ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

牛のおくび

2013-03-25 | 雑記
先日、スポンサーのフレンズ歯科さんこと谷さんが、ブログで面白いことを書かれていた。

なんでも、フルータリアン宣言だとか。


何がし宣言というと、古くはマルクスとエンゲルスの共産党宣言というのを思い出すのは、どちらかというと自分の年代ではない気がするが、思い浮かぶ。


あとは、「関白宣言」という歌が・・・。いや、それも歳じゃない。そんなことをたまに言うから、「年齢不詳」などと言われる。さあ、私の年齢を当ててみよ!

共産党宣言はちと勉強するか、その方面に関心があれば知りうるだろうから、そうでもない気がする。うん、そうしよう。




というわけで、こういう内容である。たまには引用しようかと思う。



フルータリアン宣言(案)

私達が目指すのは、人間本来の食性を取り戻す事。
人間の本来の食性は果実食です。
果実を主食とする社会では動物の虐殺は有りません。
だから、家畜から出る廃棄物で地球が汚染される事も有りません。
人類が肉食を止めると人為的メタン排出量の37%が削減されると言われています。
また、生の果実を主食にすれば、料理にかかるエネルギーは不要になります。
そうすると、家庭でも業務でも厨房に必要なエネルギーの約8~9%が削減できます。

人が穀物の栽培を始めたり、狩猟生活をしていた頃よりも、もっと遡り森で生活していた太古の人類の心を取り戻す。そこには戦争や人による動物の虐殺も有りません。

また、人間の食性に合った食事は、体に負担がかからず、病気を避け、健康でいる事が出来ます。だから、医療費の財源を心配する必要もないのです。

私達が果実食になる事で自然と共生し、心穏やかに幸せに生きましょう。今私達が本来の食性を取り戻す事で、未来の子や孫に誇れる美しい地球を取り戻しましょう。


http://ameblo.jp/friends-dc/entry-11489558013.html


ここで細かく、ここがこうでこうなんだ、と書くとくどいことになるし、それならラヂヲで流せばいいんじゃないかと思うが、両方をきっちり見ている人は天然記念物といい勝負になるかもしれないので、とりあえず書いていく。

そして、後でラヂヲに仕立て上げて、こちらとしてもネタが浮かんで助かるわけである。なんせ、今までの朗読以外のラヂヲは、基本的に以前書いた覚えがあることから出来ているのである。熱心にブログを読まれている方には申し訳ないが、そういう不器用な人間がやっているのだと諦めていただく。
会って酒を飲みつつ話をさせると、逸れてばかりで本題に行かないこともあるので、そういう場合は質問をしないと話を忘れるのでご注意願いたい。そんな機会が余りないのだが。
そして、酔うと細かいことを大体忘れて、後で思い出す。いやぁ、いけないね。


さて、人間の本来の食性とは何か。

学校では「雑食」と習うだろう。この学校は別に尋常小学校でも帝国大学でも変わりはないと思われるが、それぐらい前だとなんと教えていたかは寡聞にして知らない。ススメ、ススメ、兵隊ススメ。


生物学や現代の人類の直系の先祖に当たる存在の歯を調べたりする考古学など、まとめて生物考古学というのだろうか、忘れてしまったが、葉っぱや果物を食べていた後が歯に残っていたという結果が出ている。
頼ってばかりで申し訳ないが、谷さんがその記事を書かれている。元記事のリンクもあるので、そちらを参照いただきたい。こちらの最下段に書かれている。
引用もとのブログでは、初期人類の食事はキリンに似ていた、と書かれている。たぶん、首は長くなかったと思われる。

果物やら葉っぱばかりで色々大丈夫か?と言われるだろう。しかし、人間の体はよく出来ている。というより、現代では損なわれ続けているというべきか。

動物性のものからしか摂取できないといわれているビタミンのB何番だったか忘れたが、それらが欠乏した状態が続くと、腸内で菌が合成するという。

今まで散々肉を食べていた人がいきなりやるとできるかというと、それはNoである。なぜなら、腸内で生きているはずの菌が死滅、もしくはひどく減少しているからである。

腸内に菌を呼び戻すには、食物繊維の多い食事が必要になる。ある意味、江戸時代以前の(江戸時代は白米を都市部では主食にし始めた)食事が理想的でもあるが、果物がない代りだといえる。


メタンというと、畜産の牛の数が膨大で、彼らのおくびが温暖化の原因になっている、などという話があるほどである。温暖化が本当かどうかはともかく。

メタンはよく燃える。メタンハイドレードなんぞ掘り出して大丈夫かと最近気になって、考え込んでいるうちに気がつけばぐっすり寝ているのだが、それはともかく世界の火薬庫はバルカン半島でもなんでもなく、牛小屋だといえる。

生きている大量破壊兵器はAK47だというが、牛も生きている大量破壊兵器の予備軍になりかねない。原発にテロをするのが面倒だと思うテロリストの諸君は(大体どこかの世界の警察気取りとその上の指示だろうが)、牛小屋に火をつけるというのも考えてみていいかもしれない。

まあ、効果はさしてないと思われるが。


冗談ばかりいうと進まないので、真面目に行こう。


子供に魚の絵を描かせると、海の中で切り身が泳いでいる絵を描く、という話がある。大体都市部から始った話ではないかと思うが、今はどこも似たり寄ったりだろう。

そうなると、牛や豚、鶏を描かせると、牧場にステーキやらフライドチキンが歩き回る、シュールレアリズもかくやというものを描き出す時代がもう来ているかもしれない。

つまり、自分達と同じく生きている存在である、という認識が欠落している。物を食い、息をし、汗を流し、糞尿を排泄し、傷が付けば血が流れ、痛いと感じる。

そういう生き物としての形があることを知らない。ただし、知っているからそれがどうした、が現代人の思考回路である。もしくは無視する。


別に、「命の大切さを!」というありきたりな話ではない。


餌を食った牛はその後どうする?人間が食べることになって、それを処理するとどうなる?


牛は人間より遥かに体が大きい。端的に言えば、大量のウンコと小便はどうやって処理する?流れた血はどこへ行く?

牛がウォシュレットを使うとは聞いたことがないが、人間と同じようなし尿処理施設などない。

そして、人間のし尿処理施設ですらパンクしかねないし、矛盾をそもそも孕んだその行動は、環境に影響を与えている。海や土地に栄養がなくなっているのである。

代りに牛の堆肥を投入することになるが、それがまた悪影響を及ぼす。土地が痛むのである。牛が食べてきたものの状態も悪いため、悪循環が重なり続けている。


流された血はまた、そのまま土地や河川に流れ込む。狼が牛を捕まえて食ったとして、屍山血河が出来るだろうか?


戦争による屍山血河が遠く―対人間としてのものは環境等によるが―感じるようになったが、実際は年がら年中近所にある。


ライオンがそれを作るのか?海の中ではサメが作るのか?作りなどしない。作ってきたのは人類だけである。


わざわざ環境を汚すことを無自覚に続けることは、なんということはない。自分自身を損なっているだけである。


そして、ずっと今まで続いてきたそれらに対する方法というのは、右を向き続けて首が痛いから左を向かせる、という程度のものである。

前を向こうとしたら今度は体を傾けることになる。そんな姿の人が通りを歩いていたら、誰だって「どうして首を前に向けないのだ」と思うだろう。

当人は前を向くことが念頭にない。とはいえ、見ている人も「前を向くのが無理な身体状況だろう」と推測するではあろうが。



ええっと、なんの話だったかな。大仰になってきた。もう少し面白おかしく書こうと思っていたのだが、よく訳が判らなくなる。飲んだせいということにして貰おうかな。



フルータリアン宣言からさらに話は続くが、残りは読んでもらうことにする。


そろそろ、捻りすぎた首の痛みをごまかすために反対方向に捻じ返すのは辞めるのが得策だということで、よろしくお願いしたい。では、また。


ウヰスキー・キャット

2013-03-20 | 雑記
猫は百年生きると尻尾が二股に割れて、人に化けたりする。

これを猫又という。猫の恩返しは寡聞にして知らない。


ヨーロッパにはウヰスキー・キャットという猫がいる。種類ではない。

ついでに、猫なのにウヰスキーを嗜むとかいう、西洋版猫又でもない。
海外版化け猫は「ケット・シー」というのがいるが、これは直訳すると「猫妖精」だったと覚えている。

その猫妖精も別にウヰスキーを嗜むのかというと、多分違う。



さて、そのウヰスキー・キャット(これで検索しないで正直に「ウイスキー」でやろう!)というのは何かというと、約めていえば猫の門番である。


そうか、猫が酒蔵の前で陣取っているんだな、というと、どう想像しても力不足である。犬では餌に負けるかもしれない。狼では近づけないか、仕事すらしないかもしれない。猫でもしなさそうである。



では何か。

ウヰスキーにはいくつか種類があるが、大体原料と産地で分かれる。

スコットランド発祥で「スコッチ・ウヰスキー」。

アイルランドだから「アイリッシュ・ウヰスキー」。

カナディアンだとかバーボン(バーボンの、という言い方がないようだが)と、色々ある。

ちなみに、Wikipediaによると、英語での表記は二種類あり、whiskyは「スコッチ」を、whiskeyは「アイリッシュ」を指すとの事。


原料は、大麦だけの「モルト」と、他の穀物を使った「グレーン」がある。たしか、グレーンは「穀物」という意味だったと思う。


大抵、スコッチはモルトだけ、バーボンは両方混ぜて作る、といった具合である。これで個性が分かれるのだが、飲まない人にはまったく関係が無いので割愛する。



さて、妖精ではない猫はどこにいるのかというと、麦の倉庫にいる。


何せ、ネズミにとっては宝の山である。人間で言えば「札の山に埋もれる」気分といえよう。わしは化学物質過敏症になりそうだから、お断りする。

余談だが、この化学物質過敏症、海外では化学物質傷害と呼ぶことが広まってきているそうな。そもそもいらないもの(なにやら意図を持った御仁を除き)をばら撒いた結果である。

人が歩いているのに横断歩道に車を突っ込ませるのと同じだというわけである。よし、車を無くそう!


話を戻して、ネズミを捕まえるのが仕事、というより、利害関係の一致という奴である。待っていれば餌が来る。レクリエーションという奴になる。猫と人間にとって、実にありがたいことである。

ネズミにとっては命がけの大仕事となる。寧ろ罠に掛かっているというべきであろう。

人間のようにネズミが「バカ」だったら、倉庫に猫が一匹だけいるのを見て、「待て、これは孔明の罠だ」と言って退却するところだが、ネズミには関係ない。

かくして、馬謖ならぬ鼠謖は何人、いや何匹も軍律に従いて罰せられ、罰しては丞相、落涙する日々を送るのである・・・。これを「泣鼠猫を噛む」とはいわない。なにやら混ざりすぎである。



さて、猫がネズミを捕まえて食べるのはいいとしようか。仕方ない。我々には止める意味がない。止めたら猫権侵害だ!訴訟も辞さない!!


さて、ここからが問題である。そもそも穀物で作っているということが問題だ!というのもあるが、とりあえず。


ウヰスキーを作るとき、大麦を粥のようにして、発芽させたりと、色々行う。簡単に言えば麦粥を醗酵させたものを蒸留し、樽に詰めて色が付いたら完成である。色が付いたらじゃないが。


ご存知(そうでない方もいるだろうが)の通り、ウヰスキーは透き通った琥珀色の液体である。麦茶のようでもある。そもそも麦だった。


日本に「どぶろく」なる酒がある。

あれは、日本酒の造り方と大して変わらないのだが、やらないことがある。それは、「濾過しない」ということである。

そう。あの澄んだ水のような日本酒は、濾されている!


その濾されたものが酒粕になったりするわけである。粕汁になったり粕漬けになる。美味い粕で美味い肴が出来上がる。一石二鳥である。


ウヰスキーのほうも、日本酒で言うところの酒粕のようなものが出る。


これはどうなるのかというと、酒粕にはならない。脱水して固めて砕いてパンに混ぜればいい気がしないでもないが、どうだろう。


これは、家畜の餌になるという。この話を紹介していたところは「無駄になってない」という風に書いていたと覚えている。


欧米諸国の家畜というと、主に牛というところか。豚もいるだろう。後は羊がいる。鳥は元から穀物を食うから除外しよう。


何が除外かというと、四足の草食動物というのは、文字通り「草」を食べるから草食動物である。山羊は紙を食うぞ!というのは冗談であるのは周知の通り。パルプに草木の匂いがあるからつい食べるだけである。

豚は何を食べるのかはそういえばよく判らないが、元が猪なら薯を掘って食うのであろう。好物はトリュフかもしれないが、間違って食うと食われるので、訓練された豚はトリュフを食べることが出来ない。



トリュフの話は措くとして、家畜とは人間の都合に合わせて、本来食べることのなかったものを代々食べてきた存在なのである。


穀物を育てるのには広大な土地がいる。水がいる。人が口に出来るようにしようとしたら、手間がかかる。
モンサントは農薬も売りたいのと他にもきっと何かしたいので、遺伝子組み換えの種を売る。植物すらも家畜化してしまった。




と、ここまで書いたら、何か気付いた方もおられよう。



「家畜とは~の都合に合わせて~である」、の波線部分に好きな言葉を当てはめてみよう。




さて、穀物を人が食べるもの、もしくは食べてもいいものとして話を一度進めるとしよう。



世界の食糧危機というものがある。


このままでは全人口をまかなうことが出来ない。こりゃ大変だ、と、こちらも人の事はいえないが、腹いっぱい食える人が騒いでいる。腹が減っている人もいっているに違いないが。


牛に食わせる穀物を、足りていないところに回すだけで実際は回避できると言う。でもやらない。牛が食べたいから!ではなく、牛を食べたいからである。どっちでも意味が同じになった。

実際、牛が喜んで食べる餌は穀物飼料だったりするが、とりあえず。


かといって、牛を食わない、もしくは余り食わないようにして、全世界にパンやらコーン・フレークをばら撒くのがいいのかというと、これもまた違う。よし、蕎麦を撒こう!


世界の穀物の流通を牛耳っているのが、アメリカにある、巻尺ではない「メジャー」と呼ばれる大企業達である。


穀物価格が高騰!とかなんとかやっているのは、そういう奴らが投機をしているからである。なんでもそうだが、あるところにはある。


肉大好きな人達がやっているのなら、牛にばら撒く方に優先するだろう。それだけではなかろうが、儲かるようにやるわけである。

ただ、儲かるからというだけではなく、食糧事情をコントロールすることによって戦争を仕掛ける以上に外国をコントロールできる。

仕掛けられているほうは、戦争だとかテロのようにわかり易くない、隠微な支配を受けることになる。支配と思われない支配が完成するわけである。


美辞麗句でいえば、「相互依存」とでもいうのだったか。そういうものは、お互いの足りないものを補い合う立場で言うべきである。そもそも足りないように仕向けられたと言うべきか。



かつてライヒが『性の革命』で、「大企業の社長や政治家や独裁者は、それぞれ親戚や友人ばかりである」と述べたが、「メジャー」とやらも同じである。今は昔ではない。

石油についても同じである。こちらも「メジャー」と言ったりするが、「セブン・シスターズ」と呼ばれる七つの企業があるとか。今もあるのかは知らない。

大体、アメリカのそういうやつらはロックフェラーの子飼いだったりする。これからは石に躓いたらロックフェラーのせいにしよう。

ポストが赤いのはロスチャイルドのせいにする。


冗談はさて置き、仮に、全世界が肉食を減らして穀物を「分け合う」ようになったとするならば何が起こり得るか。なんとなく想像できるだろう。

難しい話ではない。今度は、直接口に入れる量を調節するだけの話である。入れるまでに多大な苦労をさせたりするわけだ。

すんなり入るようになったとしたら今度は・・・。遺伝子組み換えと大量の農薬が待っている。自分のところで作ろうと思えば高い石油を買わされることになる。

支配のための準備は至るところで着々と進んでいることであろう。

一見、競争しているように見せかけながら。



人間の心理というものは、「支配を受け続けたものは、支配できそうだと看做したものを支配しようとする」という。

心理学者のアリス・ミラーがそういう論を述べていた。その観点から、「全ての教育(善意も悪意も関係なく)は虐待である」とすら。親の子に対する躾、教師の生徒に対する教育、社会の個人への抑圧(政治や伝統、しきたり等)。これは一世代に限った話ではなく、遡り続ける。それは最早ありとあらゆるものと言えるが、その話をしようというわけではない。



穀物で支配しているつもりで、実際は穀物に支配されているということである。

穀物メジャーだけでなく、「伝統」というもの、それに基づく「教育」というもの全部である。

支配されてきたから支配しようとする。


ライヒは「己の感情を支配する」という風なことを述べていた。

オーガズムを得、神経症から立ち直った人は、他律的ではなくなる。

他律的な意味での道徳から離れてしまうが、決して道徳的でなくなったわけではないという。

「自らに由る」と書いて「自由」という。

自らに由らない存在が語る自由とは?


ネズミにとってのウヰスキー・キャットは敵のように見えるかもしれないが、実は警告者なのである。

「己の感情を支配せぬものは、他者に支配されるであろう」と。猫にとってはご馳走が舞い込んだだけには違いないが。



今日もどこかでウヰスキー・キャットは、入りこんだネズミを捕まえている。では、また。

手作り

2013-03-20 | 雑記
今住んでいるところは、一人暮らしでなかった時(兄弟で住んでいた)も含めて、十年くらいになる。


そのマンションというかアパートの隣には、建設会社の事務所かなにかがあり、そこの駐車場には夜になるとダンプカーが止まっている。

たまに出入りするところに遭遇するが、こんな狭いところによく止めるものである。



その一角に、牢獄がある。いや、牢獄ではなく、犬小屋である。


小屋というにはなんともいえない。なんせ鉄格子がついている。中には大きな犬が二頭ほどが寝ている。

中に仕切りがあり、その仕切りも格子なので、お互いの鼻面は付き合わせられる構造になっている。



小屋の存在を知ったのは住み始めてからすぐだったので、長い付き合いではあるが、大きいし、近づくと吠える。

吠える犬は近づいてほしくないのだろうと思って、無視していた。


しかし、つい最近、声があまりしないので消息を確認しに行くと、やはりいることはいる。ずっと前からいる奴なのかは知らないが、犬がいる。


近づくと吠える。いい番犬だ、手でも噛むか?と、グーで近づけると、何故だかおとなしくなった。ただし、動き回る。


格子の隙間から手を入れると体を押し付けてきて、格子とサンドイッチにしてくれる。正直いらないサービスである。

どうやら撫でてほしかったようで、嫌がる様子はまったくなかった。時折手を舐めたりする。洋犬なので臭いかと思ったが、それほど臭くはなかった。


しかしこの犬、大きい。小屋の上は屋根がない(犬の寝床辺りにはある)ので、立ち上がって前足をかけると顔が飛び出すのだが、こちらの顔の高さを少し超える。

小屋が地面の高さより少し上にあるのかもしれないが、それを差し引いても、飛び掛られると押し倒されそうである。押し倒しにくるなら人間のほうがありがたい。



この一週間ほど、仕事の帰りに覗いていた。夜は近づくと吠えるが、やはり判ると黙る。そして動き回って手をサンドイッチにする。
痛いといっても辞めない。

奥のもう一頭は、こちらは比較的おとなしい。まったく吠えない。うなり声も聞かなかった気がする。

案外こういう奴のほうが噛み付くかと思ったが、杞憂だった。こちらのほうがよく手を舐めてくる。


奥の相棒の相手をすると、最初の一頭が吠え出す。また戻って撫で始めると、案の定、サンドイッチである。

これこそまさに手作りサンドイッチか・・・。ちなみに、奥のはやはり吠えない。


そして、それが四回目になったある夜。


近づいても吠えなかったのだが、覗き込むとアラ不思議。中に犬が三頭いるではないか。

ポケットの中のビスケットでもあるまいし、子供でも生まれたか、というわけではなく、これまた大きい犬が増えている。

手前のを撫でようとすると、何故かそいつは、いつの間にか増えた居候が気になるのか、そいつの方に近づいてばかりである。

仕方ないので、奥の二頭を撫でると吠えだす。新入り(かどうかは知らないが)も他の二頭と同じく、噛みもしない。

じゃあ、と戻って撫でようとすると、ちょっと手作りサンドイッチを仕立てたら、また新入り(仮)の方に行く。

では奥の・・・とやると、吠える。そして手作り・・・と続く。



彼らに餌をやったことはないが、どうも手作りサンドイッチが受けたようである。骨の弱い方はご注意を。では、また。

ラヂヲ 十六杯目最終回とキセル自棄酒

2013-03-05 | ラヂヲ
時刻的には昨日、ラジオを早朝には仕上げておいて、それから寝ていたら、最近なんだか調子がおかしい。

春先には昔から言われるだろう。春眠暁を覚えずと。


そういうものかしらんが、寝ているとひどく動悸がするような、胸が苦しい感じになる。ああ、きっとコイであろう。寒い日に餌投げ込んだらあまり食べなかったので、「邪魔するな」と怒られたに違いない。


ラジオも、本編はともかく、おまけのキセルの時間の方が、編集を間違えていたのにアップするときに気がつくという有様。怒り心頭とまではいかなかったが、しばし腹立ちが治まらなかった。


それもあってか、再編集と投稿を終えてから少し腑抜けた気分になった。ええい、飲んで寝てやる!と。そして今になって書いているというわけである。


余談はまた後で。まずは十六杯目の最後を。



【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目チェイサー



これにて十六杯目は終了。ここは十七口にして、長引いたから五分くらいの総評コメントみたいなものを締めに入れようかと思ったが、くどいので辞めた。



さて、間違えていたので編集し直した、キセルの時間。

【ラヂヲ】キセルの時間 四服目


今回は、ライヒの話が中心。フロイトと対立した理論になどについて。





さて、寝ていたら電話が鳴った。着信を見ると、橋本幸一なんて名前が出ている。そんな名前知らないのだが、何故だか高校の時の友人だった。幸の一文字しか合ってないのに。


なんでも、この間アフリカに行って来て、その知り合いをつれてきたから、お前は着物を着て日本の文化というものを見せてやってくれ、という。

日付が変わっている日の今日というのである。無茶を言う。当然、「知らん。自分でやれ」と断った。


日本の文化だとかいって、普段意識もしないくせに、日本の一部地域で行われていることをあたかも「日本の」文化と吹聴しているのが現代である。


例を挙げよう。

飯を食うときに、手を合わせて「いただきます」という。これも、日本の一部だけで行われていた風習である。後は、お寺だろうか。

何十年か前のテレビドラマでそういうシーンが流され、それから流行ったのだという。そんなふざけた話をあたかも地球開闢から続いているかのように「伝統だから」と言って押し付けているだけである。


これまた、昔テレビで流された話だが、然るキャリアウーマンがカナダかに行った時、現地の人間に「何か日本の文化を示せるかね」という風に言われ、何も無いことに衝撃を受ける。

そして一念発起して、舞妓だか芸妓になったそうな。

雲泥の差はあるが、それは現代でいえばキャバ嬢のような気がするが、まあ、「文化」には違いない。個人の自由である。


キャバ嬢になるのはバカである。

芸妓になるのはそれよりましなバカである。

そして、それらを作り上げたのは大バカである。

そんな大バカに右往させられるバカの集まりが世界である。


カナダなんぞ数百年ぐらい前にフランスあたりからの入植者から出来た国である。アメリカなら確実にこういって喧嘩になろうが、こういえばいい。「あなたがたにお見せして気に入られるような血なまぐさい文化はございませんので」と。言う必要はないが、大体そういうことを聞いてくるのは白人ばかりである。しつこいようなら言ってやろう。

いってしまえば、日本も同じであろうが、つまりはどこも同じだということである。繰言のように文化文化とのたまうやつは、文鳥とさして差は無い。文鳥の方が愛嬌があるくらいである。


はて、暴言を吐く時間だったかな。そうそう、話を戻す。


電話を切った後、これまた書き込んだ覚えのない掲示板だか、ブログのリンク集のようなものを見て、自分の書き込みだかブログの記事だかにレスが付いてないかを見ていた。内容は忘れたが、タバコの話だった気がする。


そして、気がつけば、かつて通っていた大学の今は無き茶室で、茶を点てていた。

客も供も無い状態で、一人で点てては飲んでと、数杯ほど繰り返していた。「ああ、この温度だな」と。


そのあたりで目が覚めた。電話とパソコンを見ている話と、茶を点てていた話は夢である。文化云々の一部は、その夢でも反芻していた話もあるが、本当に電話を受けていたのじゃないかというくらいはっきりとしていて、変な気分である。



「いただきます」についてもう少し。


実家でもやはりそれは躾けられてきたのだが、ついぞやろうとしなかった。人がやっていると一緒にやろうとはするが、一人でやったことは、意識してやろうとした時だけで、続いたことがなかった。

西洋人の家でホームステイしたときに、食事前に周りがお祈りをするので、見よう見まねでポーズをとる、というような気分である。


果物をもぎ取って口に運ぶ前に、一々「いただきます」と言ってきただろうか。言ってきたかもしれないが、食べたいと思うならもう通じているだろうと。


口でいわなきゃならなくなったのは、やはり、分裂したからといえるだろう。


仏教の伝来で始ったと仮定するならば、こうもいえるかもしれない。

本来は食べるべきものでないから、いただくという気概をこめないと食えなかったと。分裂との相乗効果もありで。



「いただきます」を否定しようというわけではない。が、そもそもの根拠がテレビからのブームだったことと、日本だからといって津々浦々まで同じではないということである。

画一化しているだけのものを文化というならば、そんな文化は権威である。現代は、文化の衣を纏った権威が溢れかえっているわけである。

「いただきます」をやるのはバカだ、というわけではなく、やってないからと人をバカにするのは大バカだというわけだ。躾がなっていない、というだろう。

習慣の違いを考えないということはつまり、「キリスト教徒以外は人間にあらず」と言っては虐殺を繰り返してきた白人と変わらないのである。


真の「文化」と呼べるもの。それは他者の膝を折るものではない。己の膝は己に拠って屈するべきである。では、また。


されど疎外する

2013-03-03 | 雑記
ラジオかと思ったら申し訳ない。何やら書いてみようかと思っただけである。もっと為になる話は他のところへ。


さて、先月のことであった。


労働現場の某ホテルへ、ある客からメールが届いた。

ネットからの予約で、宿泊後に定型文で「どうでしたか?」と伺ったものへの返信であった。



要するに苦情である。で、どうやらこちらの態度が悪かったようで、メールを返してきた客の母御殿がご立腹だかご機嫌斜めだとか。



「突き放された感じだった」とかなんとか。年に数回、定期的に病院通いのために利用しているという。病院なんぞいかなくなれば、嫌な思いをしないで済むものを・・・その先の心がけ次第では健康になろうものを・・・いや、違う。



なんとなく身に覚えがあるので、こういうやり取りだったのではないかと。上にも伝えた話を掻い摘んで。



チェックインの際に、こう訊ねてきた。「前と値段が違う」と。


ネット予約だったので「いつも通り」、曜日によって設定が違うので、と言った。それだけである。


それだけであるが、色々とこれまた邪魔臭い話がある。


その客はいつも決まった曜日に泊まっていたようで、値段もほぼ同じ。その日だけ比較的高くなっていた。とはいうものの、通常価格よりはかなり安くなっている。客にとってはどうでもいいことだろうが。


問題は、その月である。二月である。

二月は、これまた受験とかいう、かつてこちらも経験したことのある、奴隷間闘争の時期である。

というわけで、商売の論理である。値段を少々高くする。繁忙期はどこも値段が高くなるであろう。同じことである。

それを、客が知らんのは仕方ないとして、こちらもこちらで、忙しいのが当たり前だとよく判らなくなったのか、「いつも通り」答えたと。


値段はわしが決めたわけではない。一人でやっているなら、自由裁量で「では五百円負けましょう」とやるだろうが、個人商店ではない。

ホテルもわしのものではない。公的な所有者とやらは、社長やら本社やらその上だろうが、言ってしまえば誰のものでもない。あんな産業廃棄物、邪魔なだけである。

そして、フロントで収受される金は、わしのものでもまた、その客のものですらない。どこまで行ってもお互いのあずかり知らぬところで漂いつつ、我々を縛る。



マルクスにこういう言葉がある。「疎外された労働」などで調べるとすぐ出てくるだろう。曰く


労働者は、労働の外部ではじめて自己の
もとにあると感じ、そして労働のなかでは
自己の外にあると感ずる。
    (マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳)



果たして、あの客は「労働の外部」にあったであろうか?今これを書く己も同じであろうか?否。


有機的身体と非有機的身体に分かれ、自然に抗う「自然疎外」が起こることで生命が始まったように、近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、資本・土地・労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。Wikipedia-「疎外」の項より


何を書いているのか訳が判らないが、つまり。


金を使うのも金を稼ぐのも、どちらもどこまでいっても労働である。

労働とはつまり、疎外することである。分裂である。



ホテルのフロントに立っている事に何の意味があろうか。客はその「疎外された労働者」に対して己もまた「疎外された」存在であると訴える。






ニーチェは「人間は超克されるべき存在である」と述べていた。文脈によって多少意味合いが変わろうが、少なくとも、「人間」というものは留まり続けるべき一定の基準などではないということである。



だが、人間は「疎外」されている。



超克すべく、まずは疎外された「人間」を取り戻すところからである。日々疎外し、疎外されながら・・・。




と、久しぶりにニーチェを帰りの電車で少々読んでいたらこうなった。否、があるくらいで、影響も何もない気がするが。



最初から妙な話だが、妙な話をもう少しして終わろうと思う。


マルクスとやらも、ロスチャイルドの支援やら薫陶を受けていたという話があるという。

ムーン・マトリックスに出ていた話だったか。違ったら申し訳ない。


そういえば、共産党の旗は赤い。ポストも赤いし、味の素も(現役で今も)赤いが、ロスチャイルドはドイツ語で、ロート・シルトと読む。

赤い楯だとか印になる。


もう一つ。


マルクスの系譜にあたる社会学者(嫁がマルクスの娘だったか)が、こう批判していたそうだ。

原文を読んだわけではないが、砕けた文章で紹介していたものを。

曰く、マルクスは「労働の権利」というものを語っていたが、これじゃあ「もっと働け」と言っているだけだ。
そうじゃなくて「休みの権利」といわなくちゃ、という風に。



労働で「人間疎外」といいながら「労働の権利」とのたまう。専門に読んだ人がいうなら、これこれこうで違うのだ、というだろうが、聞こえたまんま聞こえない人も多い昨今、ダブルスタンダードにしか見えない。
マルクスがどう書いたのかは詳しくは判らないが、そう捉え得る。



労働は疎外し、そして阻害するものである。とはいいつつも現代は労働の世界。お互いを阻害するとはいえ、やらざるを得ないと思われている(だけではあろうが)ものというのは、つまり必要悪である。必要悪に満ち満ちた世界と。

労働の権利を!などと、必要悪とやらを振りかざすのは偽善も甚だしいといえるだろう。


マルクスが赤いところからの薫陶でそういうことを書いていたというのなら、これもまた必要悪だったのかもしれない。


誰も彼も疎外されているのである。では、また。