先日、スポンサーのフレンズ歯科さんこと谷さんが、ブログで面白いことを書かれていた。
なんでも、フルータリアン宣言だとか。
何がし宣言というと、古くはマルクスとエンゲルスの共産党宣言というのを思い出すのは、どちらかというと自分の年代ではない気がするが、思い浮かぶ。
あとは、「関白宣言」という歌が・・・。いや、それも歳じゃない。そんなことをたまに言うから、「年齢不詳」などと言われる。さあ、私の年齢を当ててみよ!
共産党宣言はちと勉強するか、その方面に関心があれば知りうるだろうから、そうでもない気がする。うん、そうしよう。
というわけで、こういう内容である。たまには引用しようかと思う。
フルータリアン宣言(案)
私達が目指すのは、人間本来の食性を取り戻す事。
人間の本来の食性は果実食です。
果実を主食とする社会では動物の虐殺は有りません。
だから、家畜から出る廃棄物で地球が汚染される事も有りません。
人類が肉食を止めると人為的メタン排出量の37%が削減されると言われています。
また、生の果実を主食にすれば、料理にかかるエネルギーは不要になります。
そうすると、家庭でも業務でも厨房に必要なエネルギーの約8~9%が削減できます。
人が穀物の栽培を始めたり、狩猟生活をしていた頃よりも、もっと遡り森で生活していた太古の人類の心を取り戻す。そこには戦争や人による動物の虐殺も有りません。
また、人間の食性に合った食事は、体に負担がかからず、病気を避け、健康でいる事が出来ます。だから、医療費の財源を心配する必要もないのです。
私達が果実食になる事で自然と共生し、心穏やかに幸せに生きましょう。今私達が本来の食性を取り戻す事で、未来の子や孫に誇れる美しい地球を取り戻しましょう。
http://ameblo.jp/friends-dc/entry-11489558013.html
ここで細かく、ここがこうでこうなんだ、と書くとくどいことになるし、それならラヂヲで流せばいいんじゃないかと思うが、両方をきっちり見ている人は天然記念物といい勝負になるかもしれないので、とりあえず書いていく。
そして、後でラヂヲに仕立て上げて、こちらとしてもネタが浮かんで助かるわけである。なんせ、今までの朗読以外のラヂヲは、基本的に以前書いた覚えがあることから出来ているのである。熱心にブログを読まれている方には申し訳ないが、そういう不器用な人間がやっているのだと諦めていただく。
会って酒を飲みつつ話をさせると、逸れてばかりで本題に行かないこともあるので、そういう場合は質問をしないと話を忘れるのでご注意願いたい。そんな機会が余りないのだが。
そして、酔うと細かいことを大体忘れて、後で思い出す。いやぁ、いけないね。
さて、人間の本来の食性とは何か。
学校では「雑食」と習うだろう。この学校は別に尋常小学校でも帝国大学でも変わりはないと思われるが、それぐらい前だとなんと教えていたかは寡聞にして知らない。ススメ、ススメ、兵隊ススメ。
生物学や現代の人類の直系の先祖に当たる存在の歯を調べたりする考古学など、まとめて生物考古学というのだろうか、忘れてしまったが、葉っぱや果物を食べていた後が歯に残っていたという結果が出ている。
頼ってばかりで申し訳ないが、谷さんがその記事を書かれている。元記事のリンクもあるので、そちらを参照いただきたい。こちらの最下段に書かれている。
引用もとのブログでは、初期人類の食事はキリンに似ていた、と書かれている。たぶん、首は長くなかったと思われる。
果物やら葉っぱばかりで色々大丈夫か?と言われるだろう。しかし、人間の体はよく出来ている。というより、現代では損なわれ続けているというべきか。
動物性のものからしか摂取できないといわれているビタミンのB何番だったか忘れたが、それらが欠乏した状態が続くと、腸内で菌が合成するという。
今まで散々肉を食べていた人がいきなりやるとできるかというと、それはNoである。なぜなら、腸内で生きているはずの菌が死滅、もしくはひどく減少しているからである。
腸内に菌を呼び戻すには、食物繊維の多い食事が必要になる。ある意味、江戸時代以前の(江戸時代は白米を都市部では主食にし始めた)食事が理想的でもあるが、果物がない代りだといえる。
メタンというと、畜産の牛の数が膨大で、彼らのおくびが温暖化の原因になっている、などという話があるほどである。温暖化が本当かどうかはともかく。
メタンはよく燃える。メタンハイドレードなんぞ掘り出して大丈夫かと最近気になって、考え込んでいるうちに気がつけばぐっすり寝ているのだが、それはともかく世界の火薬庫はバルカン半島でもなんでもなく、牛小屋だといえる。
生きている大量破壊兵器はAK47だというが、牛も生きている大量破壊兵器の予備軍になりかねない。原発にテロをするのが面倒だと思うテロリストの諸君は(大体どこかの世界の警察気取りとその上の指示だろうが)、牛小屋に火をつけるというのも考えてみていいかもしれない。
まあ、効果はさしてないと思われるが。
冗談ばかりいうと進まないので、真面目に行こう。
子供に魚の絵を描かせると、海の中で切り身が泳いでいる絵を描く、という話がある。大体都市部から始った話ではないかと思うが、今はどこも似たり寄ったりだろう。
そうなると、牛や豚、鶏を描かせると、牧場にステーキやらフライドチキンが歩き回る、シュールレアリズもかくやというものを描き出す時代がもう来ているかもしれない。
つまり、自分達と同じく生きている存在である、という認識が欠落している。物を食い、息をし、汗を流し、糞尿を排泄し、傷が付けば血が流れ、痛いと感じる。
そういう生き物としての形があることを知らない。ただし、知っているからそれがどうした、が現代人の思考回路である。もしくは無視する。
別に、「命の大切さを!」というありきたりな話ではない。
餌を食った牛はその後どうする?人間が食べることになって、それを処理するとどうなる?
牛は人間より遥かに体が大きい。端的に言えば、大量のウンコと小便はどうやって処理する?流れた血はどこへ行く?
牛がウォシュレットを使うとは聞いたことがないが、人間と同じようなし尿処理施設などない。
そして、人間のし尿処理施設ですらパンクしかねないし、矛盾をそもそも孕んだその行動は、環境に影響を与えている。海や土地に栄養がなくなっているのである。
代りに牛の堆肥を投入することになるが、それがまた悪影響を及ぼす。土地が痛むのである。牛が食べてきたものの状態も悪いため、悪循環が重なり続けている。
流された血はまた、そのまま土地や河川に流れ込む。狼が牛を捕まえて食ったとして、屍山血河が出来るだろうか?
戦争による屍山血河が遠く―対人間としてのものは環境等によるが―感じるようになったが、実際は年がら年中近所にある。
ライオンがそれを作るのか?海の中ではサメが作るのか?作りなどしない。作ってきたのは人類だけである。
わざわざ環境を汚すことを無自覚に続けることは、なんということはない。自分自身を損なっているだけである。
そして、ずっと今まで続いてきたそれらに対する方法というのは、右を向き続けて首が痛いから左を向かせる、という程度のものである。
前を向こうとしたら今度は体を傾けることになる。そんな姿の人が通りを歩いていたら、誰だって「どうして首を前に向けないのだ」と思うだろう。
当人は前を向くことが念頭にない。とはいえ、見ている人も「前を向くのが無理な身体状況だろう」と推測するではあろうが。
ええっと、なんの話だったかな。大仰になってきた。もう少し面白おかしく書こうと思っていたのだが、よく訳が判らなくなる。飲んだせいということにして貰おうかな。
フルータリアン宣言からさらに話は続くが、残りは読んでもらうことにする。
そろそろ、捻りすぎた首の痛みをごまかすために反対方向に捻じ返すのは辞めるのが得策だということで、よろしくお願いしたい。では、また。
なんでも、フルータリアン宣言だとか。
何がし宣言というと、古くはマルクスとエンゲルスの共産党宣言というのを思い出すのは、どちらかというと自分の年代ではない気がするが、思い浮かぶ。
あとは、「関白宣言」という歌が・・・。いや、それも歳じゃない。そんなことをたまに言うから、「年齢不詳」などと言われる。さあ、私の年齢を当ててみよ!
共産党宣言はちと勉強するか、その方面に関心があれば知りうるだろうから、そうでもない気がする。うん、そうしよう。
というわけで、こういう内容である。たまには引用しようかと思う。
フルータリアン宣言(案)
私達が目指すのは、人間本来の食性を取り戻す事。
人間の本来の食性は果実食です。
果実を主食とする社会では動物の虐殺は有りません。
だから、家畜から出る廃棄物で地球が汚染される事も有りません。
人類が肉食を止めると人為的メタン排出量の37%が削減されると言われています。
また、生の果実を主食にすれば、料理にかかるエネルギーは不要になります。
そうすると、家庭でも業務でも厨房に必要なエネルギーの約8~9%が削減できます。
人が穀物の栽培を始めたり、狩猟生活をしていた頃よりも、もっと遡り森で生活していた太古の人類の心を取り戻す。そこには戦争や人による動物の虐殺も有りません。
また、人間の食性に合った食事は、体に負担がかからず、病気を避け、健康でいる事が出来ます。だから、医療費の財源を心配する必要もないのです。
私達が果実食になる事で自然と共生し、心穏やかに幸せに生きましょう。今私達が本来の食性を取り戻す事で、未来の子や孫に誇れる美しい地球を取り戻しましょう。
http://ameblo.jp/friends-dc/entry-11489558013.html
ここで細かく、ここがこうでこうなんだ、と書くとくどいことになるし、それならラヂヲで流せばいいんじゃないかと思うが、両方をきっちり見ている人は天然記念物といい勝負になるかもしれないので、とりあえず書いていく。
そして、後でラヂヲに仕立て上げて、こちらとしてもネタが浮かんで助かるわけである。なんせ、今までの朗読以外のラヂヲは、基本的に以前書いた覚えがあることから出来ているのである。熱心にブログを読まれている方には申し訳ないが、そういう不器用な人間がやっているのだと諦めていただく。
会って酒を飲みつつ話をさせると、逸れてばかりで本題に行かないこともあるので、そういう場合は質問をしないと話を忘れるのでご注意願いたい。そんな機会が余りないのだが。
そして、酔うと細かいことを大体忘れて、後で思い出す。いやぁ、いけないね。
さて、人間の本来の食性とは何か。
学校では「雑食」と習うだろう。この学校は別に尋常小学校でも帝国大学でも変わりはないと思われるが、それぐらい前だとなんと教えていたかは寡聞にして知らない。ススメ、ススメ、兵隊ススメ。
生物学や現代の人類の直系の先祖に当たる存在の歯を調べたりする考古学など、まとめて生物考古学というのだろうか、忘れてしまったが、葉っぱや果物を食べていた後が歯に残っていたという結果が出ている。
頼ってばかりで申し訳ないが、谷さんがその記事を書かれている。元記事のリンクもあるので、そちらを参照いただきたい。こちらの最下段に書かれている。
引用もとのブログでは、初期人類の食事はキリンに似ていた、と書かれている。たぶん、首は長くなかったと思われる。
果物やら葉っぱばかりで色々大丈夫か?と言われるだろう。しかし、人間の体はよく出来ている。というより、現代では損なわれ続けているというべきか。
動物性のものからしか摂取できないといわれているビタミンのB何番だったか忘れたが、それらが欠乏した状態が続くと、腸内で菌が合成するという。
今まで散々肉を食べていた人がいきなりやるとできるかというと、それはNoである。なぜなら、腸内で生きているはずの菌が死滅、もしくはひどく減少しているからである。
腸内に菌を呼び戻すには、食物繊維の多い食事が必要になる。ある意味、江戸時代以前の(江戸時代は白米を都市部では主食にし始めた)食事が理想的でもあるが、果物がない代りだといえる。
メタンというと、畜産の牛の数が膨大で、彼らのおくびが温暖化の原因になっている、などという話があるほどである。温暖化が本当かどうかはともかく。
メタンはよく燃える。メタンハイドレードなんぞ掘り出して大丈夫かと最近気になって、考え込んでいるうちに気がつけばぐっすり寝ているのだが、それはともかく世界の火薬庫はバルカン半島でもなんでもなく、牛小屋だといえる。
生きている大量破壊兵器はAK47だというが、牛も生きている大量破壊兵器の予備軍になりかねない。原発にテロをするのが面倒だと思うテロリストの諸君は(大体どこかの世界の警察気取りとその上の指示だろうが)、牛小屋に火をつけるというのも考えてみていいかもしれない。
まあ、効果はさしてないと思われるが。
冗談ばかりいうと進まないので、真面目に行こう。
子供に魚の絵を描かせると、海の中で切り身が泳いでいる絵を描く、という話がある。大体都市部から始った話ではないかと思うが、今はどこも似たり寄ったりだろう。
そうなると、牛や豚、鶏を描かせると、牧場にステーキやらフライドチキンが歩き回る、シュールレアリズもかくやというものを描き出す時代がもう来ているかもしれない。
つまり、自分達と同じく生きている存在である、という認識が欠落している。物を食い、息をし、汗を流し、糞尿を排泄し、傷が付けば血が流れ、痛いと感じる。
そういう生き物としての形があることを知らない。ただし、知っているからそれがどうした、が現代人の思考回路である。もしくは無視する。
別に、「命の大切さを!」というありきたりな話ではない。
餌を食った牛はその後どうする?人間が食べることになって、それを処理するとどうなる?
牛は人間より遥かに体が大きい。端的に言えば、大量のウンコと小便はどうやって処理する?流れた血はどこへ行く?
牛がウォシュレットを使うとは聞いたことがないが、人間と同じようなし尿処理施設などない。
そして、人間のし尿処理施設ですらパンクしかねないし、矛盾をそもそも孕んだその行動は、環境に影響を与えている。海や土地に栄養がなくなっているのである。
代りに牛の堆肥を投入することになるが、それがまた悪影響を及ぼす。土地が痛むのである。牛が食べてきたものの状態も悪いため、悪循環が重なり続けている。
流された血はまた、そのまま土地や河川に流れ込む。狼が牛を捕まえて食ったとして、屍山血河が出来るだろうか?
戦争による屍山血河が遠く―対人間としてのものは環境等によるが―感じるようになったが、実際は年がら年中近所にある。
ライオンがそれを作るのか?海の中ではサメが作るのか?作りなどしない。作ってきたのは人類だけである。
わざわざ環境を汚すことを無自覚に続けることは、なんということはない。自分自身を損なっているだけである。
そして、ずっと今まで続いてきたそれらに対する方法というのは、右を向き続けて首が痛いから左を向かせる、という程度のものである。
前を向こうとしたら今度は体を傾けることになる。そんな姿の人が通りを歩いていたら、誰だって「どうして首を前に向けないのだ」と思うだろう。
当人は前を向くことが念頭にない。とはいえ、見ている人も「前を向くのが無理な身体状況だろう」と推測するではあろうが。
ええっと、なんの話だったかな。大仰になってきた。もう少し面白おかしく書こうと思っていたのだが、よく訳が判らなくなる。飲んだせいということにして貰おうかな。
フルータリアン宣言からさらに話は続くが、残りは読んでもらうことにする。
そろそろ、捻りすぎた首の痛みをごまかすために反対方向に捻じ返すのは辞めるのが得策だということで、よろしくお願いしたい。では、また。