ウヰスキーのある風景

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今後について

2012-06-18 | 雑記
アフリカのコンゴはこれからどうなるのであろうか。いや、違う。


申し訳ない。ダジャレをつい言いたくなるので。



さて、この前のラヂヲ。ちっとばかり肩に力がこもり過ぎたようで(もっと正確に言えば鳩尾の凝りが強かった)、色々と不完全燃焼だった。


ブログで補足をやったのはいいが、見ている人の分布が偏っている。補足だけでもある程度わかるように書いているような気がしないでもないが、両方見ていただいた人、もしくはラヂヲだけ見ている人にしか通じにくいところもある。


それに、前回の余談を次のパートに持ってくるというだけでは足りないようなところもある。


丁度よい機会なので、予告していた「歩くこと」については延期して、新しく聞いた話や、これも付け足しておこうかといった話を、放送順に雑談しつつやろうかと考えている。


得たいの知れない人が得たいの知れない話(そこまで得たいの知れない話をした覚えはないが)をしている、では、ちと親近感も湧きづらかろうということで、昔何をやっていて、そしてなにを感じて一回目のラヂヲに至ったのか、というような身の上話も盛り込めたらなと思っている。


あんまり長くやると、一本に纏めた場合に大学の講義のような状態になる。時計は気にしつつ、切のいいところで「続きはCMの後で」という感じで、一本一本は短くやろうかと考えている。十五分から二十分程度になればいいかなと。
しかし、収録自体は多分長くなる。これはまあ、こっちの体力気力、あとは力の抜き具合で変わるし、編集しだいである。編集の手間を省くために、時間が来たら収録を自身の手(声だが)で区切ろうというわけだ。



ところで、ラヂヲでも触れる予定の話なのだが、思うところがあったからこうやって振り返ろうと考えたのも大きいのだが、「六」というのも大きな契機だと感じている。


ソルフェジオ音階でもっとも力のある音が528hz。これをそれぞれの数字を一桁として足し算すると、15になる。さらに同じ事をすると、「6」となる。


6だって!?悪魔の数字じゃないか!と、思われる。それは仕方ない。誰かさんのプロパガンダが功を奏したから。


本来、この6という数字は、最も神聖で力に満ち満ちた素晴らしいものだった、と言われている。

ただ、皆が皆これを素晴らしいものだと認識して生活すると、支配する方々には都合が悪い。

だから、「危険なものだから近づくな」と常々触れ回られ、出てくるときも必ず危険なものや悪魔といったものと結び付けられ、人々の意識に嫌悪感や恐怖と結びつけるように仕向けられたのだという。

この数字やその象徴自体に罪はなく、それに悪意を被せて広めていることが罪だったのだ、というわけだ。


キチガイに刃物という。ものは使いようである。悪意のある存在が悪意を持って使うのなら、悪意の塊としてその力は動いてしまうのである。力そのものには善も悪もないのである。

ジョルジュ・バタイユがいうには、本来、「聖なるもの」というのは、清廉で潔白なものだけではなく、ある意味醜いとでもいえるようなおどろおどろしいものも含まれていたのだが、特にキリスト教の発展と共に「聖なるもの」からおどろおどろしい部分だけが取り除かれ、現代の我々がすぐ想像できるような「聖なるもの」となり、おどろおどろしいともいえる部分は悪魔だとか邪悪といった概念に落とし込まれたのだと。

日本の江戸時代にあって、差別階級のエタというものがある。差別として現代はあるといえばあるが、それで飯食ってる総会屋みたいなやつらが騒ぐとはいえ、気にしなければ誰も気にしない程度だと思う(皮膚感覚としては判らない状態)が、これも「穢れた」存在だというので忌避されている。単純に、いわゆる汚いからというだけではなく、畏怖でもあり畏敬の対象でもある、というものだったそうだ。日本ではなにやら秀でている存在に対して「神様だ」と言ったりするのだが、エタというのもある意味、本来の「聖なるもの」としての「神様」だったというわけである。

そして、上記のバタイユの論ように、否定的な観念が残され、畏敬の念が消え去った状態が差別となり、現代まで尾を引くこととなったのである。


話が逸れた。というわけで、倍数に意味があるのかは判らないが、振り返り雑談ラヂヲを定期的にやるとしたら、六回ごとにやろうかと思っている。一回一テーマになるのかはわからないが、そういう区切りでいこうかと。

テーマが動画の区切りをまたいでいくのであれば、タイトルのカウント自体は続けるとして、前編後編だとか六杯目の一という風にしようと思う。

元々原稿なしの(ある程度は考えて纏めてはいるが)アドリブなのだが、今回はいつもよりアドリブになってしまうだろう。どうなるかはやってみるまではわからない。

ただ、自分が伝えたいと考えていること自体からは逸れることはない、もしくは逸れないようにするつもりである。


これ以上つらつら書くと、ラヂヲで話そうかと構想していることなのか、さらっと書いて触れるだけのつもりのことだったのかわからなくなる。ここで終わりとする。では、また。

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