昨日の出勤時のことであった。
その前の日に、用を思い立って夕方に出かけたが、目当てのものは見つからず、そういえば行く予定だったのを忘れていたところにいくつか出向いた後、また飲んでいた。
そして夜に帰宅してから風呂に入ると、寝てしまった。
おかげで風邪を引いて動けない、ということもなく、少し疲れたな、ぐらいで出勤していたのであった。
ただ、出発前に手洗いに行ったので、予定の電車より一本遅れて乗ることになった。それに乗っても余裕のある時間にはつくのだが、仕事までの時間が少し減る。
走れば間に合うレベルだが、走りたくない。走れば紳士ではなくなるぞ!というネタは以前書いた。あと、誰が(英国の)紳士だ?とも。
案の定、一本遅れた電車に乗り、いつもの乗り換えをしようと別のホームに向かうと、あら不思議。
一本前の電車に乗っていたら確実に間に合う電車が、まだ出発していない。
数分遅れていたらしく、さすがに大晦日前日というのと、遅れたせいで人が増していたというぐらいで、慌てることなく乗れた。
電車も途中で時間調整で止まるなどということもなく、いつもとほぼ変わらない時間で到着するのであった。
これがいつも通りに乗っていたら、乗り換えで待たされて、少しムッとするところだったかもしれない。だからといって、電車にメッ!としても意味はない。
立つ腹はないので、電車で立っている時間が延びるだけである。人が多くなって立つ瀬がなくなる、というのはあっただろうが。
どうしてこうなったのかを合理的に説明するのは無理であるし、また、説明して理解を得られるものだとも思えないが、色々と聞き及んでいるところで話をする。
上の流れを今一度確認しよう。
いつも通りの電車に間に合わないが、走れば間に合うかもしれない、それで普段のペースよりは速く移動していた。(走ってはいないとは前述通り)
何しろ、いつも撫でている犬を一撫でしただけに留めたほどである。代わりにさっき、また同じ道を通って帰って来たので、撫でておいた。
いつもの電車に、と思っていたが、やはり間に合わなかったので、乗ったら乗ったで、この時間に着いたらああでこうでと計画し、それから別の事を考えていたら意識が飛んでいた。
たまに、寝てるのか何なのか判らない状態で目的の駅や近くに着いて意識を取り戻すことがある。それはともかく。
間に合わせようと心掛けたから、本当に間に合ってしまった、といえる。いえるのかどうかはともかく。
これがもし、もう間に合わないから次の電車でいい。普段通りの移動速度で行けばその電車に悠々間に合うから、としていたら、やはりその通りになっていたのかもしれない。
昨日起こったことは昨日のことであり、また今日や明日は別の日だから、再現は出来ない。よく言われるが「歴史にifはない」という。
出来事にifはないのだろうとしても、そこには法則があるといえる。
何の法則かというと、一昔前あたりから流行っている、「引き寄せの法則」という奴だろうか。
その法則の話だったのかは実はもう忘れたのだが、願い事をする際には、ちょっとしたコツがある。
ちなみに、このコツを漢字で書くと、「骨」なのだそうな。お骨ではないが、骨である。
引き寄せの法則だとかで、具体的なイメージを描いて一心に保ち続ける、というような説明をなされているそうだが、場合によっては逆効果になる。
例えば親が病気で、治ってほしいなと願うとする。一日一回お祈りするとしよう。お百度参りだ!般若心経の書写だ!とか、ラヂオ体操でもサッカーでもなんでもいいが、ここまで書くと混沌としている。
まあ、何かそういう願掛けをすると。するのはいい。問題はした後、となる。
願掛けを終えた後、またそのことについてあれやこれやと引きずると、せっかくの願掛けがご破算になるという。
大体そういうときは、例に出した親の病気平癒から考えればこうなる。
「これでよくなったかな?どうなるかな?」という風に思いがちだろう。
こうなると不思議なもので、「良くなってほしくない」と願っていることと同義になってしまうのだという。
願掛けは願掛けとして終えたなら、そのことに纏わることは一度思考停止してしまうべし、ということである。
また次の日同じ願掛けをするなら、その時だけ考えればいいことなのだから。
病気なのはあなたではなく、他人なのだから。肉親であるとかないとかいう意味ではない。
拙の出勤の話に戻して続ける。
似たように遅れて電車に乗って、ということは何度もある。労働環境によっては違いはあるが、覚えがある人も多かろうと思われる。
冒頭に書いたように、慌てて向かったが遅れた電車に乗って、「ああダメだ。遅れた」という心持で通勤していると、さらに遅れたり、予定通りの遅れた電車での通勤になったりする。
「まあ、これなら間に合うには間に合うか」と乗っていたら、上記のような状態になったりすることが、正確に数えたことはないが、多々あった。
また逆に、今日はなんだかしんどいな、わざと一本遅れていくかとやると、電車が遅延していたりということもある。途中で気を取り直してサッサと向かってそんな目にあった覚えもある。
一本遅れても、発車時刻の差は五分から十分程度なので、あまり意味はないのだが、気持ちの問題という奴である。
料理の味付けでも言えることだが、何度も味見をして加減しなおしていると、台無しになってしまうことがある。
味見しないのは論外だが、ここだと何となく決めておくというのが骨だといえる。何となく、から外れたら、上記の例の「願掛け後に反対の願掛けをしている状態」と同じなのだろう。
何となくから外れたと思ったら、また何となく戻す感じと。塩気が多いなと思ったら何となく砂糖追加するという具合とでもいうところか。何となくカップ一杯投入、とかいうのは料理ではなくなるだろうとはいえ。
人の思惑というものは、場合によってはケーキでもない料理にカップ一杯の砂糖を投入するのと変わらないことが往々にしてあり得るのだと。
料理というものにカップ一杯の砂糖を入れてはならぬ、という意味ではない。アメリカの説明書並みにくどいのは、わざとである。
さて、明日は平成最後の大晦日と相成る。
平成最後だからといって、テレビでは平成の御世で話題になった、確かに大きな話題になったがそれだけでなくしつこくしていた、恐ろしい事件の話をしていたそうな。
一つは鳥の名前のような団体。一つは連続幼女殺害事件というやつである。
今朝の男性スタッフのうち一人が、小さくて可愛らしい女の子が好きな感じなので、年長のスタッフが後者の話を絡めてからかっていた。
すると、女性スタッフがその容疑者の名前で検索して、事件のあらましをWikiで読み始めたので、帰ろうとしていた拙はこう言っておいた。
「年末に暗い話なんぞするもんじゃない。明るく行こうではないか」と。
女性スタッフはそうだそうだと、年長スタッフに反撃を始めたところで、今年の仕事は終わりを迎えたのであった。
といっても、元日に出勤である。短い年末であった…。しかし、平成の終わりまでは四か月ほどあるので、世も末、ではなく、御世の末まではもうしばらく続く。
では、よき終末を。
その前の日に、用を思い立って夕方に出かけたが、目当てのものは見つからず、そういえば行く予定だったのを忘れていたところにいくつか出向いた後、また飲んでいた。
そして夜に帰宅してから風呂に入ると、寝てしまった。
おかげで風邪を引いて動けない、ということもなく、少し疲れたな、ぐらいで出勤していたのであった。
ただ、出発前に手洗いに行ったので、予定の電車より一本遅れて乗ることになった。それに乗っても余裕のある時間にはつくのだが、仕事までの時間が少し減る。
走れば間に合うレベルだが、走りたくない。走れば紳士ではなくなるぞ!というネタは以前書いた。あと、誰が(英国の)紳士だ?とも。
案の定、一本遅れた電車に乗り、いつもの乗り換えをしようと別のホームに向かうと、あら不思議。
一本前の電車に乗っていたら確実に間に合う電車が、まだ出発していない。
数分遅れていたらしく、さすがに大晦日前日というのと、遅れたせいで人が増していたというぐらいで、慌てることなく乗れた。
電車も途中で時間調整で止まるなどということもなく、いつもとほぼ変わらない時間で到着するのであった。
これがいつも通りに乗っていたら、乗り換えで待たされて、少しムッとするところだったかもしれない。だからといって、電車にメッ!としても意味はない。
立つ腹はないので、電車で立っている時間が延びるだけである。人が多くなって立つ瀬がなくなる、というのはあっただろうが。
どうしてこうなったのかを合理的に説明するのは無理であるし、また、説明して理解を得られるものだとも思えないが、色々と聞き及んでいるところで話をする。
上の流れを今一度確認しよう。
いつも通りの電車に間に合わないが、走れば間に合うかもしれない、それで普段のペースよりは速く移動していた。(走ってはいないとは前述通り)
何しろ、いつも撫でている犬を一撫でしただけに留めたほどである。代わりにさっき、また同じ道を通って帰って来たので、撫でておいた。
いつもの電車に、と思っていたが、やはり間に合わなかったので、乗ったら乗ったで、この時間に着いたらああでこうでと計画し、それから別の事を考えていたら意識が飛んでいた。
たまに、寝てるのか何なのか判らない状態で目的の駅や近くに着いて意識を取り戻すことがある。それはともかく。
間に合わせようと心掛けたから、本当に間に合ってしまった、といえる。いえるのかどうかはともかく。
これがもし、もう間に合わないから次の電車でいい。普段通りの移動速度で行けばその電車に悠々間に合うから、としていたら、やはりその通りになっていたのかもしれない。
昨日起こったことは昨日のことであり、また今日や明日は別の日だから、再現は出来ない。よく言われるが「歴史にifはない」という。
出来事にifはないのだろうとしても、そこには法則があるといえる。
何の法則かというと、一昔前あたりから流行っている、「引き寄せの法則」という奴だろうか。
その法則の話だったのかは実はもう忘れたのだが、願い事をする際には、ちょっとしたコツがある。
ちなみに、このコツを漢字で書くと、「骨」なのだそうな。お骨ではないが、骨である。
引き寄せの法則だとかで、具体的なイメージを描いて一心に保ち続ける、というような説明をなされているそうだが、場合によっては逆効果になる。
例えば親が病気で、治ってほしいなと願うとする。一日一回お祈りするとしよう。お百度参りだ!般若心経の書写だ!とか、ラヂオ体操でもサッカーでもなんでもいいが、ここまで書くと混沌としている。
まあ、何かそういう願掛けをすると。するのはいい。問題はした後、となる。
願掛けを終えた後、またそのことについてあれやこれやと引きずると、せっかくの願掛けがご破算になるという。
大体そういうときは、例に出した親の病気平癒から考えればこうなる。
「これでよくなったかな?どうなるかな?」という風に思いがちだろう。
こうなると不思議なもので、「良くなってほしくない」と願っていることと同義になってしまうのだという。
願掛けは願掛けとして終えたなら、そのことに纏わることは一度思考停止してしまうべし、ということである。
また次の日同じ願掛けをするなら、その時だけ考えればいいことなのだから。
病気なのはあなたではなく、他人なのだから。肉親であるとかないとかいう意味ではない。
拙の出勤の話に戻して続ける。
似たように遅れて電車に乗って、ということは何度もある。労働環境によっては違いはあるが、覚えがある人も多かろうと思われる。
冒頭に書いたように、慌てて向かったが遅れた電車に乗って、「ああダメだ。遅れた」という心持で通勤していると、さらに遅れたり、予定通りの遅れた電車での通勤になったりする。
「まあ、これなら間に合うには間に合うか」と乗っていたら、上記のような状態になったりすることが、正確に数えたことはないが、多々あった。
また逆に、今日はなんだかしんどいな、わざと一本遅れていくかとやると、電車が遅延していたりということもある。途中で気を取り直してサッサと向かってそんな目にあった覚えもある。
一本遅れても、発車時刻の差は五分から十分程度なので、あまり意味はないのだが、気持ちの問題という奴である。
料理の味付けでも言えることだが、何度も味見をして加減しなおしていると、台無しになってしまうことがある。
味見しないのは論外だが、ここだと何となく決めておくというのが骨だといえる。何となく、から外れたら、上記の例の「願掛け後に反対の願掛けをしている状態」と同じなのだろう。
何となくから外れたと思ったら、また何となく戻す感じと。塩気が多いなと思ったら何となく砂糖追加するという具合とでもいうところか。何となくカップ一杯投入、とかいうのは料理ではなくなるだろうとはいえ。
人の思惑というものは、場合によってはケーキでもない料理にカップ一杯の砂糖を投入するのと変わらないことが往々にしてあり得るのだと。
料理というものにカップ一杯の砂糖を入れてはならぬ、という意味ではない。アメリカの説明書並みにくどいのは、わざとである。
さて、明日は平成最後の大晦日と相成る。
平成最後だからといって、テレビでは平成の御世で話題になった、確かに大きな話題になったがそれだけでなくしつこくしていた、恐ろしい事件の話をしていたそうな。
一つは鳥の名前のような団体。一つは連続幼女殺害事件というやつである。
今朝の男性スタッフのうち一人が、小さくて可愛らしい女の子が好きな感じなので、年長のスタッフが後者の話を絡めてからかっていた。
すると、女性スタッフがその容疑者の名前で検索して、事件のあらましをWikiで読み始めたので、帰ろうとしていた拙はこう言っておいた。
「年末に暗い話なんぞするもんじゃない。明るく行こうではないか」と。
女性スタッフはそうだそうだと、年長スタッフに反撃を始めたところで、今年の仕事は終わりを迎えたのであった。
といっても、元日に出勤である。短い年末であった…。しかし、平成の終わりまでは四か月ほどあるので、世も末、ではなく、御世の末まではもうしばらく続く。
では、よき終末を。