際現実に何が起こっているのか言うには言いかけていたが、無視して「正しいものを食って正しく皆生きれば世の中正しくなる」とほざいておったのだ。
ニューエイジも菜食主義だったりする。

かつてのHPで「現代に起こっている諸問題を簡単に解決する方法は自給自足だ!!」てなことを書いていたものである。

脚が倒れてきた木に潰されても果物食えば治るんだろうなきっと。そういう世界になっているのならいざ知らず、なっちゃいなかろうよ。果物食って「進化」したのなら、HPなんぞ作らんでもテレパシーだか超能力で物を伝えればよかろうに、今もそれからしたら古臭いはずのHPをやっておる。


かのお然るが昔、アイクのニューズレターを翻訳して載せていた中で、アイクがニューエイジの人達に、「世の中陰謀に巻き込まれてます!現実見てください!」と警告していたら「そんなネガティブなことをいわないでくれ!」と非難されたという話を書いていた。
あなたがただけの聖域でそうやっているのは別にかまわんが、それすらそのうち奪われることになるんだぞ、と伝えてその反応だそうな。

そしてこう言っていた。

「健康に越したことはないが、健康だからといって判るものではない」と。


この話も何度も書いてきてしまった。ネタがなくてネタニエフになりそうである。誰だっけ?


社会問題と言われているものの原因は、暗殺されることによって本当だとしか言いようのない、ケネディの発言に繋がる。
影響を陰に陽に受けた我々のことだ、ともいえるのである。これもまた現実である。知らされる機会がなかったとはいえ、ニューエイジの如く現実を見なくなったわけなのだから。

それが現実であるのに、かのものは目を背け、また、己の肉体を軽視し、超人に覚醒するのだなどとほざく。

ん?肉体を軽視?と思うかもしれんが、している。

例えば、何か調子が悪い、風邪引いたかな?と思うことが普段あろう。実際熱が出て寝込んだりだとかだるくなったりする。

一般的に病気だと思って不快になるわけだが、何かおかしくなりすぎる前に体が反応しているからこそのサインであって、本当に何も出なかったらもっと深刻に、風邪なら肺炎だとか、場合によっては他の病状になったり、最悪死亡というわけである。

どのようなことでも全てそうだとは言い切らんが、それはあなたの体がしっかり生きて働いているということなのである。

まあ、野口晴哉が言っていたことなんだが。

それを全て否定したところにかのお然るは向かっていたのである。
果物を食ってようが食ってまいが、そういう生命力の働きというものがあるのだと。
食いすぎたら吐き出すのと同じことである。やばいと体が感じなかったら、そのまま胃が破裂するか、食道まで詰まったりして死ぬだろう。

手前味噌だが、それをたしなめるような上記の主張を関係があったうちでも婉曲に、憚りながら言ったりはしていたのだが、聞く耳はなかったようである。



我々が世に生まれてきた目的とはなんだ?


己が原因ではないことを己のせいにすることか?

または己が原因のことを他者のせいにすることか?

森に篭って自給自足の生活をするためか?

夢想を根拠に他人を見下すためか?

それはつまり、己の怠惰な生を至上のものとすることか?


ああ、耳が痛い耳が痛い。


それが目的だというのななら、そんな詰まらんものからは自由になり、そして独立せよ。以上!


だがまあ、なかなかそうやれぬのが人というものでありまして。


というわけで、上記のお坊さんのページにあった引用を又引用し終わることにする。


いつまでも自分が存在し続けるかのごとくに固執している見方の中には、
ほんとうに生を愛するということは、生まれてこないのです。(宮城『正信念仏偈講義』)


では、よき終末を。