ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

うつわ

2012-07-30 | 雑記
人間の食べものは果物であった。ということを理解したので、基本的に果物を食べる生活を、きっちりとはまだいえないが、始めている。


肉や乳製品は、如何に変なもの(妙な飼料で育てられているだとか、加熱殺菌などの不自然なもの)が入ってなかろうと、実際は受け付けられるものではないということである。
ただ、情けないことに、昔の習慣は一朝一夕で消えなかったりする。しかし、時折試して(試している場合か!)みると判るのだが、その後の経過に大きな違いを感じている。

要するに、果物は美味い、ということである。味もあるが、身体が困っていないというわけだ。

最近はマンゴーが美味いなと思ったり、フルッタフルッタの冷凍ピューレは絶品だなと、仕事場の冷凍庫に入っている謎の袋(持ち帰り用にアルミみたいな袋を持たされる。それをそのまま入れてある)を不審に思われながら過ごしている。大麻だ脱法ドラッグだなどと勝手放題にいわれながら。


ところで、その情けないといえば情けないところではあるのかもしれないが、たまに刺身で一杯やっていたりする。


刺身には日本人の感性で彩られた皿がふさわしい。これも「昔の習慣」といえばそうかもしれないが。



刺身を盛るのに最もふさわしいと絶賛されている皿があるとしよう。


それに旬の刺身が乗っている。「昔の習慣」とはいえ、やはり非の打ち所がない。



仮に乗っかっている刺身が痛んでいて食べられなかったとしても、やはり器との一体感が文化というものを感じさせるであろう。もっと正確に言えば、皿に文化が現れている。



しかし、ある日、刺身でないものが盛られている。レアステーキだったり、牛のたたきだったりする。刺身を「生で捌いた食べ物」であるとするなら、まだたたきなら刺身といっていえないこともないが、やはり似合わない。



その上、出してきた奴は「刺身を盛る皿に盛ったから刺身なんだ」と、奇妙なことを言い張る。問うてもいないのに。



そんな訳の判らない口上を受けて口にする「刺身」は、きっと訳の判らないものになっているに違いない。



さて、また刺身を盛ったその皿を見れば、「日本文化としての刺身」が体感できるであろう。皿を食っているのか魚を食っているのか混乱するところではある。



ちょっと訳の判らない話をしたが、こういう話に繋げたかったわけだ。


またBeyond 5 Sensesから、最近、こういう記事が掲載された。うちのラヂヲではないのでご安心?を。




なんで皿か?というと、楯の会のクーデター前に三島由紀夫は一般には理解しがたいことを述べていたそうである。

天皇がクーデターを許容しないのなら天皇を殺す、という風に。


上からの話で無理矢理持っていこうとしたら、つまり、こういうわけだ。


天皇という皿に、天皇陛下という日本産の魚の刺身が乗っかっているのだと思っていたら、実際はビフテキが乗っかっていたのだ、と。



刺身を頼んだはずなのに、ビフテキが出てきたらおかしな話である。皿を壊す必要はないので、刺身を盛り直してもらいたいところである。


もしかしたら、そのうち「うつわ」すらいらなくなるのかもしれないが、その「うつわ」がビフテキの脂や熱で変質しないうちになんとかしたほうがいいだろう。では、また。

迷子の龍

2012-07-29 | 雑記
目を覚ますと、そこは川原だった・・・。


というのは半分本当である。



帰り、余りにも暑いのと、習慣になりつつあるいつもの橋の下にやってきたのだが・・・。



以前設えた長いすのある方から向かって反対側の橋脚にカップルがいた。


仕方が無いので右に回れをし、初めて座り込んだ方へ向かった。


橋脚を挟んで背中合わせに近い感じになったわけだ。



それよりも、入ってきたほうから見て向こう岸のほうがなにやらやかましい。


先生みたいな男性と小学生の男の子らしい集団が、水練をしているようだ。水練なんていつの時代の言葉かね。


それだけならなんでもない。


なにやらわけのわからん掛け声を上げている。怒鳴りつけている、というわけでもない。外国語かどうかは「うるさい」としか思わなかったので注意を払う気がなかったので不明である。



またもや少々飲んだのもあって、本当に少し寝てみようと思っていたらそれである。だが、無視して寝た。



日はあまり変わってなかったのだが、二時間近くは寝ていたようだ。気温は少し落ち着いたうようだが、暑い。






家に野菜でも買い足しておこうと、最近立ち寄り始めた八百屋に向かった。


毎日そこには、丸々と肥えたおばあさんが、だみ声で人と話している。動くことは無く、いつも同じ席にいる。


レタスを買おうかと前を通りかかると、声をかけられた。二回目になる。


「お兄さん!レタスどう!?二つで百円!」

そいつは欲しかったところ。おしゃべりしていた関係が不明なおじいさんは「こいつがいいぞ」と、手渡してくれた。

そうすると、今度はこうくる。

「水菜どう!?水菜!」水菜かぁと、一瞬悩むと「四つで五十円!」やたら安いなぁと、買うことにしてみたのだが・・・。


グラハム博士の80/10/10 Dietによれば、アブラナ科の野菜は消化がよくないので避けるべし、とのことだった気がする。


家では料理らしい料理はしなくなってしばらく経つ。しかし、こいつばかりは仕方が無い。少々茹でて食べることにしようかと考えた。生で食うのがいいのだろうが、そもそもがアウト。

だが、久しいので一つ、生で食べた。


苦い。最近は果物ばかりだったので、こういう苦さは受け付けにくくなっている。


果物と葉や花を食べていた、森に暮らしていたであろうご先祖は、多分、水菜は食べなかったんじゃなかろうか。生えていたかは判らないが。

かつて、スライスしたリンゴと併せて盛ったサラダを実家で出されたことがある。当時はリンゴは食べられたが、野菜と果物を併せるというのが好きではなかった。しかし、美味かったと思う。


というわけで、そんなワイルドな料理というか食べ方を写真にして、と思ったが、ちと体力の限界である。

明日は珍しく朝から仕事に出なくてはならないので、内容に力がこもっていない。背中も曲がって腰も力が抜けている。


ラジオはもう少しお待ちを、というところから始めるつもりが、気がつけば八百屋のおばあさんの話になっていたという具合である。ご容赦を。


さらに今思い出せば、昨晩ドラゴンフルーツなるものを買って食べた話をしようと考えていたのに、この有様。本当に限界のようである。


つまり、ラジオまでの繋ぎ更新だった、そういうことで。では、おやすみなさいませ。

LIE

2012-07-27 | 雑記
先日のことである。


母親からメールが来た。そこにはこうあった。


「末の弟が結婚することになったよ」と。


あまり気が進まない兄弟(特に兄)と家族の会話で、時折こんな話があったように覚えている。


「一番先に結婚するのは一番下の弟じゃないか」などと。



今回、それが実現したわけである。



その辺りはなんとも思わない。寧ろ喜ばしいので、勝手にやってくれ、と投げ遣りにお祝いの言葉を投げつけたくなる。いや、弟については家族では一番嫌悪がないのでそこは冗談である。


ちなみに、メールで嫁さんと一緒に写っている写真を送ってきたのだが・・・。

やはり我が弟である。こんな皮肉めいた嫁さん(予定)との記念撮影があるだろうか。

金色夜叉』をご存知だろうか。リンク先はグーグルの画像検索なので、名前は知らなくてもすぐ思い当たるだろう。

熱海のその銅像の前で記念撮影している写真を送ってきたのである。


「なんつうところで写真撮ってるんだ」と問えば、判っているのでこう来た。

「いかしたバックやろ?」と。


その前後のやり取りで、いらない気の遣いでしかないのだが、後味のよくないやり取り(一般的にいえばであり、わしとしては満足である)があった故、大笑いしてしまったものである。


さて、何があったか。何を感じたか。ラヂヲで語ろうかとも思ったが、少し寝かせてこなすついでに書き綴るのもよかろうと考え、少々記そうと思う。



弟からの一足遅い結婚報告のメールが先日届いた。


そこは別に問題ない。数年前の何とかライダーの黒幕っぽいけど黒幕でないおっさんのセリフを借りれば「ハッピーバーズデイ!」と叫ぶところである。(そんなネタはよしたまえ!)


そう。それだけなら「先に聞いてしまったけどおめでとう」で済んだのである。


続けてこうあった。


「兄貴の新居に嫁と一緒に遊びに行かないか」と。


それを読んだのは仕事の合間だったと思う。夜勤の間中悩んだ、といったら大げさだが、どう答えたものかと逡巡したのである。


理由は、上の一言に引っかかるというので判るかと思うし、最近ではないが、散々書き綴ってきたことでもある。


兄が嫌いである、ということだ。


話が前後するが、これを書いている先日、兄貴からメールが来た。

一晩悩んで(仮、)弟に「今でも多分兄貴と会ったら気分が悪くなるから行きたくない」と送ったのだが、向こうで内容を伝えたようである。
その前にあった弟からの返信も、「長兄がヤスオとどう接したらいいかわからないみたいだ」という事を書いてあった。ちなみに、一分違いで届いた。狙いすぎじゃないかね。

内容は、「お前に子供のころから偉そうにしてごめん」という風な内容であった。


判ればよろしい、というのはよくあるところ。だが、あちらは判っていない。


仮に兄貴がそういう馬鹿げた厳しさを持たずにこちらと接していたならばこちらはそこまで身構えなかったのかというと、やはり違う。


あまりおおっぴらに書きたくないので伏せて書くが、かつてのわしもそうだし、現今はわし以外の家族が根本的に囚われている精神構造が問題なのである。

胸倉つかまれた、は以前ここで書いた覚えがある。こちらがその精神構造を乗り越えるような発言をしたが故に、暴力的な示威行動の憂き目にあったわけである。




もう少し一般的に(ある意味、実家が囚われている精神構造も一般的ではあるが)記そう。


「家族」 これである。


どのような家庭でも、何がしか問題はあろう。大なり小なり、いざこざが起こり得るであろう。それでもちょっとした相違なら自然と解消し得るともいえる。

しかし、どれほど重大な相違があっても、それを塗り潰し、一まとめにしてしまおうとする勢力がある。

それが「家族」という道徳である。


我が兄を血の繋がりや道徳を無視した(まずはそこを理解できればの話だが)上で、分かり合える個人であるかと問われれば、こちらの答えは「否」である。



さて、その兄が反省する「お前に偉そうにしてきた」という話。


これも大きなところである。


というのも、以前書いた、メガネ豚のおっさんの話


兄という生き物は、まんまこの豚のおっさんなのである。腹の出っ張り具合までも。道徳的な、余りにも道徳的な、というわけである。今回の内容に沿ったところなので、十二分に理解なさりたい方はお読み戴きたい。再確認のようでもあるが。


実家の「精神構造」を担っている存在がこういうことを曰まう。

「嘘をつけば、その嘘を糊塗するためにずっと嘘をつかなければならない」と。これは、敵対している存在に対して言っている言葉なのだが、どうみてもブーメランである。


わしは家族だとか肉親というものは「嘘」でしかないと感じている。

その上で、我が兄とは分かり合えるものではないといっている。表面上のお付き合いならやってやれないこともないが、多くて年に一回くらいで結構。


お互いの精神衛生上のためにも、まずは「なんでも言い合える仲」という空想を醸成している「嘘」を投げ捨てるべきである。
そうすれば、そういった「仲」を維持しなければならない、という固定観念も消え去るであろう。

こちらは控え目に見て半歩ほど脱したとはいえ、彼らはその「嘘」の中でのた打ち回っている。


できればこのまま、「あいつは仙人になったからこの世のものではないのだ」と、寝かせておいてくれれば実にありがたい。「嘘」が全てであると思っているのだから、こちらが真実を示しても彼らの答えは「胸倉をつかみにかかる」になるのである。

こういうわけである。

「ゴヒャクニンはどこだ」と最近はしつこく曰まうわしだが、まだ見ぬ「ゴヒャクニン」の方は、示したことが骨身に染みて理解できない限りは、仮に我が「ゴヒャクニン」となった場合、無用の苦しみを増やすだけである。苦しんで理解できればそれでよいが。(ゴヒャクニンってなんだ?という人はBeyond 5 Sensesのこの記事を読むべし。しかし、「ゴヒャクニン」の説明にはなってないな)


まだまだ一人ぼっちの「ゴヒャクニン」は脱却できそうにないのかな、などと思うのである。こう書くと、こりゃ露骨だなぁと。まあ、一度、あなたの家族とあなた自身のあり方を振り返ってみると、不自由さが理解出来るかと思われる。
ここで示した内容はまだまだ粗雑に過ぎるので、その先はあなたが如何に理解を深めるか、である。馬鹿げた世の中の「嘘」を一つ突き崩せば、もっと大きな「嘘」に気付けるであろう。では、また。

正坐について

2012-07-26 | 雑記
そういえばこのところ「正坐せよ」と言わなくなってしまった。


ついに痛くて痺れるので怠けるようになったか!と、妙な期待をしている人はいないだろうが、別に怠けてはいない。


昨夜も、夜勤明けで帰宅してからの仮眠の後、風呂に入り、汗が引いてから真っ暗な部屋のなか(街灯の明かりがあるが、暗くはある)、一時間半ほど燃えるロウソクを燈しては坐し、タバコをふかしていた。


流石に床の上なので、途中で座布団を引っ張ってきたり、体の姿勢が崩れるのでその都度直したり、じっとしていない。


しかし、下腹と脚に力が入った状態で息を深く吸う状態が出てくると、椅子に腰掛け、エアコンと蛍光灯がつきっぱなしの仕事場では味わえないものがある。


脚に力が入る状態を意識し始めたせいもあるのだろう。床の上で坐していても、前ほど痛くなくなっている上に、姿勢を直しているのもあって、硬直しすぎて膝が痛くなる、といった症状もない。



さて、この脚に力が入った状態と、それ以前の状態はなんだったのかを少し振り返ってみる。


以前紹介した、「正しい正坐」の方法。野口整体 気・自然健康保持会のページにあるのだが、直リンク禁止なので、気になる方はお読みいただく。こちらへ



掻い摘んでいうと、坐骨が踵の前に来るように、少し出っ尻にする感じで腰を下ろし、坐骨の辺りにある筋肉を上半身の体重で押さえつけるようにする。

そうすれば、太股と尻に力が入る。これで上虚下実となる。


はずであった。



昔の感覚で、坐るというのはソファーに腰掛けるようにゆったりするものなのだと考え勝ちだったのもあって、脚に力を入れていることが無かった。

当然、尻にも力が入らない。そしてすぐ脚が痛くなる。


試しに正坐を思い思いに行ってもらおう。

膝はくっつけない状態で、拳ひとつかふたつ分ほど開いているとする。

元から「正しい」状態の人の人ならわかるだろうが、脚の力をかなり抜いてみよう。

両膝が内側に向かって近づこうとしないだろうか。くっつかないまでも。


この状態に違いない、と前はそう考えていたのだが、どうも力が入らない。

出っ尻を少し強めに意識し、下腹も意識しなおして坐ってみたところ、勝手に脚と尻に力が入る状態が出来上がった。

その際の膝は、どちらも外へ向いている。別にガチガチに力を入れているわけではないが、力が入っていることが感じられる状態である。


ああ、これだったのかと。ようやく納得したのであった。



西洋人の体つきでは効果があるのかはわからないが、日本に生まれついた方には是非とも正坐を心がけてもらいたいものである。

なに。単に坐るだけである。それで何か変わったと思えるところが出てきたらまずは第一歩。そして基本にしてしまう。


古来、侍が五感を研ぎ澄ますのに正坐を心がけてきたという風な話がある。


いつもの風景が違って見えるかもしれない。それに、本来「同じ風景」は存在しないのである。

毎日昇る太陽。地球の公転や地軸の影響で、日に日に近づいたり離れたり、日の出日の入り時間も変わっている。

あなたの部屋にあるものがそのいつも少しずつ違っている日に照らされる。「変わり映えの無い風景だ」とあなたはお考えになる。


というわけで、その「変わり映えの無い風景」を正坐してご覧戴きたい。結局は変わり映えしてはいないが、変わって見えるかもしれない。

見えなかったらどうするんだ!とかそんなバカな・・・という人はまず、その荒らぶる(片方は荒らぶってない気がするが)魂をお鎮め戴くために正坐をするところから始めるのがお勧めである。では、また。


グラスからはこぼれなかった話

2012-07-22 | 雑記
さて今回は、前回のラヂヲのこぼれ話をやろうかと思ったのだが、掲載と同時に少しやってしまったのだった。



というわけで、まったく無関係な「こぼれ話」をどうぞ。(その記事のカテゴリーが「こぼれ話」だった)







あー、いやその。お酒には気をつけようね!流石に木にはまったり、落っこちてさらに熟睡なんぞしたことはないが。



冗談はさて置き、先日出したラジオについて。聞いた人はもうご存知かと思われるが、なんとなんと、飲みながらしゃべると言う暴挙に出てしまった。


それに絡めた、ちょっとしたお話をしたいと思う。



その日、夕方からの仮眠から目覚めてふと思い立った。「そろそろラジオやるか・・・」と。


しかし、少々腹も減った。食べに行くのもな・・・と、先日買いだめしておいた野菜を取り出し、ボール一杯に詰めて、青虫になった気分(嘘です)でモサモサ食べ始めた。


レタスを毟ってボールに入れ始めると、何故か胃が動き出す。やはり、人間はこういうものの方がいいのだなぁ、などと感じたりしつつ。


さて食後。

眠気も飛んだので、よしやろう!と準備を開始する。


昔のように、景気づけに一口やってから始めよう、などと思ったのがいけない。いけないことはないのだが。


そもそも、ラジオ内で酒をグラスに注ぐ音は入れてある。背景もバーの写真だ。


なら、小道具として置いてあってもよいではないかよいではないか。なにを言っている。


と、まあ一口で終わるつもりが「うん、美味いな」となって、気がつけば喋りながら飲み、当たり前のように注いではまた飲んでいたという。


ミニボトルが半分からそこいら入っていた気がするが、収録後、確認のため聴きながら飲み、編集作業中にも飲んで、ついには空っぽになっていた。

・・・「家ではいつもストレート」と言っているが、飽くまで「飲むときは」である。家ではここ一年、ほとんど飲んでいなかった。



また、こんな話を先ほど見つけた。






これで昔のホラー映画だったら完璧か。いやいや、そうじゃない。



うーむ。ちと露骨だったか。特にタイトルが。仕方ない。お前を蝿人間にしてやろうかぁー!?っと。誰もいわんなこれ。



と、言いたかったことはそれではない。


普段ならそれだけ飲んだら次の日はかなりクラクラしたものだが、けろっとしている。

やはり、先にサラダを食べたのが効いていたのではなかろうかと考えている。あー、うん。これだけなんです。申し訳ない。



こちらとしてはヘラジカのつもりだと思ったら、実は失恋したThe Flyだったのか・・・と少々ショックを受けている。別に最近失恋したという話ではない。


またその話か!芸のないやつめ!とおしかりを受けそうだが、あなたにとってもわたしにとっても、実に大切な問題なのであるが、その話は以前少々したし、いずれ詳しく書くか喋るかするかもしれない。乞うご期待?では、また。

ラヂヲ 八杯目

2012-07-21 | ラヂヲ
いけない。一週間を過ぎてしまった。

というわけで、突発的に収録を開始。

そして何故か目の前にグラスに注がれたウヰスキーがあった・・・。


今回も二本立て。

ちなみに、動画説明文にも書いたが、八杯目一口で「二百年前」とほざいてるのだが、「二百万年前」の間違いである。腹は掻っ捌かないが、断腸の思いである。今夜は眠れるかどうか怪しい。

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 八杯目一口


とても思わせぶりな終わり方でCMへ。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 八杯目チェイサー





こぼれ話をいきなり少々。他に思い出したらまた改めてやるかもしれないが。



チェイサーの方の話で、瞑想について話をした。
アジナチャクラ、体内で対応する松果体という箇所について。


ニューエイジ系の音楽で、ソルフェジオ周波数を色々と計測して導き出された、ある周波数がある。


Source Vibrationsにある、とある曲のタイトルはこうなっている。下記に動画を示す。


936Hz Pineal Gland Activator Meditation



Pineal Glandというのは、松果体のことである。周波数は936Hz。

つまり、松果体を活性させるという意味である。Meditationは瞑想の謂。


ただ、ニューエイジというものには色々と胡散臭い話が付きまとっているともいう。


Pure Dataという、任意に周波数を設定して、試験電波放送のように一定に音を鳴らし続けるソフトがある。

まずは試しに上記の動画を聴いてみて、何か感じるところがあれば、Pure Dataで音を鳴らしてリラックスしてみる、というのもいい効果をもたらす可能性があるかもしれない。


英語のソフトなので使い方が判らない、そもそもリンクの先のどこにソフトがあるのか、という方がおられるかもしれない。Download PDと書かれているので、とりあえずは拾うことは出来ると思うが。

とりあえず、我が家に設定しておいた状態のものがあるので、気になる方は住所氏名性別年齢メールアドレスを明記の上(メールアドレスはないと困るが他は冗談である)、奮ってメッセージボックスに一言下さいましたら、gooのフリーメールで送れるかどうかは定かではないが、設定したものをお送りいたします。

では、松果体を刺激して、よりよき生活をお送りください。では、また。


犬と毒薬

2012-07-19 | 雑記
これを書いている時間からしたら先日になる。

仕事の帰りはいつも一駅歩いて帰る。夜勤明けである。何せ、一晩蛍光灯やらエアコンが効いた環境で、特段複雑ではないとはいえあまり気の進まない接客業をやる。


そうなると、外で日が浴びたくなるのである。雨でもおかまいなしである。


だがしかし、酒飲んだり「普通の」食事をして帰るのはいかがなものか、とは思っているが、とりあえずその話は措く。



フルータリアンになろう、と硬く決心したわけではないが、試しに果物ばかり食べてみるのをやり始めてしばらく経つ。


夜食に変なものを食べたりするのだが、それから基本的に昼まで食事らしい食事はしないのが普段である。しかし、少々腹が減った。


その昨日の晩、仕事場すぐ近くの果物屋でペリカンマンゴーなんて見つけたので、自分が食べるついでに日勤の人におすそ分けしようと考えた。

すぐさま買いに行ったが、ペリカンマンゴーでは小さいから、大きい赤いマンゴーにした。


昨日の今日で、(昨日はペリカンマンゴーを切ったわけだ)簡単に切り方を調べてやってみたら、意外と簡単に出来る。プロほど上手くはないが、こんな感じかなぁと思ったら、ひどく喜ばれた。メンバーは男性一人と女性二人。




糖尿病の人は果物がよくない、という話が出たりしたが「それは飽くまで「普通の」、さらに西洋的な食生活をしてきた人にとっては問題になりうる」と説明したりした。

細かい話はうろ覚えだったので(上の話は多分違う)、毎度の如く、きみしぐれさんのブログを少々見せながら読みながら話をしていた。ちなみに、糖尿病云々の話をした人には以前、グラハム博士のすさまじい身体能力の動画は見せた。
見せてたら「そういえば前にこれ見せてもらったね」と言われて思い出したので、こちらの脳みそはちょっとサボっていたようである。


まだ昼前だったので、「普通の食事をするなら、摂る前に果物を食べておいたほうがマシである」ということも説明したりと、なんだか妙な意図を持って食べさせたような気がしないでもないが、単純に美味かったからおすそ分けしたくなってやったら、いつの間にかそんな話になっただけである。少なくともドライマンゴー食べているよりはいいだろう。女性メンバーのうち片方がよく食べていると、マンゴー食べてみるかと訪ねた時に答えていた。


例のマンゴーはまだもう少し熟したほうがよかったのかもしれないが、なんとなく選んだものでも大きく外れた感じはなかったようである。まあ、大きな問題だが、輸入品なのはご愛嬌ということに・・・しないほうがいいか。


しかし、写真では二切れ写っているのだが、手前のが厚めに切れたので半分にしたところ、上のような形にならなかった。で、その真っ二つのうち片方は一人が食べた。


残りの二つはさらに他の二人が食べたのである。


はて、わしの分はどこだ?と、切ってから思ったが遅かった。仕方が無いので種の周りを抉って食べていた。



かなりゆっくりしてから仕事場を出、いつも帰りに降りる駅から歩いて数分のところに、タバコ屋がある。


いつも吸う、マニトウのオーガニックと、これは気が向いたときに買っていたチェ・シャグが何故か置いてある。


まだ他の煙草はあるのだが、ストックとして買っておこうと、店を覗いてみたら、犬がいる。

黒に顎から腹の方が白くなっている柴犬である。近づいても吼えなかったが、手を近づけたら顔はそむけた。


犬を構いたかったのが目的ではないので、例のタバコを注文したら、アメリカンスピリットの試供品をもらえた。犬をちょっと撫でてから、一服することにしたら、子連れが来て、恐る恐る犬を触っている。


その犬は何故か、最初は店主側に近く寝そべっていたのに、こちらが坐っている方に近づく形で腹ばいになった。なにやら気になるのか、撫でられながら時折こちらを見上げる。

犬は人間の言葉は話さないので、代わりに店のおばさんが「普段それで吸うの?」と、キセルに突っ込んできた。まさかキセルが気になったとは思わないが。



さてさて、タバコの話をしたついでに、いつぞやのラヂヲこぼれ話として、少々期するところを話しようかと思う。


昔書いた所でもあるが、ラヂヲでは話していなかったし、その時のこぼれ話としても出していなかったはず。


さて、タバコの害として考えられている成分が、大まかに二つ。

まずはニコチン。中毒性のある神経性毒というわけだが、中毒性以外は神経の働きを整えるところが大きいと言う話が医療業界では常識になっていると言われている。
嫌煙派の医者ですら、ニコチンの有用性については太鼓判を押すほどである。

これはした話なので、確認程度である。そもそも、神経の働きがまともなら無くてもいいわけで、集中したいだとか、すっきりしたいという時にはあるといいね、と言える。


もう一つがタール。これはまったなしで悪い、と言われている。タールの摂取は血液中に白血球の増加をもたらすそうだが、その増えるタイプが顆粒球だとか菌だとか忘れたが、かえって免疫を落とす可能性があるものだという。

しかし、人間の体はホメオスタシスというのがある。ちょっと怪我して血が流れても、体の中で作り出して元に戻るわけで、サボった体を適度に働かすところになろうと考えている。まあ、そこは想像だが、免疫が落ちるなら吸っている人は皆、何がしかの感染症にかかるはずだが?と問わなければならないのである。そこは意地悪で言ったようなものなので、聞き流してもらうことにする。


タールというのは、古来より、人間が火を使うようになってから常に身近に存在するものだった。

合掌造りなんかの日本家屋は、中で火を焚くことにより、火による乾燥とタールによる燻蒸、そして、タール自体が木材に染込むことにより、強度を保っていたという。

中で火を焚かなくなれば、そういった日本家屋はすぐ腐っていくそうだ。


ここは別に人体そのものとは関係がない。またもや確認程度である。



また話が変わるようで申し訳ないが、少々関わりがある。自分が煙草を吸うようになる際のヒントでもあった。

この話は書いた覚えはあるが、恐らくラヂヲでは言わなかった気がする。


アグニ・ホートラという、三角形の金属製の器に可燃物を放り込んで焼く儀式のようなものが、古代インドより現在まで伝わっている。

色々と学者が調べたりして、実際に様々な効果を見出したりしているという。

自然の物を燃やす、ということには、ノーベル賞にもなった研究でC60フラーレン分子というものが発生し、これが人体に好影響を与えているのではないか、と言われている。ノーベル賞の研究としては、フラーレン分子の発見までだったと記憶している。


密教や山伏の人が護摩を焚いて経を上げ続けるのだが、それで健康を害している人はいない。タールや煤で鼻の中は真っ黒である。

炭焼き小屋の人も年中火の傍らを離れずに過ごすが、精神性の高い人をよく見受けられるという。アグニ・ホートラ云々のここまでの話はここの受け売りである。


さて、タールは人を殺すのか?恐らく、タールのカクテルでも飲んだら死ぬだろう。タバコ(シガレットだけの話かしらんが)を水につけて出てきた成分を飲んだら死ぬ可能性があるようだ。

嘘か真か(マンガにあった話なので)シガレット一本丸呑みしたら死ぬという。


タールの元となった物質やその発生過程によって違いが出ている可能性もある。

大麻もタバコと同じように火をつけて吸うのだが、海外の研究では、大麻を長期的に吸い続けても肺に悪影響はない、との結果が出ていると言う。

大麻のタールはタバコの四倍ともいう。


その記事の結びにはこうある。

煙にしても蒸気にしても熱い状態で大きく深く吸い込めば、その結果として慢性気管支炎になりやすい。だが、グラビティ・ボング や ボルケーノ・バポライザー などで燃焼・気化と吸引の過程を明確に分離して、十分に温度を下げてから何度にも分けてゆっくり浅く吸うようにすれば、慢性気管支炎のリスクを軽減することができる。


大麻の話ではあるが、これはタバコでも同じことがいえよう。



さて、タバコの場合はあまり肺に入れないようにして吸うべし、といえるとしても、まあ少々入り込んでもくる。


じゃあ、やっぱり悪いんじゃないかと。しかし、悪いと言われているから、どのような状態でも悪いのだろうか。



最近の研究では、物を燃やすと発生するダイオキシンは、恐ろしく大量では害毒になるのは有名だが、微量ないとダメかもしれない、という報告がなされているそうだ。


毒として入っていて働いているのか、それとも微量では毒としてではなく必要なものとして働くのか、そこは定かではないが。



また、こんな話がある。


「一般的」には酢は体に良いものである、と言われている。

しかし、こういう説があるそうだ。

実際には酢は体に毒であり、摂取した場合それを追い出そうと体が働き、それを排出する作用を高めているが故に健康になっていると。


以前から、タバコを吸っているとよく痰が出てくる。そんな激しく出てくるわけではないが、吸ってないころよりは出てくるのである。

少々多めに肺に入った覚えがその時はある。野口整体の言葉で例えるならこれもまた「活元運動」である。出そうと意識して出てくるのではないのだから。



少しのタールというのは、酢と同じようなものなのかもしれない。

実際には毒だが、結果としたら薬に見えるものなのだと。


世の中、「薬」と喧伝され流布されているものが猛毒でしかなかった。

そんな人たちが「毒」だといって来るのである。

妙な意図のあるなしに限らず、そんな彼らの「毒」認定というのは所詮、生きたものを相手にはしていない。

いわば死んだ毒である。そして、彼らは死んだ薬を妙薬だといって飲ませ、生ける死人を量産している。


ならば、生きている人間が生きている毒を食らうことになんの支障があろうか。


生きている毒は「死人の目」しか持たぬ者どもの想像をいつも軽く飛び越える。


我々は生きているが、「死人の目」にいつも苛まれている。

「死人の目」には毒が薬に変わることや、その逆を見ることはない。

死者は甦らない。少なくとも、そう思って物事を見ているが故の「死人の目」である。


人は生きている。肉体が滅びようが「生きて」いる。


生きている毒で「死人の目」を欺いてやろうではないか。では、また。

河童の川登

2012-07-15 | 雑記
昨晩は大きなスイカを一晩かけて食らう、ということをやっていた。仕事中に。

仕事場の近くの果物屋に私服で入ったら、先日は仕事着でも会ったお姉さんがいる。

「帽子かっこいいですね」と言われた。つい「普段はこんな帽子で着物なんですよ」と言おうかと思ったが、踏みとどまった。

初めて入った日にもいたおじいさんは「スイカ甘くておいしいよー」と、いつもの調子であった。


スイカは晩飯やら間食やら夜食になったわけである。ついつい勢い余って買ったパッションフルーツも食べた。美味いのだが、ちと高い。



まだ仙人になれそうにないようで、仕方がないから妖怪にクラスチェンジしようかと考える。


暑いし、最近川原をブラブラしているから、よし、河童になろう。


河童の好物は・・・尻子玉!いや、それはまずい。尻子玉を抜かれた人間は腑抜けになってしまう。


というわけで、キュウリを買って来てはボリボリ食べていた。仕事場の人に「マヨネーズもつけないのか」と言われたが、お構い無しにボリボリ。スイカの前の話である。


昨日も仕事に行く前にキュウリをボリボリ。トマトと一緒に食べていた。なにを思ったのか三つ葉まで買ってきていたので、上からトッピングした。

はて、この組み合わせ大丈夫なんだろうか?三つ葉は論外のような。うんまあ、美味かったからよしとする。





そんなことをしておきながら、昼ごろ、去年一度だけ入ったお店にいった。

さて、そろそろ帰ろうかと身支度を始めると、席に案内してくれた女性スタッフの方が一言。

「もしかして、以前も来られましたか?」と。

「ええ、一度だけ。その時もこのカウンター席でランチでしたよ」

「ああ、やっぱり」という。

ディナーのほうが色々選べますから、よろしかったらと。

そうですねその時は着物で来ますね、とは言わずに「いつ来るか判らないとか言いつつ、二、三日したら来るかもしれませんよ」などと笑いながら店を後にした。


着物でもないのに覚えられていたとは。ちなみに、男性スタッフの一人が、こちらが吸っていた「MANITOU」の香りがいいと感想を述べていた。

しかし、キセルには突っ込みはなかった。意外と市内では普通なのかもしれないが、他にキセルで吸っている人を聞いたことはあるが見たことはない。


少々買い物しつつ(いい加減ユ○クロのシャツは脱ぎ捨てようと)、川原に向かった。今日は子連れが川原でバーベキューしていたり、水遊びをしている。

バーベキューやっているのは別に構わない。こちらが食べるわけでもない。


そんなことよりうんざりしたのが、向こう岸の広場で盆踊りだかなんだかをやっている。

いる間これかと、げんなりしたが、しばらくしたら止んだ。そもそも三時過ぎである。お開きかと思ったら、しばらくすると今度は神輿を担いで川に突入してくる。

はーもう。好きにしてくれ、と、川の流れを眺めていた。


そのうち、見えないほうでドンチャン鳴り始めた。見えないならマシかと、川原を歩くことにした。



セメントの塊を規則正しく並べて流れを弱めているのか、ここを飛べとばかりに並んでいる。石を拾っては(今日は拾うまいと思ったが、気がつけば拾っていた)ぴょんぴょん飛んで、向こう岸近くまで渡る。

こんな感じになっている。
見えづらいが、奥の方は水量も多く、流れが強い。
この写真の向きから左に進むと、座り込んでいる橋がある。

滑るかと思ったが、なるべく乾いた所を目掛けてジグザグに飛んだためか、落っこちることは無かった。

わしは河童になる!とか言ってて川に落っこちて流されたら河童の川流れになるな、などと思ったが、そんなネタは体現することがなかった。残念至極である。いや、落ちたら落ちたで困る。

そもそも、流されるような深さではない。が、膝くらいの深さがあれば人間は溺れる。カッパはカッパでもエロガッパだったら確実に川流れであろう。


さて、この川原。橋の下で座り込んでいることが多いのだが、今日はさらに真ん中の方の橋脚に腰を落ち着けた。あまり落ち着けてはいなかったのだが、その近くで長方形の板を見つけたので、簡単な長椅子を拵えた。これからはそこで腰を落ち着けていることだろう。


この辺りは鳩やら烏がやってくる。今日も腰を下ろしたと思ったら、近くに烏が舞い降りてきた。近いといっても十メートル以上は離れているが、前にも同じ辺りに飛んで来た。同じ奴かと思ったが、イマイチ判らない。

鳩に至っては飛び回っている。祭囃子が煩いからであろう。

しかし、先日は結構近くまで歩いて寄って来た。鳥のくせに歩くとは。

一羽だけ、石の上でじっと立っていたので、その写真を撮ろうとしたのだが、少し暗い上に遠くて映らなかった。というわけで、近くて明るい上に二羽いる状態を映すことにしたのだが、二羽ともそっぽを向いている。
「はい、チーズ」で首だけ向けられても不気味なことこの上ないので、これでよい。


と、ここまで書いて忘れていた。普段ならこぼれ話をやるはずであった。


えー、特に内容についてはありません。以上!いやいやいや。

ご紹介されたらこう書かれている。「豆大福つき」

どうもCMに力が入りすぎたようである。


冗談はさておき、収録が終わるとやはり何か話が抜けている。


ちゃんと正坐をすると、太股と尻に力が入る。勿論、下っ腹にも。

これがあるので、正坐をしてきた日本人というのは、歩くために歩く、散歩をする必要がないのである、というのが野口晴哉の言。である。


じゃあ、まったく歩く必要がないのか?というとそうではなく、野口師曰く「文明生活を見直そう」である。

ちょっとやそっとで車やら自転車を使うのが現代人である。必要だから歩いている分が丁度よかったのであるが、それを無しにして今に至り、妙なエクササイズやら「健康食品」やらで釣り合いを取ろうと無駄な努力をするわけである。歩くだけの問題ではなく、日常全ての行動について言えることでもあるが。


ラヂヲでも少々言ったと思うが、平坦な道を歩くのはあまり意味がない。それは機械的に鍛え上げた、ただ筋力があるだけの硬い身体を作り上げる。走ってもそれは同じであるし、そもそも走るのはお勧めしない。それこそ「無駄な努力」である。
野口整体が目指すところは、そういう機械的な筋肉、随意筋ではなく、不随意筋を鍛えることが重要であるとのことだ。現実的には困難だが、全ての不随意筋を動かすことも理論上可能ではあるという。

マイク・アダムズも言っているが、歩くなら自然の道を歩くべし、と。前に紹介したWade Lightheartも、どこか岩場の所の砂利道をランニングし、ストレッチをしてそして瞑想をしていた。

こういうことが、不随意筋を鍛えることに繋がっているのだと思われる。ただただノルマを達成するだけのような運動を「無駄な努力」と言っても差し支えないのである。


少々逆説的になるが、ここのところ川原の石ころと友達になっていたら(あちらがどう思っているかは判らないが)、ちと違いが出てきた。正坐した時、少々脚に力が入る状態を意識するのだが、途端にやり易くなっている。

以前は「力をいれねば」という感じだったのだが、特に強く思わなくても「こんな感じ」で出来上がっている。

どうもアスファルトの道を歩くこと自体(走るのも恐らく)、「文明生活」そのものなのだろうと、強く感じるのである。

車が走る以上は舗装道路はないと困るが、元々がおかしいのだから「無駄な努力」に終始せざるを得ない。


というわけで、何時間歩くだとか、何キロ歩いただとか(走るにしても)に意味はないといえる。どういうところをどのように歩いたか、であろう。

夜勤明けで約一時間歩いて帰るわしが、川原を歩いたら少々足に響いた。ちなみに、普通の道でも下駄を履いて歩くと、結構脚に来る。最近はあまりこないが、三十分しっかり歩けば、部屋の床がしばらくの間、絨毯の様になる。

だが、下駄を履いて歩く以上であった。えー、まずは下駄を履いて歩くところから?まあ、それもよし。


獣道みたいな山道を歩くとか、石ころだらけの川原を歩くだとか。まあ、気が向いたらお試し頂きたい。ただし、いきなりやってこけても責任は取れない。


そしてついでに、橋の下で居眠りしている仙人もどきがいたら、キュウリでもお供えしてみるといいかもしれない。

ついつい勢い余ってエロガッパになるかもしれないが、尻子玉の抜き方は判っていないので、軽くあしらえば大丈夫である。

天気がいい日は川原を歩く。特に今は夏である。打って付けであろう。

川の水が汚くないのなら、スイカでも冷やしておけばバッチリである。では、また。

石っ子アンちゃんと伝統の囚人

2012-07-11 | 雑記
さてさて、これを書いている時から遡ること三日前のことである。

抹茶とお菓子作りの体験会というのを聞きつけて、参加することになった。


変わった茶の先生がおられるらしく、茶碗やら茶道の道具のほとんどを作ってしまったという。ちなみに、先生自身がおっしゃっていたのだが、「茶は失敗した」とのことだ。


というわけで、ちと気合を入れすぎてこんな格好で出かけてきた。




しかしまあ、写りの悪いこと。

このケータイのカメラはどうも白っぽく撮ってしまうようだ。本当はもう少し顔は黒いのである。疲れた顔は単純に朝から起きていたせいだろうと。後で他の具体例を示す。



というわけで、そもそもが和菓子作りから始めるところだったわけで、こんな格好で上新粉を捏ねたりしていた。


茶の先生曰く、「サドウというのは本来は茶頭と書いて、大名や武将に侍る茶坊主のえらいさんのことだから、チャドウと発音するのが正しい」と訂正された。

書いて云々は口頭ではないが、そういうことである。



なんでお茶の体験会なんてものに顔を出すことになったのか。


いつも夜勤明けで歩いて帰る大通りに、額縁だとか絵画の道具を扱うお店がある。

そのお店がオーナーの貸しギャラリーがあって、そこで輪島塗やら陶器のギャラリーをやっていた。

またもや飲んだ帰りで、入り口のポスターを何気なしに見つめていると、女性の案内人が招いている。


こりゃしょうがない。入ろう、となり、色々話を聞いていた。しかしまあ、少々飲んだ顔の変なおっさん(写真写りは悪いがまだ三十ではあるぞ!)を招いたもんだなぁと思ったら、話しているうちにそんな話になり、「やっぱりそうでしたか」と言われたものである。


陶器や江戸切子、輪島塗のカップ(コーヒーカップが本当にある)、後は麻の座布団やら小物などが展示してある。

輪島塗について色々聞いてみたら、そのオーナー(まだ決まった場所に店は構えていないが)がいうには、徹底的にこだわった漆塗りと、大量生産に近いものは違いが出てくるのだとか。

その契約?した輪島塗のところが作ったコーヒーカップが置いてある。同じ型のが二つ並んでいるのだが、片方は、かつて直営店か何かで喫茶店をやっていたとかで、十年使われたものだそうだが、なんと、内側が光沢を放っている。

喫茶店で使われたものでありながら、漆も、また器の強度もしっかりしていて、使い込めば輝きを放つというわけである。

これが他の漆の原材料やらが違うものだと、こうはならないそうな。塗りが均一でないそういうものは、乾いた塗りの部分を磨いてしまい、結果、漆が薄くなってしまう。そして上記のコーヒーカップのようなことをすると剥げてしまうという。

ほー、これはこれは。と、痛く感心したのはいいのだが、財布にあまり入っていない。

振込みもやってますというのだが、その前後に聞いたチャドウ体験会の後考えますということで、麻の札入れを買って参加する予定日を申し、店を後にしたのである。


そして、茶の体験会のあと、やっぱり気になった、輪島塗のホットカップ(要するに湯呑みだ)を買って帰ることにしたのでありました。めでたしめでたし。


しかし、初めて伺った日の、輪島塗のコーヒーカップで戴いたコーヒーは、陶器のとはまるで違うものがある。口に当たる器の感触が実に優しい。熱くなりすぎず、かといって冷めるわけでもない、絶妙なバランスであった。



輪島塗には感動したのだが・・・。


一人の筆師が生活していくのに、何十人の何とか師が必要、という風な話は読んでて「お互いを縛り付けてるだけのような気もするな」と、言ったら怒られそうな事を考えたものである。

ちなみに、完全分業制で成り立っており、この工程はこの人、次の工程はこの人、仕上げはこの人、という風になっているそうだ。


そしてそのカップだが、写真を撮るのを忘れた。先ほどの例にも漏れず、おそらく伝わりきらないので、ご想像にお任せする。


まあ、人間の食べ物はフルーツである、ということならば、器はなくてもいいし、葉っぱでもいいわけだ。

しかし、いきなり森に住むこともまかりならぬと。かといって塩ビやらプラスチック製のコップなんぞ口につけることは想像するだけでもいい気分はしない。


漆にかぶれる人もいるであろうから、推奨するわけではないが、こういう本物を探してみるというのも面白いものである。ちなみにお値段は・・・伝統工芸という割には安い、くらいではあるので、気が向いた人だけどうぞ。

その輪島塗の工房のページはこちら。輪島屋善仁(わじまやぜんに)



さて、今日は三連休の最終日。

明日からはまた仕事で、雨続きにもなるそうだ。


天気はよい。ならば、先日行った川原に行って坐っていようと考え、昼過ぎから出かけてきた。


風がとても強い。帽子が飛ばされそうだったが、橋の下で座っている間は脱いで風下に置き、身体で防風していたので飛ばされることはなかった。



橋の向こう側では、何やら作業員がうろついている。遊歩道やらを作っている感じで、川で遊んでいた子供達を追い返していた。

こちらが坐っている方は作業をする予定がないようなので来ることはなかったが、見ててバカバカしかった。恐らく「ここは危ない」とか「まだ工事中だから」とか言っておきながら、その川を歩いて渡っていく。危ないってなんだろうか。
まあ、セリフは聞こえなかったので想像だが。


風は強いが、日差しも中々強い。しばらく橋の下にいたら、気持ちよくなって少し意識が飛んでしまった。じゃあ歩こう、と石ころを歩き回ったりしていた。


近くで鳩が三羽ほど寛いでいたり、烏が水溜りで何かを咥えて、餌じゃないのに気付いてすぐ放していたりする。



日差しも少し弱くなったかと思ったが、大して変わらない。

日光浴ということにして、川岸に向かって坐り込んでいた。


すぐ近くの水面に、枯葉のような物が浮かんでは沈みを繰り返しつつ、何故か流れに逆らっていく。

よく見たら、鯉が泳いでいた。流れの真ん中よりこちら側の方で、ゆったりと泳いでいた。


そして、ついついまた石ころを拾ってきた。御影石だとか大理石みたいな材質の、光沢のあるものばかりになったが、なかなか綺麗である。




下段左から二番目は特に綺麗だった。写真ではかなり青いが、実物は黒が強い色をしている。

やはり、このケータイのカメラは余計なことをしでかすようである。

とはいっても、一枚目の自画像はどう見ても疲れた顔をしている。細目でご覧いただければ幸いである。では、また。





※おまけ








ラヂヲ 七杯目

2012-07-11 | ラヂヲ
少々予定が伸び伸びになっていたが、ようやく七杯目が完成。

テーマは前回で予告したとおり、「歩くことについて」。ナンバ云々は語っているが、ナンバの実践方法について講釈したわけではないので、そういう期待をされた方については物足りないかもしれない。


今回は二本立て。

前編が長くなったので、CMは後編の冒頭へ。


不意に早朝に目が覚めたので、こうなったら今やろうとなり、あまり点けたくなかったがエアコンをつけて開始。ノイズ除去を強めにかけて、エアコンの音を消したが、音声に異常はないようだ。以前のと聞き比べたら、少々くぐもった声になっているかもしれない程度だと思われる。


では、一本目から。

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 七杯目一口




CMから始る二本目。

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 七杯目チェイサー




いつもより少々ノリが軽い気がしないでもないが、理由がある。(少々ケタケタ笑いながら話しているのが判るかと思われる)
試しに・・・しかも朝っぱらからというのに、ウヰスキーをなめる程度飲んでみたのであった。

昔、ゲームの実況プレイ動画の収録直前にショットで一杯やって、それから行っていたものだが、どうやらスポイトで一口飲むくらいでよかったようだ。実際にスポイトを使ってはいないが。

夜にやるならもう少し飲んでみてもいいのかもしれないが、その時の気分によりけりかと思う。

まあ、タイトルが「ウヰスキーの時間」なんだから、実際に飲んでも構わないだろう。しかし、飲みすぎて話がぐちゃぐちゃにならないようにはしないといけないが。


次回については、ラヂヲ内では「決まっていない」と喋ったが、ないこともない。ある意味、今まで書いてきたブログ自体が原稿みたいなところがあるので、よく読んでいる人が聞いたらすぐに分かられてしまうかもしれないが、まあ、気にしても仕方ない。


さて、今日は天気も良さそうなので、先日石拾いしてきた川原でのんびり過ごそうかと考えている。問題は、少々汚れてもいい着物が時期はずれのもの(ちょっと厚手のデニム着物とこれまた厚手の木綿の袴)しかないので、洋服で出かけることになりそうだが。では、また。

石っ子アンちゃん

2012-07-08 | 雑記
さてここ何日か、完全に行ってはいないが、その日の一食を果物にしてみる、ということをやっていた。

そもそもの食事の間隔が感覚しだいなところが大きい(前よりはどうも習慣的であるが)。昼過ぎに起きたら夕方食べて、早朝くらいまで起きてて、そこから寝て夕方に夜勤へ、などとやる。ひどいと(寧ろ都合が良いが)一日一食になっていたりするわけだ。

脂肪の多い食生活をしている状態(特に現代は何食っても入っているといわんばかりである)だと、果糖が悪さをするという。

例えば、昼に天ぷらを食べたとする。そして晩に果物を食べたらどうなるか。

時間経っているから悪さをしないのでは?と思われるが、脂肪と果糖の体に取り込まれるスピードが違いすぎるので、もたもたしている脂肪に果糖が追いついてしまい、同時に食べたのと変わらない状態へと相成る。

同時に口にするだけでなく、同時に体の中に存在しない状態が望ましい、というところだろう。


ヴィーガンと呼ばれる食生活を行っている人が生の果物を食べた場合、いろいろな不快症状に襲われるという。頭がぼんやりするだとか胸焼けするだとか。

通常のヴィーガンは、かなり脂肪分の多い食事をしている。なんせ、ジャンクフードばかり食べているのと遜色がなかったりするのだとか。

「体に良い油脂分だから」というのが、実はお題目だった、というわけである。


なら、半日以上空いた状態で食べれば丁度よかろう、というわけで、夜勤の晩飯にパイナップルを食べてみたり、ちょっと早めについたので、仕事前にキウイフルーツを食べたりしていた。


子供のころはほとんどの果物が食べられなかった。何か知らんが嫌いだった。でも、何故かリンゴやパイナップルは食べられた。そういう話をすると人に「普通、桃みたいな甘い奴を好むだろう?」と言われたり、「ビタミンCはどうやって補給しているんだ」と言われる。

ビタミンC云々については、「茶飲んでる」と答えていた。茶では足りなかろうが、野菜が多い食事は元から好んでいたところである。


というわけで、ずっと苦手だったメロンに昨晩、挑戦した。挑戦というとバカらしいが、本当に子供のころは一口がやっとぐらいのもの。小ぶりの銚子メロンとはいえ、どういう調子になるかわからない。


さて、結果。皿には皮しか残らなかった。


確かに、子供のころ嫌だった感触と味である。香りも好みではなかった。


しかし、何が嫌だったのか。本当に遠い昔であり、思い出す意味もないので、考えるのを辞めた。


夜勤明けの帰りは、普通の食事をして帰ってきたのだが、やはり、そろそろこういう食べ物(加熱調理された食べ物)で腹一杯にするのは辞めておいた方がよかろうという感覚が、日に日に強まっている。

一気にやってみても構わないが、昨日から今日にかけて、再確認できたと言える。食べても構わない、といったらあれだが、少なくとも三分の一くらいの量でもう結構となり得る。出された分だけ食べるのがそも間違いでもある。


メロンが完熟していたのかどうかはよくわからないが、なんだか調子が良くなかったのに、メロンを食べ切ったらすっきりしてしまった。


そうそう。テストステロンという性ホルモン。これは肉を食べたらよく出るとは有名な話でもあるのだが、加熱調理された穀物を食べても出てくる。野菜や果物についてはどうだったかな?でも、加熱しないほうがよかろう。

テストステロン自体は、脳の成長に必要な物質ではあるが、果物に含まれる成分が働きを抑制していたのである。必要な分だけ働かせていた、というわけだろう。


今はというと、以前から言ったとおり、過剰に働いている。働きすぎて脳が退化して、左脳が特に機能不全になっていると。そして、機能不全の方に引き摺られた状態、権威的で父権的で何もかも支配しようと言う理性的というのかわからんが、実に男性的な脳による世界になったというのが、トニー・ライトの仮説である。えー、またこういうとサボっているのかと思われそうだが、Beyond 5 Sensesのこちらの記事を参照のこと。


さて、何度も同じ話を引っ張ってきてもしょうがない。果物だけ食べたらどうなるか、という感覚の話をしたら出して来ざるを得ない、というところがあって、つい書いてしまう。

身体の感覚、という点では、正坐がきっちり出来た時の感覚が果物だけを食べた時の感覚に近い。あとは和装で袴を穿いた時にも感じられる。何か額の奥の方で感じられるのである。

以前にも書いたが、瞑想をしたら額がむず痒いような感じがするのは、脳の松果体に対応しているチャクラが反応しているらしい、ということだが、果物を主食にするのが一番とはいえ、現代に至るまで、我々は悉く副交感神経優位の状態になる物、事を奪われて来たのだなと考える。

副交感神経が優位の状態、無意識、つまりは潜在意識だが、これが表に出てくる状態。集合意識というか根源意識とでもいうか。「皆と繋がっている」という感覚へと至る。

だから、江戸時代の船乗りのような荒々しい人間達の間から聞こえてくる言葉は「ありがとう」ばかりだったのだろう。現代人の「ありがとう」は意識だけで言っているので、形骸化しているといえよう。


と、結局前に書いたことを繰り返しただけのような気がするが、もう少しだけ。


帰り道、いつもと違う道を歩こうと、川の方へ向かった。


たまには石ころの上を歩いてみようかと考え、土手を降りた。降りようとするまでもなく、歩道とくっついたような状態の所から歩いていっただけだが。


河川敷の予定であろうそこは、土が柔らかい。少々歩き難いが、楽しいものである。ただ、重機の轍が嫌だった。


そのまま石ころだらけの川に入った。


ちょっと水は冷たいが、気持ちが良い。子供のころは海より川の方が近い所に住んでいたので、盆になれば親戚や友人達と川に入ったものだが、実はあまり泳ぐのは好きではなかった。

特に、切り立った岩の上から飛び降りるのは怖くてやったことが数えるほどしかなかった。


歩きにくい。実に歩きにくい。昔、大正昭和両天皇と皇后の墓を見に行ったことがあるのだが、その道は玉砂利が敷き詰められていて、実に歩きにくかった覚えがある。あれは滑る感じだが。


最近はずっと仕事の行き帰りはビーチサンダルで歩いているのだが、足の裏に普段は感じない、心地の良い刺激がある。脚に掛かる力も、平坦なだけの道を歩いただけでは感じられないものがある。


数分歩いて橋の下に来た。それだけだったのに、意外と疲れる。疲れる、というとだらしない話だが、平坦な道で同じ距離を歩いたのとでは比べ物にならない。だが、気持ちが良い。


腰掛けるのに手ごろな岩があった。腰を下ろし、ちょっと一服をした。



するとどうだろう。特に意識したわけでもないのに、額の奥が疼き始める。何か今も強張りのある肩や鳩尾も、軽くなった。

「そうか、ここにくればいいんだな」と。これからは時折、橋の下で何をするでもなく石に腰掛けている人がいたら、仙人もどきだと思っていただこう。


さて、腰掛けて一服しながらふと思い出した。


「そういえば、川原の綺麗な石を拾うのが好きだったな」と。「幻の桜」の影響もあって、記憶を捏造したのかしらないが、実際に子供のころは石ころを拾っては川に投げていたのである(投げるんじゃない!)。平べったい奴で水面を跳ねさせる石投げはよくしたものである。

替わった模様だナァとか、感触がいいなぁ、という風に石を拾い上げていたことを思い出し、石を三つほど拾ってきた。




右下が一番最初に拾い上げたもの。実に水面を跳ねさせるのに向いてそうだが、投げなかった。

二番目は上の石。錆が入っていたり、ミルフィーユみたいな模様が気になった。一番目の石を洗いに行ったら、浅瀬に沈んでいた石である。天然なのかどうかよくわからんが、セメントがこうなるとは考えにくいし、セメントの感触ではなかった。

左下は三つ目。こういうエメラルドみたいな色は好きな色である。青に近い色、とでもいおうか。


石ころの上を歩いて元気をもらったせいか、トイレに行きたくなったので、長い間座り続けてはいなかったが、休みの日はここでゆっくりするのも悪くないと考えた。大きな橋の下である。風が強くなければ雨の日も問題ない。


さてさて、ラヂヲの予定が延びてしまったが、もう数日お待ちいただきたい。今日はやろうかと思っていたのだが、明日、夜勤の人間にとっては早い程度だが、朝から出かける予定がある。
収録は基本夜中にやって、その後作成になるので、夜勤明けでそれをやって朝から出かけるというのはやってやれないこともないが、やりたくない。

代わりにはならないだろうが、石ころを見て待っていただこうかと思うがどうだろう。三つあるので、一日一個ずつ眺めてくれれば丁度いいはずである。では、また。

空は青かった

2012-07-05 | 雑記
先日、ヴィーガンでレスラーのKijimunaさんの活躍をご紹介した。


まさかきみしぐれさんに紹介リンクを貼られるとは思いもしなかったが、そちらの記事ではさらにヴィーガンのボクサーが王者を手にしたという話まである。

そのボクサーがヴィーガンでトレーニングしようと思い立った話が実に振るっている。


ちょっと引用しよう。



「ヴィーガンってのはハードなトレーニングを支えてくれるんだ。肉体の回復が早いし、消化も早い。動物性のタンパク質を取ってたときよりもずっと早くエネルギーになるんだ。まったく素晴らしいよ!」とは彼のコメント。

ではどうしてヴィーガン食を始めることになったのでしょう? 「4年前、トレーナーを通じてスポーツ・ドクターたちに会ったんだ。彼らはベジタリアンだった。そしてこう聞くんだ。巨大で強靭なゴリラは肉を食べるのか?ってね。食べないのか!?って驚いた。それ以上の話は必要ないだろう。それをやる。ヴィーガンってのをやって、木やら植物やらフルーツやら草やらを食べるよ!」



というのである。


ゴリラだとかチンパンジーの遺伝子は、大体95%くらい人間と同じだそうな。


遺伝子と食べ物の関係は、先日のBeyond 5 Sensesの記事参照、といったら投げ遣りだが、日に日に劣化しているであろう左脳では噛み砕きすぎてお粥になってしまうので、直に読んでいただきたい。


といいつつも蛇足ながら簡単に解説をする振りをしてみるならば、遺伝子がどうであるかはあまり関係なく、食べ物に含まれる物質が遺伝子をどう読み取って身体に反映するのかが重要である、ということである。


遺伝子は暗号で、それを解読するための設定やら機能がホルモンであったと。


ちょっと判りづらくなるかもしれないが、「暗号」というところに焦点を絞ってもう少し解説する。


古来の単純な暗号文に、棒に巻きつけた細長い紙やら布にメッセージを書き込む、というのがある。名前は忘れたが、棒巻き暗号とでもいおうか。

他にも文字を書き込んで、それだけ見たら意味不明な文字の羅列になってしまうのである。

しかし、書き込んだ時に巻きつけた棒と同じ形の物に同じように巻きつければ、ちゃんとした文章が浮き出てくるのである。



遺伝子がそのパッと見、文字の羅列状態の暗号であるなら、棒は読み取るためにあるホルモンである。


如何に暗号が正しく書き込まれていようとも、同じ規格の棒がなければ、暗号に暗号が重なってしまい、正しく伝わらなくなるというわけだ。


そうやって暗号に暗号が重なって混乱し続けて、人類の道のりは一万年と二千年というところである。一万年と二千年前から愛してーるぅ~♪

いかんいかん。こんな話をしている場合ではない。あまり上記のリンクは押さないほうがよいかもしれないが、こういう歌(アニソン)があったという程度の認識でよろしくどうぞ。



ならば一万年と二千年前以上に戻ってみようではないかと。ゴリラやチンパンジーは米も肉も(パン君は微量に肉は食べるが)食わないのに平均的人類はおろか、Kijimunaさんですら及ばないような屈強さである。

巷の栄養学なんぞ嘘っぱちである。FなんとかAやらアウトなセーフの言い草をもっと重視すべきである、などといった御用聞きの話になんぞ耳を傾ける必要はない。


カルシウムに至ってはメリケンの過去の、公式見解にはされなかったが重要な研究報告で「摂り過ぎは骨粗鬆症を招く」と言っていたようである。
素晴らしき哉御用聞き。あなたの未来は光に満ち満ちていよう!それはとても不自然なほど明るく、目も眩む。眩んだ目に映るのは光なのか闇なのか。それすら判らない状態になろうとも!

ゲーテの今際の言葉は「もっと光を」だったという。(少々誇張というか、「文学的」な解釈が施されているようで、「女をくれ」みたいな意味かもしれない、という話もある)
御用聞きに照らされるような光ではなかったろうなぁ、としみじみ感じる。


さて、我々が浴びるべき光とはなんだったのか。



少々関係なくなっていくが、Kijimunaさんの活躍をご紹介したときに一緒に載せた動画の、世界的に有名なボディビルダー、Mr. Wade Lightheartの話に、こんな座右の銘が出てくる。


AWESOME



この単語は、「畏怖の念を起こさせる」とか「荘厳な」という意味である。


これは、別々の単語の頭文字を繋げたもので

AはAir
WはWater
EはEmotion、ではなくExercise
SはSunlight
OはOrgasm、ではなくOptimizers
MはMental
EはまたExerciceではなくEducationとなる。

心身とそれを取り囲む環境を熟考して出てきたであろうものを、上手く一言の言葉で表している。実に「AWESOME!」と言わざるを得ない。


Optimizerってなんだっけ?と思って調べてみたら、「最適化する」という意味だった。


自然の中を走ってストレッチし、その後瞑想する。これが自然への「最適化」といえるのだろう。
以前の記事でも書いたが、でこぼこ道を歩いたり走ったりは、無意識にバランスを取ろうと身体を使う。そういう意味では、まさに自然への「最適化」といえる。

それだけではなく、いい空気、水、そして最適な運動と精神及びそれを補強する形だと思われる知識というか知育と言うか(Education)。ただただ無為に、といったらあれだが、心身一如たる人間の状態を無視した機械的なボディビルディングは、体を育てる「体育」ではなく、耐震構造が手抜きのマンション建設と言っても過言ではなかろう。実際、脆い。


ただ己の肉体をビルディングするだけでは、あのような言葉は出てこまい。世界的に有名というのは伊達ではなかったのである。

さすがにあそこまでマッチョになると着物が着れなくなるので、あの肉体を目指す気はないが、考え方は実に首肯出来る。

こちらとしては、わしのボディビルディングは正坐であーる、というわけだ。最近、どうもまだ「正しい正坐」に至ってなかった気がするので、少し工夫してみたのだが、実に脚に力が入る。尻の筋肉まで軽く痛む始末である。

どうだろう。あなたも正坐してブログを書いたり動画を見たり、是非とは申さないが、うちのラヂヲを視聴してみてはいかがかな?

ゲームは推奨しないが、ゲームなんぞやるにしても正坐をしてみてはいかがだろうか。と、こりゃ何度も言ったか。


しかしそれにしても、Mr. Lightheartとそのアシスタント(嫁さん?)が走り回ってストレッチをしている風景。実に空が青い。

それよりもその彼女のスタイルがよすぎてそちらに目が・・・と、違う違う。


なんだかここからさらに書くと蛇足になるのだが、Beyond 5 Sensesにまた興味深い記事が掲載された。


OrgasmだとかEmotionだとかわざとらしく出していたのは、この話につなげようなどという下心があったからであることを白状したいと思うが、まあ、気にしないで貰う。



話に出てくる、ヴィルヘルム・ライヒという精神科医、というべきか、その人はフロイトの弟子だったそうだ。

しかし、既存の精神分析学は、患者に触れることはなく、それは禁忌とされていた。

だが、彼はその禁を破り、患者の肉体に触れていく。


体の強張りを直に触って感情を吐露させるというのは、野口整体を彷彿とさせる。実際に、『整体入門』やら、ちょくちょく紹介している野口晴哉の直弟子の方のページを読んだりしてきたもので、よく似ている。混乱しそうになって「これはヨーロッパの話だよな」とマインドに問いかけたくなったものである。


人はその抑えられた感情を十全に発露させねばならぬのである。ならば「感情の発露」のためにゲームをやろう、と言っている人は待ちたまえ。

感情を発露してないからゲームをやってきたのであろう?間違えてはいけない。もう読んじゃいないだろうが、何度も言う。「あなたは『あなた自身』から逃げ続けている」と。


喜びも悲しみも憤りも、全てあってのあなたである。そして、さらに一般的に「猥雑」だとか「卑猥」だと言われて蔑まれている「オーガズム」も。ここが本題である。


一般にオーガズムの状態は赤で表される。ライヒのいう「オルゴン」から導き出されるオーガズムは青であるという。

単なる熱狂的な忘我状態ともいえない、しかし、自我は手放される状態。敢えて言うなら(文中で紹介されている方の言は「敢えていう必要を感じない」だったので)、「神と共にあるの念」が沸き起こった状態がきわまったもの、というところだろうか。


誰かと共にいる喜びが極まった状態がオーガズムへと導く。そうして、十全にチャクラが開くのである。野口整体式に言えば「気が通る」とでも言おうか。これが、わしがまだまだ半人前たる所以である。


と、また「ゴヒャクニン募集か!」と言われそうだが、仕方ない。探しても見つからないから探すのは諦めた。(まだ早い!)


ひょっこり現れるまで、空の青さを眺めては「AWESOME!」と、オーガズムの光の片鱗を感じながらブラブラ歩いていようかと思う。では、また。

誰かゴヒャクニンを知らないか

2012-07-03 | 雑記
ふぉっふぉっふぉ。

二千十二年はグレンと引っくり返る歳。


わしも少々ひっくり返してみようかの。


ラヂヲで二十九歳と申したが、実は九十二歳での。

喋っているのや写真に写っているのはひ孫でな、まだまだ半人前ぢゃが、まあ、見所のある奴ぢゃ。ほれ、グレンと引っくり返ったぢゃろう?



と、どこかのブログのような話をいつかやってみようと思っていたが、あんまり面白くないので終わりにする。



さて先日。そろそろ果物を食べてみようと思って、日勤の時にパイナップルを買ってきて、裁いて食べたのである。


仕事場についてから思い出したのが、何故かすぐ近くに果物屋があるということ。旬を調べたら、飽くまで国産のだが、パイナップルは旬である。



あってもなくてもいいや、という気持ちで入ってみたら、国産はなかったが、完熟したフィリピン産のはあった。



子供のころは果物が苦手で、それでもリンゴやらパイナップルは食べられた。どっちもアップルであるというのが面白いが、きっと偶然を装った必然だったのだろう。



なかなか大きかった。その前の日は昼にカレーを食べた切りで、後は少々抹茶を飲んだだけだった。これなら食べきれるだろう、と思ったが、なかなかしんどくなった。


夜勤がメインのもあって、食べきったら少々眠くなったが、不快な感じはない。少々呼吸と姿勢を意識して時間が経つと、別になんともなかった。


きみしぐれさんや他の果物を主食にしてみた方がおっしゃるとおり、小便の色やら腹の感じが違ってくる。あまり茶も飲んでなかったのに、食べた後は小便に行く回数が増えたものだった。


さて、そこはやってみたら大抵の人はすぐ判ることである。もう少し違う話をしようかと思う。いや、やっている人はもう知っていることかもしれないが。



大きなパイナップルを食べきってみたのだが、食べながら何やら額に感じる。これはもしや・・・瞑想状態か?

意識的に瞑想した時のような強い感じはないが、薄ぼんやりとした、『レフト・イン・ザ・ライト』で引用したルソーのような心持がある。


食べ終わってもその状態が続いている。なるほど、有史以前のご先祖はこの状態で暮らしていたのだなと。


人にとって必要な化学物質のカクテル。これがその状態なのだろうと。



さて、本日夕刻。入浴を済ませた後、野菜が食いたくなり、近所のインド料理屋に行こうと考えて(果物はどこへ行った!)、着物に着替えた。


少々雨が降っている。ここは袴を穿くべきだと、いつもの調子で着替え終わり、そして坐った。



しっかり締めて坐った時のことである。何か額に沸き起こっている。


腰と腹に帯をすると、副交感神経が刺激されて優位状態になる、という話をやったものだが、まだまだ感じ切れなかったのであろう、丁度その果物だけ食べた状態と同じであったことに思い至った。



江戸時代、日本にやってきた西洋人がこう慨嘆していたという。「何故彼らが我々を南蛮人と呼ぶのかを理解できた」と。



自然との調和が取れた(有史以前のご先祖とはそれでも雲泥の差かもしれぬが)日本人の生活は、目を見張るものがあった。


頭に烏が乗っかった人の話を以前聞いたことがあるのだが、小鳥が町中の人の肩に乗り、囀っていたのだとか。

最も荒々しいと予想される船乗り達の間で聞こえてくる言葉は「ありがとう」ばかりだったという。



どんぐりの背比べでしかないとはいえ、江戸時代までの日本人の生活は、有史以前のご先祖の形をまだまだ保存していたのだろう、と感じるしだいである。


「あるべき姿」に戻るなら、まずは一歩ずつ辿るべきであろう。



そうなると・・・うむ。わしにはゴヒャクニンが足りないようである。


あなたもわしも、まずは自身のゴヒャクニンを充実させてみようではないか。


それが着物であったり正坐であったり、フルータリアンなのである。あなたが充実したゴヒャクニンになることをわしは待っておるぞ!では、また。

沖縄の精霊かく戦えり

2012-07-01 | 雑記
沖縄にはキジムナという精霊がいるという。

しかし、あるお宅のKijimunaは一般的なキジムナの好物である魚の目玉は食べないのである。


とまあ、前置きはいいとして。



先日、そのキジムナさんが怪我をしていた、という話を読んだので、前々からちょくちょく拝見していたVegan Wrestler Chef Coupleへコメントを差し上げた。


野口整体のいう、「愉気」をしてみてはいかがだろうかと。「手当て」なんて胡散臭く思われるかもしれないがと。


コメントとKiji、じゃなかった(つまらない駄洒落を失礼)記事のほとんどは奥さんのKOKOさんが書いていらっしゃるようだが、「胡散臭いだなんてとんでもない。以前はよく手当てしてたんですが、最近はやってなかったんでやってみます」とのことだった。


「手当て」の効果が出るといいなぁ、と暢気に考えてから暫く経ったある日。


前々から、然るミュージシャンのイベントでケータリングをするという話が出ていて、「お二人はお忙しいようだが、元気そうで何より」と思っていた。



しかし、驚いたことに、そのイベントの日にはキジムナさんの大事な試合があったのである。


かなり白熱した試合だったようである。終わりの二十分くらいからのうち、八分ほどの動画が、そのことの記事に掲載されている。

ついでなので、動画をこちらにも。

Kijimuna vs Mongoose. Okinawa Pro Wrestling. 16 June 2012



試合前と後の怪我の状態については、お二人のブログの方をお読みになっていただくとする。

しかし、素晴らしい試合だった。出来れば最初から見たいくらいである。



スポーツはあまり好きではないのだが、格闘技は好いている。

こちらは剣道をやっていたり、某格闘技マンガに惹かれて、拳法式の基礎鍛錬をやったりしたこともあった。(剣道はともかく拳法は真似事なので細かいことは聞くな!)

それもあってか、昔の友人の影響も少々あり、プロレスは好きなほうである。


プロレスは、少々演技臭く見えるだろうが、あれはしっかりした基礎があってこそ出来ることなのである。(殴られてクラクラしてるのは演技だとしても)

入門したら最初に徹底的に習うのが「受身」だという。もしこれを疎かにしたら、本当に死んでしまうほど、重要なのだそうな。

実際に何年か前、有名選手が試合中に投げられた際、首の骨を折ったかで、あの世のリングに挑戦することになった。


ある程度コツはあるのだろうとしても、パイプ椅子の上に飛び込むのを素人がやると耐え難い苦痛となり、のたうちまわること請け合いである。のたうちまわるどころではないかもしれないが。



柔道でも「受身」をやるわけだが、こういうのもやはり、日本の「腰・肚文化」というものからの影響があるのだろうか?受身というのは、当たる部分だけ意識しても意味はない。

今は知らないが、相撲からプロレスに転向する人もいた。なにやら相通ずるものがあったのかと考えたりするが、ジャイアント馬場に至っては野球選手からプロレスラーだったので、あんまり関係ないのかもしれない。



話が逸れた。


そりゃ一大事だKOKOさん「お手当て」を!とコメントを差し上げた。

すると・・・。


こんにちは! キジムナが 君は安生さんからお手当ての話が出た時しかさわってくれないのね。。。昨晩言われてしまいました。。。 ドキ!!!
正座しなくちゃ。。
 返信コメントより


とのことである。


これじゃ正坐が罰則だぁ、というのはさて措き、少なくとも、「手当てを」と申し上げた時は行ってくれているようだ。よしよし、これからは毎日のように「手当てを」とコメントを差し上げよう、というのは冗談である。

キジムナさんも「手当て」が欲しいと思ったら、KOKOさんに向かって念じてみればきっとコメントがなくてもしてくれるようになると思うので、潜在意識に呼びかけるようにテレパシーを送っていただきたい。



さてさて、その話をやりたかったのもあったのだが(「手当てテレパシーを送ろう!」という話もだが)、お二人は完全菜食主義者である。

その上、キジムナさんは現役プロレスラー。



そのお二人が食生活を変えようかと考え始めておられるようだ。


しばらく前の話になるが、なんでも、きみしぐれさんが熱心に勉強されて実践中の80/10/10 DIETをご紹介されたそうなのだが、お二人が以前から気にされていたアスリートやRaw Vegan(生食の菜食主義)の方々もまた、実践されているのだとか。



世界的に有名なボディビルダーの方の動画が併せて掲載されていたので、こちらも載せておく。この方々もまたRaw Veganである。

World Class Bodybuilder is RAW VEGAN- huge muscles from meatless diet


しかし、冒頭のインタビューアの名前と年齢だろうか。四十八・・・。

今までの「常識」とやらからしたら、こちらのボディビルダーの方は信じられないだろう。

自分も、前なら信じなかったかもしれない。でも、こちらは完全なVeganではないが、この一年で感じたことからいえることは、体を大きくするのに肉は寧ろ邪魔であること、そして、体を大きくする効果のある食材もまた存在しないこと。豆類をよく食べている、というわけでもないのに、筋肉の感じは、若いころ?より強い。体重は落ちたが、疲れやすいだとか身体に力が入りにくいというのも少ない。
比較対象として我が愚兄が今の自分の年齢の時はどうだったかというと、まるで赤ん坊か妊婦のような腹をしていたが、無論、そんな腹はこちらにはない。



ところで、このビルダーの方の動画を見ていて、他と違うなと思ったことを少し。


ただ単にウエイトトレーニングだけをしているわけではなく、アメリカのレッドキャニオンだろうか、自然の中を走っている。そして、瞑想。


前にも「意識的な訓練だけで鍛えた体は心身を強張らせる」というようなことを書いたが、歩くにしろ走るにしろ、ああいう舗装されていない道というのは、しなやかな筋肉を鍛えるのに打って付けである。

ちょっと考えてもらいたい。何もないアスファルトの舗装道路を歩いて、何かこけるようなことがあるだろうか?たまに滑らせてとか、足の運びが悪くて躓きかける、というのは起こり得る。が、基本的に何もない。機械的なウエイトトレーニングも右に同じであろう。

さて、動画にあるような自然の道を歩くとしたらどうなるだろうか?ただ歩くだけでも、場合によってはこける。そして、こけなくても無意識にバランスを取ろうとする。結果、出来上がる筋肉は重量などは同じでも、質の違うものが出来上がるだろう。

アントニオ猪木は、若いころ、ブラジルだかで修行したときは、山に入って天然の岩石を持ち上げるといったことをして鍛えたそうだ。


そして瞑想である。
しっかりとした瞑想は、心身の緊張を解す。筋肉は弛緩した時がもっとも膨張する。これは、筋肉の膨張については野口整体でも同じ事を指摘していた。



というわけで、わしも肉体を鍛えるトレーニングをしようかと考えている。


というのも、最近、肩が妙な緊張をしている。


少々肩を回してもストレッチしても変わらず、正坐して瞑想したら治まるが、一時的である。


で、思い出したのだ。

「某格闘技マンガに惹かれて、拳法式の基礎訓練をやっていた」ことを。


なんてことはない。半身ごと突き出す感じでする突きをしたり、その場で突きを繰り返していたのだが、これが剣道をやらなくなってからサボりだした肩の筋肉を助けていたようだ。

突き出すと同時に拳に力を入れる感じは、剣道で当てるときに柄を雑巾しぼりするように握る感覚にも似ている。竹刀振った方がいいのだが、部屋では出来ないからやっていたのもある。

「わしゃ一体誰と戦おうというのだ」と思ってすぐ辞めるのだが、体が悲鳴を上げているのでは仕方がない。

これでしばらく、家にいる時は果物とちょっと抹茶でも飲んで、一日のうちどこかで軽く鍛え始めていこうかと考えている。

取りえず果物は、家の近くに八百屋があったので、スーパーよりはマシかと思い、そこで買うことにする。残念ながら今日は休みだった。



途中からまた自分の話しになってしまったので、最後にまた動画を。


去年のキジムナさんの試合である。タッグマッチで、サンダーライガーと一戦行ったという。

Kijimuna Vs Jushin 'Thunder' Liger



クラッカーで不意打ちしたり華麗な脚払いを見せたりと、大活躍である。

ついでに関連動画を見てたら、先日の試合の全部を収録したものがあったが、今回は動画が多い。ご覧になりたい方はご自身で。では、また。