ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

卒業などしていない

2014-06-23 | 雑記
明るくなってきたので寝ようと思ったが、寝付けぬ。

昼から髪の毛を切りに行く予定なのだが、いっそのことそのまま起きていようかと思っている。書いたら寝る、というのもありか。


とはいえ、ちと眠いような気もするので、これから先の内容はわしの生まれつきの如く、メチャクチャになるであろう。


それは措くとして。



わしは大学まで行ったが、卒業はしていない。留年しまくって、挙句の果てに放り出した。


それはともかく、今年になってようやく出したラヂヲにあったコメントのことをふと思い出した。

「ようやく陰謀論を卒業したようだな」云々と。


さて、関連するとはいえ、話が変わる。

以前、コメントを取り上げてはなにやら書くという、嫌がらせのような記事を出した。


前回の最後だったかと思うが、「これが主な理由ではないが、長くなるので省略」という風に書いたのを、わしは忘れた。

前々回だった



確認すれば済む話だとはいえ、こう思っていたのである。まあ、メールアドレスの交換などをしているわけでもないので、連絡は出来ないが。

「人の話をまとめて聞いてから考えることをしないで条件反射でつまらんコメントをしている奴と、あわよくば暇人云々の奴は同一人物だな」と。


具体的に言えば、ライヒの話のところで、支配というのがまるで支配を騒ぎ立ててる奴らの妄想から出てきてるのか?というようなコメントなどである。

わしの説明の仕方がまずかった可能性もあるとはいえ、とりあえず、そこは放置する。


では、世間で言う「陰謀論」とは何か?を簡単に書いてみよう。

こうかな。

「世の中は秘密組織に牛耳られている!あれもこれも支配のための布石なのだぁ!」というアレ。


そーゆー風に騒いでいる、ラリったやつがいるのは間違いない。実際にそうであるかないかは別としても。


日本で韓国人が犯罪を犯したら「韓国人は皆キチガイ」というのは、理屈で言えば間違いではある。

まあ、日本人が殺人犯したら、「日本人は皆キチガイ」という理屈を述べるキチガイもいるので、キチガイはどこにでもいる。

誰かがキチガイというより、皆の頭の中のいるキチガイが、そいつではたまたま行動を起こしたり、大抵の人は寝てたりという程度のものだと思っている。


と、話が逸れた。


で、支配してるのが、例えばアメリカだとか、いやいやイギリス王室だ!とか、それらを顎でこき使えるロスチャイルドだ!とか、そもそも人間ではない別の存在(爬虫類人だとかレプティリアンと呼ばれる)が彼らを皆動かしている!だとか。イルミナティという組織(アイクが言うには組織ではないそうだが)だ!とか。


じゃあ、陰謀とはなんなのか。


別に国語辞典を引こうという話ではない。


文字通りに言えば、陰の謀りごと。裏で謀りごとをするということ。


服屋に行ったとする。実際は全然安くないのに店員は「これはお買い得ですよ」と言って、買わせようとするのもまた、陰謀である。

陰謀論の本の翻訳やらHPを運営していたおっさんは、秘密掲示板なんか作って珍妙な謀りごとをしていたので、これもまた陰謀を働いていた訳である。ミイラ取りが云々。


「陰謀論」というやつで言われている謀略というのは、実際に起こっていることについて言ってはいるのだが、それを行った存在がいなかったり(アイクが言うにはイルミナティは以下略)憶測で語られている、もしくはそのように見えたりで伝わらなかったり、伝える方も前提の知識を世間も認知してるものだと思って語ることが多かろう。多分。


で、そーゆー人達をあげつらって、「陰謀論」なんぞという言葉に「妄想に取り付かれている」とかいうような意味をくっつけられて、ネガティブキャンペーンよろしく広まっているという有様である。

その意味では、「陰謀論を卒業した」なんぞという言葉は、マスコミに流されているだけではある。



さっきから「」をつけて「陰謀論」なんぞと書いてきた。それは、この上に書かれている通りだからである。

一般的な例えを言えば、中華人民共和国があるあたりは、かつて「支那」と呼ばれ(インドから伝わったらしい)、別に蔑称でもなんでもなく、当時の中国人、といっていいのかしらんが、彼らは自身を何々人と呼ぶのか考えたことがなかった(世界は中華以外にないという思想であったから)ので、面白いなと、気に入って自称したりもしてたそうだが、昨今は変わりつつあるようだが、日本語で「支那」と言ったら「差別だ!」なんぞと騒がれていたものである。
余談だが、英語で中国を指す言葉は「China」。これは、「支那」の語源になった、中国初の統一国家である、「秦」から来ている。

「支那」に侮蔑的なニュアンスが最初からあっただろうか?

差別語だと騒がれ始めたのは、20世紀あたりか、もしくは二次大戦後と推測する。その話をするために書いているのではない!


陰謀論については、その言葉が出てきた時の経緯はよくわからんが、基本的に否定するために使われていたとは思う。が、前後に否定的な言葉を詰めて言わないと、本来は否定にはなりえないだろう。

「それは陰謀論だよ」といった時は、妄想染みている!とか、荒唐無稽だ!と非難しているわけだが、さらに進んで、陰謀を論じると書いただけで妄想と読ませるとは、実にゲイジュツ的と言わざるを得ない。


レッテル貼り、というやつである。そのレッテルを見ただけでわかった気になるという、危険な行為である。その代表例が「陰謀論」というわけである。

ついでに、「陰謀論」と書かれたレッテルにはわざわざルビが振ってあって、「キチガイ」とか書いてある。皆こっちを読む。漢字よりは読みやすい感じなのでな!


以前、ラヂヲで「人間が生きてるということは陰謀みたいなもんだ、何でもかんでも陰謀なんだよ」という、どーいいたいのかよくわからんことをしゃべった。


というわけで、具体的な陰謀とやらの例を挙げておく。


第二次世界大戦後、アメリカの占領下に日本はおかれた。食料が少なかったので、アメリカの「支援」で小麦を供給してもらい、日本全国にパンを配った。

実際は、腐りかけの小麦粉の処分先に選ばれただけである。


そして、パンを食わせるときのお話。

「米を食ってると頭が悪くなるから、小麦のパンを食え。アメリカ人の体格を見よ!日本が負けた理由がわかる!」といった具合である。

当時の栄養学が太鼓判を押したという。服屋の店員と同じである。


邪魔な小麦粉の処分と、小麦漬けにして日本の食糧自給を減らしてアメリカ側を有利にするという陰謀であったことは、昨今、色々なところで語られている。



これすらも受け付けない人もいるだろうから、これの前提になった、戦争の話をしようか。



戦争は何のためにするのか?えーそれはロスチャイルドが云々という話は却下!あるけど却下!


勝って自分の要求を相手に押し付けるため、ではないのかな?


要求とは違う気もするだろうが、戦争で一番必要なものはといえば、お金である。使った分を取り返しなおかつ、である。

近代戦ではルールがあり、負けたほうは勝ったほうに賠償金を支払ってきた。
ヒトラーの台頭の原因のひとつが、第一次世界大戦での賠償が天文学的な額で、それでドイツが荒廃したからという話である。

日本は賠償金という名目以上の「賠償金」を払ったというわけである。それの一例が、上のパンの話。これをこれ、アメリカの陰謀である。

日本を支配する気があるのかないのかしらんが、する気だとして、「支配するつもりです」なんぞと言ってやるわけはない。


つまり、周知されていることに当たっているか当たってないかで、陰謀論が「陰謀論」になってしまっているのである。



ヒトラーの名前が出たからもう少し。


ライヒのオーガズムインポテンスと支配者の精神と支配の構造の関連を掻い摘んでラヂヲで語ったら、条件反射でコメントを書いている奴がいる、というのがこの話の始まりである。


ヒトラーは、父親に激しい暴力を振るわれていた。そして、家族は誰も助けてくれなかったという。そして、母方の祖父はユダヤ人だったとかで、それでいじめられたとかなんとか。就職先に困ったとかいう話だったような気がするが、調べてくれたら色々と出てくるだろうから、自分で調べて欲しい。話の本筋には関係ないのでな。

また掻い摘んでいうが、そうやってねじくれて、総統になったらなったで、その仕返しをするような政策を実施していたそうだ。親だか肉親の人種を証明の義務付けもその一つという。ユダヤ人に対する政策は実際、自身がユダヤ人の血が入っていたことと関係あったのかは忘れたが、なんにせよ、攻撃する対象があればそれを攻撃するつもりであっただけのようである。

で、それで気が晴れるのかというと、晴れはしないのである。やり返したいはずの父親はもういなかった。

その後のヒトラーがどうなったかはここに書くまでもない。


上記のヒトラーのように、一例だが父親からの暴力でねじくれる、というのが世代を越えても受け継がれてきている、という話が『ハラスメントは連鎖する』という本にある。相撲部屋の話の例を覚えていたら、話が早い。


それはともかく、そーゆーねじくれた性根から出た、「民族」だとか「文明」だとか、はたまた「道徳」というものに、わしらは支配されているんだよ、というわけである。


道徳は語る。

「若い奴らは、言葉遣いや態度がなっとらんので、見ていてむかつく」と、語ったのは為清のおっさんだが、これは嘘である。陰謀である。おっと、発言を捏造したわけではないぞ。

これは、言葉遣いや態度がなってないからむかつくのではなく、若い存在に嫉妬しているからむかついているのである。45過ぎたおっさんは若くはない。

ちなみに、むかつく、は胃や胸が変調して、吐きそうになったりする不快のことだったのだが、それが判らん「若い」やつではある。


言葉遣いや態度を厳しく躾けられたからこそ出てくる感情なのであろうが、その躾けのそもそもの始まり(為清のおっさんの親よりもずっと遡って)が嫉妬だったからといえる。

それを判りにくくされている。これは陰謀と呼ばざるを得ないのである。感情や思考を裏で操っているのである。まるで秘密結社のよーだな。

意図せずとも陰謀を働く。これが人間の性といえる。



というわけで、標語的に書き出しておく。警句というべきか?


「人間が生きていること、それ自体が一つの陰謀である」



どっかの誰かの言葉だったらいいのだが、わしの思い付きである。




だから、わしは陰謀論を卒業した覚えなどないのである。


教育という名の理不尽

2014-06-08 | 雑記
妙なタイトル、なのはいつものことだが、今回は名前負けである。


前回に引き続き、コメントを引用してはあーでもないこーでもないというノリである。ご容赦は願わぬ!

さて、しばらく放置しているラヂヲの、直近のところ、といってももう二ヶ月くらい経つか。そこにあるコメントである。

いつも噛み付いてるが、今回は噛み付かない。といいつつ噛み付くのは、犬が自分の尻尾を追いかけて噛みまわる仕草と同じだと思えばよい。


それはさて措き。

こうある。

社会運動ですか… 
出来る限り多くの人に広めて世の中を変えるってことですよね? マイペースじゃダメなんでしょうか。
でもみんなが目覚めて超健康になったりしたら人多すぎですね(笑)



こちらの方は、このコメントを書き込んだ時点では、おまけとその後の一つのどこまでかは不明だが、途中まで聞いていたという。

為清のおっさんが、「社会運動を起こしたかったのに、誰も理解していなかったんだよ」などと言っていたという話の部分を聞いてはいたのだろう。

ちなみに、そのおっさんがそう言い出したのは、上記のコメントの方が、以前のラヂヲの最終回の時にしていたコメントを見て言ったのである。そこも蒸し返してみようか。


私は「聴きたい人は聴けばよい」と思っているので興味がない人に無理に勧めることはしませんでした。(ごめんなさい)
ただ楽しんでラヂヲを聴き、ブログを読んでいました。

でもアンジョーさんがもし使命感からブログやラジヲをされていたのでしたら確かに重荷になることもあったでしょう。
今まで通りラヂヲを聴けないのは残念ですが、これからはどうかアンジョーさんのやりたいことをやってくださいね。


このあたりを読んで言っていたと記憶している。


で、わしはラヂヲでこう言ったように覚えている。いや、忘れた。

「あんた(為清)は、社会運動を起こしたかったんじゃない。勝手に周りで起きて欲しかっただけだ」と。

だから、講演を頼まれもしたのに、色々と理由をつけてやらなかったんだ、と。

あんたはどこにいる?この社会じゃなかったのか?じゃあなぜ、社会の方から関わってこようとしてきたのに無視した?というわけである。

ジョン某のように元工作員で命に関わる可能性がある人物でもなく、「社会運動のために本名を名乗ってやってきた」というくせに、本体はさらさないそうだ。あんたの豚みたいな体に紐ついた名前も体も「社会」だろうに。
正しい食生活とやらで昔より痩せたそうだが、豚には違いない。それはまあ、前回言ったか。
豚のように食って太った豚、豚のように痩せ、森の肥やしとなる。R.I.P.(こらこら)

と、本題から逸れるので、これ以上はやめておく。


さて、コメントの方は、なにやら社会運動とやらに関わらなければならないのかな?という風に思っているのだろう、こう聞いている。

マイペースじゃダメなんでしょうか。

自分のコメントを引用したくないので(長くて読み返すのが面倒である)、詳細はコメント一覧から探していただければと思うが、概略、こう伝えた。

「世の中のペースも誰かの作ったマイペースぢゃよ」と。

だめなんでしょうか?で不謹慎にも思ったのが、二位じゃだめなんですか?だが、まったく関係ないので忘れてもらう。



少々意地悪なことを言っておく。

そこでもし、わしがこう返事したら、あんた、どうするのかね?

「マイペースではいけません!」と。


こっちのコメントはどっちとも取れるような、しかも長くて訳のわかり難いような話をやってはぐらかしてる感じにしたのは、わざとである。
仕事の合間に、ぱっと思いついて書き上げたというのもあるが。


マイペースじゃいけないんですか?というのも、書いてて引っかかってきたのでもう少し。

自分で自身のことをマイペースだと思っているというのは、やはり、何か別のペースに引きずられているからじゃないか、と感じる。
だからこそ、上記の問いかけをしたんだろうと。


では、変な例え話を。

ある親子がそこにいる。架空である。

父は子に向かって語る。

父「人に流されない、自分というものをしっかり持った人になるんだぞ!」

子「うん、わかったよ、父さん!」

父「人の言う事にホイホイうなずくんじゃあ、ない!」バシーン

子「うん、わかったよ、父さん!」

父「人の言う以下略」


これを思いついたのはいいが、上手くまとまらん。

それで、あんなタイトルになったわけだが、これを理不尽と受け取るかどうかは、ご自身でお考えいただきたい。


教育学者のアリス・ミラーは、およそ全ての教育といい躾というものは、全て虐待に成り得るという。

その、教育の皮を被った虐待で育った子供は内面が死ぬ。ミラーは「魂」と言っていたような気がする。そして、己の子供や、場合によっては権力者になり、自身が被った虐待を、立場の弱きものへと向ける。丁度、ヒトラーがそうだったように。

いわば、復讐をするわけである。しかし、本来復讐すべき存在は居なくなっているのがほとんどなので、エスカレートしていく。

性欲を昇華することによって文明が発達した、という分析の内実は、こういうものだといえるかもしれない。

そうすると、ちとライヒは単純だったのかもしれないな、と思う。


ミラーのいう「魂」が死ななかった子はどうなるかというと、自身に誠実である。この自身が、周りから切り離した状態での「個人」として、ではなかろう。

その「魂」が生きた個人は、社会の理不尽に立ち向かう力強さを持ちうる。
社会が理不尽なのか、自身の思いが理不尽なのか、それを見極めつつ、社会を生きていく。

それが社会運動とやらに結実していくということはありえるだろう。そうなったものこそが社会運動と呼ぶに相応しい。


「社会運動を起こしたかった」なぞと言っていた輩は、最初から魂が死んでいた。ただただ、社会が憎いというのみである。

社会、に色々含まれようが、小さくは個人対個人、大きくは家族やら地域、国家といった風に繋がる。もっとも小さい社会は個人の内である。


社会というご自身が憎いから、太ったら憤り、野犬と変わらんようなバカとちとイザコザがあったら憤慨し、「正しい知識」でもって欲望を昇華する。

話が横道にそれるが、もう少し。もうちょっとだけ続くんぢゃ!


暇人会館とかいう、しょーもない集まりのうちで、おっさん、いや、おっさんら、か。言っていた。肉を食うことについて、である。

「正しい知識でもって、肉を食べたいという気持ちをなくしていくようにする」という風に。

これをこれ、「昇華」という。性「欲」は昇華してはならぬが、食「欲」は昇華すべきもの、と。


これは、ご自身でご自身の魂を殺してきたということである。そうなる元は子供時代からあったからであろうが、理解できないから同じことを繰り返してきた。違うかな?



長くなった。一言で済むといえば済むんだが、その一言だけでは勘違いするのもまた事実。


「自分の胸に手を当て考えよ」



そこにミラーのいう「魂」が息をしているなら、他人の話は参考に、それから自分で動くようになる。動くってのは別に動き回るだけではないことを、老婆心ながら申し伝えておく。

安請け合いはしたくないが、「マイペースじゃだめなんでしょうか?」と聞いてくるくらいなら別に大丈夫だろうと、そう存じ上げております。

ほれ。「魂」が死んでいる方々は、まるで理性を失ったかのように騒ぎ立てるぢゃろう?

彼らが彼ら自身の胸に手を当て考えたといったところで、そんなものはアメリカで裁判の前に聖書に手を乗せて「嘘つきません!」と誓う、ポーズである。


「魂」とやらは、知識なんぞで見えてくるものではないし、わしにも他人にもどーすることも出来ないから、コメントをくれた方がどうしたいかは、「マイペース」で決めていただく以外にないというわけである。

では、よき暇つぶしを。


事実誤認

2014-06-06 | 雑記
久しぶりにブログを書いたら、コメントがあった。昨日今日の話ではなく、半年以上まともに書いてなかった後。為清ラヂヲのおまけ直前のことである。

コメントに曰く、「為清のおっさんより強い」とかどうのこうのと。


為清のおっさんはHPを消し去った。最早対社会的に訴えかける手段を放棄したのだ、とコメントの仁は思ったのだろうか。

改めて読んでみたら、こうあった。

そして、伝え方も非常に重要でして、現状においてはT氏よりもアンジョーさんのほうが強く、また動画とともにテキストもあるとさらによいのですが。
順序をすっとばして一気に事実のみ、となるので覚醒者は発狂(大げさ)するんだと思います。



伝え方も重要とかなんとかいうんだが、聞く気も読む気もない人に伝えても何も伝わらんので、これは間違いである。わしがどうしゃべろうが書こうが一緒である。

そして、現状において為清のおっさんよりもわしのほうが強い、とかいうのもまったくもって意味不明である。



あのおっさん、出版社にコネがあるんだぞ?自費出版ではないようだったぞ?今年の春先に、本を出していたんだぞ?
こんな場末のところで何か書いてわめいているやつの方が強いとはどういう了見だろうか。


ついでに、覚醒がどうのこうのとかいうが、そもそも誰も覚醒なんぞしとらん。アイクはしらん。かもね?くらいでいいんじゃないかな。

為清のおっさんが覚醒なんぞしてない、という証拠としては不十分だが、頭の血の巡りが悪いようだということを書いておく。


「苦しんで滅びろ」の話を書いたししゃべったが、まだ抜けてたところがあった。意味のないような話だが、「苦しんで滅びろ」の直前に書いていた部分である。

「文明という幻の森の中で、幻のフルーツを食っていろ」とかなんとか。こーゆーことを言っていた。


アイクが言うんだが、わしらの認識というものは、丁度、映画『マトリックス』と同じ状況であると。

つまり、植物人間状態で見てる夢を現実だと思い込まされていたが、主人公達はそれを抜け出して、本当の物質世界、あれは映画だからこういうが、わしらが現在いる状態の世界を取り戻そうとしている、という内容である。

で、ここで間違えてはいけないのが、マトリックス(植物人間状態の夢)を抜けたところで、本当の物質世界なんぞない、といっている。

その点を除けば、あの映画の表現は正しいと、アイクは述べていた。



つまり。

為清のおっさんは、文明はマトリックスで、それを抜けた先にある森が、緑あふれる地球とやらが、「本当の物質世界」だと認識しているということである。


わしは、文明なんぞ幻だと思っている。だが、エコロジストだかがすぐいう「自然」とやらも、幻だと思っている。それだけが幻だというわけではない。全部である。


度々引用しているが、アイクが言を。

「健康に越したことはないが、健康だからといってわかるものではない」と。


『Human races get off your knees』で、合ってたかな。ムーンマトリックスといったほうが早いが、それはともかく。

あれの中でも、ニューエイジの思想的指導者どもが、どいつもこいつも図ったかのように、絵に描かれているキリストのような容姿になっているといった指摘や、どこかを訪問して見た、「真理を体得するための修行」だとかなんとかで、車座だか蓮華坐だかして云々と。

アイクは膝が悪いので椅子に座っていたが、皮肉に言っていた。「真理とかいうものは、そーいうことをしないとわからないものなんだろうか」と。


アイクが見ていた車座になって何か皆でやったりするのだとか、「健康的」な食生活やら健康法やらをやるのと、どこが違うのだ?


翻訳しておきながら、そういう理屈がまったく飲み込めてないから、己の「マインド」と「ボディ」にだけすがりつくんだろう?違うか?

地球のマインドというかボディというか。地球は人自身だとか、それっぽいことをいっていたが、そういう自然というより「自然環境というマトリックス」に埋没したいだけではないのか。


だから、為清のおっさんやそれに連なる(単純にカテゴリで区別しただけのものとしての)存在はどいつもこいつも覚醒してなどいない。ラリっているだけである。




谷のおばはんが、某会員制掲示板を抜けたときに、「すぐセミナーいくような間抜け」などと、こんな表現はしてなかったが、酷評をしていた。

あんたはすぐ健康法に飛びつく間抜けだ。まあ、わしもすぐ飛びついてたもんだが。やめた。



あんたは、「太らされて醜くされた」と思い込んでいる自分の体が嫌だったんだろう?その体自体は何の意志もないのに、振り回されてたんだろう?やせたら喜んで、太ったら怒る。これはなんだ?

背が伸びたら怒って、背が縮んだら喜ばねば、つじつまが合わんな。傍らのおばはんは、乳房が縮んで喜んでいたが。

豚のように食って自ずから太ったのに、他人のせいにしてたんだろう?だから、いくら食っても太らない、正しい食い物に飛びついたんだろう?豚のように食いたいから。

食べ物のせいに、文明のせいに、人のせいに、そして地球のせいにして、自分は責任を取る気などまったくないのだろう?自由なんぞではなく、自然環境の奴隷として生命維持活動をしていたいだけなんだろう?


というわけだ。これがあのおっさんの性根だ。

こーゆーと腰砕けになるから言わんでいいのだが、わしにだって誰にだってある下らない心根ではある。

その下らない心根も己自身なのに、こんなはずではない!見たくない!と、「努力」して痩せて、文明を非難し、地球を崇め奉る。

『トランサーフィン』とやらで、人間は努力なんぞしてない、自分で書いたシナリオ通りに進んでいるだけである、障害だらけのシナリオ書いて、という風にある(上の「努力」というわけである)のを読んでいたはずなのに、「お前ごときにわしの苦労の何が判るのだ!」みたいなことをいう。

狭い豚小屋で隣の豚の耳にかみつく豚のようである。


覚醒のために頑張ると、豚になるようなので、わしは頑張らないことにする。大体、覚醒とやらも目的ではなかろうに。


お分かりか?

冒頭のコメントの仁は、順序をすっとばして一気に事実のみ、となるので覚醒者は発狂(大げさ)するんだと思います。と言っていたが、覚醒してるんじゃなくて、発狂してるだけなのだ。

「マインド」と「ボディ」に偏執してるだけなのに覚醒だと言っている。彼らがいう、地球だとか自然というのも、「マインド」と「ボディ」を大きく広げただけの話であって、それを乗り越えた話ではないのである。

だから、誰も覚醒なんぞしていないのである。はい、ここまで。



ところで、某人、なんぞと名乗ってコメントをしていた方へ。


作家の山本夏彦が言っていたが、「仕事は死ぬまでの暇つぶしだ」と。


仕事、ってのは別に労働だけでもなかろう。常住坐臥、つまり人生である。


あわよくば、このまま一生暇人として過ごしたいものです。と言っていたが、つまり、人間はそもそも暇人である。お間違えなきよう。


わしが以前、怒ったようなコメントを返したのは、別の意図もあったのだが、上記のコメントも関係ないわけでもない。が、長くなるのでそれは措いておく。では、よき暇つぶしを。



死ぬことと見つけたり

2014-06-05 | 雑記
武士道とは、死ぬことと見つけたり。とは、山本常長の『葉隠』の一節である。

とかいいながら、後で「好きなことやって好きなように生きて死んだらいい」という風なことも書いている。


それはともかく。


武士道とかなんとかいうと判りにくいので、噛み砕いて言えば武士という生き方だと。


その、武士とはなんなのか、だとか、そんなつまらん話をしようとは思ってないし、意味も無いのでやらんが、それよりもっとつまらない話になるので、お覚悟願う。



巷間には数多の逝き方、じゃなかった行き方でもない。生き方がある。

果物と葉野菜だけ食うのがかつて猿だったときからの正しい食生活だから、そうやって生きるべし!とか、健康に生きねばならぬから、病気にならないように健康的な生活をしなくてはならぬ!だとか、健康に生きてないと、「病人」に支配されるから健康に生きなきゃならないんだ!とまるでキチガイのように生きていたりと。ああ、これ全部同じ方面の話だったな。


現代は武士という存在はいないので、武士道、というのはないが(剣道だとか茶道だとかはあるが、措いてくれ)、「道」ならある。


ナントカ主義、というやつである。ナントカは好きな獄、ではない語句を当てはめていただければ結構。事実関係に即したものを当てはめるのは当たり前だが、そんなことは言わんでもいい。



単純に菜食主義だとか健康主義だとか、自然主義とかいったりする。ものによっては微妙に主義というものの扱いが違っているのだろうが、なんとなくナントカ主義で思い当たる言葉をいくつか引っ張り出してきてみよう。

で、「主義」の前に「至上」をいれてほしい。

菜食至上主義だとか、資本至上主義だとか、共産至上主義だとか。


必ずしも略されている、とはいわんが、ナントカ主義というのは、それを神様だと崇め奉ることを言うのである。一番上だから至上。ナントカ主義というのも翻訳語だったと思われる。

どこからのといえば、ヨーロッパのismとかsismがついた言葉を翻訳したものだろう。詳しくはしらん。嘘っぱちだと思うから自分で調べていただきたい。


ヨーロッパの方から来たとして、こりゃなんなのかと。善と悪を理性だかなんだかで分離し、人間は善の立場に至るべきで、悪は滅ぼすべし!がキリスト教の論理だと、簡単に言える。ナントカ至上主義というのはそういうものだと。

こーいうのはなんなのか。これは「神」のために生きる、ということである。

神のためには十字軍なんか作ってはるばるアラビアまでいっては虐殺したりされたりまでする。がんばったら神の国にいけるよ!と。


ナントカ至上主義のお歴々が、神を崇め奉っているとは思っていないだろうから、この場合は「道徳」といえる。まあ、似たようなもんだが、書いて説明するには余白足りないので、フェルマーの真似じゃないが、ここには書かない。


話を戻す。


神のために生きている、もしくは生きていた人々は、神のために死ぬこと(を受け入れていたかはともかく)もあった。


もっと簡単にいうと、「何かのために生きるということは、その何かのために死ぬこと」である。


共産主義者は、共産主義でないものを殺しまくったという話だが(資本主義にしても同じである)、彼らは全部が殺されたとはいわんが、共産主義と共に死んでいった。

共産主義だとかいう思想は生き残っているが、そのために生きたものは、そのために死んでいった。


どこかのエコロジストくずれが、地球のために、という風なことを散々言っていた。その前提の理屈として、個々人が正しく(「自然」という意味で)あれば、地球に繋がっているので共々に繁栄していくのだ、と。で、そのためには文明を否定すべし!となっている。判り易いお方だ。

これをグローバリズム、とは言わないが、グローバリズムを返って推し進めている気がしないでもない。その辺りは以前、ラヂヲで簡単に触れた気がする。


あなたはわたし、わたしはあなた、などと言っていた。だが、あなたはわたしでもあるが、わたし自身ではないし、またその逆も然り。

父と母はあなたを産んだが、どちらもあなた自身ではない。ないのだが、己の思想とやらが理解できないからといって、上記の言を借りていえば「あなたはわたしではない」などと、某エコロジストくずれは、曰う。

理解してようがしてまいが、「あなたはわたし、わたしはあなた」ではないのかね?

そうなってなければ、「地球は自然は我々の母親」のようなことを言う資格はなかったと思うが、どうだろうか。
(勘違いして欲しくないが、別に古来からの道徳的に父母を敬えなどといっているのではない。直接産んだ存在である、という程度の敬意は払えばよかろうよ)

そんな分裂をしているから、「自然」のために生きるべし、などと言い出すのである。地球の「自然」だけが「あなたはわたし以下略」なのだろう。

恐らく、地球のために死ぬ気なぞない。木が倒れてきたら必死に避けるだろう。そこでつぶれた方が肥やしになるのでよいはずだろうが、そうはしないだろう。



「自然」と書いたが、そーいう人たちが語る自然というのは妄想だと思っているので、カッコつきにしてある。これもまた余白が以下略ということにする。ラヂヲでしゃべれたらいいね!



現代のナントカ至上主義といえる諸々は、そのために死ぬ気が無いのに死を語る、詐欺師である。


武士「道」とは、死ぬことと見つけたり。まったくである。