ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

口熊野霊異記

2017-04-28 | 雑記
月曜の夕方から木曜の昼まで、帰省していた。

何度か書いたが、拙の弟が病んで実家に戻って療養している。その見舞いついでに帰省したのである。

ここしばらく妖怪染みてきたので、妖怪になるためのメソッドを伝えて、昔より元気にしてやろうなどとも考えたが、この辺りはあまり上手くいかなかった。

三日目の夕方、野口整体の背骨呼吸の話だとかをしていたら、階下から母親が「ゴミないか?」などと問いかけてくる。狙ったようなタイミングであった。

所謂陰謀論とか言われる話にも少し触れた。といってもいきなり「物質は幻なんだ」と伝えても、俄かには信じられないとは言っておった。

アイクがどうこうだとか、物理学者がこの世界はホログラムなんだと言い出している話もしておいた。

それでもって、ついでに、オーラとか言われてるものが見えるようになった、とも言った。名実共に仙人染みてきたのだと。

そこはともかく、背骨呼吸と姿勢に意識を向けていけば、改善されるだろうとは思う。薬なんぞ飲むな、とはいきなり言っても通じないだろうから、ここまでにしておく。


弟にその話をする少し前。一階のリビングで、親父殿がたまに座っているマッサージチェアに座ってみたところ、一日目は警戒して寄り付こうとしなかったチワワ(弟が連れてきた)が何故か膝に乗ってきた。

しばらく撫でて、ふと思いついた。皮膚炎だかを煩っていて、今はそれほど問題ない状態なのだが、首から肩辺りにまだその様子が見て取れる。

掌を当ててしばらく、野口整体でいう「愉気」というのをしてみた。

すると、チワワが何か思ったのか、膝から飛び降り、母親のいる仏間とリビングを行ったり来たりし始めた。

そのうち、犬用のトイレの上に立ち、口を下に向け、吐き始めた。

何を吐いたのかというと、シイタケだった。


その前夜。家で鍋をしていた。某キムチの素でやる、簡単な鍋である。

具が足りないぞと母親に言うと、少々酔った母(酒にひどく弱い)が冷凍されていたシイタケを一つ、取り落としてしまった。

すかさずチワワは駆け寄り、それを食べてしまったのである。取ろうとすると返って無理に飲み込んで窒息するし、凶暴な奴なので、噛み付いて危険なのもある。

それから、先ほどの吐きだすところまで、一日は経っていなかったが、他に食べた餌は吐いてなかったようで、シイタケだけ胃に取り残されていたようだ。

「撫でてたらシイタケ吐いた」というと、母が「あんたは救世主やな」と言っていた。


その後、弟に陰謀論だとかオーラが見えるだとか、野口整体だとかの話をしたというわけである。

チワワがシイタケ吐き出せたのは、拙の「愉気」のせいかもしれぬなぁ、といった具合である。


実家のあるところは、霊場として名高い、熊野の入り口辺りで、口熊野とも呼ばれている。

神社や神社跡がそこかしこにあったりする。今の状態の拙がそこに立つと大丈夫なんだろうか?と思いつつ、各地を訪ね歩いてきた。


一日目の夜、母が「どこか行きたいところあるか?」と尋ねてきた。

「特にないかな?パンダくらいか?」などと言ったが、寝ながら思い出したものである。

今は合併されて、同じ市になったとかなってないとか、未だにややこしいみたいだが、隣の市にあたるところに、南方熊楠(ミナカタ・クマグス)が死ぬまで住んでいた家があり、記念館になっているというのを、数年前にその市の駅の案内で見た。

たしか、2011年の一月下旬なので、六年ごしか。そこに行きたいと、次の日の朝伝えた。

母は三時から用事があるとのことで、二時前に家を出て、駅に降ろしてもらった。帰りは歩き回るので暗くなったころだろうとは伝えた。

もしどうしようもなくなったら電話してくれたら迎えに行くとのことで、記念館を探しに行くことにした。

かつて、駅前にあった案内はなく、観光案内所はあったが、元々地元民だったのがそこに尋ねに行くのも妙だと思い、記憶を頼りに歩き出した。

しばらく進むと、交差点の角に、この先何メートルなどと、案内が出ていた。なんとかなるものである。

施設の名称は「南方熊楠顕彰館」という。資料館と、隣に復元された住まいがある。

さすがに現物は置いてないが、模造品の原稿だとかがラミネートされてあり、手にとって見ることができる。

なかでもとんでもないのが、「履歴書」と銘打たれた巻物である。

履歴書とは言っているが、自身の履歴やら研究のことやら、なにやらたくさん書いてあり、「自伝文学の傑作」と言われているそうな。

そして、その巻物の長さが7.8メートル。このブログの文字より小さな字でびっしり書き込んである。たまに小さなイラストが描いてあったりするが、文字が氾濫しているかのようであった。

南方熊楠の主な関心は、「粘菌」と呼ばれる物体の研究だった。それ以外にも広範にわたる研究があり、日記にいたっては読みづらいのもあってか、全部解読できていない。

地元の高校生だかが集めてきた粘菌の標本があったのだが、どれも名前がひどかった。

なにがしホコリ、という名前だった。たしかに、ホコリにしか見えないので、頷くしかなかった。


その資料館の二階の参考図書だかに、粘菌についての新書があった。タイトルしか見てないが、どうやら調べると画期的なことが判り始めたらしい。

ゴキブリの体内を調べると、人類の病気だか寿命だかに素晴らしい効果のものが見つかった、とかいうのが昔あったが、粘菌というものにも、そういう話が出てきたようである。

「陸上トコロテン」(水木しげるの伝記漫画で書いていた)だとか、正式名称がホコリだとか、散々なのだが、世の中は不思議でたくさんのようである。

南方熊楠は、当時のヨーロッパで広まっていたオカルトだとかにも並ならぬ関心があり、友人の天台宗の高僧とやり取りしていた手紙に、カバラのことだとかを書いていたようだ。

オカルト系陰謀論の世界だと悪名高い、ブラヴァツキー夫人の著作も読んでいたようである。一回読んだときは無視していたらしいが。

本人も幽体離脱の経験があって、霊だとか魂だとか人間というのは何なのか、というものへの不安とでも言うものがあったのだろうと思われる。


資料館の横に、復元された住まいがある、と書いた。そこに入るには、資料館の受付で料金を支払う必要があった。

受付のお姐さんの喋り方も地元のなまりがあり、「ああ、やっぱりここは和歌山なんだな」と、わけのわからん感慨を覚えたものである。


書き物机がある部屋の襖の上の壁に、肖像写真が掛かっていた。

それをぼんやり眺めてみた。ただのぼんやりでなく、昨今の拙の「ぼんやり」である。

なんと。写真の中の肖像が少し動いている。ホラーな状況だが、こちらとしては当たり前の風景なので、気にはしていなかった。

オーラ診断に、写真を送ってください、というのがある。なるべくこういう背景のものが望ましい、とか書いてあったが、その肖像写真からも少し見えた。ただ、何色なのかはよく判らなかった。見えると気づいたころよりは色はまだ判りやすくなったかなとは思う。


その後、顕彰館を出て、海に行こうかと思ったが、断念した。余りうろつくと遅くなりすぎるので、神社巡りにすぐ方針転換し、駅に引き返し、その裏から実家のある方へ向かった。

立ち寄った神社は三箇所。一つ目は行った覚えがあったかどうかは忘れたが、残りの二つは子供のころから行っていたところである。

幸い、どの神社に立っても、奇妙な物が見えるとかいうことはなかった。よかったよかった。

最後の一つは、田中神社の森、となっていて、かつての廃仏毀釈で、一時期は消えていたこともあるそうな。

文字通り、田の中にある。田んぼの真ん中に樹が生い茂っているという、不思議な光景である。

ここに咲く藤が変種らしく、「オカフジ」と命名されているそうな。南方熊楠の銘、となっているそうだが、顕彰館で見たとき、煮え切らない表現をしていたので、実は違うのかもしれない。


顕彰館から凡そ三時間からその辺りを、舗装されているとはいえ、山の坂を登って戻った。

しかし、筋肉痛にならなかった。トボトボ歩いたのではなく、セカセカ歩いていたというのにである。

神社だとかはパワースポットなんぞといわれて、それ系統の人がよく巡ったりする。

地脈だとか龍脈だとか、そういうエネルギーに溢れた場所に、神社や寺が建てられていたりするのだとか。

何か得体の知れないものが見えるとかいう、拙にも困るようなことは起こらなかったが、何かは感じたのだろう。

おかげでひどく腹が減って、滞在中は「よく食べるナァ」と親にも弟にも驚かれたものである。


さて、これも前から書いているが、勘違いではないのかもしれないという話をして終る。

最近、自室で深呼吸や喫煙などでリラックスすると、部屋の壁が鳴ったりすると書いた。

見える範囲で鳴った時は、夜だとそこが光っていることもあって、これはこれで怖い。怖くはないが、爆発するんじゃなかろうかと。

それはさておき。滞在中の夜も、布団でリラックスしていると、やはり部屋のそこかしこで音が鳴る。

「やっぱり、偶然じゃないんだな」と、納得する数日であったとさ。


では、よき終末を。


あくまで人間

2017-04-21 | 雑記
今日、仕事場のトイレで用を足していたら、靄に囲まれてしまった。

最近ずっと書いている、気だとかオーラとかいうものを見ていたのである。

コツとしては、ある意味リラックスする状態になれればよろしい。よくアイデアが思い浮かぶ時は?というのに、トイレで用を足している時、というのをあげる人もいるくらいである。何かのアンケートで取り沙汰されるほどの数だった。

音をごまかす音を出す奴から出ている煙みたいな気を見ていると、やはり影がない。そりゃまあ、普通にしてたら見えないものなのだから当然といえば当然で、そんなものは存在しない、という人にとっては文字通り、影も形もない。

手で扇いでみると、動く。以前、駅のホームで見たときは、「風に逆らっている」などと書いたものだが、動いていた。

とはいえ、出ているのが見えるのに影が存在しないという、日常の物理法則に逆らった存在であることは間違いない。

これと関連することで一つ。

静かな夜、自他の気を見るということをしていると、部屋が軋むような音がする。
電源を切ってかなり時間の経つパソコンのモニターが、「パチッ」と音をあげることがある、と書いたが、大体、気を見ようとしているときや、呼吸法などで瞑想状態に近くなった時と思しき場合などに起こっている。
その内、アパートごと倒壊するとか、上の階の底が抜けて振ってくるんじゃないかと、戦々恐々としておる。

ラップ音がしたら近くに仙人が潜んでいるかもしれないので、あまり気にしなくてよいのかもしれないと、安心させる一言を添えておく。


話は代わって、最近、とあるアニメを見終えた。

世界の真相に迫る内容のものか!?MAGICA魔法入門カバラの真似事か!?というわけでもなく、見ていたのは、ガンダムである。

『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』という作品である。なじみのバーの店長とか、近所の沖縄そば屋の店長の友人などから、「見やがれ」と脅されながらも、一年近く見てなかった。
四月で放送を全部終えたとのことで、ようやく重い腰を上げ、数日前に全部見終えたというわけである。

その知人たちからの評判は散々な物だったと思う。曰く、「主人公がおかしい」と。他の評価は忘れたが、余ほど狂気に満ち満ちたキャラなのだろうと思いながら、恐る恐る見始めたものである。

確かに、狂人かと思うようなところがあったが、そもそも捨て駒として扱われ、虐げられている少年兵という立場。強くなければ生き残れないし、また、自分に中身を入れてくれた親友とその願いも守れない。

要するに、ひどくひたむきで、他のことには無頓着な奴であった。

監督が言うには、天才の奇形性を描きたかったという。主人公は確かに、かなりするどい。

最初に現れるヒロインが、「虐げられている人々と対等に接したいのです」という風な台詞を主人公に投げかけながら握手を促すと、素っ気無くいう。
「じゃあ、今は対等じゃないんだ」と。

ヒロインはその一言にショックを受ける。己の無自覚な傲慢さに気づかされるのである。

主人公はよく、親友に尋ねる。「次は何をしたらいい?」と。その後、「何を壊せばいい?」とか、「何人殺せばいい?」と、かなり物騒な発言も飛び出す上に、それがまた無表情ともいうような具合で尋ねる。

こういうノリが、まるでその親友に操られているように見受けられたらしく、「このガンダムひどいよ!」と言いながら勧めてきた知人の批評にもあった。

しかし、結構最初のほう、四話くらいでそうじゃなかったらしい、というシーンがあった。

その親友が、「あいつの目が怖い」と、別の団員に漏らす。あの目で見つめられると、あいつに無様なところは見せられないんだといった、覚悟というか、怯えにも似た感情を吐露していた。

主人公の「次は何をしたらいい?」というのは、親友の願いをかなえたいという、ひた向きさが故なのだろう。

終盤で、手を組んだ元は敵の幹部に、「君の願いは?」と問われるが、「親友の願いがオレの願いだ」と答えていたものである。

こういう言い方をしていたのは、親友の願いはそもそも自分の願いなのだということを示していたのかもしれない。


とはいえ、このガンダム。今まで見た中でもかなり血みどろだった。

ガンダムの名を冠するものは、全て、ソロモン72柱の悪魔の名を冠していて、主人公機も「バルバトス」という。

主人公の性格とパイロットとしての資質の次元の違い、さらに操縦システムが人体に直接リンクさせて動かすというのもあいまって、化け物みたいな動きをする。
改修によって、容貌がいかつくなり、神経リンクによる操縦で尻尾を使う攻撃までして、ホントに化け物みたいになる。

「邪魔だから死んで」みたいな台詞を吐きながら、立ちはだかった敵を粉砕する様は、悪魔と呼ばれても仕方ない。他のガンダムの主人公ではいなさそうな具合である。

最終回なんかでは、本当に悪魔などと呼ばれている。ネタバレが嫌な人には悪いが、主人公ともう一人のエースが大軍相手に戦うのだが、見ているこっちも「ばけもんだ・・・」と言わざるを得なかった。

ネタバレになるが、結局主人公ともう一人は死ぬ。それを討ち取った敵の軍人は、バルバトスの首を斬りとって掲げ、「悪魔を討ち取ったぞ!」と勝利宣言をする。

後年、主人公達を倒した軍人が、「悪魔かと思ったけど、彼らはやはり人間でした」と述懐していた。


少年兵や、用語でスペースデブリという、奴隷の立場におかれていた少年達。彼らは生きることそれ自体がもはや戦いであり、つまりは生きること自体にひた向きであった。

人間のひた向きさというのは、理解できないものからすれば、悪魔のように見えたりもするのだろう。

監督の言う、天才の奇形性というやつである。

悪魔といえば、イタリアのバイオリニストに、パガニーニという人がいた。

彼の演奏はすさまじく、悪魔に魂を売ったのだと噂されていたという。


悪魔の名を冠し、悪魔だと対峙したものを畏怖させる、戦争兵器とそれを駆る少年。

もしかしたら、主人公は、親友(死んでしまうのだが)が願いをかなえるために契約した悪魔だった、なんぞと思ったりする。

別に、悪魔だったと言いたいわけではないのだが、幼少のころに出会った時、主人公は空っぽだった。それに中身を入れた、と上のほうで書いたが、親友が現れなければ、主人公になっていなかったのである。

ソロモン王は、悪魔を魔法の指輪で縛り付けて契約し、こき使っていたそうな。悪魔は契約してなければ、神殿建設の仕事だとか、端からしてないわけで。

幼少の二人の出会いもまた、契約だったのかもしれない、などと考えたりする。


内容で驚いたところはたくさんあったが、それとは別に、変なところで驚いていたものである。

例えば主人公を親友だけが呼んでる愛称。第一話か二話だったか、掛かってきた敵のモビルスーツを粉砕した時の動き。後に手を組む軍の高級将校の幼な妻が、そいつにしている愛称。

三つ目は一字違いであったが、見せる予定はない、イメージトレーニングのために書いている小説の中で符号していたので、第一話で親友が主人公を「ミカ」と呼んでいた時に、跳ね上がりそうなほど驚いたものである。ちなみに、このガンダムの主人公の名前は、三日月・オーガスだそうな。そして、驚いた理由になったほうも、三日月から来ている。あー、拙の頭はおかしくなったんだな、こりゃ。忘れてもらおう。

拙も悪魔に取り付かれたのかもしれない。おそろしや、おそろしや。


ここまで書いておいて、実は余談だった、といったら長すぎる。

とはいえ、気になった話をもう一つしておく。


以前から、山の中で暮らすのが人類の目指すべき最高の到達点だ!とほざく奴は人でなしだと、具体的な名前は余り書いてないが、誰と判る人には判る程度に示しつつ批判してきた。

空色ノートというところで、最近、アラーエというスピリチュアルなメッセージを届けている存在の記事を、何度か再掲していた。

プレアデスから来ました、とか言われても困るかもしれないが、ソウデスかと答えておけばよろしい。

記事はこちらである。

長い転載に、三箇所ほど注があり、その三つ目が、拙が普段から言っていたことをもっと的確に述べていたものである。


その最後の部分を取り出して、書いておく。

彼らには愛が不足しているんだ。実際に彼らは、そのエゴイズムによって逃げるという行為に走ってしまったんだよ。健康な生活とか、心身の浄化とか、精神の進歩とかいった名目にカモフラージュされたエゴイズムだ。


どうであろうか。普段の拙の話は、あれらは精神と肉体の牢獄を超えたといいながら実際は自ら突き進んでいるだけで、挙句の果てにその前提であるはずの「物質は幻である」という話を論破すらしないという、ふざけた根拠でなりたっているのだと書きたててきた。

それが一般人ならどうでもいい。それを主張していたアイクの著作を翻訳しておきながらである。
翻訳したなら判っているだろう?よく判っているなら、主張を覆すことも出来たろうが、そんなことは微塵もしなかった。
出来なかったから、ではあろうが、そんなことは知らない。

人に、己自身を覆せと言いながら、それをまったく実行していなかったのである。欺瞞も甚だしい。

『オルフェンズ』の主人公のほうがよほど人間だといいたくもなる。

彼はひたむきなだけの、あくまで人間なのだから。


そして、あれらはひたむきさを装った人でなしである。

何せ言っておった。「人間辞める」と。

人間を辞めた人でなしは、悪魔そのものと呼んでも差し支えなかろう。

せいぜい、神殿建設などにこき使われたまえ。



こういう風に考えて書くのは、紹介したところの記事からしたらよくないのだが、言わざるを得ないのである。


拙も、あくまで人間であろうとしているので。「じゃあ、今は人間じゃないんだ」とか突っ込まれそうだが。


では、よき終末を。


憑くも神

2017-04-19 | 雑記
気が見えるだの感じるだの、挙句には操れるようになったらしいなどと、気が狂ったようなことをずっと書いている。

とはいえ、野口晴哉は以下略、というのも何度もやってきたところ。

話は変わるが、先日、電車に乗っているときに、先頭車両の先頭にいた。

ドア付近の壁には広告があった。今度始まる、ドラマの広告だった。

人も混んできたので、それに頭が寄りかかる状態で過ごしていたら、広告の額縁に当てている頭のところが何か重い感じがする。

おかしい。別に頭痛でもないのだが、圧迫されるような嫌な感じがする。右頭(広告の額縁を当てている箇所)だけなっている。

どうも、この見ててさして気分のよくない広告のせいらしい。電車の電磁波で気分が悪いなら、頭を当てたところだけ異常を覚えるのも変である。

ああ、これも気ってやつなんだろうなぁ、なんぞと思ったものである。

普段は、手で感じるとか、前にも、手先が寒いと腕を伝わるものがあるだとかは書いた。

例えば、火のついたローソク。熱さなんぞ微塵も感じない距離で掌をかざすと、掌がほんのり温かくなる。

そして、ローソクの火が揺れたりする。風もない、鼻息がかかる距離でもないのにである。

ただ、毎晩のように見ていて気づいたことが一つ。ローソクの炎は、意識してなければ、後は風が当たったりしてなければ、基本的に揺れないのである。

家にローソクがある人がどれだけいるのかは不明だが、一度試してもらいたい。視線の脇にローソクをやり、例えば画面を眺めるとする。

拙の場合は文章を打っている最中に気づいたものだが、ローソクに視線を、つまり意識を向けてないと、揺れていないのである。

勘違いだろうと言われそうだが、揺れてなかったなと思い、改めてローソクをしばし眺めると、思い出したように揺れ始める。

以前、脳の疲れを取る方法、というのをたまたま見ていたとき、その中に、「ローソクを眺める」というのがあった。

ゆらゆら揺れるローソクは、潜在意識に働きかけ云々とあったのだが、それで思ったのである。

「ローソクの炎って、揺れてたっけ?」などと。

それで、ローソクは揺れているのではなく、意識を向けられたせいで揺らされていたのだろうと考えるのである。

見えていなくても、気というのは勝手に感じて勝手に出入りしたりしているわけである。



野口晴哉の言から広げて言うならば、この物質世界というのは、気と呼ばれるもので作り上げられたといえる。

物理学者が、この世界はホログラムとしか思えないと言い出し、物質を極限まで細かくしていくと、靄だとか波のような、もはや親しんだ覚えのある、何か確固とした状態のものを見出せなかったという。挙句の果てに、人の意識で動いているようだとまで述べた。


なぜ、改めて何度もやっている話をしたのかというと、ローソクのせいである。

見てたら揺れだすという話だろう?と。正にその通り。


というのも、ある日のこと。

部屋には、小さな鉢植えのガジュマルがある。これを眺めて、気、別名オーラを見る練習をしていたのである。

どうも、昼間は見づらい。後、初めて靄状のを見たときは、距離が離れていたのもあって、近いと見えない気がするのと、生き物では試したことがなかったからである。

とはいえ、自分の身体から出てくるのは見えるようになった。明るすぎると見えづらいが、ローソクの火だけにすると、よく見える。

それはともかく。ガジュマルを眺めていると、枝が動いた気がする。はて?物が触れると枝を動かす植物というのは実際にあるのだが、ガジュマルにそんな特性があったか?そもそも触れてない。

別の日に、定位置に置いてあるガジュマルを眺めていた。やはり、枝がゆっくりだが、少し動いているように見える。

物質は幻で、人の意識で動く。本質的には物質は気に動かされている。ということは・・・。ローソクの火が揺れるのと同じように、ガジュマルの枝も動いたのだろう、などと思ったわけである。

そこで、拙は別の対象に着目した。

ガジュマルよりも古株の、部屋に飾られている、こういうものである。



特にファンでもないのだが、とあるアニメだかゲームのキャラのフィギュアである。どれくらいの大きさかは、サムネイルをクリックすると判る。

この写真自体は、某オンラインゲームの知り合いに見せるために、ここにアップしたもので、数年前のものである。

大きさの比較のため、二十センチほどの煙管を、台座の手前に置いて、比較対象としている。

今はなくなったゲームセンターのUFOキャッチャーでせしめた。二千円で手に入ったので、儲けたか?そこは判らない。何せ、酔っていた。

せっかく取ったのだからと、部屋に飾って数年と相成る。

余談はさておき。


ガジュマルの枝が動いたように見えた感覚で、このフィギュアを眺めた。すると、腰の布(写真を参照のこと)が少し垂れ出したり、それを持っている左腕も少し垂れ下がったりする。

全体的に見ると、まるで息をしているかのように佇んでいる。

そして、顔を見ていたら、なんと。口がパクパクしている。小さな溝を横一文字に彫り付けてあるだけの口が、ただ開いたり閉じたりするのではなく、何事か喋っているかのように動く。

こりゃなんだ?物質は幻というのが覆しようのない真実だと決めておいていえば、そりゃ動いてもおかしくないが、どうして喋っているかのように複雑に口を動かしているのだ?


九十九神、もしくは付喪神というのがある。読みはどちらもツクモガミ。

百年使われたものに神やらが宿って動き出すという伝承である、と、さっき検索したら出てきた。まだ百年も経ってないのだが。

ホラー映画なんかや、そういう心霊現象的な話で、人形が動き出して人に襲い掛かるとか、暢気な具合なら、夜におもちゃが動き出してパーティーしてる、なんてのがある。

拙が眺めたから動いたとするなら、そして、物質は人の意識や気で動かされるというのなら、こういう話は単純に作り話だったとはいえないのだろう。

ちなみに、映画になった『エクソシスト』というのは、脚色はあるが、実話を基にした話だそうな。人形が動き出すだのというお話も『エクソシスト』も、多感な子供がそこにいるというのが共通点である。
拙は子供という年齢ではないが、そういうことを起こしうるのは、大体子供だったりするというわけである。

さて、もう一つ踏み込んで一言。これだけでも十分頭のおかしい人の話だと思われるが、もっとである。


物質の本質が、もはや形や存在を特定できるようなものではない、というのならば、彼のフィギュアと我が身に違いはないのだろう、などと思うのである。

人という名の人形に命を吹き込んで動かしたのは、このブログを書いていたり、これを読んでいる我々ではないのだから。

道具やフィギュアが動き出したら九十九神。もしくは心霊現象。

人という人形が動き出したのも、実は九十九神と同じなのかもしれないというわけである。


しかし、このお嬢さんは何て喋っているんだろうか?

まさか・・・拙の命を狙っているのでは・・・? ま、可愛い子に殺されるなら本望としようか。

ブログの更新が途絶えたら、セイバー(フィギュアのキャラの役職名?)なのに命を奪われたということにしていただく。

そのセイバーじゃない、という突っ込みは、知っている人にしかやれないので、ご注意を。

では、よき終末を。


幽玄にして有限

2017-04-16 | 雑記
子供のころ、週刊少年ジャンプで連載していた、『新・ジャングルの王者ターちゃん』というのがあった。

ターちゃん、というのはターザンのパロディな存在で、元々アフリカにいた存在ではないのだが、子供のころに置き去りにされた野生児というわけである。

ストーリーが進むにつれて、実は某の血筋だとかなんだか出てきたりする。「新」がつく前のギャグ漫画状態の時、実はどこかの王族の子供だったとか書いていた気がするのだが、そこは忘れよう。

その中で、中国拳法の使い手が登場する。最初は戦って、後に仲間になる、という流れだったと思われる。細かいことは忘れた。

拳法、というわけで、気功を使う。体内で練った気を攻防に使用するという、色々なところで見られるものであった。

その弟弟子だかも同じく気功を使うが、こちらはターちゃんの奥さんの怪我だかを治したりと、扱い方の違うキャラだった。


さて、そのとあるストーリーで、実はターちゃんはどこその吸血鬼の血筋じゃなかろうか?という展開があり、その家系の人物達に付けねらわれたり助けられたりするというのがある。

創作でよくある吸血鬼というやつで、血を吸われると吸血鬼になるのだが、あろうことかターちゃんの弟子と、仲間の拳法家がなってしまう。

夜は吸血鬼の人間離れした能力で、普段では扱えない能力が開花する、というシーンがあった。

件の拳法家は、普段は体内で自力で練った気を使う。これを「内気功」という。

吸血鬼状態の時は、普段使えない外気功が使い放題だ、などといいながら敵をなぎ倒していた。

その「外気功」というのは、『ターちゃん』の描写からすると、自分の身体の外、つまり、大気だとか地面からの気を集めてそのまま使う、というものだった。

拙が子供のころに読んだときは、「へー、すごいなぁ」と思って読み流していたものである。気功があるとかないとかは考えずに。

後年、少年サンデーで連載されていた拳法漫画、『拳児』というのを読んだところ、「内気功」については呼吸法等で体内に練り上げる、というのは同じだったのだが、「外気功」が違った。

ジャッキー・チェンのカンフー映画などで見たことがあるかもしれないが、砂に拳を突っ込むだとか、ああいう身体を硬くするための修練を「外気功」というのだとか。

『拳児』のキャラが簡単に例えていたが、筋トレが「外気功」になるのかな?というと、師範が「その通り」と答えていたものである。


いきなり話が飛ぶが、以前、「カルシウムを取って、骨粗しょう症を予防しましょう」といわれたおばあさんが、せっせと取っていたら、見事骨粗しょう症になった、という話を書いた。

記憶違いでなければ、これは野口整体関係のHPで見た覚えがある。でなければ、『整体入門』だったかもしれない。もしくは・・・?まあいいか。

つまり、外気功もカルシウム不足だと信じ込んで取っていたおばあさんも、同じく気が身体をそのように作り上げているのだといえる。

つまりと言われてもよくわからんと思うが、古来より日本でいうように、「病も気から」である。健康も気から、となる。

『ターちゃん』の描写は間違えているのではなく、端的に判りやすく描いていたのだろうなと、今になって思ったわけである。


なーんでそんな話を思い出したのかというと、最近は余り飯を食べていない、という風に書いてきた。

食えないわけでもないし、食べると結構食べるのだが、間隔がおかしかったり、食べているものがおかしかったりする。

栄養学でいうところのバランスなんぞ崩壊しているわけである。それでいて、やはりおかしい。

上半身を鏡に映して見ていた所、しばらく前のかなりやつれたころより筋肉が膨らんできている。

筋トレをしているわけではないので、歴然の差があるわけではないが、腹に力を込めると、腹筋の形がしっかり出ていて、前より膨らんでいる。

この体型は若いころからさして変わってないのだが、歳食って、その上食事がデタラメになったというのに、若返っているというような状態になっているのである。

知ってか知らずか気を練るとかいうことをやっていたら、外気功にもなっていたというわけである。

日に日に人間離れしていくような気がしないでもないが、やはり、夜勤明けで酒呑んで帰ると、数時間はぐっすり眠れるらしい。まだまだ人間は捨ててないようだ。

何もないと、いつまで経っても眠れなくて、外で鳥がさえずっても寝た覚えがほとんどない、というのがザラだというのは変わりなしだが。


さて、冗談はさておき。上の内容が冗談だというわけではないが。


毎日のように眠れない日々を悶々と過ごしてみたりしていたある日。三月だったと思う。

休みの日で、日没から無理矢理寝てみたら少し眠れたのはいいものの、日付が変わる前に目が覚めていた。

とはいうものの、起きて何かしようという気もなかったので、お茶飲んで寝なおしたか。すぐに眠れないのは仕方ないとはいえ、目を瞑ったりまた開けたりを繰り返していた。

日付が変わったくらいだったか。目を瞑るとよく、Windowsのメディアプレイヤーとかで、「視覚エフェクト」とかいう項目なんかをつけて音楽を再生すると、サイケデリックとでもいうのか、妙な波形を映したりするのがあるが、ああいうのが見れる。
眠れないときは子供のころからそれを眺めて過ごしていたものである。しかし、その時は違った。

普段は平面状に見えたものが、やたら立体的に、しかも規則的に動いている。

具体的に書くと、仰向けで寝ていた状態で、天井の蛍光灯辺りのところに、天空の城ラピュタの黒い石みたいなのに刻まれたような模様の四角形が光っていて、そこから白い羽のようなものがヒラヒラ落ちてくる。

「これはおかしい」と直感的に思い、かっと目を開くと、その光景が目を閉じていた状態と同じに続いているのである。

なんだこれは?と思い、しばらく眺めていると、一際大きな羽が落ちてくる。白色ではなく、茶色っぽい感じのものが、同じところに落ちてくる。

先と思しきほうは白く、後は狐みたいな色をしていた。顔に落ちたと思ったら、また上から降ってくる、というのを何度も繰り返していた。

しばらく見ていると、上から降ってくるのではなく、顔の横で振り上げては降ろし、とやっていたらしい。

そのころには、羽というより尻尾のようにも見えた。鳥の尾羽とでもいうところか。

仰向け状態の右の方から、何かがその尻尾らしきものを、拙の顔に当てている。犬が近くで寝ていて、尻尾だけ振って人に何かアピールしているような感じだといえばよかろうか。

「そこに・・・何かいるのか・・・?」と感じ、ひどく怖いような気分になったのと同時に、「これが先日読んだり見たりした、魔術でいう精霊とかいうやつか?なら、本当にいると思えば・・・?」などと考えたら、顔に当てていた尻尾が、幻覚どころじゃなく、本当に当たっているように感じる。
まあ、それだから幻覚なのかもしれないが、とはいえ、いったいそこには何がいるのか?と、恐る恐るそちらを窺がおうとしたが、見えない。

その時受けた感覚の流れを書いたが、当時の時系列ままかは定かではない。そこに何かいる?と感じたくらいか、尻尾の先を見ようとしたくらいだったか。

何か身体を貫かれるような感覚が走った。貫かれた瞬間は、何が起こったか判らなかったが、なんとなく気持ちよかったように思う。

バタイユ著『エロティシズム』という著作で、とある修道女の神秘体験の引用がある。なんたらのエロティシズム、という三部目辺りかにあった話で、修道女はその体験で、心臓を天使だか神に貫かれ、恍惚を覚えたとかいう風に書いていたとかいう。

ああ、これが名前忘れたけど、バタイユの言っていたなんたらのエロティシズムなんだなぁと、後になって思ったものである。

尻尾で叩いても反応ないので諦めたのか、尻尾の持ち主は消えた。上から降ってきた羽根も消えたのだが、しばらくしてからもう一度目を瞑ると、白い羽がまた出てきた。

今度は昇っていくのが見えた。目を開いても続くところも同じ。「出てきたらちゃんと帰っていくなんて、律儀な奴らだナァ」などと、暢気なことを思いつつ、見送ったものである。

さて、試しに視線を横にしてみたら、やはり目に映ったものらしく、見ている先の状態で上に昇っていく。

そう書いたが、やっぱりちょっと自信がなくなってきた。何にせよ、昇っていったのは見えた。


それから一ヶ月以上経つが、同じような体験は起こっていない。あの時と同じような状態で過ごしてはないせいだろうと思われる。


さて、もう一つ。上記のよりはまだぼんやりしている内容で、短いが、白昼に、といっても時刻は夜だが、体験したものである。


夜中上がりの仕事の終了時刻となり、着替えて事務所内の椅子に座っていた。

泊まりのメンバーは丁度カウンターにいて接客しており、拙はぼんやり無人の事務所内を眺めていた。

先日来、書いたり喋ったり(聞いている人は少ないが、前回のラヂヲでも)しているとおり、オーラだとか言われるものが見えるようになった。

どうも、昔から見えていたらしい。空間を凝視すると、細かい粒が集まっているのが見える、というのが多々あったものである。

それはともかく、事務所のデスクあたりをぼんやり(オーラを見る感覚で、である)眺めていたら、デスクの辺りから青い煙状のものが見えた。
立ち昇ったそれは、すぐ上に書いたように、細かい粒が集まった状態だった。下の方は銀だか金のような色をしていたように思う。

すると、その青い煙状のものが、こちらに向かってゆっくり飛んでくる。ギョッとしたところ、傍らにあった空気清浄機が、座っていた時は何も反応しなかったのに、ホコリだかを検知した時の動作を始めた。

ぶつかる直前くらいで一人が事務所内に戻ってきたので、凝視状態を解除したのだが、見えてないだけで、こちらに飛び込んできたのは違いないだろう。

こちらも、その後なんどか同じようにしてみたが、同じ事は起こっていない。

気とかいうものならば、あれは拙が引き込んだというわけだろうか?その辺りは判らないが、色彩がハッキリしていて尚且つよく見える動きをしたというのは、初めてだった。


やはり、人間離れしているのだろうか?それとも頭がおかしくなったのか?

某漫画の爆弾魔なんぞは、明らかに尋常じゃない精神を持っているのに高級軍属で、それでよく精神鑑定を通ったな?と言われたところ、平然と答える。

「あんな形式的ものは、自分が異端だと理解していれば、常人の振りをしてパスできる」と。


拙が自身を異端であると認識しているのだ、というわけではない。

ああいう体験は、誰にでも起こりうるのだろうと思っているだけである。

誰にでも起こることを、さも神に選ばれただとか、正しい知識を得ただのとか、一般化というより押し付けがましくしている方がどうかしているのである。

そういう物言い自体が、上記の指摘の状態が一般的だとするならば、異端ではあろうが。

とはいえ、我が身に降りかかったという意味では、実に不思議で面白い体験だったとは感じている。


奇跡というのは起こるのではなく、そもそもが奇跡の上に成り立っているのが世の中だといえる。

自他に潜む奇跡を、お見逃しなく。人類としての時間は幽玄でいて、そして有限なのだから。


では、よき終末を。


拙ないラヂヲの時間

2017-04-11 | 雑記
今日のブログは何を書くか、などと思いながら音楽を聴いていたら、何故か急に「よし、ラヂヲにしよう」などと思い立った。

喋ってなければ書いていただろうという辺りは、ラヂヲ冒頭の鳩の話くらいで、後はいつも言っているようなことと、ここしばらくに自身に起こったことをまとめて喋った。

合計一時間を少し越える内容である。内容が深いのか浅いのかはしらんが、一時間喋り続けている。時折、煙草をやっていたりで黙っているのもあるが、放送事故のようにずっと黙っているわけでもないので、ほぼ一時間喋っているようだ。

書いてきた内容そのままと言えばそのままなので、聞くまでもないとは思うが、暇な方はどうぞ。

このブログ上で再生する分には、某動画共有サイトへのアカウント登録は不要なので、再生ボタンをクリックしてくれればよろしい。

画面だとかを押すと、元のサイトへ飛んだりする。後はブラウザが古いとかプラグインの因果で表示されないという事もありうるので、ブラウザを変えるか、更新したりするとよろしかろう。

後、中では「拙」とは言ってないが、前回の話は、あくまでここで書くときの自称を変えたという話なので、喋りについてはご容赦願う。



【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 ストレート六杯目



では、よき終末を。


拙ない仕事人

2017-04-10 | 雑記
拙者、という自称があった。正確には今もある。それは、時代劇だとかそういうノリでしか使われないという意味で存在しているので、今もあるとなる。

この言い方は、かつて大学で言語学を習ったときに、教授が言っておったものである。構造学とかいうものの言い方で、共時的な分析というやつである。

さて、拙者というのは本当なのか?という話をちょっとする。別に学術的な考察をしようというわけではない。

明治以前の日本人は、喋る時と文章で書き表す時とがまるで違ったのである。

漢文を習ったことはあるかと思うが、それと同じく、というよりそれを下敷きにしているのであろう文語文と、喋っている風に書く口語文という分類である。

これは本当なのかは知らないが、拙、という自称があるという。セツ、である。

漢文調で文を認めると、「拙は」、と書くと「拙者」になるのじゃないか?という疑問がふと思い浮かんだのである。

時代劇で「せっしゃ」と言っているのは、残っている文語調の文書を現代の感覚で読んだせいで出来上がったものかもなぁ、などと、想像を逞しくしている。

というわけで、これからは「わし」といわずに、拙、で行くことにする。どういうわけかはまったく判らない。

ちなみに、この「拙」という自称は、とある格闘ゲームの忍んでいない忍者の自称だとかいう。知ってたらかなりマニアック。

わし、というのは、基本的に目下に対するぞんざいな言葉遣いなのと、某漫画家の真似という謗りを受けるのを避けるためである。

別に謗られた覚えはないのだが、ノリである。多分、酔っ払ったら「わし」とは喋ってる。

以後、自称を間違えたら拙は切腹する所存である。それくらいの覚悟で変えるのである。いや、本当に切腹したら死ぬからやらんが。



余談はこれぐらいにして、拙の日常をツラツラと述べようと思う。最初から最後まで余談を許さないのである。


ここ最近、というかもうずっとかもしれないが、所謂スピリアルっぽい話を書いている。

何せ、なんだか見えるとか、手を当てたら何か感じて温まって痛みが治まるとか、何を食っても美味いが別に飛び上がるほど感激するわけでもなく、「美味いみたいだな」となんとなく思うぐらいになっているだとか、寒いのに震えない上に、手足が寒さを感じたら、勝手に温まりだすだとか、言っている本人も訳が判らんところである。

多分、野口晴哉の言っていた気とかいうものなんだろうと。特に、先日書いた「愉気」についての実感による処といえようか。

「愉気」については、野口晴哉は、「誰でも出来ることです」と言っている。これが出来るから私は特殊な人間だ!とか舞い上がる人は間抜けだと言っておこう。


さて、なにやらオーラとか呼ばれたりしているものが見えるらしい、と書いてきた。

色によって特性が違うそうで、拙は一体何色なのか?と疑問に思い、試してみた。誕生日だとかで判るのだろうか?と思ったのと、色の分類が曖昧というか、人によって数や分類が違いすぎる。

試し方は以下である。

1.自然光、もしくは白色の伝統、じゃなくて電灯の元に立つ。立たなくてもいいが。

2.白い壁に手を置く。拙が行った時は、仕事場の机で、真っ白だったので試した。

3.その手をぼんやり眺める。目を離してはいけない。また、手に目玉をくっつけてもいけない。目が潰れるから。

4.お楽しみください。

とのことであった。お楽しみください、は書いてなかったが。

するとあら不思議。拙の場合は、水色っぽく輝きだしたものである。

水色?簡単な診断だと青だとか言われたし、水色と書いているのはなかったような?と思い調べてみたところ、水色の分類と特性を見つけた。

本当のところを言うと、その分類を書いてあったところに、上記の見方を書いてあったので試したら、水色が現れたというところではある。

さて、水色の特性は何かというと、賤しい、じゃなくて癒すらしい。

仕事場で見ていたページを見つけたので、他の色と一緒に併せてご覧あれ。

ああ、だからか。かつて大きな鳥やら竜と戦うオンラインアクションゲームをやっていた時、知り合ってよく一緒にプレイしていた方が、「あなたと話してると落ち着いてしまって、寝てしまう」なんぞと言っていたのは。

いや、これから狩りにいくんだけど?と、当時の拙はやきもきしたものである。

色々流し読みしてみると、必ずしも身に纏うオーラというのは一定しているわけでもないらしい。この色だからこれと、必ずしも決まってないのだとか。

とりあえず、昨日、仕事場で試した時に見えたのは、水色で白っぽく輝いている感じだった。電灯がLEDのせいで、ブルーライトの影響か?と思ったが、多分関係ない。

気やらオーラやらというのは、物質以前のものだというのだから。


癒し。確かに、拙は拙自身を癒したかったのである。他はどーでもいい、というとメチャクチャだが、最近も似たようなことを書いたものである。

というのも、わたしとはわたしとその環境である、というオルテガの命題に則って言うならば、二番目に書いてある「わたし」を変えれば、嫌でも環境は変わるはずだ、という考えが前提にあるからである。

それを忘れて、外、つまり、上で言う「その環境」をいじっても、「わたし」が前の環境の状態のままなら、また元に戻るだけなのだと。


恐らく、昔からそういうことを感じていたのだと思われる。風邪引いても薬を飲もうとしないし(身体の抵抗力が怠ける、と高校くらいから思っていた)、生まれ故郷より東京は寒いからと、寒さに耐えられるようにしようとちょっと心がけていたりだとか。某宗教団体の大学が東京にあるわけで、拙の親はそこに放り込むつもりだったからである。

一人でも寂しくないように、精神修養も欠かさなかった!といったら大嘘だが、なんやかんやで、目の前に他人がいないとつまらないだとか寂しいというのは無意味だと思い至ったのは事実である。

何で一人になるのだろう?と思わなくもなかった。とはいえ、愚兄に「一人になるな!」とか散々説教されたのは、鬱陶しいことこの上なかった。

それを思ったせいなのかは知らないがオーラの診断していたの同時くらいに、前々から名前は聞いたことのある、「ライトワーカー」とかいう存在の内容を読んでいた。

いわく、ライトワーカーは孤独な人が多いだとか、過酷な人生の場合もあるのだとか。

過酷かはしらんが、孤独といえば孤独かもしれない。親や兄貴に「某宗教団体含めて宗教はキチガイ沙汰だ。国内の他の宗教的伝統を貶すのは、自分たちが伝統になってふんぞり返りたいだけだろう」なんぞと言った所で通じないのは判っていた。

当時は別のものにかぶれていた。それは「日本的」という宗教だったから、拙自身も同レベルでしかなかったのだなと、今は思う。


それで、何でライトワーカー?と思われるかもしれないが、別に拙が光の国からやってきたとか言いたいわけじゃない。

二番目のリンクに書かれた、アメリカのスピリチュアルカウンセラーの方が示した具体的な特徴の最後の行が、正に拙のことだったからである。


世界を癒すための第一段階として、自分の人生を癒したいと思っている



世界とは大きく出たなぁ、と思われるだろうが、別にそれほど大きくない。というのも、世の中が言ってくる世界というのも、誰かのでっち上げた見た目は大きいが小さな見せ掛けなのだから、自分から見た世界を癒そうというだけの話である。

他に世界などない。己のうちから広がっていく世界を見ずして、何を語ろうというのか、というわけである。

だから、こうして延々書いているのだろう。これではLight workerじゃなくて、Wright workerだが。


今までずっと切なかった理由は、「拙」がなかったからなのだろう。もしくは見失っていた。

それで、「拙」ないことはもうやめにしようと相成ったわけである。

記事タイトルの「拙ない」は「つたない」の書き間違えではないことをお断りしておく。

まあ、色々と拙いのはご愛嬌ということで、御免被る。


では、よき終末を。



筋肉痛による空腹

2017-04-08 | 雑記
前回のオーラだとか靄だとかの記事のせいか、妙な閲覧数と訪問者数を記録していた。

お酒のブログだと思って来られた方には申し訳ないが、ある意味酔っ払っているような人が書いているブログなので、そういうものだと思っていただきたい。

酔っ払いの名言にもあろう。「俺はよっちゃいねえ」と。そして足元は覚束ないという。

一滴も飲んでないのに、正気を失った、失礼、酔っ払ったとしか思えない言動をするのを、自他ともによく見てきたもので、こういう内容になっているのである。


さて、最近はまるで霞を食っているかのようになってきた、という話をしているが、このごろはまあ、そこそこ食べている。

さっきも帰ってきて(0時ごろである)うどんを茹でて食べていた。その前に食べたのは、日付が前の夜七時ごろにトースト二枚だったが、その前は早朝の握り飯と、間隔は短い。

早朝から夜まで食事なし、はかつての自分では思いもしない間隔の長さだとはいえるが、これでも短いと言い出す辺り、どうかしているのかもしれないが、特に問題なく過ごしている。

うどんは二束食べたが、特に眠いという感覚も起きてこなかった。多少気を抜けば眠ってしまうのかもしれないが、腹いっぱいなのにしんどくないというのも、かつてはなかったものと記憶している。

明日は夜勤に入ってから、買っておいたトーストを焼いて食べていることだろう。その間は?茶でも飲んでいる。


改めて、ブリサリアンという人達の感覚による定義を書いておく。

食べないからブリサリアンではなく、食べ物によって生きてはいないからブリサリアンである、とのことである。

それなので、食べているブリサリアンもいると、実際に言っているようだ。五感を超えようとしない人が英語で「五感を超えて」とかいうタイトルのHPを運営していた時に紹介されていたリンク先のページにあったものである。当時からあったが、同じタイトルの別のHPがあるので、間違えないように。

以前書いたので割愛だが、野口晴哉も同じようなことを言っていた。

『魔術入門』でバトラーも、「食べるのは大事だ」と書いていて、食物の栄養が必要とは言っておらず、「エネルギーを取るために」と書いていた覚えがある。

エネルギーとかいうものは、栄養学をひっくり返しても出てこない。カロリーは出てくるだろうが、カロリー=エネルギーとは言えそうもない。


なら結局食べ物に頼っているのではないか?この世が牢獄だから脱獄するんじゃないのか?といわれるかもしれない。


お間違えなきよう申し述べておく。

五感に溺れた誰かさんは、果物と野菜と、チーズとかは除外だろうが醗酵食品を食べるとかいっておったようだが、それを食うために生きているだけである。

バトラーの理屈から言えば、食うのは手段であって、尊いと勝手に崇めている食べ物を食べるという目的ではないのである。

この世の労働というのは何のためにあるのか?

つまるところ、食うために、つまり、食うことが目的だから、そのために行われているのではないかな?

その誰かさんは、「フルータリアンになるために色々やってきたんだな」などと言っておった覚えがあるような気がするが、つまるところ、この世の大抵の人が好きか嫌いかを問わずに続けている労働社会の延長にいるだけなのである。

それは、ビルで働いているか、森で働いているかの違いでしかないのである。

森で働いているのをさも素晴らしいことかのように讃えているのは、大体の人がうなずく「自然はスバラシイ」という既成概念がある故であり、これを吹き込んだのは誰かは考えていない。さも、生まれつき持っていると思い込んでいるだけである。
その自然というのは、目に映った物質世界であり、つまり、それは偶像崇拝に過ぎない、というのも以前書いた。

現代なら、マスコミが環境破壊がどうこうと垂れ流しているわけで、怪しむべきではないのだろうか?

そしてなおかつ、精神と肉体という、基本的に離れることが出来ない、自身にとって一番身近な物質に対するフェチズムを日々強化するのが現代社会、というよりずっと昔からだが、それらは幻だから気づきましょう、と言っているアイクを翻訳しておきながら、自らその罠に嵌っていく。

彼の者は、牢獄の中で模範囚になりたいだけで、脱獄を試みる気などない。脱獄しましょう、と言っている人の話を最初から馬鹿にしていただけである。

ただの模範囚の癖に、森に入っただけで「脱獄した」だのと言っている詐欺師でしかないので、似たようなことを言う人は詐欺師と断罪して結構。


とまあ、こういう事をずっと書いてきた。「アイクを翻訳したことがある」とか「五感を超えての英訳名のHP」というキーワードで特定個人を指してはいるが、こういう思考回路はそいつだけが頭おかしいんじゃなくて、現代社会はこういうバカを量産するようなところがあるのだよ、ということをちょくちょく書いている。

ただ、最近になって思うのは、世の中という幻は自分が見たいように、ある程度捻じ曲げられてはいるのかもしれないが、自分が見たいように見ているというわけで、自他のバカバカしさというのは、そのことに気づくための足がかりなのかもしれないな、とは思っている。

だから、ブッダも「己自身にしがみつけ」とかいうことをいってたり、五感に囚われるなとか言ったのだろうと思う。

囚われるな、であって、五感を断てというのは、後代の拡大解釈だと思われる。

それに類するであろう逸話があって、ブッダが断食やってて飽きたくらいに(こういう書き方はノリなので、真に受けないように)、スジャータという女性が乳粥を持ってきたが、ブッダはそれを受け取って食べた、という説話があるのだが、これは隠喩だそうな。

乳粥が、実は精液の隠喩であり、女性と乳粥というのは、セックスのことだった、という話を・・・多分、「五感を超えて」の裏フォーラムで聞いた覚えがある。

どこぞでソープ通いで有名になっていたことがあったという麻原もどきは、スジャータの乳粥の虜、つまり、五感に溺れているくせに、嘘偽りのタイトルをつけておったのだろうな、などと思うのである。もしくは超えたかった・・・のだろうが、超えなかったと思われる。現時点では知らないが、アイクにつまらん難癖をしただけで超えたと言い出した辺りは、とち狂っているという以外に言葉はない。

その麻原もどきが最後に翻訳した、アイクのメールマガジンの一節をうろ覚えで書いておこう。

内容は、かつてハワイだかのニューエイジャー達に、世界に渦巻く陰謀を伝えに行ったら、門前払いされた、という話である。

彼らは古き良き健康的な生活をしているが、それらもこのままではいずれ奪い取られるだけだということを伝えようとしたら、耳を塞がれたと。

そして、アイクはこう締めていた。「健康に越したことはないが、だからといって判るものではない」と。

健康病、という皮肉があるが、まさにそれは、現代社会の流行り病なのである。

本当に五感を超えるなら、物質に惑わされることはないのである。

なぜなら、バトラーが言っていたが、三次元としての人間ではない人間が、この世を作ったのだから。



さて、余談は終る。

余談?と思うが、こういう話は何度もやってきた。何故か延々書いてしまったが。


先日、夜中上がりの帰る直前に、客から「冷蔵庫がおかしい」と連絡を受けてしまい、地下から運び出して交換する、なんぞという目にあった。

なんやかんやで三十分ほど掛かったので、チーフに冗談で「残業代でももらいたいところだ」なんぞといったら、本当にくれた。

なんでも、以前の役職時代の機密費だとか。ありがたく受け取っておいたものである。


そこは別に関係ない。立方体型の冷蔵庫を一人で持ち運びしたせいで、腕が筋肉痛になってしまったという話である。

二日目になる昨夜になって、ようやく痛みが激しくなってきた辺り、わしも歳を食ったのだろう。違和感だけなら運んだ次の日にもないこともなかったが。

揉んだりすると余計ひどくなる。身体とはそういうものだ。

なら、どうするか?というわけで、思い出した。

野口整体には、「愉気」というのがある。手当てだとか手かざしである。

悪いところに手を当てて、治れとか思わないで無心になってゆっくり呼吸しているようにする、というものがある。

これだけを取り出して宗教やってたりする人もいるが、別に悪いものではないんで、難癖はつけないように。

それはさておき。


とりあえず、右手を左の痛くなっているところに当てた。

しかし、無心になるってどうだろうか?と思ったので、前回書いた、オーラを見るだけでぼんやりしてみた。

その時、不思議なことが起こった。メタルライダーになったわけではない。

ほのかに、あてた手の方から患部に、何か伝わるものがある。

そして、かなり温かい。息を吸うと引く感じで、息を吐くと、あてたところに熱と何かが伝わるような具合になるのである。

ああ、これが野口晴哉の言っていた「愉気」なんだなぁと、感じ入ったしだいである。

さすがに筋肉痛は取れてないが、肘の関節辺りに試したら、すっかりよくなったようだ。

そういうことをフロントのカウンターで座って試していたせいか、うどんを二束食べるはめになったのである。

何を食べるかではない。どう食べるかである、とは、野口晴哉の直弟子の方のHPで書いていた。

この場合のどう食べるか、というのは、食べることに瞑想的に集中して食べるべし、という意味であったのだが、わしは気を使うために食べているとなったのかもしれない。

人に気を遣うような文章は書いてないぞ、という突っ込みは無しの方向でお願いする。


では、よき終末を。


二合飯がやっと

2017-04-07 | 雑記
身体のあちこちを妖怪に乗っ取られてしまった、という話を散々書いてきたが、最近はどうも、室内にもいるらしい。

寝ようと思って布団を敷いて横になると、電源を切ってしばらく経ったはずのモニターから「バチッ」というような軋む音がする。

しばらく前はかなり寒かったので、温度変化のせいだろうと思ったりはしたが、寒いままの部屋でしかもつけてなかった状態で寝てたら鳴っている。

後は、壁から音がする。隣のいびきではないが、たまにパキパキっと鳴ったりする。某宗教団体のせいで小さな仏壇があって、最近はその辺りから音がしたりする始末。

部屋が傷んでいるのでなければ、きっとポルターガイストでもいるのだろうと思うことにした。これは多分気のせいなので、胃だとか目だとかの妖怪よりは普通だと思われる。


さて、最近、物から煙のようなものが見えるようになった、という話を書いた。

そして、顔見知りが実は人のオーラが見えるとのことで、わしは黒っぽいとかいう。馴染みの店に最近勤めだしていて、そこの料理人は漆黒だと言われたとのこと。

しっぽくだとうどんだが、黒と漆黒の違いはなんぞ?と思い、オーラ診断だとかを見てみたら、どうやらわしは青っぽいらしい。

誕生日のやつだと、メインが黄色で、サブが青。なにやら質問に答えるのに漫然と答えたら、深みのある青、なんぞといわれた。

別の質問に答える奴も試したら、これまた青とか言われた。ちなみに、深みのある青とか先日言われたところを試したら、青なんてでなかった。

どうやら、青が黒に見えたのだろうと結論付けた。

そこはともかく。

このオーラとはなんぞ?と思ったら、気と同じものを指しているらしい。このページの下の方にオーラの見方だとか、それで催眠術が出来るとか書いてて、まんま野口整体じゃないかなと。

黒いオーラは調子が悪かったりするとかいうのだが、かの野口晴哉は、バスに乗っているときなんかは、ずっと腕組みをしていたという。

なぜかというと、人の悪いところが黒く見えるので、つい手を出してしまいそうになるのを堪えていたそうな。

わしはまだ見えただけで、何色かというと白っぽい靄ばかり見える。ただ、先日、自分の身体から立ち上るのが見えたが、青く見えた気がする。作務衣が濃紺だからかもしれないが。

部屋のガジュマルを眺めてみたら、これも青く見えた気がする。きっと紅茶は英語でブラック・ティーとか言ったりするので、黒いのだろう。物にもよるのかしらんが。

バイオンを見ようと眺めていたら、これがどうやらオーラを見る訓練になってたのか、それで見えるようになったらしい。

見えるなら、使えるのだろう。それで、手足が冷えても身体が冷えない状態になったり、飯も睡眠も重要さ加減が減ったのかもしれない。


オーラの話は措くとして。


先日、ふと思い出したことがある。昔見た夢の話である。


仕事場の同い年の女性と、電車でどこかに出かけているらしい夢を、何年も前に見たものである。

ただ、当時から不思議に思っていたのが、その女性はこちらより少し背が低い。

当の仕事場の女性というのは、こちらとほとんど背が同じ。あれは一体誰だったのだろうか?と、当時は思ったものだが、すっかり忘れていた。

それで思い当たったのが、今年になって出会ったというお嬢さんだったのかもしれない、となった。

まあ、最近会えてないのだが。


これは本当にうろ覚えなので、気になる方は気合で話を探してもらいたいのだが、上の夢の話を例にして書く。

今年になって出会ったというお嬢さんとは、かつてその夢の中で出会ったというわけで(お互い知っていたわけではないので、ご注意を)、改めて現実で出会う引き金が、「話の合う年下の女性が欲しいな」とわしが思ったことで、これは最近そう思ったからというわけではなく、元々そうなる流れがようやく来ただけの話である、という意味合いの話を、昔どこかで読んだものである。

人それを運命という。ただし、運命と一般に言っている物とは趣は異なる。


他で例えれば、ゲームとか漫画の気に入ったキャラがいるとする。

これは、なんとなくこういうのが良いなと思い浮かべていたのが、巡り巡って誰かが描き上げ、そして自分の前に現れた。確かそんな例えを書いていたような気もするが、先ほども断ったように、うろ覚えである。


昔、あのおっさんが持ってきた『トランサーフィン』という成功の法則の本にも書いてたが、世界という鏡に映した自分の姿というのは、遅れて動き出す。

動いたこと自体は既に済んでいるので、後は世界が追いつくのを焦らず待つべし、という。


所謂現実といわれているこの世界は、物理学者が言うまでもなく、例えば魔術の理論で既に「人間が作ったもの」という事を述べている。ここでブログを書いている意味だとかでの人間ではないのだが、物質以前のものが作り上げたといっている。

物理学者がいうところの靄みたいなもののわけで、靄がモヤモヤ動いてボワッと出来上がるには、多少の時間が掛かるというわけである。根気も要る。根競べである。


さて、これまた冗談みたいな話だが、小説を書くというのを瞑想の訓練として行っていると、たまに書いてきた。

次を書くまでに、あれやこれやと想像していたわけだが、その中で、里帰りするとかいう構想があったものである。

そして、忘れたころに弟が病んで里帰りした、という状況に出くわし、実際にわしも弟に会いに里帰りしようかと考えたら、そんな構想をしてたなぁ、などと思い出したしだいである。

まあ、ちと金がないので、親に金をせびるか、クレジットカードで払うか、というところである。いつまでも、あると思うな親と金。

弟が病んだ、とかいうのは笑えない話であるが、世の中思った通りに動いているのである。

靄はモヤモヤしてなかなか集まってこないが、焦ってはいけないのである。

つまり、お嬢さんにしばらく会えてないからと、わしも焦ってはいけないという戒めなのである。

焦って二合飯なんぞかき込むと、眠くなって大変なので。


では、よき終末を。


かつても今も

2017-04-05 | 雑記
今は恐らく一時期かもしれないが消えた、しつこいコメント氏は人類の姿にとらわれている、よくある一般人だが、それは宇宙人に操られているか、宇宙人でしかない、そのようなことを書いた。
そんな内容だったか?というとかなり掻い摘んだのでこうなっただけだが、宇宙人と会話しているような、まったくの噛み合わなさだったことだけはわかるかと思う。

さて、そんな宇宙人のことだが、わしも覚えがある。かみ合わない上に、相手を怒らせるだけの意味不明な言葉遣いで、という意味においてである。


若かりしころ、といっても十数年前の二十歳前後のことだった。


ある日、大学の同期とメールをしていたのだが、なんのやり取りだったかは覚えてない。

何かで面倒くさくなったのか、そのしばらく前に読み終わっていたオルテガの『大衆の反逆』の一説からか、そこから書いた西部邁から取ったような話をついメールに認めた。

確か、大衆と貴族の違いがどうこうで、貴族ってのは色々と背負っていかにゃならんので、大衆脱却には色々と背負わねばならんのだろう、といった具合だったと思う。

そうすると、「あんた、わたしをバカにしてんのか?」と返ってきたものである。

何か知った気になってつまらんことを言うのは、誰にでもよくあることだ、という具合である。

それが高じると、宇宙人になるというわけだ。人類は宇宙人に操られているというのは、冗談ではないのだが、上記の如くの冗談みたいなレベルから操られているといえよう。何を言っているのか判らないという人は、とりあえず、デーヴィッド・アイクの著作を読むべし。


何か究極のことを知った気になって、まわりを見下したり、または憐れみの情を装ったりするのは、どちらも同質のこと。

それはしばらく前に、人体の脳みその分類を引用して語ったとおり、脳の上っ面しか使ってないということである。

利他的な脳みそ(人間らしさを司る進化した部分)か、最低限の生存のための脳みそ(R複合体と呼ばれる原始的な部分)にある思考回路に沿った動きでしかないと。

そして、それらは表現が違うが流れが同じなので、どちらも吸血鬼、または近年の西洋側の研究名でエナジー・ヴァンパイアなのだと書いたものである。

最初に書いたのは、文字通り吸血されたらしもべか同質の存在になる、だったが、人の姿をしている以上は、皆なりうるし、上記に思い至ったので、どちらも同じだとした。

冒頭にも書いたコメント氏は、「仲間に引き入れるために、正しい知識を授けたかった」といっていたが、それはまさに吸血行為である。それは仲間ではなく、しもべを作りたかったといっていることに気づかない。

正しい知識とやらのしもべであり、そのしもべと化したものの仲間というわけだ。

人の姿を原因として考えると、こうなっていくのだろうといえる。結果と原因を取り違える話は、度々やったが、前回にも書いた。


ブッダは「己の見解を真理と見なしているに過ぎない」といった。だから、これがあれが真理だといって争いあっているのだと。

では、真理とは何か?となる。ブッダのいう事は単純で、「今を生きろ」であり、五感やそれに付随する感情に惑わされるな、である。

つまり、全ては幻なのだといっているのである。別に、物理学者が最初に言い出したわけではない。

アイクの言のほうが判りやすいだろう。人類は、人類という体験をしているのだと。

それは、映画を見ているのと同じなのだというわけである。これもアイクが言っていた例えである。


日本語訳で「五感を超えて」なんぞと銘打ったHPをやっていた割には、飯を食うときは舌鼓を打つというよりも、無上の喜びの中で貪り食っているような御仁がいたものだが、アイクが何を言っているのかは、翻訳しておいても理解する気がなかったようである。

ブッダの言うとおり、「己の見解を真理と見なしているに過ぎない」のである。


そんな彼らは、文明とそれに溺れる人類を見下し、「滅んでしまえ」と呪っていたという話は、何度も書いた。


しかし、森での生活というのは、現代で一般に流布されている知識だけでも遡りうる限りの、最古の文明ではないのか?

いかに現代の文明が唆されたものとはいえ、我々人類が作り上げた文明である。ついでに言えば、唆す以外に出来ないから、唆して作らせたというのだが、そこは措く。
唆したのは宇宙人である。アイク等を参考にどうぞ。しつこい宣伝だなぁ、これ。

現代文明を呪うということは、「文明を作り上げる人類という体験」自体を呪っているのであり、それは言うまでもなく、己自身を呪っているのである。

己自身を呪うというのはつまり、アイクの言うところの「精神と肉体の牢獄」に自らを繋ぎとめ続ける行為なのである。

森に入って現代社会のマトリックスを抜けたと思いたがるのは結構だが、それはかつてのマトリックスにはまり込んでいるのである。

上記の如く、自らを牢獄に繋ぎとめていることを理解しないからである。


例のHPの御仁は「アイクが言っている事は昔から言われてきたことに過ぎない」と語っていた。

現代に至っても、昔から言われていたことがそのまま当てはまるのが、我々現代人に過ぎないと、自らを語っていたのである。

己の見解を、つまり己の人類という体験を絶対視し、そこから物を決め付けるという、結果を原因と見なす愚を繰り返しているのだから。


アイクが引用していた物理学者の見解を改めて書く。

それは、物質というのは我々が思っているような確たる形のあるものではなく、靄だとか波のような状態で、これは人の意識で動きうる、と言っていたそうだ。

物質、つまり、全てだが、これは我々が作ったものなのである。唆されて作り上げたというのもあるが、どちらにしても作ったものである。

そういうことを言っているのに、「森に入るのが正しい」と、いくらでも作り変えられるし作り変えられてきたものにすがりつくというのは、「今を生きて」はいない。森に入った御仁たちは実際に「今を生きていると」語ってもいた。

己でもない過去にすがりつき、他人を見下す姿勢は、動物未満である。人類を唆しているという宇宙人の姿そのものである。

「正しい知識」、とやらについても同義である。己ではないものにすがりついて、他人を見下しているに過ぎない。

「今を生きている」などというのならば、その今は何かを自覚すべきである。それは、目の前にある対象でも己だと信じているだけに過ぎない肉体や精神ではない。

アイクが言う、「人類という体験をしていること」が今である。これ以外のものは幻だと自覚する以外にないのである。

だから、アイクの言っている事は昔から語られてきたことには違いない。違いないが、通じないのも同じだというわけである。

昔よりは通じているのかもしれない、とは感じているが、それはわからない。


世にあること起こっていることは、これを理解するためにあるのだと思えば、何をやっているからだとか、何を知っているからだとかの無意味さがわかろう物という訳である。


かつても今も「己の見解を真理と見なす」お遊びを、人類は続けているのである。


では、よき終末を。


結果と原因

2017-04-02 | 雑記
四月になったというのに、寒かったりする。いまだに冬のコートでお出かけである。お出かけと言っても、出勤である。

ここには載せてないが、マフィアみたいな格好で出かけている。なんせ、首からマフラーを垂らして、さらにハットまで完備。

「機関銃で殺されるかと思った」は仕事場の人の感想。イメージは英国紳士と、コートを仕入れたセレクト・ショップの人の言である。

ただのウールのコートで、ダウンではなく、秋から冬までのものかと思っていたのだが、結局冬を通して着ていた。

セレクト・ショップの店員さんの言では、「シャツの上からセーター着たりするとよい」だったのだが、シャツにブレザーにコートに麻のマフラーというスタイルで、春を迎えてしまったのである。

このままでは、春眠暁を覚えずどころか永眠か?と思ったが、特に問題なく過ごしている。


さて、三月のある夜。夜中上がりの仕事が連日だったので、寒い中を歩いて帰っていた。

寒いなぁ、とは思うのだが、特に体全体が震える感覚に襲われることもなく、平然と歩いている。

出している手が冷えるな、と思った矢先、肘より体よりの方から、何か伝わってくるものを感じる。

すると、冷えた手の感覚がなくなった。鈍くなったのではなく、温まったのである。

なんだろうか?と思い、辺りを見回す。いや、外を見ていたのではなく、身体の感覚を見回したのだ。

それは、腹の方、つまり、身体の中心のほうに熱があって、ここが冷えてないから、手先や足先が冷えても別に問題がなかったのである。

なるほど、と思い、寒さを感じる時に何度か注意を向けてみたのだが、いつも同じ感覚を覚える。

いくらブーツを履いているからとはいえ、足も寒いはずだが、手先の方ばかりに気をとられていたので忘れていたが、足も温かくなっていた。

昼間温かい日が三月もあったが、夜の気温は一桁の前半だったり、住んでいる場所は夜中に氷点下を示している日もあったのだが、気づけば暖房もつけずにこうやって記事を書いている。

その上、冷え切ってどうしようもないから、風呂でも入りたい、といった具合もない。

ためしに、ワンルームの窓の通風口を開けておいたのだが、別になんともなく、ここしばらくそのままで寝起きしていた。

二月の頭にインフルエンザっぽいので寝込んだ以来、風邪らしい症状でクラクラするというのもなかった。


人の身体というのは、改造できるのだなぁ、と感慨に耽ったものである。昔はよく風邪を引いていたのに、この状態なら引きそうもないなと。


手が冷えるから何かで温める、足についても同文、というのが常だったが、やればやるほど冷えていた。

これはつまり、身体で温まっておくべきところが冷えているから、手足も冷えていたと。結果と原因を取り違えていたというわけである。

そして、対症療法をやり続けて、本来温まっておくべきところがどんどん冷えて、冷え性になるのだろう。

ニーチェも書いていたが、科学は結果と原因を取り違えていると言っていた。

端的に言えば、胃潰瘍の原因は胃が悪いから、という流れだと思えばいい。

ストレスが原因だ、という意見も出てきた。ストレスに負けて胃に穴が開くと。

じゃあ、ストレスはなんだ?となる。対人関係か?環境か?と。それで、殺菌と同じ感覚で退治にかかる。

対人関係が悪いからといって、別に殺人セヨ!という話ではないが、大抵は対象をどうにかしようとするのが、現代社会のよくある風景。

無理に嫌な対人関係を続ける必要はそもそもないのだが、嫌な対人関係というのも、そもそも結果だといえる。

結果を原因として、そこから話を考えるから、話はこじれていくのである。

その対人関係を無理矢理やめたところで、つまり引っ越したりだとかで離れたところで、同じ事を繰り返すこととなる。


これはつまり、己と己自身という対人関係が原因だった、ということになる。

一番最初の他人とは、実は自分自身だった、というわけだ。


というわけで、最近、自身に起こった話を書く。


わしは、何か嫌なことがあると、かなり引きずる性格だった。ああ、例のおっさんの件?それもあったか。

自分が原因だったにしろ、相手が理不尽だったにしろ、たまに思い出して、怒りに我を忘れそうになることも、多々あった。

しかし、それがめっきりなくなった。有った事を思い起こすことは出来るのだが、感情を引きずられることがなくなったらしい。

具体的な件を書く。

ある日のこと。仕事はホテルの従業員。フロントにいたら、常連客がやってきた。

しかし、予約がない。そして、相手は予約したはずだという。

「見当たらない」と伝えると、相手は怒鳴るほどでもなかったのだが、すごむような感じで「客を嘗めるなよ」と言ってきたものである。

この予約の件は、実は別のスタッフが前に受けていたにも関わらず、書き起こすのを忘れていたミスであり、実際は自分自身のミスではなかった。

これが以前なら、時折思い出しては嫌な気分になるのだが、なんともない。

なんたらの法則的に、その常連客もどこかで客を嘗めるようなことをしていたがゆえに、めぐり巡って嘗められたのだろう、という、メチャクチャなことを思いついたくらいだった。

あの台詞は、実際はその常連客自身のことだったのだろうな、という具合である。


つまり、何がいいたいのかというと。

自分なんぞというのも、別に決まりきった型なんてなくて、変えられてしまう、ということである。


何度か話に書いてきた、シャイン氏。彼も言う。「自分の性格って変えられないものなんだろうな」と。

それで、上記の話をしたものである。以前なら問題だった寒さや空腹がなんともなくなったのと同じく、性格も同様に変わったのだよ、と。

普通なら順序は逆な気がするが、気がついた順がこうだった故である。



感情というのは、記憶による条件反射である。
塩と砂糖を間違えたとかでまずかった料理を食べて、ちゃんと出来ている同じ料理をもまずい料理だと認識するのは、こういう理由である。

記憶とは、経験の蓄積である。しかし、経験とは何か?となる。それは、結果を経験しているわけで、違う結果を経験したなら、すぐ取って代わってしかるべきの、曖昧なものなのである。

記憶というのもまた、脳内の化学物質による情報である。敢えて言うなら、錯覚となる。

錯覚を確固たる物としていたが故の、以前のわしの性格だったというわけである。


野口晴哉が書いていたが、気は物質以前の存在であり、心だか感情は、気の流れるほうに動くという。

また、一粒種が大樹になるのは、気が大樹に育てるために必要なものを集めてきたが故であり、根を掘り返したり解剖したりしても生命の本質は見えてこないと言っていた。


アイクは、物理学者の所見を引用し、この世は映画の『マトリックス』とまったく同じだと述べている。確固たる物質世界だと思っているだけで、全ては幻だと。


結果を経験している、と書いた。それはつまり、まずい料理をまずいと決めているのは、料理が原因ではなく、あなた自身だというわけである。

とはいえ、また味付けを間違えていたらまずいことには違いないだろうが、新しい料理と思えば問題ないだろう。

そもそも、その料理の見た目や匂いや味という錯覚がその前提にあるが故の、結果なのだから。


だから、この世という料理はあなた次第で、美味くもまずくもなるわけである。


では、よき終末を。