ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

そこはかとなく不思議

2018-12-30 | 雑記
昨日の出勤時のことであった。

その前の日に、用を思い立って夕方に出かけたが、目当てのものは見つからず、そういえば行く予定だったのを忘れていたところにいくつか出向いた後、また飲んでいた。

そして夜に帰宅してから風呂に入ると、寝てしまった。

おかげで風邪を引いて動けない、ということもなく、少し疲れたな、ぐらいで出勤していたのであった。

ただ、出発前に手洗いに行ったので、予定の電車より一本遅れて乗ることになった。それに乗っても余裕のある時間にはつくのだが、仕事までの時間が少し減る。

走れば間に合うレベルだが、走りたくない。走れば紳士ではなくなるぞ!というネタは以前書いた。あと、誰が(英国の)紳士だ?とも。


案の定、一本遅れた電車に乗り、いつもの乗り換えをしようと別のホームに向かうと、あら不思議。

一本前の電車に乗っていたら確実に間に合う電車が、まだ出発していない。

数分遅れていたらしく、さすがに大晦日前日というのと、遅れたせいで人が増していたというぐらいで、慌てることなく乗れた。

電車も途中で時間調整で止まるなどということもなく、いつもとほぼ変わらない時間で到着するのであった。


これがいつも通りに乗っていたら、乗り換えで待たされて、少しムッとするところだったかもしれない。だからといって、電車にメッ!としても意味はない。

立つ腹はないので、電車で立っている時間が延びるだけである。人が多くなって立つ瀬がなくなる、というのはあっただろうが。



どうしてこうなったのかを合理的に説明するのは無理であるし、また、説明して理解を得られるものだとも思えないが、色々と聞き及んでいるところで話をする。


上の流れを今一度確認しよう。


いつも通りの電車に間に合わないが、走れば間に合うかもしれない、それで普段のペースよりは速く移動していた。(走ってはいないとは前述通り)

何しろ、いつも撫でている犬を一撫でしただけに留めたほどである。代わりにさっき、また同じ道を通って帰って来たので、撫でておいた。

いつもの電車に、と思っていたが、やはり間に合わなかったので、乗ったら乗ったで、この時間に着いたらああでこうでと計画し、それから別の事を考えていたら意識が飛んでいた。

たまに、寝てるのか何なのか判らない状態で目的の駅や近くに着いて意識を取り戻すことがある。それはともかく。

間に合わせようと心掛けたから、本当に間に合ってしまった、といえる。いえるのかどうかはともかく。

これがもし、もう間に合わないから次の電車でいい。普段通りの移動速度で行けばその電車に悠々間に合うから、としていたら、やはりその通りになっていたのかもしれない。

昨日起こったことは昨日のことであり、また今日や明日は別の日だから、再現は出来ない。よく言われるが「歴史にifはない」という。


出来事にifはないのだろうとしても、そこには法則があるといえる。


何の法則かというと、一昔前あたりから流行っている、「引き寄せの法則」という奴だろうか。


その法則の話だったのかは実はもう忘れたのだが、願い事をする際には、ちょっとしたコツがある。

ちなみに、このコツを漢字で書くと、「骨」なのだそうな。お骨ではないが、骨である。

引き寄せの法則だとかで、具体的なイメージを描いて一心に保ち続ける、というような説明をなされているそうだが、場合によっては逆効果になる。

例えば親が病気で、治ってほしいなと願うとする。一日一回お祈りするとしよう。お百度参りだ!般若心経の書写だ!とか、ラヂオ体操でもサッカーでもなんでもいいが、ここまで書くと混沌としている。

まあ、何かそういう願掛けをすると。するのはいい。問題はした後、となる。

願掛けを終えた後、またそのことについてあれやこれやと引きずると、せっかくの願掛けがご破算になるという。

大体そういうときは、例に出した親の病気平癒から考えればこうなる。

「これでよくなったかな?どうなるかな?」という風に思いがちだろう。

こうなると不思議なもので、「良くなってほしくない」と願っていることと同義になってしまうのだという。

願掛けは願掛けとして終えたなら、そのことに纏わることは一度思考停止してしまうべし、ということである。

また次の日同じ願掛けをするなら、その時だけ考えればいいことなのだから。

病気なのはあなたではなく、他人なのだから。肉親であるとかないとかいう意味ではない。


拙の出勤の話に戻して続ける。

似たように遅れて電車に乗って、ということは何度もある。労働環境によっては違いはあるが、覚えがある人も多かろうと思われる。

冒頭に書いたように、慌てて向かったが遅れた電車に乗って、「ああダメだ。遅れた」という心持で通勤していると、さらに遅れたり、予定通りの遅れた電車での通勤になったりする。

「まあ、これなら間に合うには間に合うか」と乗っていたら、上記のような状態になったりすることが、正確に数えたことはないが、多々あった。

また逆に、今日はなんだかしんどいな、わざと一本遅れていくかとやると、電車が遅延していたりということもある。途中で気を取り直してサッサと向かってそんな目にあった覚えもある。

一本遅れても、発車時刻の差は五分から十分程度なので、あまり意味はないのだが、気持ちの問題という奴である。


料理の味付けでも言えることだが、何度も味見をして加減しなおしていると、台無しになってしまうことがある。

味見しないのは論外だが、ここだと何となく決めておくというのが骨だといえる。何となく、から外れたら、上記の例の「願掛け後に反対の願掛けをしている状態」と同じなのだろう。

何となくから外れたと思ったら、また何となく戻す感じと。塩気が多いなと思ったら何となく砂糖追加するという具合とでもいうところか。何となくカップ一杯投入、とかいうのは料理ではなくなるだろうとはいえ。

人の思惑というものは、場合によってはケーキでもない料理にカップ一杯の砂糖を投入するのと変わらないことが往々にしてあり得るのだと。

料理というものにカップ一杯の砂糖を入れてはならぬ、という意味ではない。アメリカの説明書並みにくどいのは、わざとである。


さて、明日は平成最後の大晦日と相成る。


平成最後だからといって、テレビでは平成の御世で話題になった、確かに大きな話題になったがそれだけでなくしつこくしていた、恐ろしい事件の話をしていたそうな。

一つは鳥の名前のような団体。一つは連続幼女殺害事件というやつである。

今朝の男性スタッフのうち一人が、小さくて可愛らしい女の子が好きな感じなので、年長のスタッフが後者の話を絡めてからかっていた。

すると、女性スタッフがその容疑者の名前で検索して、事件のあらましをWikiで読み始めたので、帰ろうとしていた拙はこう言っておいた。

「年末に暗い話なんぞするもんじゃない。明るく行こうではないか」と。

女性スタッフはそうだそうだと、年長スタッフに反撃を始めたところで、今年の仕事は終わりを迎えたのであった。

といっても、元日に出勤である。短い年末であった…。しかし、平成の終わりまでは四か月ほどあるので、世も末、ではなく、御世の末まではもうしばらく続く。


では、よき終末を。


英国紳士

2018-12-12 | 雑記
急に寒くなってきたので、ようやくコートを着ることにした。といっても、ハーフコートという奴だが。

そして、秋から被っている、秋冬用の帽子を被れば、何故だか「英国紳士」などと呼ばれる。

そのことについては、昔も書いたなどというと、いつの間にか一年や二年は過ぎ去ってしまうのだなと感慨にふけりそうではある。

さて、本場英国では、紳士というものの条件がいくつかある。

その中で「駈け出さない」というのがある。例えば、信号がもうすぐ変わるとして、ちょっと走れば渡り切れるという状態。

そういう時に走らず、悠々歩いて、次まで待つというわけである。

では、走ればどうなるのか?と、作家のひろさちやが聞いたそうだが、答えは至って単純だった。

「その人は紳士でなくなるだけです」とのこと。


ここ何日か、信号ぎりぎりを渡って、少し駈け出してしまったので、拙は英国紳士ではなくなったようである。

そもそも日本人なので、英国ですらないが。


これに絡めて、話を続ける。


例えば、作家だとか漫画家とか、陶芸家だとか落語家だとかがある。

フィナンシャルプランナーとか、意味がよくワカラナイ横文字でも構わないが、日本語で馴染み深いのを並べてみた。

作家は、脚本だとか小説だとかの文章を書いて、それで生活をしている人、となる。出来ているかどうかは取りあえず措く。

措くといったが、もう一つ付け加えるとすると、それで生活しようと志している人というのもいえる。

でなければ、連載を持っていた作家が急病で全く書けなくなったとして、その貯金だとか印税だとか保険で療養していたとしたら、その人は作家ではなくなるのか?

普通は言わないだろう。その人は作家だったし、治ればまた作家として書き続けるつもりなのだと判る。とはいえ、そこで引退すると言ったら、作家ではなくなる。


余談だが、画家のゴッホというのがいた。いた、なんぞというと言い方が悪いがともかく、ゴッホの絵は、現代では高く評価されて、著名な美術館に収蔵されていたり、取引されるととんでもない高額になるというのは、美術に造詣がなくても窺い知れるものだといえよう。

そのゴッホだが、生前はほとんど絵が売れなかった。片手で数えるほどだったとも聞く。

では、死ぬまでほとんど絵が売れなかったのに、どうやって生活していたのかというと、それはイルmとかではなく、実は弟が匿名でパトロンをやっていたからだという。

ゴッホはそれを知らなかったので、弟に向かって「お前も画家をやったらいい」などと言っていたとかなんとか。


そんなゴッホだが、画家には違いない。


悪名高いヒトラーは、若かりし頃、画家を志していたが、時代にそぐわない、謂わば古風な絵を描いていたので認められず、挫折した。絵自体のレベルは高かったともいう。

後は余人の知るところとなる、ドイツの総統になってというわけだが、ヒトラーは画家ではなく、政治家である。付け加えるなら、元画家の卵となる。


何々家というなら、政治家もいいかもしれないが、それはともかく、ヒトラーは死ぬまで政治家をやっていた、となる。彼の場合もまた、引退したのは自殺と同時である。

上に書かなかったが、ゴッホも拳銃で自殺した。


上にあげた職業を指す言葉は、廃業するまでなら皆、「その仕事をしている状態の人」を指す。だから、駈け出した英国紳士よろしく、すぐに辞めることが可能である。

その仕事をしない、とか辞めたとなれば、その仕事をしている状態の人ではないからである。


話は、拙のことに続く。


先日から、人は言葉をうっかり間違えて使うせいで、実はひどい目に遭っていると書いてきた。

端的に言うと、上の流れを踏まえて、以下の言葉を考えてもらいたい。

「わたしはガンです」とか、「わたしは不幸です」とか、「わたしは貧乏です」などなど。

医者は医者で、「あなたはガンです」という風な告知を実際にしているかは知らないが、ドラマなどでそういうシーンがあったりするが、ついつい、人に向かって思ったり言ったりする。

「あいつはおかしい」と。頭がおかしくなっている、ならまだしも、これは上に並べた三つ同様、意味は通じるが、短絡している言葉遣いである。

何々家をその仕事をしている「状態」の人と書いたが、すぐ上に並べた言葉は、そう指してはいないのである。

「わたしはガンにかかりました」なら、かかってない状態もあることを指している。なら、治るのだろう。

「わたしは不幸な状態です」なら、不幸でない状態があることを踏まえている。なら、不幸は一過性だろう。

「わたしは貧乏な状態です」も、以下同分である。

「あの人はストレスで頭の働きが鈍くなったか過剰に働いてしまっていて、おかしな行動をとってしまっただけです」なら、これもまた一過性の症状である。実際はわからないとしても。


というようなことを書いてきておきながら、実は、拙もこの罠に陥っていた。


度々書いたが、拙の実家は創価学会で、祖父母の代から続いている。

そして、拙も創価学会で云々と。


その上までの流れを読んで、すぐ上の今の自己紹介を読めば、おかしいことが理解できるだろう。


拙も拙の実家の家族や親族は、創価学会員だが、決して創価学会という存在ではないのだと。


これに思い至ったのは、先日書いた、顕正会員とのやり取りの後だった。半ば強引に辞めると言って、向こうも引き下がったようだが、例のお店のイベントやらでまた来る可能性はある。とはいえ、そんな頻繁には現れないが、次があるなら以前にも書いた、「人は宗教という名の生活を超えていく存在だ」ということを説明する。それがだめなら、仏法と仏教の違いやら法華経の成り立ちやら全部説明する。

とはいえ、はっきりいって面倒なので、世間話で帰ってもらうことにしよう。


話が逸れたが、その後思ったものである。創価学会を辞める簡単な方法として、預かっている曼荼羅を丁寧に梱包して、信濃町の本部宛てに郵送するというものがある。

周りの学会員とやらがいるなら、白い目で見られたり、拙の場合はバレたら親やら兄弟(特に兄がなりそう)や親族がヤイノヤイノと言い出しそうである。

しかしだ。こんなものは肩書に過ぎないのだと。肩書一つで人の存在を決め付けるとは、笑止千万だと。

なら、キリストが死んだ直後に、今のキリスト教会があったわけではないのに、その当時のキリスト教徒はキリスト教徒ではないというのか?

それと同様に、日蓮正宗の寺が日蓮の遺命の正統というなら、その寺を離れて何が日蓮正宗か?というのは昔から思っていたものである。寺が正しいのかどうかも今となっては怪しい上に、どうでもよいのだが。

余談が重なるが、創価学会の宗教法人の登記名は、「日蓮世界宗 創価学会」だとのこと。元創価学会員で反創価学会ジャーナリストをやっている人のHPに、画像付きで紹介されていたものである。

日蓮正宗ではないので、好き勝手やっているというわけである。なら、現代の創価学会の「弘安二年のは却下」はやって当然となる。日蓮正宗ではないのに、日蓮正宗の振りをしているから、自他が混乱して、今の有様といえる。とはいえ、本名を名乗るわけにもいかないのだろう。それだけで瓦解することは目に見えている。

弘安二年云々は、顕正会員との話のところで書いたが、要するに、国宝級の代物の曼荼羅が日蓮正宗の総本山にあって、代々保管されてきたのだが、それを拝む対象にはしません、と公式に発言し、取り決めたという。


話が逸れているが、騒がれて親にストレスかけても仕方ないので、肩書は残しておこうと思っただけである。宗教は生活でしかない、ともいえるからである。

そういうわけで、自分が肩書一つで自身の存在を決め付けていたことに、ようやく思い至ったというわけである。

「わたしは創価学会とかいう、存続に固執する人が動かしている組織などではなく、それに所属しているという肩書を持っているのに過ぎないのだ」と。


理屈、といえないような説明することも難しいところなので暴論に聞こえるが、人は見た目で判断して結構。

ただ、肩書で存在を決め付けるのはよした方がいい。

「あなたはガンです」と同様、「あいつは創価学会だ」も、自他を呪う言葉になる。

ガンも創価学会も「存続に固執し伸張しようとする組織」なのだから。そんなものに決め付けるのも、決め付けられるのも、たまったものではない。


英国紳士が駈け出さないように気を付けるのと同様、習慣となった呪いの言葉遣いは改めるべきであろう。

駈け出した英国紳士は、紳士ではないただの人になるが、前述の自身に投げかける言葉の例文も同様に、人を「ガン」認定するということは、文字通り「人でなし」と見なしていることに他ならないのである。

拙もまた、人でなしだったのだなと、深く感じ入ったしだいである。


では、よき終末を。


代打の提婆達多

2018-12-07 | 雑記
前回に、とある宗教団体がどうこうと書いた。そして、終わったと思っていたら、実は終わっていなかった。

のだが、退会の意思は伝わったようである。めでたしめでたし。

さて、復讐、ではなく復習として、前回、「宗教は生活のためにある」というのを、キリストの逸話を例に引いて示し、釈迦については、そういう話があったかは忘れたと書いたが、それに近い話はあった。

恐らく、『スッタニパータ』に書かれていたと思われるのだが、こういう風にあった。

「法に寄らなくても成道出来るとは言わないが、法に寄っているからといって、成道出来るわけでもない」と。

成道だったか悟れるだったか、言葉は忘れた。詳しくは、ちょっと探せば見当たるだろう。


釈迦と同じ修行を積んだからといって、悟って成仏できるかというと、そうとは言えないのである。

宗教は生活のためにあると判っても、宗教を超えていけるかは、その人しだいとなる。

前回でも書いたが、皆そのうち起きてくるのである。起きないからといって、たたき起こすものではない。

用事やら仕事やらで起きなきゃならんのなら、たたき起こさざるを得ないかもしれないが、それは生活の内での話。


宗教が国の範囲ぐらいにまたがっているとして、その中で出来上がった教義だとかは、やはり、その地域色を帯びていく。

忘れがちだが、朝になったら日が昇って、夜になると沈むというのは、日本人にとっては当たり前で覆しようもない話で、これが基準になって当然、と思われるだろう。

何をか言わんと思われるが、朝晩の勤行という感覚は、この日の出日の入りが当然の環境だから定着した単なる習慣であって、真理ではない。


なら、それが当然でない地域はどうなるのだろうか?それが理解できない人々は、地獄行きが決まっているのだろうか?

南極は忘れたが、北極に近いヨーロッパなんかは、空を見てても朝だか夜だかワカラン状態が何日か続く地域もある。「白夜」というやつである。

かつて、小林よしのりの漫画でフランスでディナーに出かけた話を書いていたが、夕方だというのに昼間のように明るい状態と、ちらっと書いていたものである。

今の世の中は、共通の時間認識を持って生活しているがゆえに、問題にはならないだろうが、そういうのを普遍の真理だなどと言い出しても仕方ないのである。

日の出日の入りは、具合が違うとはいえ毎日地球上で起こっているとはいえ、日本で見出したものは、万国共通ではないのである。外国でも同じである。上記の白夜やフランスの日照時間もまた、日本の常識とはならない。

それは、日本人の宗教、つまり生活でしかない。


かつて拙は子供のころ、親に聞いたものである。

「これをやっていない人で幸せな人がいるが、どうなのか?」と。

返ってきた言葉は、「そういう人達がこれをやっていれば、もっと幸せになる」とか、別の方面から聞いたような覚えだが、「そういう人達も法華経のリズムだか流れに乗っているのだ」といった具合であった。


話は変わるが、地上で一番発行部数のある書籍は『聖書』というのはご存知だろう。

では、二番目に来ているものは何かご存じだろうか?

それは、現代でよく耳にする、引き寄せの法則と呼ばれているモノの原典ともいえる、『原因と結果の法則』というものである。

ジェームズ・アレンという人物が、百年以上も前に書いた本だとのこと。

また引用的に簡単に理屈を説明する。


人は考えたとおりのものになる。

プラスの思考がマイナスの思考を生み出すことはなく、また、その逆もない。

マイナスの世界が現実の世界の背後にあり、それはマイナスの思考が作り上げる。


というものである。最後の一行は、説明していた箇所にはマイナスの世界の現実の、となっていて意味が分かりにくかったので、変更している。

何ということはない。底抜けに幸せな人は、勝手に幸せになるというだけの話だったのである。


先日から書いたが、「ガンです」と告知されたらぽっくり逝ったというのは、こういうことである。

おススメしないが、自分をガンだガンだと想像してみよう。ガンというものにまつわる、不吉なメッセージをあれやこれやと集めまわることになろう。

冗談でもやらないほうがいいので、もし試すなら、ちょっと試したらすぐやめること。それは他のマイナスな話全般にもいえる。


さて、これだけでは不十分なので、たまたま行き当たった話をする。


先日、釈迦の弟子で裏切り者といわれている、提婆達多(だいばだった)という人物のことに行き当たったので、とりあえず検索にかけてみた。


比較的新しくできたと思われる仏教解説のサイトに、提婆達多の生い立ちやら釈迦とのエピソードが書いてあった。


提婆達多は釈迦の親戚で、釈迦に次ぐ能力の持ち主だったそうだ。

というのも、何をやっても釈迦に勝てず、ずっと二番手だったのである。

彼は必死に勉強したり訓練したりで、釈迦をやっつけて一番になるんだ!と頑張るのだが、結局、大きな大会で釈迦にあっさり負かされてしまう。


ものすごく端折って書いたが、こういう話であった。後年、出家した釈迦の元で修行したり、釈迦を殺そうとしたなどという話もあるが、そこはいい。

どちらにしても、上記と変わらないからである。


彼は一番になりたい!と願い続けたのに、どうしてなれなかったのか?釈迦がすごいのか?まあ、釈迦はすごいのだろうとしてもだ。


一番になりたいと思いっているのは見た通りだろうとして、実はそう考えてなかったというのがある。

それは「釈迦に負けて二番手に甘んじているのは嫌だ」とばかり考えていたからである。

こういう思いは、「釈迦を倒して一番になりたい」からで、結果として、自身が常に二番手にいることを想像しているが故なのである。


つまり、本人としては願っていたつもりではないのだが、実際は二番手を願っていたので、願った通りになっているということである。

実際、上記の負けたという大会も、釈迦に負けて二番手、という結果であった。


これは単語を変えれば、何にでもいえる。

貧乏は嫌だ!と言っていた場合どうなるか?それは、貧乏を意識している。

病気は嫌だ!と言っていた場合どうなるか?それは、病気を意識している。

不幸は嫌だ!と言っていた場合どうなるか?それはやはり、不幸の塊となっているのである。


じゃあ、金持ちになりたい!なら叶うかというと、もう一度提婆達多の事をよく読んでもらいたい。

「釈迦に負けて二番手に居続けるのは嫌だ」と提婆達多は考えていた。

「貧乏は嫌だから金持ちになりたい」では、上記の提婆達多と同じことになるのである。


提婆達多も、あっさり負かされた時に、こう考えればよかったのかもなと思う。

「釈迦の奴、本気じゃないみたいだから、次は奴の本気を見てみたいものだ」とか。

そうすれば、次はあっさり負けることはなくなるかもしれない。


貧乏ならこう考えてみてはどうだろう。

「これは世を忍ぶ仮の姿で、世間を見て回っているのだ」とか。

病気ならこう考えてみてはどうだろう。

「病気さんもお仕事なんだろう。ごくろうさん。働きすぎは毒だぞ」とか。

不幸だというなら、上記のようには考えにくいだろうから、まずはこう考えてみよう。

「わたしは不幸ではなく、わたしであり、ただ、不幸な状態なだけなのだ」と。

あなたはガンです!でガーンとなって死ぬのが冗談抜きで人間なら、あなたは不幸です!と言われて先立つ不孝にもなるのが人間である。

上記でも触れたが、「あなたはガンです」とか「わたしはガンです」というのは、自他をガンという存在だと認識させることとなる。

提婆達多のエピソードの件で言えば、「わたしは釈迦に負ける二番手です」ということになる。


それでは、ガンも、貧乏も、不幸も、永遠の二番手も、永遠に変わることはない。

何故なら、そう願っているからである。


自身にも覚えがある。覚えもあるし、そうやっていた人物のことを、かつて書いた。


陰謀論という奴で、それを理解しない人々に業を煮やして言っていた。

「日本人は馬鹿だから、陰謀団(好きな陰謀団の名前を入れよう!)に殺されて当然だ」と。

馬鹿な日本人、だったかもしれないが、こういう言い回しだった。

森での生活こそ真理!と言い出し、それを理解しない人々にも以下略である。陰謀論と森での生活を混ぜた、文明脱却論というノリである。


他にはかつて見たことがあるベジタリアンのブログでは、「こんな世界は狂っている!」と叫んでいた。


人を馬鹿だと決め付ければ、何をやっても馬鹿だと見なすものである。

実際に馬鹿な行いをしたからといって、その人が馬鹿な存在であるかどうかは別の話である。

いつどこで見ても馬鹿な行いしかしないなら、そう言っても差し支えはないだろうなとはいえる。

日本人は馬鹿だというのだから、全国津々浦々広め聞きまわった結果なのかというと、そうでもないわけで。

そして、この世にあるものを悉く危険だ陰謀だといい募る。そのノリならたぶん、森も危険になると思いますが?


いわゆる宗教らしい意味での宗教を奉じている人も、医者のガン告知の如くやりがちである。

いわゆる宗教らしい意味ではない宗教(すぐ上の方々)もまた、同様になることは、往々にしてある。


宗教なんぞ実際は関係ない法則に合致していただけのことを、まるで霊験があると言っているあたりは、前回の顕正会も創価学会も、数多の特定宗教を奉じて広めている人々も、変わりはなかったのである。


これをやっていると幸福になれる、というのは、つまり、これをやっていないと不幸になると言っているのだから。

そういう心根を作り上げる故に、特定宗教に肩入れするというのは危険極まりない。宗教と謳っていなくても、この理屈が分かれば充分であろう。


また、『魔術入門』でバトラーも書いていたが、日常では体験できない不思議なことを出来るようになっていくと、慢心し、選民意識を持ってしまいがちである。それを指導で戒めていくとあった。


その戒めもなく、戒め方もわからない(上記なら「言葉遣い」となるか)か意図的に放置しているというのが、世の中の現状と言える。


さてさて。理由や根拠はわからなくてもよい。本来、人間であること自体が幸福なことなのだと聞く。

というわけで、拙はこういうことにする。

「我々は幸福なのだ」と。


では、よき終末を。


よき生活

2018-12-06 | 雑記
先日、某宗教団体に勧誘を受けて、ついうっかり入ってしまったものの、十日前後だったのでクーリングオフしてきた、と書いた。

電話で辞めると言ったときに、相手にもそういう冗談にしか聞こえない話も言った気がするが、それはおく。


こちらは夜勤明けで、向こうは平日は日中の仕事。正午から昼休憩だろうと思い、十二時を過ぎるまで、例のお店で飲みながら待っていた。

その宗教団体の名前は、「顕正会」という。たまに街中で日蓮大聖人の仏法がどうこうという話をしている人、といえば覚えがある人もいるかもしれない。


顕正会と創価学会は、兄弟みたいな間柄となる。

日蓮正宗の総本山、富士大石寺の一般信徒の集まりを、他の宗派も同じ呼称かは知らないが、「講」と呼ぶ。創価学会という講と、顕正会(破門以前は別名だった)という講という具合で、破門されていない中では法華講というのがある。


何故うっかり入ってしまったのかというと、「創価学会から離れられれば何でもいい」とつい思ってしまったのだが、それがそもそも、間違いである。そのことについては後ほど。

さて。かつて、創価学会の中で読み聞きした話で、「宗門(日蓮正宗のこと)は、学会員を呼び戻すのを折伏だなどと言っている」とせせら笑っていたりした。

そんな彼らは、自分たちの足元を揺るがせにする衝撃の事実が、今年になって色々と沸き起こり、上記の顕正会の言うことに納得して、転向しているのだとか。


例えば、大石寺には、弘安二年に書かれてずっと保存されている曼荼羅がある。

創価学会の現会長の原田氏が、公式に「信仰の対象にしない」と発言したのである。つまりはお達しである。

「授受しない」という言葉で表現していたが、拝む対象にはしませんと言っているのである。

このことだったかは忘れたのだが、数年ほど前に、拝む対象にまつわることで会規を変更したというのが新聞にあった。気が付く人は「これはおかしい」となるレベルのものだったが、大方の人は拙と同等に抜けているので、気にしていなかったものである。そもそも、こちらは気にしていないが、それはともかく。

後は、名誉会長という、まるで上皇かのような役職の、池田大作氏の著作のゴーストライターをやっていたという元幹部が、実は五年ほど前から顕正会に入信しており、それまでずっと黙っていたそうだが、今年になって、ゴーストライターをやっていた時の内実を暴露したのだとか。

ゴーストライター云々は、週刊誌などからだが、ちょくちょく聞き及んでいた。のだが、もう一つあった。

日蓮が書いた手紙の集大成というのがあり、他は当時の幕府に送った、中公バックスという文庫(紅白のめでたい装丁である)にも収められている『立正安国論』などを含めたものを、『御書』という。
学会員の家には必ずある。名前だけ入れてるだけ、とかいうレベルでなければ。

件の元創価学会幹部でゴーストライターをしていたという人物が語るには、その『御書』の現代語訳を、創価学会に都合よく歪曲していたともいう。金の誘惑に負けて、騙し騙しやっていたと、悔悟の念を語っていたらしい。

きっと、新聞配れて書いてるんです、とか捏造したのだろうと笑いそうにはなったが、それは今書きながら思いついたところである。

そんなわけで、「そのことを言わないでくれ」と、件の人物の元へ、創価の幹部が頼みに来たなどともいう。


というのを、顕正会の人に勧誘を受ける際に伺ったところである。かつてせせら笑っていたことが、シャレにならない状態で彼ら自身に降りかかっているようだ。


後は、「曼荼羅をどうしても処分したいなら、こちらで預かることもできる」などというのを言っていた気がするが、どうやらそれにそそのかされてしまったようである。

いや、もう一つあった。

今から一か月ほど前になる。勧誘を受けた日からは二十日と少しの、十一月のある日。

帰宅して宅配の再配達を頼んで待っていたら、折り悪く、近所の学会員が訪ねてきた。普段なら居留守だが、思ったより早く宅配が来たのかと、確認せずに開けてしまったのである。

それに対する、拙のバカげた対応を書いておく。

「ごめんよ。元気してたか?」という。その人物は、口を開けばすぐに「ごめんよ」と行ってくる上に、そういう時の顔は実に陰気である。心配して来たのだろうに、こちらを心配させるような顔はよしてもらいたいものである。

「ああ、そうですか。さようなら」と言って、ドアを閉じ、聞こえるように音を出して鍵をかけた。

そして奥で煙草を詰めなおそうとしていたら、またノックがある。今度は覗いて(これこそ確認するまでもないが)、ドアを開ける。

その時に向こうが何を言っていたのかは忘れたが、腹立ちもあったのと、その人物の陰気に嫌気が指していたのだろう。「もう学会に関わりたくないから、来ないでくれ」と言った。

「何かあったの!?」と、慌てふためくが、「何かあったじゃなくて、昔からです。学会も辞めたいぐらいです」と述べ、ドアを閉めた。

部屋の中に戻り、「感情に任せて動くべきではなかったか」と少々後悔もしたものだったが、それが尾を引いたのだろう。

そういう話が先日あったから、今回、この話(顕正会の勧誘)を聞くことになったんでしょうね、などと語ると、相手はひどく驚いて喜んでいた、などということがあったものである。

つまり、創価学会から離れたいというので頭が一杯になっていたが故に、といえる。

他にも「やりたいことはないのか?」というような具合の話である。かつて、結婚したくないという話を、その人たちに、創価学会の家の生まれであることを絡めて話したりしたもので、それに纏わる話なんかもされた。

その時言ったが、「何もしたくない。何もしないというのをする」とは言ってはある。冗談だと受け止めただろうが。


想定していたような、気持ちの悪い感じはなかったのだが、こうも思ったものである。「昔の学会とやらも、きっとこんなノリだったのだろうな」とか、見せてもらった幹部会のビデオ(見た日の前日開催のもの)で、体験談を語っているのも、名詞を変えれば、創価学会でも聞いたこととまるっきり同じ状態であった。

やたら親切で、後はその人の癖らしいが、やたらべたべたと触る。こちらの体躯がひどく細いからと、腕を掴んで「細い」などとやってくる。別れ際の改札前でそれである。

もう反故になったろうが、今度の土曜に昼からあるから行こうなどという。こちらは夜勤の日だというと、「じゃあ車で迎えに行くから、車で寝ていたらいい」などと言い出す。

それ自体は非難の対象ではない。それぐらい行動的だというだけの話である。人目に付くところで腕を掴んで「細い」と二人して(勧誘時の二人)と言い合っていたのは、閉口するが。

それはさておき。これはすごいなと思ったのが、会長の浅井という人のことだった。九十近いというのに、二時間余りの会合で最初から座っており、登壇する会員の方をずっと見ていた。一人だけ椅子が斜めに壇の方へ向いていたのだが、そこに腰かけていた小さな(人のことは言えないが)老人が、会長という。

姿勢をほとんど変えることもなく、壇上の方を眺め続けている。腰が痛くならないのだろうかとも思うほどで、尚且つ最後に登壇した際の内容も驚いたものである。

会の内部にまつわる話をした後(年一度のお布施の額変更や、入信者の数)、十月にアメリカのシンクタンクで行われた会見で、ペンス副大統領の演説の話をしていた。それの要点を話する際に必要と判断した四つを抜き出して、延々よどむこともなく語り続ける。

副大統領の演説というのは、中国の拡大主義への警戒というやつだが、そうなったこと自体、今までのアメリカの態度とは打って変わっている。

その後の米中外相の会談は、まるで喧嘩で、終始罵り合いの如きだったという。


じゃあ、なんでそうなったかというと、池田大作が云々という。


日中国交正常化直前の中国は、悪名高い「文化大革命」の後。中国はボロボロになっており、当時の首相の周恩来は、日本から金をせびりたかったので、都合よく動かせる上に影響力の高いのはいないかと、創価学会に目を付けた。

ある取材で、中国の外務省の官僚に「創価学会をどう思うか」と尋ねれば、しばし考えこんだのちに「とても利用価値があります」と述べたというのがあるほどである。

で、作家協会の交流で度々訪中していた、阿川佐和子に「池田大作に会わせてほしい」と伝え、昔、創価の会長もしていた幹部の秋谷に話が伝わって云々。というわけである。

この流れは、創価学会の自慢話として、何度も聞いたものである。

池田と周の会談の後、公明党の幹部が訪中し、周の頼み事を全部メモして(その人物がメモ魔だというのは、創価でも聞いた)、田中角栄に渡し、それから日中国交正常化と相成ったというのである。

その後の中国がどう動いてきたかは、言うまでもない。簡単な例だと、ODAの横流しだとか、覇権主義的拡張を続けて、軍事力は世界有数となっている。ミサイルが日本に向けられている、というのも有名な話であろう。

チョット考えれば、殺しまくっていた毛沢東の右腕なんぞをやっていた人物が、綺麗ごとだけで動くとはいえない。

池田は、その前後にローマ法王を大石寺の本堂落成に呼ぼうとしたりしていたそうだが、ノーベル平和賞は貰いそびれたそうだ。代わりの名誉会長なのかもしれない。名誉という文字は貰えた。

簡単な話である。

周も池田も、お互い野心満々だったから、うまく噛み合って、こういう流れになったのである。

いいことはいいことを呼び込むが、ろくでもないことが呼び込むのはやはり、ろくでもないことなだけである。


浅井会長は、前述のスピーチで、呼び捨てにしてはいたものの、口ぎたいな罵倒はしていなかった。

顕正会がかなりのスピードで伸びてきているのも頷けるものであった。


日蓮が言に、「災いは口より出でて身を破る」とある。

かつて創価で見ていたが、うまく飼い慣らせなかった宗門側に噛みつかれたからと、まるで人でなしだと罵りまくっていたものであるが、それらが返ってきているのであろう。

とはいえ、別に顕正会が正しいという話ではなく、これは世の中の摂理なだけである。


辞めると電話する際に、件の店で、店主のネパール人と話していた。拙が入信してしまった件は向こうも承知なので、最終確認でもあった。


というのも、である。


勧誘をしてきた人物は二人組だが、その内のメインの方が、ネパール人と結婚したという。勧誘を受ける一か月前に、お店のイベント終わりに訪ねてきて、そんな話をしていた。

拙は飲んでいたので余り憶えていないが、店主はこういう目にあったと語った。

「旦那さんがネパール人なんですか。じゃあ友達になれそうですね」と手を差し出し近づくと「なれませんよ」と撥ねつけられたという。冗談染みてやったのか、その後フォローしたか、という流れや雰囲気までは聞いていないが、その行動だけで、傷つけるには十分である。

それが大きく響いているのか、それ以外に何かあったかは分からないが、「あんな人達はもう来なくていい」と憤っているほどである。近所には住んでいないので、何某かのイベントで休みが重なった時だけの程度の人たちではある。


辞めると電話した際に、改めて尋ねた。

「顕正会は、時が来たら、今ある施設は国に寄付するんですよね?」(書いてなかったが、勧誘された際に具体的な期限は忘れたが、そう公言していると語っていた)と。そしてこう告げた。「なら、僕も期限なんで、抜けますね」と。

いきなりのことなので、向こうも面食らったらしい。電話自体かけてくることが予想外だったようである。知り合いに電話をかけられるのが予想外?というのも、今となっては不思議だが。

前提となる細かい話は前回の記事を読んでいただくとして、彼女たちが勧誘しようと拙を呼び出した時、いきなりこう言ってきた。

「最近いいことあった?」

なんてことはないように聞こえるが、前回の話を踏まえて考えてもらうとして、これは「こいつは不運の塊だろう」と認識しているのではないか?となる。推測なのか?と思われるだろうが、つい人は「自分はガンです」と間違えた認識をしがちなのだから。指している意味は同じだが、同じ結果にはならないのである。


あれがひどく気になったものだ、という話をする。人を不幸の塊か何かと決め付けているのだと、こちらも決め付けておいた。

上記の理屈を説明はしなかった。というより、そういう余裕もなかったとはいえる。

それに、あちらは昼休みだろうから、「実はダブルクロス(スパイの意)なんです」などという冗談を言う暇もなかった。というより、ほんの少し、気を遣っただけである。

実際にはトリプルクロスとも言えるが、別に報告する組織や機関はない。

そして、先日の握手の話をすると、本人は憶えていないという。石を投げた方は忘れるが、投げられた方は憶えているものである。

件のお店の店主から証言は貰ったと伝え、こういった。

「そんなことをする奴がまともな人間なわけないだろう!もう二度とかかわるな」と、電話を切った。

すぐにかけなおしてくるかと思ったが、なかった。夜になって、別の人物に電話で顛末を報告していたら、その間に電話があったらしい。メールで着信の知らせが入っていた。


顕正会が嫌で抜けたい、と言っているようには聞こえないし、何か違うような気もするが、付き合い続ける意味もない。別に悪気があってやっているわけではないだろう、という向きもあるだろうが、普段から気を付けていないと、間違いの善意が人をおかしくしていくものである。


それはともかく。


何がそもそも間違えていたのかというと、拙は宗教をやりたいわけではなかったのである。もう少し正確に言うと、特定宗教に肩入れすることを否定している。

宗教というものは、定義が様々だが、そんな一般に広まっている定義ではない話をすると、それは、生活パターンである。

日本では想像しづらいが、多くの国々は、多民族が混在して暮らしていることが多い。

習慣の違いが軋轢を生み、不安を煽りやすい。そこで、お互いが安心して暮らせるように、共通認識を持とうとなり、それの権威付けに人を超えたものとしての神を設定したという。

つまりは、宗教も神も人の生活のためにあるのであって、宗教や神のために人の生活があるのではない。


日蓮宗及び日蓮正宗は、その教義に、「世界中にこの宗派を広める」というものがある。宗派というよりは、その拝んでいるモノ、であるが。

まあ、そうなれば皆ハッピーかもしれんが、何かに似ているなぁとふと思ったものである。

体内にチップを埋め込んで、それで感情や思考を統一してしまえば、世の中(誰にとってかしらんが)ハッピーになると言っているのも、変わらないなと。

とはいえ、ハッピーかもしれない。戦争も宗教同士の殺し合いも、ご近所のトラブルもなくってしまうだろうから。

そこは皮肉としても、体内にチップを埋め込んで制御しなくても、自身で言葉遣いやら人に対する態度を制御するというのは、洗脳である。

日蓮宗は陰謀団だった?なわけはないが、ともかく、そもそもが古臭い話なのである。

創価学会の創価の意味は、「価値を創造する」から来ているというが、ちっとも出来ていないと言える。

顕正会の顕正は、日蓮宗から出てきたのか知らないが、恐らくは仏教用語に「破邪顕正」というのがあって、悪いものをやっつけて正しさを示すという言葉から来ているのだろう。

とはいえ、日蓮正宗内の教義で正しいか正しくないか、という意味での顕正でしかない。


宗教は人の生活のためにある、ということを指摘している事例は、実は既にキリスト教にある。釈迦の説法にあったかはワカラナイ。


有名な話で、キリスト教の母体と言われている(諸説あるらしいが)ユダヤ教は、現在の日本でもキリスト教国にならって、日曜が休みである。

安息日という奴なのだが、定めたところによると、お休みの日というよりは「その日は仕事をしてはならない」というものであったという。

しかし、ある時、麦だかの収穫がどうしても今日やらないといけないというので安息日に行った人達がいて、こっぴどくユダヤの司祭だか周囲の人々に非難されたが、それをキリストが擁護するという話である。


人が宗教のために生きなければならないなら、ユダヤ教徒の非難はごもっともとなるが、本当にそうなのか?とキリストは指摘しているといえる。


キリストや釈迦は、「覚者」と呼ばれる。各々、色々な奇跡を起こしたりしているのに、超人ではなく「目が覚めた人」なのである。

釈迦の呼び名にある、「仏陀」も同じ意味である。


宗教が生活パターンなら、つまりは生活は宗教と相成る。家に仏壇だとか拝むものがあるとかは関係ない。

そして、生活を超えた何かを見出すことを、人は「目が覚める」と呼ぶのである。


脳内に誰かがチップを埋め込むまでもなく、自身で言葉遣いや態度を制御出来るようにするというのは、洗脳である。

チップで制御でなくても、日々の生活という名の宗教の元、それらを学んで自身を制御、つまり洗脳している。

所詮は生活と馬鹿にするのはいけないが、これこそが真理!と勘違いするのも間違いである。ただの手段を貶めるのも礼賛するのも、お門違いである。



よい目覚めのためには、よく眠る必要があろう。睡眠時間が同じだとして、眠りに入った時間が違うのなら、皆、それぞれの時間に起きてくる。

よき眠りとは、よき生活があればこそと言える。よき眠りを過ごせているからよき目覚めになる、とは限らないかもしれないが。


隣の人が起きてこないと、あわてる必要など、この世にはなかったのである。息をしていないとか、そういうのは別として。



さて、妙な話になったが、他に書いておきたかったことがある。


顕正会側の論説、だけではないが、つまりは創価学会員は、野心家の池田に騙されて、アメリカが「これではいけない」と怒り出している状態になるほど中国に肩入れしてしまい、言わば地球規模の危機的状況に陥れる、悪の片棒を担いできたと相成る。

なら、拙は池田を憎んで、この世から消し去ってやろうなどと考えるのか?

ちなみに、件の顕正会員は、「池田大作はひどいことをしたから、楽には死ねない状態になっている」と語っていた。

色々と飛び交っている話からすると、池田は、まともに生活が出来る状態ではないと噂されている。


そうだとして、可哀想とは思わない。上記に書いた通りなら、そうなって当然であるからだ。

なら、ザマミロと笑うのかというと、笑うこともない。


この件は、昔、別の事柄で書いたが、こう考えている。


そういう流れがあったから、自分が生まれてきて、こうしている。創価学会の発展が違ったりと、少しでもずれていたら、もしかしたら、自分は生まれていなかったのかもしれないと。

そういう意味では、感謝するしかないのだろうと思う。彼の者のなしたことが良いか悪いかは関係ない。


某陰謀論者の話で、同じ内容のことを書いたが、改めて書く。


陰謀で彩られた世界を憎んで非難しているが、そういう流れが(本当にあるのかないのかは別として)あったから、生まれてきて、そういうことをしている。

いるのかいないのかワカラン陰謀団に感謝したらどうだ?と。


こういうことを改めて見直す機会を与えてくれた件の顕正会員には、つい怒ってしまったが、感謝するしかないのだろうと、思うのである。


とはいえ、何故抜けようと思ったのかは、恐らく想像もついてないだろうとはいえ。




余談になるが、では、創価学会に置いてある籍はどうするのかとなろう。

簡単な話である。親が宗旨替えでもしなければ、このままでよい。

所属しておいてやるのが、親と拙との生活パターンという奴だからである。

後は、親が亡くなったら辞める、とは考えている。

未入信の親戚に、集団で入れと迫るような親族には未練もない。

そんな親戚に囲まれて、拙の直接の親だけ宗旨替えするというのは、なかなか難しいだろう。



大多数の日本人は、当たり前すぎて考えたこともないが、お互い全然関係のない宗教の施設に平然と行けるのは、日本人ぐらいのものであるという。

それは、無宗教だが、信仰心がないわけではない。無宗教の信仰心なのだという。

意識が進んでいるから、というのである。当たり前が故に気が付かないし、理解できない人々(主に外国)からは、変な目で見られる。

変な目で見てくる方がお互いを殺しあったりしている宗教だったりするのだから、どちらが変かは言うまでもない。

日蓮とその宗派のありようを、なんとなく知っている人なら、今回の話の中心に出てきた彼らがどちら側かは、想像できるだろう。

拙が若い頃に抱いた違和感は間違いではなく、こういう話に行き当たるからだったのだろうと、考えている。


だから、親にも創価学会にも感謝している。欣喜雀躍してありがとう!というような具合ではないが。


では、よき終末を。


不幸の作り方

2018-12-04 | 雑記
釈迦は言っていたという。「正しい言葉を使いなさい」と。

これを「正語」と称されていたような気がするが、細かいところは忘れた。

判りやすい例でいえば、「お前なんか死んでしまえ!」だとか、「おまえは間抜けだな」というような言葉遣いが思い浮かべやすいだろうか。

綺麗な言葉を使ってそういう言葉には親しまないようにしましょう、という標語のように聞こえる。聞こえているなら、とりあえずは問題ない。


ところが、そういうところではない、と不断の疑問を取りあえずは棚上げして考えてもらう。


これらのことに類する事柄について、先ほど、知人にさらに続けて語った。どういう内容なのかというと、以下である。


正しい言葉遣いというのは人に向けての、上記のごとくだけではなく、明晰な判断を欠いた言葉遣いを指すのだと。


誰にでも覚えがあるだろう。疲れがたまってあなたは風邪を引いた。そして、こういう。

「私は風邪です」

まあ、風邪を引きました、というのが普通だが、何かの拍子に「風邪なんで」とはいうだろう。


風邪ならそこまで気にしないこともないところして、これならば、ご自身の経験がなくても、聞き覚えがあろう。


ある人が、何かで医者に診断を受ける。そして、こう告げられた。

「あなたはガンです」

医者にそう告げられたあなたは、自身の口か内心でこう呟く。

「わたしは、ガンなのだ」と。

そして命尽きるその日まで、闘病生活が続き、そして病院のベッドでこと切れるのだと。


これはどういうことなのかを説明する。


つまり、ガンという疾患、つまりは治っていくはずの、言ってしまえば風邪と同じもの。治るのに時間が掛かるかもしれない、ということは別として、治るか治らないかの話である。


医者は、ガンをとても治しづらいものだと、毎度のように説明する。とはいうものの、治る人もいる。

そこは良いとして、釈迦の「正語」という観点から言うと、妄言となる。


何が?と思われる向きが多いのは承知で言うが、拙もあなたも、風邪になろうがガンにかかろうが、風邪でもガンでもないのである。

風邪にかけて言うならば、「ガンを引きました」となるはずのもの。ガンを引く、だと弾が飛び出しそうだが、引くのは引き金である。


病気は医者が作っている、という話がある。医者にかかってひどいめにあった人たちや、その人たちの証言を集めて、世に訴えている人々がいたりもする。

これは、嘘ではない。嘘ではないが、受け取った当人の問題でもあるという、またひどく不安を煽る話になるのだが、ともかく続ける。


こういう言葉遣いは、「あなた自身をガンという存在として認識する」ということになる。

そもそも。健康な人間の体内では、常日頃からガン細胞が沸いては消えというのを繰り返しているのだと、実際に医者は言っている。

ガンと言われるまでは、皆口々に言うだろう。「わたしは健康です」と。

ならば、人は健康なのである。健康だからといって、仙人だとか魔法使いのごとく、何百年も生きないだろうし、生まれつき細胞の老化が異常で、十歳そこそこで肉体年齢が老人という病気の人もいた。昔、某テレビ局でちょくちょく取材した話を流していたので、知っている人もいるだろう。ここで言いたいことは、死ぬまでは人間は健康だと言いたいだけである。

話が逸れたが、ガンという、風邪と同様に完全に消滅することのない存在だと己に思い込ませることによって、人は本当にその病状に侵されて死んでしまうことができるのだと、知人に語った。

すると、こう返ってきた。

「仕事をさぼるのに、例えばおじさんが病気で、とかいうと、本当にその人が病気になったりだとか、普段はマラソンだとかして頑強な人が、一たびガンの告知を受けたら二週間ほどでなくなったりとかあるんで、わかります」と。

人は、拙も覚えがあるが、こういい易い。

「わたしは不幸だ」と。

不幸をガンとか風邪に置き換えてもらう。そして上記の話の流れに乗せて考えれば理解できるだろう。

風邪やガンと同様、人によって千差万別の不幸というものは、消えることはない。

そして、消えることのないそのものだと認識することによって、人は不幸そのものになり、自他を苦しめ、場合によっては自身を殺すことになる。


今回のタイトルに戻ろう。


拙は某宗教団体の家系だと、寝言でも言い出しかねないほど書いてきた。

そして、その傍流の団体から、先日、勧誘を受けて、何かの間違いで一週間ほど、登録していた。今も残っているかもしれない。「辞める」といったのはついさっきなので。


某宗教団体というのは、日蓮宗の分派と言われる、日蓮正宗の…というやつだが、知っている人は知っている。

正義を掲げて悪を断ずる、というのが宗旨である。日本風のキリスト教といっても差し支えないのが、それである。


いきなり話が吹っ飛ぶが、アメコミが原作の「スパイダーマン」というのがある。

今から三、四十年前だろうか、日本でも許諾を受けて、特撮ドラマをやっていたそうだ。日本人俳優でやっている。

その主題歌の一節にある。「悪を探し空駆ける」と。探したり求めたりしている。


スパイダーマンはまあ、いいとして、うっかり八兵衛じゃないが、うっかり入ったところも、実家もそうなるといえるが、自分たち以外は悪かそれに近いと考えがちである。そういう宗旨である。

ここの読者なら、もしかしたら閃いたかもしれない。

そう。陰謀論、というより陰謀論者である。ここで何度も語り草にした人物がまさにそうだった。今?知りようもない。人より森やら地球と呼びならわす生活環境を礼賛しているらしいとしか。


それは、この主張を理解しない日本人は馬鹿だ。陰謀団に殺されて当然だ、というノリである。



ガンの告知の話に戻る。


医者は診察に参った人物に告げる。あなたはガンだと。

それを受けた人物は、自分はガンなのだと思い込んでしまい、本当にガン地獄へまい進してしまう。

なにせ、上記で触れたが、ガンは風邪と同じくらい普遍で、ガンではないが、風邪を治療できる薬が出来たらノーベル賞ものだといわれるほどである。

なら、聞かなければいいのでは?となるが、既にそのことは知人の言が示している。

嘘で親戚が病気だというと、本当に親戚が病気になったと。

これは我々の日常の感覚でいうならば、偶然で済ませるところであろうとはいえ。


某宗教団体だけでなく、数多の存在はいう。「人を幸せにしたい」と。

不幸な人を助けたいと。字面は高尚である。

ただし。既に言ったが、前後が抜けているので理解しがたいが、人はそもそも「幸せ」な存在である。別の言葉で「そもそも健康」といったが、ニアリーイコールと思ってくれればいい。

それらに、多くの人が自分に向けて「わたしは不幸だ」と述べるのと同様、彼らは目についた人にこう述べる。実際に口にするかは別としても。

「あの人は不幸だ」と。

不幸でコーティングしたのを、少しほぐしたところで、「霊験があります」という具合にして、本来はもともと、もっと幸福であったものを(可能性ではあるとはいえ)隠し、己たちのおかげだとのたまう。

それが、自他の不幸の作り方なのである。


釈迦は言っていた。己の心のありように気を付けるようにと。


だからといって、別に釈迦は皆を戒め続ける、現代社会に蔓延する宗教団体のごとくではなかった。


わたしが見出した法理というのは、わたし以前の人々も見出し、また、わたしの後の人々も気づいていくものなのだ、と、釈迦はいう。


子供に、大人が経験し、理解したことをいきなり知りえるかというと、その子しだいだとはいえるが、桃園の誓いのごとく、同時にはなりえない。



ともかく。あなたが理解しなくてもよい。まずは己自身が理解を深めることである。


変な例えだが、皆が明日の正午に成仏しましたとなれば、その夜にあった、見たかったスポーツの試合も見れなくなるだろうというもの。


成道するなら、悔いを残したくはないというものである。なにせ、釈迦にも嫁と子供はいたのだから。


どちらもいない拙が人にいえた義理ではないというのは、とりあえずは忘れてもらう。


では、よき終末を。