ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

在りし日のおもひで

2015-07-26 | 雑記
あの日あの時、思い出せば今のことのように・・・思い出す必要もないのだが、忘れていたことを思い出した。

それは・・・ある人の名前。

ええっと、豚彦?ちゃうちゃう。



まあ、豚も人も変わらんので間違いではない。正しくもないが。


というのも昨日のことだが、仕事場で「オナゴがどうこう」という話を、何かのきっかけでしゃべっていた。


そういえば仙人も(実際には仙人などとは呼ばれていない)、以前何がしかの人と付き合うだの合わないだのという話がなかったか?といわれた。


ああ、そういえばいたな、と、それは思い出した。


名前がしばらく出てこなかった。


夜勤の帰りがけに思い出すという遅延ぶりであった。





名前は重要ではない。別にスピリチュアルだとかを気取っていっているわけではなく、話の本筋には関係ないからだ。

それに、関係のないニンゲンのことをあげつらうようなことを書いても致し方あるまい。


最も言えば、誰とも関係はない、とはいえるが、それはまた別の話。



そのオナゴというのが、何でも、母親が病気で倒れて仰天して、などと書くとどっちも倒れたのかと思いそうだな、まあとりあえず激動の人生!というのを感じた。

そしてなにやら読み漁るうちに、「人の食べるものは果物!」という話に行き着いたそうで、そこまではいい。いいとか悪いとかではなく、どうでもいい。



まだわしが、某上人の下にいたときであった。権威としては一般的に重宝がられる歯医者という職業の方が属しており(などと書くと皮肉がきついが)、そのオナゴはメールを差し出したそうである。

「フルータリアンの旦那を探している。助けて欲しい」というような内容であった。


ウィルヘルム・ライヒの理屈にそってものをいっていた上人のお膝元、わしもオナゴが必要なのかも知れぬ、と考えていたわけで、渡りに舟であろう?というわけでいきなり紹介してきた。

ライヒの理屈云々はもう何度か書いたが、別に是非はない。ないのだが、万人の万人に対する万の状況に応ずる万能な話など基本的には理屈の世界にはないので、これもまた釈迦のいう、「己の見解を真理とみなす」という程度のものであろう、などと思っているので、改めてはいわない。


そして、メールがやってきた。


この話は実はずっと前にやったのだが、まあもののついでである。

一言目にあったと思うが(使っているメールのリニューアルで、消えた)、こうあった。

「フルータリアンで子供を育てたいので、旦那を探しています」と。

ああ、何かひっかかるなぁ、というか、お前はどこを見ているのだ?であったので、そのことについては、何かのきっかけで音信不通になったあと、上人の膝元から離れてから書いた。



そーゆーことを喋っていたら、オナゴについてしゃべっていた奴はこういった。

「いきなりそういうこと言われるのって、重いですね」


はた、と膝を打つような感じだった。


「重い」のである。

どれくらい重いのか本人はまったく自覚していないので、余裕や見境がなくなっていることに気づかない。


これをこれ、生存の不安に脅かされているという。


『スッタニパータ』のごく最初にこうある。

33 悪魔パービマンがいった、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)するもとのものは喜びである。執著するもとのない人は、実に喜ぶことがない。」

34 師は答えた、
「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
※脱落がひどいので直した。
という。



執著である。前々から何度もいってきたが、喜びと不安(上に言う「憂い」)は同じものだ、という話である。




執著に取り付かれると、人は人らしさを見失う。まあ、一般的に言えば、「お前の方が人でなしだろう!」となじられるだろうが、そういう言い方もまた人でなしであるな、と答えておく。



仕事場の話し相手はごく一般的な「重い」という言葉で評したが、その重い理由はこれである。



以前にも書いた人でなしの言葉を再録するならば、こうである。

「子供を育てるのが目的であるならば、養子でも精子バンクでも好きなようにすればよい」と。


その「重さ」に苦しめられていることがワカラナイので、余計に苦しいことばかりして、そして人に不快感を与えるのである。






さて、こういうのは別にイキオクレのオナゴばかりではない。おっと失礼。フルータリアンがどうこうなんぞといっても、やってることは同じだったのでな。



別に物新しい話ではない。



簡単な話である。


ベジタリアン、いや、教条的ベジタリアンと書こう。所謂ベジタリアンという彼らの思考を全部知っているわけではないが、彼ら(の全員ではないが)が「肉を食らうものども」と蔑む存在と何ら変わりないことをお伝えする。


この話は込み入っている!うろ覚えでせーしょの話をしなくてはならぬ!漢字一字違いの書なら歓迎したいところだが、捨て措く。


さて、詳しくは忘れたが、聖書には家畜を従えよという風には書いているが、食べろとは書いてないからおかしい、という理屈はあるそーだ。

ここは余談である。家畜はいざとなったら食べられるようにするから家畜であって、家畜のためになけなしの食料を分け与えるのが目的ではない。

そこはどうでもいい。

で、西洋人の理屈ではこーゆーそーだ。聞いたことがある人もいるだろう。

「動物は人間のような知性はないから、家畜にして食べてもいいのである」といった理屈である。


聖書には「右のほほ肉を食べたら左のほほ肉も食べろ」とは書いていないが、ま、珍妙な突っ込みはしておいた。


しかしこの理屈、どこかで聞いたような・・・?


こ、これは!メイソン!?


ほんとに書いているのかはしらんが、ユダヤ教の秘儀の書には同じ理屈がある。詳しい人はご存知だろう。

曰く「真理を知らぬ非ユダヤ教徒は家畜同然に扱うべし」というやつである。彼らがゴイム、と呼ぶ存在についてである。

つまりは、大抵の一般人のことである。



何度も言うが、個人の体質だとか好みでベジタリアンとかフルータリアンやっているやつはまともな人間である。人間が認定する人間というものがまともであるかはまた別の話だが、とりあえず。


どこぞの上人達も、ま、わしもやっていたのだが、こういうのである。


「動物を殺して食ったり自然環境を破壊しているような人間は馬鹿だ死んでしまえ」と。


「正しいことを知らぬからだ」というわけだ。ついでに、馬鹿すぎて知ることも出来ぬ、ともいっていた。



これとイルなんとかの思想にもなってるとかいう、ユダヤ教の秘儀の理屈と何が違うのか?違いがあったら教えて・・・くれなくてもいいや。



これもなんと「重い」言葉であろうか。重すぎてそよ風が運んでいくくらいである。




以前も書いたが、欧米の心理学では「エナジー・ヴァンパイア」という理論があり、研究されている。

これを日本語で言うと、生霊だとも書いた。


食い物のエネルギーというわけではなく、精神的というか、生命力や活力とでもいうべきものを、あたかも吸血鬼が血を吸って生きながらえるが如きの存在である。


平たく言えば、「いじめっこ」の内面というわけである。

いじめっこ、などと書くとなんだか和やかに聞こえないような気がしないでもないが、平仮名と響きだけかもしれないので措くとして、なにも「いじめ」は学校だけではない。

アリス・ミラーの研究などにあるような、親から子への「いじめ」。また、その親はその親から、もしくは社会などの外的環境による「いじめ」の被害者だったりもする。


「いじめ」の話は何も学校だけではない、とは書いたが、よくマスコミで取り沙汰されるのは学校の話である。

いじめが激しくて子供が自殺した、という話はよく聞く。よく流しているだけ、ともいえるが、ともかく、「いじめ」は学校だけではないのだから、会社とか何人も自殺してるとか言う自衛官の話だとかは一切出ないのはどうしてか?というのは触れて欲しくないらしいので触れないが、さておき。


教育学者だかなんだかがこういうのを聞いたことはあるだろう。耳にタコが出来そうなレベルである。

「いじめをするのは命の大切さを知らないからだ!もっと命の大切さを教育すべし!」というやつである。


さて、「エナジー・ヴァンパイア」の理屈からすると、これは実は十分と言っていいほど成功しているのである。

なぜならば、彼らは「己の命がとても大事であると感じているがゆえに、他者からエネルギーを奪っても良いのだ」と考えているからである。「命を大事にしている」のである。
本当にそう考えているかはインタビュー・ウイズ・ヴァンパイアをしたことがないし、したところでワカラン。
命は大事、というのをしっかり守っているのである。所謂本能であろう。


人間こそ尊貴たるもので、他は賤賊である!というのが聖書の理屈であるといわれている。実際はそうではなく、神も人間も不完全で間違いばっかりするのだ、という話を書いているものだと、ひろさちちやは書いていたが、実際自分で読んで考える人はあんまり多くないと思われる。人のことは言えんが。

それで、こういう風になったのは、ユダヤ人がエジプトで奴隷になっていたからだ、という心理学的な考察もあり、疑いの余地はなさそうである。


奴隷から離れたのに、人を奴隷にしなくてはやっていけない。それは「己が命以外は賤しく価値のないものである」という理屈ではないだろうか。

約めていえば「命を大事にしている」のである。

そしてその命は、奴隷は「重かった」ということが忘れられないので、未だに振り回されているのである。


己の命が大切か?ならば他の己も同様に大切である。あっちとこっちの己で殺し合いをするのか?

それでは結局、奴隷の「重さ」から一歩も離れていないのである。片方を撃ち滅ぼしたところでな。


生き物として肉体を持ち生きているという意味では命は大切である。だが、ただそれだけである。

「エナジー」を食らい続けたところで常しえに美しく健やかに生きてはいないのが、生き物である。


ならばこう考えるべし。


「己の命の「重さ」の奴隷となるな」


その「重さ」というのもまた、基準でしかない。蟻には重いかもしれないが、台風の前では塵に等しい。



とはいえ、このような言葉は、現代には届かないともいえる。


先ほどの教育学者だかの言葉にもあるように、命の「重さ」を訴え、いかにその奴隷となるかを流布するのがこの世の常である。




教条的ベジタリアンとかいうものの話に戻る。


彼の者は訴える。「我が命は脅かされている」と。

何が彼を脅かすのか?

それは、奴隷の「重さ」に押しつぶされているからである。上記の「己の命の「重さ」の奴隷」である。

そのような「重さ」はまやかしである。


悪魔パービマンは言う。

「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)するもとのものは喜びである。執著するもとのない人は、実に喜ぶことがない。」


そして釈迦は言った。

「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著する元のもののない人は、憂うることがない。」



己の命の奴隷であることに執著することは、愚かさへの近道である。

奴隷であることを捨てられなくとも、執著していることに気をつけねば、生霊に堕する事であろう。



でもまあ、こうもいうよねぇ。

なんでもぉ、イルミナティがいうにはぁ、「汚い肉体を滅して清らかな精神と魂だけにしちゃおっかなぁ」ってぇ。

それならぁ、生霊はとても清らかな存在だと「重い」まぁす!


ああ、いかんいかん。ふざけてしまった。



最後に一言。


所謂教条的ベジタリアンの如きがのたまうように、己の心身を最高峰の宝と致し、他を殺そうとせんばかりの言い草は、本当は自分を殺してもらいたいのではないのか?

それは、奴隷であることに憑かれ、いや疲れ切ったものの泣き言なのかもしれない。


では、よき終末を。





「何も」しなくていい

2015-07-22 | 雑記
何回も連続で同じ内容のことを、新たに導き出した話などを加えつつ書いた。

日をおかずに書いた二回目で「じゃあ、具体的にどうしたらいいのか」というのを書くつもりが、結局よく判らなくなったので、三度目の正直というやつをしようと思う。

ではおさらい。

「何をしたらいいのかわからない」という問いかけを受け、わしはあるときは怒り、ある日は「これも被害者か」と憐れみを感じたりと、中々に忙しかった。起きる暇も惜しんで寝るほどである。

双六に例えたら、サイを振る以外にはやることはないのである。あるといえばあるが、それは本筋ではない。

なのに、振ろうとしない。何ゆえか?という話であった。


約めていえば、ゲームに興じる気がないのに、その振りをしているからと考えた。

そこには恐らく、「やましさ」があるからだ、という結論であった。


無我夢中でサイを振ればよかろう、とは一応付け加えて終っている。


さて、これは飽くまでゲームの話だろうと思われるが、それで終るわけはないのである。


「やましさ」がゲームをするときにだけ出るものであろうか?そういう場合もあるだろう。


というわけで、「そんなしょうもないことを言う奴には少しものを考えてもらおう」という意図でもう少し書いていく。


余談だが、なじりたくてなじってるのではない。

「やましさ」から物をいうのは、相手をなじっているのである。それが「お悩み」を装っていようがだ。

だからわしはいやな気分になるのである。


さて、話を戻して。


あなたは朝起きた。昼でも夜でもいい。起きようとして起きた。

腹が減っている。昨日の残りものがあるのでこれを食べる。

なかったとしたら、何か代わりのものを探すか、水でも飲むだろう。


さて、お訊ねするが。

起きてきたら、いきなり「何をしたらいいのかわからない」などと言い出す奴がいたら、どう思うかね?

大体、そういうのは心神喪失状態だとか、錯乱してると思われてもおかしくないかね?

生まれて初めてその状態になった、ファンタジーな例えだが、いきなり20代の若者の姿になって目覚めた、とかいう状態ならいざしらず、今まで暮らしてきた上でそう言い出したのなら、統合失調症でなければふざけているだけである。

また余談だが、統合失調症というのは、そのファンタジーな状態のようなものになるといえるので、もしそうなら医者に慰藉を請うべきである。


まあ、そういう風に常に悩んでいるとして、「何をしたらいいのかわからない」と言いながら飯を食いだしたり、顔を洗い出したりしたら、やっぱりふざけてるとしか思われない。

本人は真剣に悩んでるとしても、見えないものは見えないのである。

言うまでもないだろう。「何をしたらいいのかわからない」などと人にしゃべりかけることを、そういう疑問を持っていても出来るのは、本当に「わからない」のか?と。


ついでに言っておくが、統合失調症の場合だと、そんな「日常的」な言葉すら出せなくなる。本当の意味で「何をしたらいいのか」わからなくなるのである。


何をしたらいいのかわかっておきながら「わからない」というのはやましさのせいだ、と断定して話をしていくが、そのやましさは常々命令をするものだと、前回書いた。

前回通りに言うのなら、「川原で水切りに熱中している子供のようにゲームに興じるのは馬鹿馬鹿しいことだ」と。

「川原の水切り」に興じるところで、それを馬鹿にしているのだから、「何をしたらいいのかわからない」などと言い出すのは、ただ他人を馬鹿にしているだけである。

これはしかし、冒頭の「おさらい」で被害者という言葉を述べたのを思い出していただければいいが、やましさが課す命令に苦しめられているともいえる。

とはいえ、己に命令するのは己だけでよい。やましさ、という他人の声に耳を傾けるのが常道だというのならば、「何も」しなくてよい。そもそも己からは「何も」してこなかったのだから。

そのような輩に、「これをしましょう」と提案してやったところで、また別の「他人」の声に乗るに決まっている。




ここまで書いたら腹立てるか泣き出すか、それともワケがわからんので無視するか、前者としたらゲームをやめるだろうか。

どちらでもよい。何をしているのかを理解しなくては、何も出来ない。それで辞めるにしても、「川原の水切り」に興じるのも己次第である。

理解したうえで辞めるにしろ興じるにしろ、それでようやく「何をしたらいいのか」わかったことになる。


まずはやましさの命令による行動に対して「何もしない」ことである。


でないと、また人を馬鹿にするだけになる。努々気をつけなさることだ。






さて、物騒な話だが、然る知り合いは、「両親及び祖父母を抹殺せねばならぬ」と言っておった。

これだけ書くと、気が狂ったか、ニュースになるような親殺しの話か?と思われるが、違う。


アリス・ミラーの話をよく書いてきたから、何人いるかしらんが、読んでる人は思い出せるかもしれない。もしくは他所で読んで知ってたら。

親というものは、子を躾けようとする。「躾け」と括弧でくくっていうが、この「躾け」というのは、つまりはその親がされたものをそのまま受け渡そうとする。

アリス・ミラーが書いた、「闇教育」という話である。

社会や家庭などが後押しする、躾けの名を借りた虐待である。

これが、流行の言葉で言えばトラウマというものになり、対人関係がギクシャクしたり、また、例えば飲んだくれの親を見て育って、嫌悪感を抱いていたのに、いざ自分が親になったら同じ事をしたりするというのである。


ミラーが書いたように、親というものを我々は神聖視する。というのも、種々の「力づく」で教え込むのである。

その、肉親に対する神聖視を、己の内側でしばりつけるその鎖を断ち切る、という意味で、「抹殺」というわけである。

ミラーは「抹殺すべし!」という風に書いてなかったろうが、神のように見えた親を神でなくするというのは、ある意味抹殺である。


そこはいいだろう。その知り合いについては、よい進展である。


さて、親や、親になっていくであろう子供達が、そういう「闇教育」に手を染めていくというのは、何も親や社会のせいだけではない。

自然環境による暴力。これも要因になる。現代の自然破壊というのは、これが原因というのも有り得るだろう。


では、地球を神聖視して、地球という親の言うことを何から何まで聞くのはどういうものだろうか?


これはまるで「躾け(闇教育)」によって魂を捻じ曲げられ、傍目には良い子だが魂の冷え切った子供ではないのか?


そしてそのような子供が長じてどうなるか?


「母なる地球を傷つける人類は全て死ね」という、ファシストになるのである。



親が子を「躾け」るのもまた、やましさなのであろう。ひどい親に育てられて嫌悪していたはずなのに、実際に親になると同じ事をするのも、「親は神聖なるもの」というものに対するやましさからだといえる。


やましさの声を聞くな。やましさによる行動をするな。

人は「何も」しなくてよいのである。それがやましさから出ているものであるならば。


では、よき終末を。



やましさは命令する

2015-07-20 | 雑記
昨日のブログは、ちと寝不足な上に夜中から早朝にかけて、うんうん唸りながら書いた。

だからなんというか、らりったような文章である。ではあるが、別に思ってもいないことを書いたわけではない。

挙句の果てに「ニーチェ曰く」とかやりだすのは、恒例行事だと思っていただければよい。


一晩経って、ああいう風に書くだけでは意味がないなと感じ、それについてもう少し書こうかと思っている。


ゲームで知り合いに向かって「何をやったらいいかわからない」などと、意味のないことをのたまう奴がいた、というのが昨日の内容である。

では、「これをやればいいですよ」といえば、そいつらはやるのか?と思うが、恐らくやらない。

何をやったらいいのかわからない、というのはそもそも言い訳である。とは以前書いた。

ついでにいえば、やってるこっちも「何をやったらいいのか」わかっててやっているわけではないのである!

この問いかけ「何をやったらいいのか」という言葉は、そもそも自分を放棄したいがゆえ、と見なせる。

これをやったらいけません!といっても人はやるが、それは自分の意志でやるからである。意志なのか天邪鬼なのかはしらん。

これをやったらいいよ!といわれないとやらない奴は、そもそも自分の意思と意志を放棄している、ということである。

砕いて言えば、甘ったれ、であるが、そのあたりを考えていこうというわけである。

単純に、甘ったれているだけかどうかは定かではないが、世間一般的な意味での甘ったれとは若干ことなる可能性があることをお断りしておく。


厳しく「甘ったれ」なんぞと書いたが、そもそも意志薄弱は人のことは言えないものであるので、心苦しい振りをしつつ書いていく。

ああ、胸が痛い。これはきっと故意だ!



昨日の記事では、ゲームの内容を分解して、なおかつ双六に準えて書いた。

要するに、「同じことの繰り返しをしている」というわけである。

もちろん、双六で想像していただければいいが、行きつ戻りつし、上がりに着いたり着かなかったりするわけだ。

改めて言い直せば、そのゲームのメインであり基礎的な遊びは、双六で例えるならサイを振る行為と同じである、というわけである。

ゲームをいくつもクリアしていくなら数多の双六を上がっていくことといえるが、上がりのないこの手のゲームの場合は、サイを振ることを延々とやるわけである。とはいえ、敵の攻撃を避けたり食らったり食らわせたりと、色々行動をしていくわけで、本当にサイを振っているわけではない。最小単位に分解したらそうなるというだけの話である。


では、何ゆえサイを振らぬのか?という話にする。双六で言えばサイを振るだけと言えるが、確かにサイを振るよりは面倒ではある。

まあ、面倒だと思えばサイすら振りたくなくなるものである。


当人の自白を聞いたことはないので判らないが、「サイを振りに行く」ことを誘っても返事をしなかったのを見ると(チャットログが流れたなども考えられるので言い切れないが)、サイを振りたくないのである。

何を当たり前のことを・・・となるが、事実確認は必要である。


では、振りたくない理由は?となる。


それは、動機がないから、である。もっと正確に言えば、動機を導き出すきっかけを見出していないから、である。


他人の分析ばかりしていてもわかりにくいので、自分がどう感じてやってきたかを書くと一つの答えとなるものが出てくるかもしれない。


さて、昨日の文章を読んだ人が何人いるかしらんが、わしはこう感じていると書いた。

「サイを振るのが目的なので、それ以外は余興だ」と。約めて言えばこう書いた。

それはあたかも、川原で子供が石を投げて水面を跳ねさせる遊びに興じるかのように、サイを振ること自体に興じているというわけである。


それは些細なことである。トレジャーハンティングでお宝を手に入れたから?違う。それは副産物である。


よく、他のメンバーがいない時間にプレイしているときは、一人で黙々と、または怒ったりしながらやっていたものである。

あまりに度が過ぎたので、怒られたりしたものだが、今は怒ってない。上手くなったか、RPGなのでキャラのレベルや装備が整ったり、ゲームの難易度が調整されたりなどもあろうが、ま、怒る理由がなくなったからである。間抜けな話ではある。

そこはいいとして。


一人で戦いに出かけて敵と戦いながら、ふと、「もう少しダメージ上げたいな」などと思うのである。

2300くらいのダメージが出ているので、何か工夫したら2500になるかな?と。それで新しい武器を探しに行ったり、または金を集めて買ったり、キャラ自身の能力の調整や、武具の強化(どれもゲーム内のシステムである)をしたりという具合である。
または、既にデータが出揃っていたりするので、ネットで情報を収集したりする。

そして、やりおおせてはさらに「サイを振る」ことに興じていくのであった。



ところで、余談気味になるのだが。

このゲームでは本来はおまけというか、やりこみ要素と位置づけられているのが、武具の強化である。今ではおまけというより必須となっているところだが。

このシステムが難解だというので、ゲーム内でしっかり教えるようにすべきだ、という声が上がっており、例えば、序盤のチュートリアルで丁寧に教えるようにしたらいい、という要望などが出ているそーだ。

「武具」の攻撃力や防御力を上げるシステムは難しくはない。ひどくイライラさせられるだけである。その我慢大会みたいなのを乗り越える人だけしか出来ない仕様である。
失敗があり、強化を行った時点で成功するものではない上に、失敗した場合、強化が退行することもある。
最大までやろうとしたら、何度も失敗するのが前提という仕様である。

これは、退屈なのと失敗が多くてうんざりさせられるので嫌われている。他のゲームでは、アイテム自体が消えてなくなる仕様もあるので、そこよりはマシ、などともいうが、嫌がられているのは事実。
ペナルティの多い双六といえるかな。

もう一つは、武具固有のステータスとは別に能力を追加するというシステム。

これが難解で、しかもしっかりやれば文字通り桁違いに変わったりするのだが、ゲーム内でこれを教えてくれる存在はない。
後日、運営がその強化の仕方をレクチャーする動画を作るとの発表があったが、基本的には自分でゲーム内で失敗しつつ覚えるか、ゲーム外で情報収集するしかない。もしくはゲーム内の知り合いに聞いたり、もう出来上がったものを買い取ったり、まったくしない、という人もいる。


長くなったが、やり方を教えたからと言って、それをやるのかというと、それはない。

何も教えないよりはよいが、それで皆がこぞってやりだすかというと、違う。


わしがこう感じた、と書いたところを思い出して欲しい。

このダメージをもう少し上げることが出来るのではないか?で、「武具の強化をしたり」といった。


川原で石を投げている子供を思い出してもらおう。

誰に言われたでもないのに、「この石でこう投げたら、もっと跳ねるのではないか?」と工夫しては石投げに興じている。

最近の川原はそんな光景は見られないし、何やら禁止がうるさいので子供がいないことが多かろうが、とりあえず。


「こうやれば強くなれますよ」でやろうとしないのは、ゲームに興じてなどないからである。

強くなるのが「目的」ならば、自分でそんな面倒なことをせずに、出来上がったものを買う(高級品は取引できなかったりはあるが、買えるうちで)だけである。


これは、ゲームに興じる振りをしながら、「川原の子供のように興じるのは馬鹿馬鹿しいことだ」、とどこかで感じているのだといえる。


これは、大人ぶった分別で自身をごまかしているだけなのである。


それを感じた発言を思い出したのもあって、おさらいしつつ、ここまで書いた。


このゲームには、現金で運営側と取引できるアイテムがある。わかりやすく言えば、スマホゲーなどでいう「有料ガチャ」である。
ただ、このゲームのガチャに出てくるアイテムは、強い武器が出るというものではなく、服だったり、退屈でうんざりさせられる武具強化のお助けアイテムだったり、キャラの能力以外の強化(時間制限あり)だったりで、ゲームの補助的な側面のものだけになっている。
定額のガチャとは別の値段がばらばらの商品もあるが、こちらは補助アイテムのみとなる。

いくらかかければ注目のアイテムが必ず出る、という代物ではない。ショッピングセンターだとかのガチャガチャやら、チョコボールのエンゼルと同じで、運である。


さて、これらはゲーム内で他のプレイヤーと取引が可能となっている(有料ガチャの方だけ)。注目のアイテムは高額になることが多い。

新しい商品が来るたびにいくらかつぎ込んでいる人は、全部、もしくは自分必要なものだけ残して売り飛ばしたり、商売らしく「塩漬け」して、後日売る、と言った具合で稼いでいたりする。

別にやましいところなど本来はないのだが、どこかでやましさを感じるのであろう。

こういう風に言っていた。

「あまりガチャのアイテム売り飛ばして金にするってのはしたくない」と。


別のやつの発言だが「別に運営が禁止していることではないからね」というのもあった。



さーここで問題。


このゲームの「サイを振る」という行為は、長くて一時間だとかになる。短くて10分以内だったりする。二つ続きで系一時間、という感じのもある(その場合インターバルが多い)。


この中で受付時間が決まっていて、毎日あるわけでもないというものがある。その中で高級品が出てくる可能性がある、というわけだ。

必ずしもそういうのだけではなかったが、客寄せのためにそれに偏っているのが現状。

そこは余談である。

さて、一週間いける限りその高級品を探しても出ない人もいれば、初日にいきなり手に入れる人もいる。

初日に手に入れた人は、それを(取引が制限されていないものなら)売り飛ばして大金を手に入れたりするわけだ。

これと有料ガチャの注目のアイテムを売り飛ばすことの違いはどこにあるのだろうか?これもめぐり合わせがないとそもそも手に入らないのである。

ない。勝手にやましさを感じているだけである。


ゲームのプレイで金やアイテムをゲーム内のデータに増やしていくことと、同じく「有料ガチャ」というゲームのプログラム内からアイテムのデータを増やしていくことにはまったく相違がない。

ないのにあるというのはどういう了見か。

了見などそもそもないのである。了見などないから、やましさからものを言っただけである。


そのやましさの理由は、さっきも言ったが、「大人ぶった分別」というつまらん固定観念である。大人だけではないが。


その「大人ぶった分別」は、川原の子供が石投げに興じるようにゲームに興じるのは馬鹿馬鹿しいことだと常々命令している。

そもそも、ゲームに興じること自体馬鹿馬鹿しいといわれているのにゲームをやっているのだから、やましさしか出てこない。

だから、「何をやったらいいのかわからない」と言い出すのである。

そして、何をやったら「いいのか」と問う時点でおかしいのである。

あなたに命令を課しているものは、「ゲームをするな」と言っているわけだから。

それなら、ゲームをしないほうがいいだろう。

それでもやりたいというのなら、無我夢中で「サイを振れ」。

川原の子供の石投げのように夢中でな。

「やましさ」なんぞかなぐり捨てて興じてしまえ。

「川原の子供」が死に絶えてなければ、やましさなんぞ消えてなくなる。



さて、ここで注意喚起。


別に、ゲームやるなら大金をつぎ込め!とか、ぶっ倒れるほどプレイしろ!とかそういう話ではないことを述べておく。


また余談染みてくるが。


この「やましさ」と表記したもの。

これがいわゆるカルト宗教の手口だったりするともいえる。この「やましさ」を刺激するのである。不安を煽る、といったほうがいいか。

「やましさ」がひっくり返れば、まるで神様にでもなったかのように振舞うだろう。誰とはわざわざ書かないが。
そのままなら、進んで奴隷になる。マゾヒストという奴である。宗教的恍惚を得ようとしていくのである。


しかし、これは別にイカレ野郎だけではない。


やましさ、つまりは不安を煽って何かに誘導するというのは、現代のいたるところで行われているのである。

宣伝広告は勿論のこと、「病気になりますよ」とか「負け組みになりますよ」だとか脅かしたり、言ってしまえばこの記事を例の発言者が読んだら怒るか泣き出すか呆れるか、まあ何がしかの感情を揺さぶることになるだろう。

そこで、これ読んだらどう思うかな?などとわしがやましさを感じても詮無きこと。

むしろ読んだとしたら、己の軽率さと不甲斐なさと甘ったれ加減と意志のなさと思慮の浅さを思い知るべきである。

ああ!わしのことじゃないか!と、不安になってきたので、ここで終わることにする。

では、よき終末を。


賃金と報酬

2015-07-19 | 雑記
今日はさっさと寝ようと思っていたのだが、寝る前にいつものゲームにログインしたら、いつもの仲間の一人が先にいた。

なんとはなしに、今のそのゲームの現状で、身近に感じてる問題などを話していた。

それで、つい思い立って書き始めた次第である。



別に以前書いたような、そいつの態度が悪いだとかいう話ではなく、話というか批評というかの締めに持ってくる命題である。


それは、「目的と手段の取り違え」というやつである。


ゲーム、所謂TVゲームだけでなく、ゲームというのは、売り手の文句どおりなら、電源つけてやるたんびに新しい話やら舞台やらが出てきて、ワクワクするものだ、と、どんなゲームでも似たり寄ったりの謳い文句で売りつけてくる。
形は違うが、そういうものである。

で、摺れた人々は、「見え透いたことばっかり」とうんざりしているわけである。また、どこか希望を見出せるところを感じると、「これはいいかも」と期待を胸に、当日はがっかりする、ということを繰り返している。
期待通りだったりすることもあるので、年中がっかりではなかったりもする。

ゲームとは言わなくても、他でも似たり寄ったりではある。政治にしろ、漫画にしろ、枚挙が面倒なので、世の中の流れにこういうのがある、と大雑把に理解していただければ結構。



そこは措く。本筋ではないが、近いところの話でもある。


ゲームの売り手の文句、と書いたところを思い出していただく。

約めていえば「新しい世界が開けますよ!」的な物言いである。

新世界・・・そうか!いや、そこじゃない。

ジャーナリストのウィリアム・イングドールは、「ニューワールドオーダーだとかいっているが、あれは新しくもなんともない。ただ一つの世界政府が昔のやりかたの規模を変えただけの支配をするので、ワンワールドオーダーが正確である」という風なことを言っていたが、つまりはアンシャン・レジームである。

横文字だらけで馬鹿馬鹿しくなってきたので、言ってしまえば旧態依然のけったくそ悪いやり方を名前だけ変えただけ、というわけである。

横道はそこまでにしておいて、つまりは、「新しいことなんて本当はない」という訳である。


それとゲームと何が?となるだろうが、もう少し続ける。


生まれて初めて双六をした人は、サイを振るのも珍しく感じるだろうし、ふざけたペナルティばかりの盤でも面白おかしくやるかもしれない。もしくは歯軋りしながらやるかもしれないが、ともかく。


じゃあ、新しく書き直した双六をしたら、その時も同じように感じるか?といったらそうなる人は稀であろう。


TVゲームとしてのゲームの方に話を近づけよう。


これも双六と同じだといえる。ペナルティの具合だとか踏む数が違うだとか、前はボール紙に書いたものだったが、今度は高級和紙で作りました!とかいう具合である。

最初は見た目が前より豪華になって、ものめずらしいなぁと思っていたが、結局派手になっただけの、以前やった双六と同じだった、と気づくに至るというわけである。

双六よりは多少複雑ではあるし、もっと単純かもしれんが、同じである。


ああ、勘違いしないように。ゲームは無意味だからヤメマショウ、という話ではない。

もっと言えば、人生なんぞ無意味だからヤメマショウ、というわけでもない。なにをいってる・・・?


さて、双六を前にして、有る人物は語る。

「何をしたらいいのかわからない」と。

ゲームの話で「何をしたらいいのかわからない」のネタは以前やったが、気にしないように。


双六は何をするのだったか。思い出してみよう・・・。そうだ!!

サイを振って、出た目の数だけ自分のコマを進める、だったな!

で、上がりを目指すというわけである。

たったそれだけのことである。


さて、双六を延々と、楽しそうに、もしくは黙々とやっている人がいる。

上がったら上がったで、またやり直す。もしくは振り出しに戻されて、最初からまたやる。

何ゆえあなたは双六をやるのか?そこに双六があるからさ!とかいう、どっかの山登りの人のもじりは却下。


例え話に例え話を重ねると訳がわからんだろうが、ここを踏まえて聞いてもらおう。


ゲームも双六も変わらん、と書いた。どのようなゲームも当てはまるかどうかはしらんが、ま、一つ。

プレイヤーが集まる街で同志を募って、もしくは一人で敵のいる場所にいって戦って帰ってくる、というのがその(わしがプレイしている)ゲームのメインである。というか、これしかないといえる。
キャラを着飾らせたり、収集したり転売したりしてお金を稼いだり、人とおしゃべりしたりというのもあるが、そのゲームの根幹は「出かけて戦って帰ってくるの繰り返し」である。

双六に準えると、サイを振って出た目の数だけ進める、というのが「出かけて戦って帰ってくる」なのである。

場合によっては少し戻されたり、振り出しに戻ったりするわけである。倒して帰ってくるか、倒されて帰ってくるか、と単純にいえばなる。

さて、時折よいマスにたどり着くことがある。ニマス進むだとかに到着したりするわけだ。

よいマスにたどり着くというのに準えると、倒した敵がたまに落とす、珍しいアイテムを手に入れたこと、ということになる。


さて訊ねるが。


双六の目的はなんだろうか。「二マス進む」に行き当たることだろうか?上がることだろうか?確かに、上がることは目的とはいえる。



実は、サイを振ることが目的ではないか?

猫にボールを投げ与えてみよう。猫にもよるが、なんだか熱心にボールをこねくり回したりする。挙句の果てには戦いのようになる。

子供が川原で小石を投げて、水面を跳ねさせる遊びをしている。

最初は跳ねることを珍しがっていたが、一人だろうと複数だろうと、そのうち「何回多く跳ねるか」になっていったりする。


猫はなんだか書いてて意味がない気がしたが、つまり、当初の目的がいつの間にか手段になったというわけである。


双六は上がりが目的ではあろう、といった。

では、「二マス進む」に行き当たるのは目的か?違うだろう。上がりに近づく手段でしかないのである。

手段を目的化し、それでもって煽り、煽られる。

そうしてその煽りの奔流に溺れてこういうのである。

「何をしたらいいのかわからない」と。


小説は最後まで読み上げるのが目的か?目的ではあるが、読んで楽しんだりつまらないと思ったりするのが目的であって、読み上げること自体は結果である。


双六は上がるのが目的なら、始まったらそこにコマを置けば終る。それは反則だ!となるので無視されるが、目的ならそうなる。


では、「出かけて戦って帰ってくる」のが根幹のゲームで、何が目的なのか?

「ニマス進む」に幸運にも出くわすことか?ニマス進んだらもう双六は終わりか?

それは、報酬である。目的ではない。結果としての賃金ではなく、評価としての報酬である。


ニーチェは、「労働者は己の仕事に矜持を抱くべきである。そして賃金ではなく報酬を貰うべきである」という風に書いていた。


別にゲームに矜持を抱け、なんぞとは言わんが、「出かけて戦って帰ってくる」という労働について、常々賃金を期待しているから、わからなくなるのである。

矜持、なんぞといったが、川原の子供の話に戻ってもらう。

あの水切り、というのか、あの遊びは面白いだろうか。ある程度歳食ったら、そんなものは見向きもしなくなるだろうが、子供は熱心に遊ぶものである。

何回跳ねたからといって「ニマス進む」わけでもない。が、それでも飽きるまで無心にやる。もしくは、止められるまでやったりする。

それは、己の遊びに己の評価という報酬を与えているからである。



サイを振ってマスを進む。最終のマスにつけば、「賃金」として、上がりが貰える。

すぐ上で「ニマス進むは報酬だ」と書いたので、「報酬は上がりじゃないのか?」と突っ込まれる気がしないでもない。

が、結果としての賃金というのも書いたのでひとまず納得してもらう。


「出かけて戦って帰ってくる」という双六のうちで言えばサイを振る営み。

ゲームという双六は、正月に集まってする双六(今時やるかしらんが)のようにはいかず、延々とやるものである。すぐ終わるのもあるといえばあるが、とりあえず。


「労働者は己の仕事に矜持を」と、引用して言った。

そして、「賃金ではなく報酬を」と続いている。


その「労働」に矜持を持っていないから、「賃金」の具合を気にするだけになり、目的を忘却する。

己の「労働」に対する矜持というのはつまり、「川原で無心に石を投げて遊んでいる子供」の如きものである。

これ以上の矜持があろうか。その矜持に「賃金」でもって報いるべきであろうか。評価でもって報いるべきである。

まずは己の「労働」を評価すべきであろう、と思うのである。





などと意味不明な供述をしており以下略。



ここまで書き上げて、もう少しわかりやすく出来ないものだろうか?と思ったが、このままにする。



自分で書いたことに解説するというのは、ひどく間抜けな気がしてくるが、やってみよう。

以下、これだけ書けばよかったレベルの解説である。


シューティングゲームなら、的を撃つのが目的である。スコアはその手練の評価である。

敵と戦うというのも、本義は変わらないわけである。スコアの変わりに、成長の概念のあるもの(RPGというやつなど)ならレベルアップだとか、トレジャーハンティングの要素だとかである。


で、上でいってる、わしがやってるゲームというのが、「出かけて戦ってトレジャーハンティングをして帰ってくる」というのが正確なところである。

これは、売り手の謳い文句であるので、トレジャーハンティングなんぞ無意味!として省いた。

なぜなら、売り手が言うにはトレジャーハンティングは手段であって、トレジャーハンティングの成果が目的だといっているからだ。

これは嘘である、というのが大まかな論旨であった・・・はず。


目的が手段になったり、またその逆になることは多い。というかほとんどだといえる。上記の肩肘張ったような文中にも例を盛り込んでおいたので、わかるかと思われる。


そして、それがわからなくなっているので、例えば、双六の上がりマスにコマをいきなり置いて上がりだと言い出す奴や、サイを振るだけなのに、「何をしたらいいのかわからない」と言い出すのである。

別にその発言をした人物をなじろうと思っているわけではない。あいや、以前のはなじったが、とりあえず。
※ちなみに、別人の発言である。

熱心にボールを蹴ったり、川原で石を投げたりしている姿は、特に熱心になればなるほど、楽しいものとは思えない様相を示したりする。

売り手は「トレジャーハンティングでレアを拾うと楽しいですよ」と言い募る。

さっきも言ったが、嘘である。商売のために言っているのは仕方がないが、嘘だと見なくてはいけない。


これだから楽しいだとか、あれだから楽しくないだとかで、子供がずっとボールを無心に蹴ったり、川原で工夫しながら石を投げ続けるか?違う。


最早楽しいだとか関係ないところにいるのである。そして時折、何かの拍子に我に戻されたりして、その時に反動で楽しいだとか苦しいだとか思い出すだけである。

川原の石投げを、その経験を過ぎた大人は、基本的に楽しいものだとは思わない。

「子供は馬鹿げたことに熱中するものだ」というやつである。


件の「トレジャーハンティング(戦いに行って帰ってくること)」は馬鹿げたことである。馬鹿げたことを熱中してやるから面白いのである。ただし、所謂楽しいとは別次元になる。


「トレジャーハンティング」でお宝を得るのも得ないのも、等しく馬鹿げたことである。

なら、「トレジャーハンティング」という馬鹿げたことを馬鹿馬鹿しく熱中してやるだけのことである。

川原の子供や、ボールと格闘する猫のように。


と、いつのころからか思い至ったので、先ほど、久しぶりに姿を見せていた人物の「何をしたらいいのかわからない」という、当の本人は既にログアウトしていたが、その発言を聞いてきた仲間にいったのである。

「敵と戦えばいい。それ以外ないんだから」と。

その後に、とれじゃーはんちんぐの結果としてのお宝についての認識をしゃべったりしたものだが、自分でもイマイチ納得しかねたのでここに書くことにしたら、もっと納得できない上記の文が出来上がったのである。


読み直したら、「新しいことは何もない」という話を振ってあったことを思い出した。

簡単に書くが、例えば「敵と戦ってお宝を手に入れる」ゲームは、お宝の具合が違うとか、戦い方が違うとかいうだけで、「新しくはない」のである。
川原の石投げが今世紀初の発見でもないのと同じである。だが、馬鹿馬鹿しく熱中してやるものである。

賽は投げられた。もう一回拾って馬鹿馬鹿しく投げるべし。


では、よき終末を。



イルミナ・スイッチ

2015-07-12 | 雑記
たまにはテレビの話でもしようかと思う。

ところで、そんなにテレビの話って流行ってるのか?

いやまあ、ここは流行の話はないか。流言飛語ならあるかもしれん。


それはさておき。


かつて、NHK教育テレビで、『ピタゴラ・スイッチ』という、五分程度の番組があった。今もあるかは知らない。

ミニコーナーのオムニバスで出来上がっている番組で、始まりにドミノ倒しというか、最初の起動をするとドミノやらボールが転がったりして色々な仕掛けが動いていって、最後に番組のタイトルを開く仕掛けで終る、というのをやる。終りにもやっていたかどっちかだけだったかは忘れた。

そのコーナーの中で、「おとうさんスイッチ」というのがあった。「おじいちゃんスイッチ」の時もあったが、おかあさんとかおばあちゃんは見たことがない。

おとーさんすいっちのぉつくりかたぁ~ってな歌で始まり、幼稚園児の工作を紹介する。その、某スイッチを作る。

箱に文字を三つほど貼り付けて、アンテナ(のようなもの)をくっつけて出来上がり。

父子、もしくは祖父と孫の一般人コンビが出演しているそれは、続けてスイッチの駆動とお父さん(もしくはおじいちゃん)が反応するという演技になり、それで終る。

子供が「おとうさんすいっち あ!」とかいいながら押す所作をすると、おとうさんがその頭文字に対応した動作をする。

今のように「あ」なら、「あくびをする」といった具合である。同時に、テロップとナレーションが入る。


で、居るらしいと聞くイルミネイションだとかというのが、そっち側の人間だと散々言われている、デービッド某(ドゥカヴニーではない)がいうには、組織じゃなくて、赤い盾の人たちが操っているネットワークである、とのこと。これはよく書いた話である。

ああ、これはまるで「おとうさんスイッチ」だなぁと思ったものである。

いるみなすいっちのぉつくりかたぁ~

箱に文字貼ってアンテナ。同上である。


イルミナ・スイッチ ご!

ごうまんになる

イルミナ・スイッチ い!

いきどおる

イルミナ・スイッチ む!

むさぼる


以上、イルミナ・スイッチである。終わり


冗談はさておき(冗談ではないが)、我々はダンボール箱に書かれた文字で操られているようなものである。それは違いないのだろうと感じている。

何ゆえか。

またデービッド某の述べていたことに戻るが、それらのやり口というのは人の不安を刺激して誘導するのが常套手段である、という。

人が何ゆえ不安に陥るのかというと、ひどく噛み砕いていえば、普段から幻に惑わされているから、となるのである。

別に、アイク(某と書くのが面倒になった)がいっていたように、全部が周波数で幻なのだ、とかいう判り難い話ではない。

そういう側面もあるが、全部が周波数で幻なんです、などと理屈を言った所で意味はない。


不安、というものに戻る。


不安とは何かというと、これは欲望である。先々のことが判らないから知ろうとして、でも判らない。そうすると不安になる。

欲望どおりになったらなったで、上の例で言えば、先のことが判ったら喜んだりする。一般的に言えば、これは不安の払拭となる。

さて、この事柄から言えることは、不安と喜びはコインの裏表であり、同じものだということになる。根っこは同じだと。


コイントスで使ったコインは、当たっても外れてもそれでコインの価値が増減したりするのだろうか?

まったくしていない。

でも、コイントスをしている最中は、賭けた面に最大の価値があるかのように振舞うであろう。

だが、コインはコインである。


欲望という名のコインでトスをする。イルミナ・スイッチは不安の方を何度も何度も見せてくる。

我々は喜びの方に賭けるが、コイントスは見せ掛けで、スイッチオン!とやっているのだから。

そしてそもそも、我々が喜びだと思っている方も実際は不安である。なにせ、根っこは同じだから。


このコイントスを、自身が賭けているものではなく、通りすがりで見かけたものだったら、あなたは何とするだろうか。

まるで自分が賭けたかのように固唾を呑んで見守るだろうか?しないだろう。

あ、また裏が出た、と思うくらいで、気にしないはず。

今時、道でコイントスやってるやつを見たことはないが、例え話だと断る必要はあるまいな。


さて、アイクは「人が皆共通して持っている爬虫類脳と呼ばれる、生存を司る脳を刺激して不安を煽る」と言っていた。

さっき書いたことをもう少しアイクが言っていたことに近づけただけである。


我々は、自身の肉体や精神、経験や記憶などを、自分自身だと思う。

思うからこそ、不安という自分自身だと思っているだけのものにひどく苛まれるのである。

爬虫類脳とやらは、生きる上では欠かせないが、だからといってそれが己の全てであるわけはない。

言ってしまえば、脳みそなんぞも自身そのものではないのである。

不安は欲望の一側面というわけで、自分自身でもない欲望を自分自身だと勘違いして、馬鹿なことをやっては耽溺したり、逆耽溺として落ち込んだりするのである。

己の中の欲望を、ダンボールに文字を貼り付けただけの「イルミナ・スイッチ」を自分自身だと勘違いし、イカサマコイントスを自分自身が参加しているものだと思い込む。

そんなものはダンボールの箱である。

そんなものは道端のコイントスである。


生存の不安という欲望に苛まれ続ければ、ソープ通いで有名になったり、「馬鹿な人類は滅んでしまえ」などといいながら、その「馬鹿な人類」と何一つ変わらない、「イルミナ・スイッチ」そのものになるのである。
ついでに、スイッチ動かしてるトカゲな人達というのが、アイクが言うには、これらも生存の不安でイッパイイッパイになっているのだという。


ダンボールの箱を捨てよ。道端のコイントスを無視せよ。


それらはゴミでしかない。王のものは王の下へ。神のものは神の下へ。ゴミ箱はゴミ箱へ。ん?

では、よき終末を。

スッタもんだで

2015-07-02 | 雑記
先日、積んでみたらきっと人の背丈は越えるだろうほどある、書籍(漫画も多い)の中から、昔買っては放置していたものが出てきた。

積読、なんぞというが、危うく化石か、石油になるところだった。

しばらく前に書いた、反知性がどうこう、とかいう話の本もその一つだが、著者の謂わんとするところはよくある話である。

「どうして日本はこうおかしくなったのだ!?」というあれで、もう少し前に書いた、『心でっかち』な論といえるような感じではある。

とはいえ、最後の人が陥りやすい思考についての話は納得できる話だったので、そこだけ読んで書いたしだいである。


「あの手の話はいつぞやの心でっかちじゃないか?」と突込みがこないものか、と思ったが、自分で突っ込んでいたので、それで十分であった。


さて、他にも出てきた。岩波文庫の『伊勢物語』だとか、『五輪書』なんかも買っていたようだ。何を目指しているのか思い出せないが、少なくとも世界征服を目指しているわけではないのだと思われる。

世界を征服しようと思ったら、とりあえず英語の勉強からなので、かなり遠い。


さて、いきなり話が変わるが、実家が創価学会である、とは何度も書いた。何度もここを読んでいる人がどれだけいるかしらんが、また記しておく。

日本で最大規模といわれるその宗教団体は、大雑把に言えば、鎌倉時代の僧侶日蓮が開いた、日蓮宗の一派である。

つまりは仏教が基礎となっている。義仲は木曽である。



子供のころか若いころか、もう詳らかではないが、「仏教というが、それは何なのだ?」というのがずっとあった、と思う。

釈迦は「自分を拝めば幸せになる」といって布教なんぞしてないのに、創価学会の指導者たる池田の大ちゃんは「私についてくれば間違いないんだ!」とかほざいていた。実際にそうしゃべっているというか叫んでいるようなのを聞いたものである。

大体、日蓮宗なら、日蓮とその教えについていくべきであって、太ったジジイについていかなければならん道理はない。
いくらジジイが「蓮祖の通りにやってる我々は間違いはない」などと言おうが、それは指導でしかない。
これは冗談だが、日蓮が新聞配って選挙活動しろ、とは言っていないのである。


なんぞとずっと思っていたりしたので、たまたま目にした、中村 元訳の『ブッダのことば』というのを買ったようである。

大きくそう書いてある下に、「スッタニパータ」とある。これが、翻訳した経典の名前だそうで、最古にあたる経典といわれている。


いつもどーり長めの前振りであるが、別に話自体は短い・・・はず。


それはともかく。


仏教といえば、煩悩を断ち、それによって平穏な心を手にして幸せになる、というのが教えの骨子である。

で、煩悩を断つ方法はなんだというと、修行したりするというわけである。仏門に入った人たちの生活とほぼ同義である。

肉食をやめ、姦淫をしりぞけ、世俗に煩わされなくし、己の心を平成、じゃなくて平静にするべきである、と。

世の中の流れに一喜一憂するようでは駄目だ、と、釈迦は言っていたのだが、日蓮仏法がどうこうとかいう池田の大ちゃんファンクラブは、年に何回も念入りに選挙やっては一喜一憂したりさせたりしている。

その口から同じく、「世の中の流れに一喜一憂するようでは駄目だ」というのだから、どの口がいうのかと、笑わざるを得ないのである。


話を戻して。

その例の「スッタニパータ」には、これこれこういうのは邪なものであるだとか、またはこれが正しい状態である、とかいう話を色々書いているのだが、紀元前の昔から人は何一つ変わらんのだなぁ、と感じずにはいられなかったところがあった。

チュンダ、という題の章がある。

チュンダという鍛冶工がブッダに質問してそれに答えるという内容である。

その内容は、「世の中にはどれだけの修行者がいますか?」というものである。

釈迦が言うには、「四種類である。五種はない」と。

86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。

87 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ

88 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。

89 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。

と、ある。これは手書きじゃなくて、どこかのページに書いてあるのをもってきた。以下も引用したらここである。ちょっと誤字があるようだが、そのままコピーしていく。http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm


かれは<道を汚す者>である。

嗚呼、耳が痛い。と、言っておけばいいかな。ふっふっふ。


話が前後するが、冒頭の章は「蛇」となっている。ちと余談気味ではあるが、少し。

1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

この世とかの世とをともに捨て去る、というのが何度か繰り返される。

この世とかの世というのを言い換えれば、過去と未来、かなと考えている。

この世というのは、自分が生きてきたことも含めた、全ての過去の執着地点に近い場所の広がりとでもいうわけで(上手い表現は期待しないように)、この世とは常に過去であると。

かの世というのは、約めていえば死んだ先である。全ての過去の集積したものが灰燼に帰した状態になる。かの世というのは、この世からしたら常に未来であるといえる。

それはともかく、以前にも何度か引用した、仏教学者のひろさちやの解釈では、「釈迦は今を生きなさいと言っている」と書かれていたのだが、この世とかの世をともに捨て去る、というのを指していたのかな、などと思ったものである。


さて、仏教といえば、不殺生で肉を食うことを戒律で禁じている、というのは一般に知られているところ。

だが、こんな話がある。

題して「なまぐさ」という章である。


242 「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。

後に何行か、これがなまぐさである云々というのがあり、そしてこう続く。

249 魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみえることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。

250 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」


別に肉を食べなさい、とかいう話ではない。ついでだが、釈迦の死因は、歓待されたときの料理に、誤って毒キノコが入っており、それによる食中毒、というのを昔聞いたのだが、豚の内臓を食べたせい、というのもあるそうだ。

肉を進んで食うわけではないが、人が出してくれたものにこだわることもないので、絶対に食わないという、執著(しゅうじゃく及びしゅうちゃく:上記の著作ではこの字が使われている)でやっていたわけではないのだろうと思われる。

出されても肉は食いません!なんぞというのは、そもそも真理に到達して世の中のことにこだわらない存在の姿ではないのである。執着しちゃだめ!と執着してやっていたらアホであろう?


そこはいいとして、上の引用箇所の249を振り返っていただきたい。

もろもろの精進潔斎というのは、それをただこなせば「その人を清める」ものではない、ということである。

手段ではあるが、目的ではないのである。


もういつものノリだな?とどれだけいるかわからんが、読んでる方はお気づきであろう。

肉を食わなくなれば、心が平静になって素晴らしくなる、などとのたまうのは、勘違いも甚だしいということである。

そして、そもそもが執著を去ってはいないので、「見聞きしたことに汚」されるのである。


ネズミの実験で、肉だけ与えられた方が共食いを始めたという結果を聞き、「肉を食うと悪魔になる」などといったり、「肉を食うと思考が乱れる」と言っていたわりには、年中乱れた思考だったりするのである。

ああ、この上記二つの発言は別人のものであることをお断りしておく。前者はどこぞでブログを書いているフルータリアン(一応「フタコブラクダ」でもないが、変わらんな)で、残りはマケヒコ上人である。

「見聞きしたことに汚され」、乱れた思考を持つものの行動を見よ!

肉を断って平穏な心を持っているはずが、馬鹿な人類は滅びよと、怒りによる執著を捨てられていない発言を繰り返し、「西洋医学は人を食い物にしている」といいつつ、その「馬鹿な人類」をたぶらかすために、たぶらかしの西洋医学の元へ赴いては血液検査とやらで異常がなかったことを自慢する。

己が体が生きている証を如実に表しているのに、「食ったものが悪い」などと、自身の生命を卑下し、片や「人類の食すべきものは果物である」とのたまい、それを食している己は神聖であるかのように思い上がる。

これが人類を超越したなどというのなら、もう全ての人類は人類を超越してきた。それは、思い違いというものである。釈迦が説法していた時代から、何一つ変わらない。

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。


あれが人間やら人類を超えた、というのなら、下の意味で超えて(頭の脂肪も肥えて)猿になっただけである。ただし、本物の猿の方が上等である。


──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。



と、こうやって怒ったようになにやら書いているうちは、わしもスッタニパータで書かれているような<道を汚す者>には違いない。まあ、それがどうした?としか思わないが。

なんか仙人みたいだとか言われることがあったが、修行らしい修行もした覚えはないので、仙人ではなく仙人のなりそこないを専任しているということにしておいて欲しい。


では、よき終末を。