ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

転がる先の杖

2021-03-29 | 雑記
先日、対立する意見の両方を読んでいた。

いわゆる陰謀論という事柄ではある。しばらく前にも、ヤフーニュースだかで「陰謀論」と見出しに出てきたりで、話題になっている。

どのような話を耳にしたのかというと、いわゆる陰謀論というのが広まったのは、その陰謀論で指摘されている支配層が広めたからだという話であった。

陰謀とは陰で謀ると書く。目立たないように見つからないようにするから陰謀であって、広まったら陰謀とは言えない。
外交機密というものがあるが、脅されたりで外国、つまりはお互い仮想敵国なわけだが、その相手方に渡しかねない状態になった時にどうするかというと、公開してしまうというのがある。外交員だとかの命も守るためにである。
機密として手に入れるから効果が高いのであって、周知の事実としてしまっては意味が無くなるのである。本当に漏れてしまうと国がひっくり返るようなものは、末端には渡さないものである。

陰謀を陰謀論として広めるとどうなるか?知った人々の具合によって、二分されることが想定される。

陰謀論と書いたが、「兵法」を想像して貰えば早いかもしれない。

隣り合ったAとBという国があり、お互いの領土を奪おうと常々狙っているとしよう。

AがBに対してこういう話をばら撒く。諜報員を使ってB国内で吹聴させるのである。
「A国は飢饉で国がガタガタだ」といった具合の「機密情報」を流させる。他にも「政変があって統率がとれなくなっている」だとか、そういう具合である。無論、それ自体は嘘である。
そしてB国はそれに乗ってA国を攻めに国境を越えてみたら、満を持して待機していたA国に主力を撃滅され、B国は国防もままならずに併呑される、といった具合である。


よく陰謀論界隈で取りざたされる言葉に「工作員」というのがある。諜報員は工作員の一種となる。

大体の使い方は、いわゆる陰謀論を論破してくる相手に向かって「工作員」と罵ることが多いように見受けられる。

「工作員」と呼ばれた方はどういうことを言っていたかというと、上記の通りに論破することと、陰謀論に嵌ることで国内感情が分断されることになるという指摘をしていることが多いようである。

さて、工作するにはどこが一番か?上記の例を改めて見てもらうと分かり易いだろう。

A国人がB国人の振りをして嘘を流す、というのが効果的だったというのがお分かりかと思われる。
もしくはB国人を買収するという方法もあるが、過程は関係ない。
ついでに、「工作員」と罵られた人たちも同じことを指摘していたが、受け入れられなかったようである。

グループのリーダーを追い落とす際にも似たような手法が使える。

まずはその意見に同調し、どんどん盛り上げておく。そして最後の最後で登り切るであろう梯子を落としてしまうという訳だ。

こういう話は陰謀論界隈限定ではないが、陰謀論と呼ばれる話の中には、根拠薄弱な物や、証拠写真として提出されているものが合成であったりと、ネタには事欠かない。

スピ系だとか宇宙だとかになると、示された根拠を調べることすら普通では無理となる。

とはいえ、今まで定説だとされていたことが、ある実験や新史料の発見で覆されるということはある。


面白いことに、先ほどから書いてきた対立の話は、同じ結論を述べている。

それは「新しい時代になっている」であった。

新しい時代では嘘が通じなくなるので、嘘を付くと罰せられるぞ!とお互い言い合っているのである。

どちらが正しいかと?「正しい」という言葉の定義によるといえばよるが、どちらも正しいことには違いない。

先ほどのA国とB国に振り分けるなら、合成写真やら薄弱な根拠まで振りかざす陰謀論者をAとして、それにまともな論拠(でない可能性もあるが)で論破して諭しているのがBとする。大多数の人はBの内にいる。Aと直接関わることは少ない。

AはAで正しいと思っている。根拠がデマであったりすることがあるのは、「正しい」と思っているが故である。

BはBで正しい。現代社会で提示されている根拠を示して論破しているからである。これまでの現状に繋がる現代社会を「正しい」と思っているが故である。


個々人がどこまで認識し考えているかは計りようがないが、逸脱が多く見えるのはAとは言える。
Bについては、元Aだった人も多く、アレルギー反応の如くになっている人もいるだろう。かくいう拙もそういう具合で、AとBを行ったり来たりに近い。

このように分断されているというわけだが、これを軍事や政治方面に当てはめると、Bの状態に分類できる内で、これまでの現状にすがっている状態の人が大半だと、国防上、無防備な面が多くなる。例の風邪の注射の件なんかが顕著だろう。

反対にAのような現状打破を前面に打ち出すと、諸外国から袋叩きに遭う可能性が高くなる。例の注射の話で例えるなら、契約の内容はともかくとして、一方的に取引を破棄するのは問題となり得る。


日本は二本立てで動いているから日本(にほん)、というのを聞いたものである。

もしかしたら、この状態が「正しい」のかもしれないと思えてくる。


何故か?この世を支配している存在があるとして(陰謀論でいう略称D・Sではなく)、意見が対立しているほうが、状況に合わせて転がしやすくなるからである。転がすこと自体は既定路線なのだと。我々は生きているつもりで、転がっているだけなのかもしれない。

その転がった先がどういうものかは、正しく神のみぞ知る、といったところかと思われる。
転がっている最中は文字通り目まぐるしいだろうが、あれやこれやと目を配ると酔ってしまう。
車酔いを防ぐ方法として、一点を見続けること、というのがある。
土台、全景を目に焼き付けることなど不可能である。なれば一点に集中すべし、となる。
一点に集中していると、そのうち集まって全景になり得るかもしれない、などと考えるのも一興である。

情報だらけので車酔いの如くの時代なればこそ、「自身が何を求めているか」の一点を見据える。
そうすれば、デマの吹聴やらそれに乗せられることも、現状にすがるだけもなくなるのかもしれないが、人のことは言えないのでこの辺りで終わりとする。


では、よき終末を。


グノーシスはアザラシに神を見いだすか

2021-03-26 | 雑記
よく見ている動物の動画を紹介しているツイートがある。

大体、ペットの動画が多く、犬や猫が大半だが、他の動物のも紹介されているときもあった。

先日、寝る前に「そういえば、アザラシの動画見たことないな」などと思いながら寝て起きた次の日に、そのツイートを見ると、アザラシの動画が上がっていたという。

引き寄せか!?などと喧伝する気はないが、なんだか面白いなと思ったものである。

とはいえ、振り返ってみると、引き寄せの法則やらを見て回った時に聞いた話に近い流れだったなとは思う。

寝ながらなんとなく考える
    ↓
そのうち考えた事も忘れて眠りに落ちる
    ↓
起きたらびっくり

と、こういう具合である。


引き寄せの法則とやらで言われるこの流れをもう少し踏み込んで書くと、望みを叶えようとする時は、確かに強く願い続けて叶える、という方法もあるようだが、一度願ったら願ったことを忘れてしまう、というのがある。

それは何故かというと、願うということは対象が欠乏しているからというわけで、分かり易い言い方をすれば、「お金が欲しい」と望むとき、それはお金が足りないが故となる。
「お金が足りない」からお金が欲しいと願うことになり、結果、お金がないという願いが叶い続けるのだと説明されている。とはいえ、寝転がってて金が入ってくるというわけではないが。

上述のアザラシの動画の話の流れに当てはめると、こうなる。

アザラシの動画が見たい
   ↓
今は見ている状態ではない
   ↓
見たいと思い続ける
   ↓
見ている状態ではない、が継続
   ↓
いつまで経っても見られない、もしくは時間がひどくかかる

という風になるそうだ。

別に他のところで探せばいいだろうが!とお𠮟りを受けるところだが、一言書き忘れた。
その見ていたツイートでアザラシの動画が上がっているのを見たことがなかったな、が正確なところである。


しかし、海外の然るスピリチュアルの教祖みたいな人が急に辞めてキリスト教に入信し、今までやってきて広めてきたことはいけないことだ!とか言い出したという話があり、公式ブログの膨大な量のうち十二ほど箇条書きに翻訳したのを読んだものだが、「引き寄せはするな!」というのがあった。

翻訳して解説を付けていた人が冒頭で断っていたが、キリスト教に入信したが故の立場からの発言なので、全部真に受ける必要はないとしていた。そのリンクを貼って紹介していた人が「翻訳した人は何か困ったように書いている」と感想を述べていたものである。

きっとアザラシは悪魔なのだな。悪魔は魅力的である。
ついでに、上記のスピリチュアルの教祖は、「ハリーポッターは見るな!」と書いていた。

伝統的にキリスト教は魔術を弾圧してきたもので、大雑把に言えばキリスト教は「神」が人間の上にあって、人間は下僕であるとするが、魔術などのオカルトの教義はその逆とも言えることを提唱する。

グノーシスと言って、異端という意味合いの名称というか分類があり、キリスト教の萌芽時代にも宗派によっては「人は神になれる」ということを提唱していて、主流派から異端扱いを受けて隠れていったり消えていったという流れがあるという。

上記の元スピリチュアルの教祖のキリスト教的見解から行くと、東洋思想はまさにグノーシスになってしまうだろうが、現代社会で主流のキリスト教の宗派内でそういう歴史は習うことはないだろうとは思う。

そのキリスト教が実は弾圧していた魔術の技術を取り入れているなどと言われたら、どういう反応をするだろうか。別にお伝えしようとは思わないが、そのスピリチュアルの教祖の行動には別の意味があろうという見解もある。

何かにつけ、独創的でかつ革新的だったりする主張や行動様式を提唱する人物は教祖的な存在として祭り上げられることが多い。
歴史的に偉大な人物で容易に思い浮かぶのは、釈迦かと思われるが、流れは同じである。

以前にも書いたが、悟った釈迦はもう黙っていよう、人には伝わらないからと考えたが、帝釈天に頼まれて(当人も聞きたいからと)伝導を始めたと『スッタ・ニパータ』にある。

話が逸れた。つまりは、人に道を説いて自力で歩んでもらおうというものだったのに、教えてくれた人についていけばいいのだな!と勘違いするというのが古来からの人の習性であるといえる。
ヒヨコの刷り込みと同じ状態になってしまう。意図せず起きるし、意図して起こせばカルトになる。

それなので件のスピ教祖は「子供たち」に自力で道を歩んでもらおうと、独り立ちしてもらおうと考えたが故の今までの経歴の全否定なのではなかろうかとのことである。当人がそう考えているかは分からない。

それを聞いて思い出した話があった。

整体の創始者、野口晴哉が何かで書いていた。例の如くうろ覚えで引用ではない。

整体を教えているのは、自身で自身の健康を保つための訓練であるのに、道場に通う人達は「ここで整体指導を受けてるから大丈夫」だなどと言っている。誰もそこから上に出てこようとはしない。
とぼやいていた。

これもどこかで読んだが、晩年の野口の記述に「整体で人を治す意味なんてあるのか?」という具合なこともあったようである。

スピでいう「その人の選択だから」とでもいえばいいだろうか。実は死ぬ定めの人を無理矢理延命していただけではないのか?と、そのような懐疑を抱いていたようである。

教祖には教祖の悩みがあるのだ、などと言ってしまうのは簡単である。

最初から人心掌握して栄華を誇るためなら悩むことはなかろう。別の悩みが出るかもしれないが。

野口の場合は、当初は治療家、後にのその技術を教えていき、晩年の方は児童教育を考えていた。

本当に人を健康にしていくには、子供のころからそういうことを考えられるようにしなければならないと考えたのだろう。

その志は一貫して、人を、世の中を健康にしたい、といった具合だったのかもしれない。

『整体入門』の活元運動の話の最後のところに、そのようなことを述べていたものである。


実はまた話が逸れていたので戻す。


さて。あなたが教祖でそのような局面に遭遇した場合、どうするか?
これを考えてみるのは実にいい機会である。
演劇の役作りの手法として昔聞いたものだが、その役柄になり切るのではなく、あなたがその役の立場だったらどう振舞うか?を考えるというものだそうな。
欧米でその手法が出る前までは、真にその役になり切るというもので、これが実に演劇をつまらなくしていたという。ただただ、生々しい話を架空であるはずの舞台で見せられるという退屈なものに成り下がっていたという。
この手法を提案したのは、ベルトルト・ブレヒトだったとも聞いたが、詳細は忘れた。


人は役者で人生は舞台だ、という考え方がある。

あなたは「あなた」の教祖だとして、「あなた」に対してどう振舞うか?こう考えてみるのも一興であろう。


では、よき終末を。


鍋をひっくり返す話

2021-03-22 | 雑記
唐突だが、ブログを削除してしまおうと考えた。

というわけで、今までありがとうございました。



というのは悪すぎる冗談だが、たまに作っていた鍋の話でもしようかと考えた。
唐突とも思えるが、開始当初はお酒の話のブログには違いなかった。タイトル通りではある。


鍋の話の前に、しばらく前にあった話を書いておく。

去る三月四日。何の因果か「鶴岡八幡宮に行くぞ」となり、本当に参拝してきた。

とても単純なきっかけで、とあるお店に飾ってあった版画に、鶴岡八幡宮と下に小さく書かれたのがあった。

昔から見ていたが、とある日、急に気になって「どこにあるんでしたっけ?」とお店の人に尋ねた。

それからまたしばらくして、友人と出掛けた時に「ついでに鶴岡八幡宮まで行くぞ!」と冗談で言ったら実際にルートを調べ始めたものの、現在地から二時間ぐらいとのこと、そして夜だったので断念したのだが、上記のその日に本当に行くことになった。


実はそこの話はどうでもよく、さらに江ノ島まで足を延ばして、江ノ島を歩き回ってきた。

江ノ島まで食事をし損ねていたので一息ついた後、観光スポットの神社はどこだと適当に歩き始めたら、どうも反対に進んでいた。目の前にあった公園の地図を確認すると、その地図を設置していた公園の先の住宅街に「避難経路」という記述があり、どうやら参拝コースに繋がっているようだ。

初めてきた場所の癖に堂々と住宅街の間を歩き、「避難経路」と書かれた矢印を頼りに階段を昇っていくと、二十段くらいはあったか、真っすぐな階段の中腹に、茶トラの猫がこちらに背を向けて座っている。犬のお座りと同じな座り方である。

「おい。猫がいるぞ」と友人に声をかけつつ近づいて行ったが、その猫はまったく逃げようとも振りむこうともしない。

目の前に立ってようやくこっちを向いてきたので、指を鼻先に差し出すと、二三匂いを嗅いだかと思ったら、今度はその場にスフィンクスのように腹ばいになった。

指の匂いを嗅がせる前に撫でたかは忘れたが、撫でても顔の目の前に足が降ろされても微動だにせず、観光地の猫とは実に人に慣れているか、もしくは侮られているのか、などと件の友人と話つつ、昇って行ったものである。

一通り回って、昇った方とは違う、土産屋などが立ち並ぶ方から降りていくと、やはり観光地。人が多い。そりゃそうだ、と言いたいところだが、そうなってくれなければ困る。
大通りの脇へ入る道を覗き込むとカフェがあったり、また色々と見に行きたくはなるが、ちと遠い。

それはさておき。本来の参拝コースだった道を下っていくと、途中、観光客が声を上げた。
とある店の脇に猫がいるという。見ると、住宅街を昇って行った途中にいたのとそっくりな茶トラの猫であった。

女性の観光客達が「可愛い!」と声を上げていたので、撫でるのは辞めた。同じ猫だったのかはわからないが、歓迎だけでなく見送りまでされたのかもしれない、などと思ったものである。

江ノ島で見た猫の話がだらだらと続いたが、本題の鍋の話にする。

とはいえ、この鍋の作り方も大昔に書いたかもしれない。


これはずっと昔にテレビの料理番組で見たものである。神田川俊郎が作っていた。

拙は関西出身だが、大阪ではないので実際に見たことはなかったが、上方では「ハリハリ鍋」というものがあるという。

本来はクジラの肉を使うもので、野菜は水菜、別名京菜を使う、関西の鍋である。水菜限定かはわからないが、テレビで見たのは水菜を使っていた。詳しく知りたい方はご検索のほどを。

クジラの代わりに鶏のもも肉を使う。というわけで読んでも作れなさそうな具合の作り方を記す。


材料 

鶏もも肉一枚。ぶつ切りではなく、そのまま焼いてステーキに出来るようなあの状態の奴。

他の具として、先ほど書いた水菜、ゴボウ、後はキノコ類だとエノキがよかろうか。後は長ネギの白い部分。青い部分も使うが、具ではない。テレビで見た鍋には長ネギを入れていたかは覚えてないが、折角なので入れてあげよう。

水菜は煮た時に食べやすい大きさに切り、ゴボウはささがき。長ネギは五分切りでも斜めでも。エノキは適度な大きさにほぐす。

出汁を作る際に必要な物

昆布、煮干し、生姜のスライス数枚、長ネギの青い部分。
水、醤油、日本酒、味醂、砂糖。拙は何故か味醂を買おうとしないので、酒と砂糖を多めにして代用している。

そしてこれらを入れて煮る鍋!土鍋が一番だが、蓋が出来る鍋を。


作りかた

鍋に水を張り、鶏もも肉を沈める。そこに上記の出汁を作る際に必要な物、で示したものを全部混ぜる。分量はわからない。まともに計ったのは真似して作った時の数回ぐらいで覚えてはいない。

醤油味の鍋なので、醤油でほんのり色づく程度、ではなかったとは思うが、薄口醬油だったかもしれない。薄口醬油を別に用意して作ったことがないので、拙が作ったものはまるでかけソバのように暗い色となる。

その辺りは創意工夫で乗り越えてもらう。

煮干しはお茶のパックなんかで包んでおくと取り出すのが楽だと、テレビで見た時にやっていたが、その辺りもご自由に。

そして最近別の話で行き当たった、生姜のスライスと長ネギの青い部分を入れるという部分。

実はこれ、中華料理の厨房で使われていたりする。葱姜水(ツォンジャンスイ)といって、水に漬けて一時間ほど置いたものを、肉や魚の下処理に使ったりする。一時間、は以前見た中華料理の動画で言ってた話だったと思うが、この鍋だけでなく、色々使えるものなので、覚えておくと料理の幅が広がるかもしれない。肉が柔らかくなるという話も、作り方を調べると書かれている。

昆布や煮干しが一緒に入るなら、先に水戻しするかのように漬けておくべきか?と思うかもしれない。
火にかけて沸いたらあくを取り、蓋をして火を止めそのまま数時間冷ますので、そこまでしなくてもいい。
ただ、昆布については沸騰直前で取り出すのが好ましいと思われるので、鶏肉を沈めるずっと前に水に漬けておいて、蓋を外す前に取り除く、が正当とは思われるが、家庭料理なのでそこまで気にしなくてもよいかもしれない。


3時間ほど放置して冷えたら、ネギや生姜、昆布に煮干しといった具にしないものを取り除き、鶏もも肉も取り出して一口大ぐらいに刻んで、ささがきのゴボウと共に鍋に戻して火にかける。

ゴボウにゆっくり火を通した方がいいかもしれないので、弱めがいいかもしれないが、ささがきにしておくと火の通りも早い。そしてゴボウから味もでる。

沸いてきたら他の具を入れる。水菜は火を通し過ぎないように、食べる直前にいれて、さっと食べるのがよろしいかと。

薬味を書いてなかったが、山椒とか大根おろしなどをどうぞ。七味唐辛子にも少々山椒が入っているので、辛いのが苦手でなければ。

締めは雑炊でもいいし、うどんでもいいと思われる。


こうして、酒が進み過ぎて二日酔いとなるのであった・・・。



などと書いたが、これを書いている前夜は水炊きを作っていたというのが妙なところ。

本当はもも肉だけでなく、手羽先か手羽元も使うのだが、家の目の前のスーパーは手羽元がいつも売り切れなのか、値札だけしかないことが多く、もも肉だけで作っていることが多い。

そのせいもあって、上記の鍋を思い出したのだろう。しかし、そのスーパーには水菜が売っていないという悲劇が拙を苛むのであった。


暖かくなってきたが、鍋によく使うアブラナ科の野菜は解毒効果が高いと評判だそうな。

冬場に体にたまった毒素を排出するのにもいいかもしれない。横文字でデトックスとか言われるが、汗をかくのもいいデトックスである。

汗をかきすぎて風邪を引いてしまった、という苦情は受け付けられないが、そういう人は野口晴哉の『風邪の効用』を一読することをお勧めする。

人間万事塞翁が馬という。書いた作り方が細かくないが、鍋がひっくり返ったとか割れてダメになったとかいうのでもなければ、どうとでもなる。場合によっては鍋自体がおじゃんになったが故のもっと別の結果が引き起こされることもあり得る。

先日、とあるところで読んだ面白い話があったので、掻い摘んで書いておく。


どこか遠方の神社に参拝に行ったら、その直後に交通事故に遭ったという。願い事はご縁をということだったらしいのだが、その後がとんでもない。
結構な怪我で入院したそうだが、そのままお世話になった看護師とご結婚なさったのだとか。


というわけで、暖かさがはっきりしだしてきたこの頃は、鍋を食べて大汗かいて風邪を引くのもよろしかろう。

コロナ?美味いね、あれは。黄色くてシュワシュワしてて。


では、よき終末を。


もえる季節

2021-03-03 | 雑記
この時期になるとよく尋ねられることがある。コロナウイルスが猛威を振るっているのにマスクしてないのはどういうことだ!ではない。

花粉症は平気なんですか?と。

ほぼ問題ない。外を歩き続けていると水っぽい洟が少し出たりすることはあるが、単純に普段のマフィアっぽい服装が薄着なので冷えただけである。家で布団に入ってぬくぬくしていると何ともない。
時折いがらっぽくなることもあるが、それもすぐなくなる。
涙目が酷く続くということもない。が、先月だったか、起きたら少々息苦しい日があった。まさかコロナを通り越してゾンビに・・・ということもなかった。(ゾンビ云々は以前の記事などを)

それで、そう尋ねられた時に実は昔、と話を切り出して色々伝えたりしていたものであった。

その昔というのは今から十年以上前である。

毎年、一月の終わりから二月にかけて風邪を引いたかと思ったら鼻水が止まらない。ティッシュの一箱はすぐなくなるという勢いであった。

当初は風邪だと思い込んでいたが、後年、花粉症じゃないかと言われても気にしていなかった。

それから数年後。ここの古い記録には残っているが相手先はすでに消滅済みの話に繋がる。

所謂陰謀論という奴だが、健康にまつわる話は文字通り死活問題である。

病気にさせられて病院で薬を処方させるというのはあり得ない話ではないと。

そもそも拙は風邪を引いても風邪薬は飲まないとほぼ決めていた。ドラッグストアで買える風邪薬の「葛根湯」はたまに飲んだりしていたが、基本的に薬は使わなかった。経緯は思い出せないが、すぐ薬に頼るのは自身の免疫を下げるだけだと。

後に野口整体の話に触れて、間違いではなかったなと確信したものである。余談が過ぎた。

話を戻して、その所謂陰謀論の所で書かれていたところに、タバコの話があった。
タバコが実際言われているほど体に悪いものではないというのは聞いたこともある人がいるだろうが、花粉症の症状を緩和するという話もあった。他には脳のとある細胞に働きかけて記憶力を上げるという報告もあるという。

それで試してみようと思ったものの、実際どうだろうかと悩んでいたら、そこの別のところに、アグニ・ホートラというものの話があり、詳細は省くが、アグニ・ホートラの話も加味して問題ないだろうと踏み切った。

そしてキセルを買って来て、日本製のキセル用のタバコを吸い始めたところ、次の年からだったか、花粉症らしい症状が緩和したか止まったかは思い出せないが、現在進行形で何ともないとなっている。

それで、花粉症にはタバコが効くと、時候の挨拶的になっているこの時期にはこれこれこうでこういうのがあるみたいですよ、と話をしたりしてきたものである。

とはいえ。愚弟も喫煙者だが、花粉症で寝る時にマスクしているとかいう状況。

他の知り合いも喫煙者だが花粉症。挙句の果てには「花粉症は治らない!その時のは花粉症ではなかったのだ!」と力強く否定されたものである。

花粉症でなかったとして、何かの病的症状だったのが劇的に緩和かなくなったことには違いない。


最近ようやく不思議に思ったので、一体何が拙の病状を止めたのかを考えようというわけである。


いきなり胡散臭い方面からのネタだと、「波動が高いと花粉症にならない」とかいう話を見たものである。

ベジタリアンでもないし、酒はガバガバ飲むし、世の中の大多数は以下略と思っているような奴の波動とやらが高いとは思えないし、計りようもない。

今もベジタリアンだとかヴィーガンで花粉症でないというのなら、それが原因と推察できるが、前述の通り違う。
実際に菜食主義者でも調子が悪い人もいる。花粉症の人もいるとか小耳に挟んだ気がする。

健康的な生活をしているとは言えない。夜勤の仕事で昼間は寝ていることが多い。そして今は仕事が減っているので家でゴロゴロしている日も多い。

タバコについては、拙についてはそうだとしか思えないタイミングだったが、他人については非喫煙者が試して変わったとは身近では聞いていないのでわからない。

さて。巷では花粉症と呼ばれるこの病状。原因は本当に花粉のせいか?という話がある。

忙しい人は空を見上げる機会がなかろうし、見かけたとしても気にしないだろうが、あさっての方向に飛んでいく飛行機が細い雲を流しながら飛んでいるというのを見たことがあるかもしれない。

拙はちょくちょく街中を歩いて空を見ているものだが、色々な方向から飛んでいるのを見る。

話は飛ぶが、アメリカでそういう飛行機が飛んで行った後に地面に落ちたものを拾って検査すると、様々な重金属が検出されたという。本当かはわからないが、現代では考えられないナノロボットのような何かが体に埋まっていただとかもある。ここは別の話と混じっているかもしれないが。

そこでアメリカ市民は国に抗議したところ、連邦政府だか軍だかは忘れたが、「この期間に飛行機を飛ばして散布したことは本当です」と認めたという。飽くまで一定期間とすっとぼけているのがお国とやらのいつものことではある。

つまりは、環境は色々と汚染されており、水にも空気にもアルミなどの重金属はふんだんにあり、電磁波がそれらと共謀して日々体を蝕んでいる、というのが実際の所で、花粉は目くらましとなる。

となると、現代社会では生きていけませんな。皆花粉症になるしかない。花粉症だけではないが。


しかし、花粉症らしい症状がなくなった。これがわからない。


先ほど、マイナスイオン云々という話を読んだが、体に害を及ぼすものはプラスの荷電で、マイナスイオンは文字通りマイナスの荷電で、ぶつけるとウイルスなどは電磁差といってたか、姿を保てなくなり、文字通り殺菌されてしまうというしっかりとした科学的根拠があるという。
電磁波や重金属もプラスの荷電で、人体を酸化に傾けて惨禍を引き起こすというわけである。
その反対は塩基性。つまりアルカリである。還元作用が重要となる。

体に必要なミネラルというのは、特に野菜や果物に多く含まれているものはアルカリの物が多い。

そこで思い出した話がある。

昔の日本は、「灰汁」というものを使っていた。煮込み料理や鍋ですくうものとは違う。

藁を燃やして灰にし、それに水や熱湯をかけてからその上澄みを使うのである。

これは強力なアルカリ溶液となり、掃除や洗濯など日常の様々な箇所で使われていたという。

とある猿の動物園では、生ごみを焼却した灰を置いてたら、猿が寄って来て食べていたという。

炭焼きをしていると、最初は白っぽい煙だが、炭が出来上がってくると紫の煙になり、これにはミネラルが豊富だという話もあった。


タバコ以外で実践していることを書いていなかった。

先ほども少し触れたが、アグニ・ホートラである。検索して見つかるような正式なものではなく、論理だけ拝借したものであるが。

細かい話は省くが、動物性のものと植物性の物を一緒に自然の炎で焼くと、人体や環境に良い影響を与えると言われている。これはインドに古代から伝わるアーユルヴェーダに則っている話であり、インドやネパールなどでは昔から行われている。
炭素の同位体でフラーレン分子と呼ばれる、サッカーボール状の炭素分子が高速回転するとかなんとか。ちなみに、このフラーレン分子に纏わる研究はノーベル賞を取っている。

拙が行っているのは実に単純で、蜜蝋入りの蠟燭を明かりにしているだけである。仏具店などで「あさみどり」という名前で売られている、少々お高い蝋燭である。
仏具店に蝋燭とマッチを買いに行くマフィア・・・。我ながら奇妙である。


というわけで、灰汁や炭焼きの件もあるので、タバコの煙にも還元作用、マイナスイオンの効果があると考えられる。

尚且つ、アグニ・ホートラもどきを続けてきたが故の健康体なのだろうといえよう。


火の始末については各人でお気を付けを。家が燃えたとか煙たいだのとか言われても困る。


それでも、何をするかの前に、己自身を顧みるのが先決であることは言うまでもない。



では、よき終末を。




這いよるコント

2021-03-02 | 雑記
宇宙考古学というものがあるという。

考古学を宇宙的観点から調べようというものだそうな。

有名どころでは、ゼカリア・シッチンがいた。宇宙考古学と言っていたのかは忘れたが、確かに人類の起源を宇宙との関りの中で説いていた。宇宙といってもこの場合は宇宙人がどのように関わってきたかである。

レプティリアンだとか爬虫類人という言葉を聞いたことがあるかと思われる。所謂陰謀論の界隈で広まった。日本にその概念を伝えた有名人が、デーヴィッド・アイクである。

そのアイクはかつて、シッチンの講演会だかで質問をしたら、ものすごい剣幕で怒られ否定されたという話を書いていたものである。

有名な話でもあるが、シッチンがなんと述べていたかをいつもの如くうろ覚えで書いておく。


それは・・・遠い宇宙の話・・・。

実際遠い方だと思うが、惑星ニビルと呼ばれる星があり、高度な文明を持った存在が住んでいた。あまりにも高度なので、自身の姿を自由に変えたり空を飛べたりと、まるで神様のような存在であったという。

ある時、その惑星ニビルの環境が悪化。この問題の対処にはゴールド、つまり金が大量に必要だと判明した。お金が掛かる、というのとは違う。

しかし、ニビルに埋蔵されている金では圧倒的に足りなかった。それでニビルの住人アヌンナキは、金を探しに宇宙へ飛び出したという。嫁さんがいるのに途中で浮気して子供をこさえたりしたそうな。
正妻の子供はエンリルという。親父さんのアヌンナキもその嫁さんも人間の姿に近いので、人間とあまり変わらない姿だという。
そして、妾腹の子はエンキという。浮気相手が蛇みたいな感じだったので、半分人間半分蛇の姿だとのこと。
この二人は仲が悪かったようで、価値観の相違からよく争っていたという。

さて、なんやかんやで地球に舞い降りたアヌンナキ、もしくはアヌ王とも呼ばれる存在とその子供たち。

ただ、自分たち自身で掘り出すのは、地球の環境が向いていないのであたかもマスクしたまま走り回るかのような状況になってしまう。そこで、当時の地球にいた生物の遺伝子をいじって命令通りに動かせる生命体を作り上げた。
それが人間の先祖の一つだという。
中東あたりの「エデンの園」と呼ばれた場所で、アダムとイブを飼育していたというのである。

詳細は語らないが、その人間の先祖にあたる存在からとある物質を抽出し、他の宇宙人に配布していたともいう。つまりは、「エデンの園」の正体は人間牧場だったというわけである。

シッチンがこの先のことを語っていたかは忘れたが、よく出回っている記述である。

それで、アイクはこの辺りまでの話と現代までの話を繋いで、「人類はレプティリアンに支配されている」という説を述べているというのは想像が付くだろう。

しかし、事情はさらに込み入る。込み入るという程ではないが。

さて、アヌ王に二人の息子がいたと書いた。

「エデンの園」の管理を息子の一人に任せた。任されたのはエンリル。
エンリル自体は人間を自身の保護の手の内に収めておきたいと考えており、言わば人間は奴隷のままでよいとしていた。

そしてもう一人の息子のエンキは正反対で、人間は賢くなって独立せねばならぬ、と考えていたという。厳しい父親のようである。

創世記の記述は余りにも有名ではあるが、蛇がイブをそそのかして知恵の実を食べさせ、怒った神は二人をエデンから追放した、とある。そしてエンキは半人半蛇の姿である。

つまりは、どちらも神と呼ばれた存在の眷属で、勝手なことをしたあいつは悪い奴だ、ということで蛇(エンキ)はエンリル側から悪魔と呼ばれるようになったという。

実際に旧約聖書の原文では、神々と書かれていたりする。

それからもお互いは反目しあったりして、これが現代にまで続いていると、シッチンが語っていたと聞く。
たまに協力したり、お互いの子供を結婚させて和解しようとしたりと、なんだか家族ドラマのようである。
そして、その二人がやり過ぎる時は、共通の孫娘や、アヌ王が直々に止めに入ったりしていたというので、笑えてくる。

何故このような話をするのかというと、前々から疑問に感じていたわだかまりがあったからである。

そういう存在の直系の子孫が地球を牛耳ってきた、というのが陰謀論の話で持ち上がる話なのはご承知の方も多いだろう。

金融も政治も経済も人も支配するのが目的だというが、その話を掻い摘んで喋ったりした時に、どうしても納得が行かない気持ちが出てきたものである。

言葉にならなかったが、先日、その事について言及していた記述を読んだものである。

「もう既に権力も財産もあるからそれ以上持つ必要はなく、そういうのに執心しているのは下っ端だ」という風に。

尚且つ、ずっと喧嘩している兄弟のコントロールは、どうしようもない所に行く前になされていたという。

つまり。元々は全部支配されているので、殊更に支配支配とわめく意味もないのだろうという風に思ったというわけである。

とはいえ、実生活が脅かされるようなものについては、個々人が判断して対処していく必要はあるが、この世というオンラインゲームのプレイヤーとしては各人のプレイスタイルで構わないのだろうと。だからといって人を故意に傷つけるだとかあくどく稼いだりしていいというわけではないが、そういう選択をする存在もあるのがこの世の実情であり、そのような存在すら支配下にあるのだろう。

さて。その神様と呼ばれた存在だが、歴史上色々なところに現れて何か教えたり、場合によっては人と化け物にそれぞれ分かれて演劇をしていたという。もしくは戦争だったり。

似たような話で、ラブクラフトが始めた『クトゥルフ神話』と呼ばれる作品群に登場する邪神の一柱に、「ナイアルラトホテップ」だとか「這いよる混沌」だとか呼ばれるのがいる。
同じ時代の別人物に同時に宿って、お互いを喧嘩させたりする。しかも、冗談のようだが、お互いがお互いをそれだと認識してなかったり、片方は当人?とわかってやったりと、めちゃくちゃをするという。

かつて、靖国神社のA級戦犯がどうこうで分祀しようという話があったが、分祀とはそもそも他の場所に神を移すのではなく、写すのである。靖国神社にいる神様を引っこ抜いて別のところに置くということはないのだが、ナイアルなんとかの如く、アヌンナキ達も、それと同じようなことをやって来たとなる。


ともかく。神様のような存在のやる事は表面上はよくわからないし、価値観も知識も違うので、話を聞くことが出来ても理解できるかどうかはわからないかもしれない。

人はわからないから知ろうとする。もしくは恐れて無視する。

洞窟から出た瞬間の日の光は眩しくて痛いかもしれないが、必要な痛みである。

そんな脅すような言い方は別として、この世は普段から知らされているようなものではなく、「這いよる混沌」によるコントの世界なのかもしれないと面白がるのも一興だろう。

ところで、人に尋ねる時に「あの」というが、大体「あのぅ」と伸ばすことが多い。

まるで「アヌ王」と呼び掛けているかのようで、思いついて一人で笑っていたものである。


では、よき終末を。