ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

知ったかぶり

2011-10-30 | 雑記
前回、「羊は毛を刈らないと暑苦しくて大変だから」などと書いたが、実に馬鹿馬鹿しい話だった。

あれは、品種改良されてきたもので、羊の都合なんぞ考えていないものだった。

その羊は、ひどい環境で飼育され、輸送される。

このブログの記事をご覧いただければよい。

ミュールジングという、羊の体の一部(尻のあたりを・・・)を切除して、感染症やらを防ぐ。まあ、人間の都合で痛めつけているわけだ。殺してないから虐待ではない、なんていうのはおかしいよなと、なんとなく考えていたが、甘すぎた。

記事上には、ミュールジングの動画と文章による解説の二つのリンクがある。こういうとふざけているようだが、お好きなほうをお選びいただこう。


というわけで、せっかく誂えたマントだが、今年の冬を越えたら永眠することになりそうだ。少なくとも、次からはそういう素材は選ばない、と決意した。

分割で買ったので、その分が終了するまでは放棄することあたわず(別に捨ててもいいが)。支払いと越冬が両方終わったら考える。


ついでに、写真は被った状態でしか見せていないが、ハンチング。あれも一部毛が入っている。電車内での蛍光灯の光避け、という身も蓋もない理由で被っていたのだが、そういう訳ならまた別のを探そうと考えている。


とりあえず、今ある分についてはもう仕方ない、と考えよう。そもそも買うときに気づくべき話だったが、まだまだ「普通」の人らしさが抜けてないようだ。だがしかし、さらに今日買ってきた雪駄についてはどうだろうか。


雪駄とは:茶道で露地を歩く際の履物として、草履の裏に皮革を貼り付けたもの。千利休が作らせたらしい。


というわけだ。踵が削れてきたらうちで取り替えますよ、というのと、鼻緒がこれまた正絹というので買ってしまった。何を考えていたのやら。もちろん、裏地は牛革。


絹については気にしないことにする。蚕の蛹から糸をつむぐので、虫を殺すことには違いないが、下手糞な屠蓄者が電気ショックで気絶もさせてない牛を何十回と刺して殺す、などという話とは比較にならないほど穏やかな状態である。


ただ、もう毛皮と肉食については、久々に頭がぐらぐらするほど衝撃を受けた。甘ちゃん過ぎて自分が情けなく思うほどだった。食べる、装う、だけの話ではないので、先ほどのブログを気になる方はよく読んでみるとよい。反毛皮の運動をやっていたり、そういう話(動物虐待の話)を紹介している。

抵抗できない動物のかわりにできること


ただ、仙人などと呼ばれる(本物には叶わないが)わしとしては、敢えて悪魔の所業(毛皮を纏う)をやり続けて、人と悪魔の間に立つ振りをしてみよう、などといわゆる中二病染みた妄想をしてみたりするのであった。まあ、負け惜しみというやつですか。何に勝つも負けるもないがな。


しかし、日本は肉といい毛皮といい、何でもそうだといえそうだが、他に選択肢があるはずなのに何故かないものと思い込んだり、もしくは思い込まされた、閉ざされた世界ともいうべき状況を、色々知れば知るほど、見れば見るほど、その空気を強く感じる。


以前「和」でダイエットには炭水化物食わないで肉を食えばいい、という話を聞いた。丁度そのことについての話が、紹介したブログでも載っていたし、読んで思い出したが、この報告についての話はどこかで目にした覚えがある。つまり、すっかり忘れていたと。

その記事はこちら。「神戸コレクションNO毛皮 低炭水化物ダイエットの嘘


道理で、玄米ばっかり食べてたら、動いてないのに痩せて、ナンとか白いパンを食べる機会を増やしてしまったり、肉やら肉に近いものを食べてしまったら、いつもどおり動いていても少し体に肉がつくなと思った。実際には一食の間隔が長いのもあって(夜食べたら大抵次の昼まで食事なし。寝てる時間も長かったりするが、夕方から仕事なら仕事場に到着するまで食事らしいものなしが普通になっている)、影響は少なかったが、すぐにあったと感じられた。


ともかく、不真面目な感じがするだろうが、わしはわしの感覚でなんとなくやっていこうかと思う。しかし、日本はいろんな意味で過ごしにくい国だ。歴史と風土は「素晴らしかった」ことは訪れた外国人が褒めていたなどという話を引き合いに出すまでもなく思うことだが、もう過去だ。では、また。

目指していたもの

2011-10-28 | 雑記
ベジタリアンの究極形態・・・それはジャイナ教!ではなく(ある意味そうかもしれない)、ヴィーガンと呼ばれる生き方をしている人たち。


ありとあらゆる肉にまつわるもの、牛乳、卵、魚は勿論のこと、ハチミツも食べない。理由は不明だが、白砂糖も食べず、人によってはアルコールも摂らないという。身に纏うものについても拒絶する。毛皮は使わないというわけだ。


ふーむ、そうなるとわしは何者でもなくなりつつあるようだ。単なる一般人と。なんというか、一部で仙人と呼ばれたりはしている。仙人なら仕方ないな。



つまりはこういうことである。




長襦袢。着物の下に着る、肌着とは言わないが、着物と肌着の間に着る和装衣類の一種。


向かって右下の一部



裏面


古着屋の先生と呼ばれていた女性の方が、これを袋に入れるときに言っていたのだが、「落款がついてるから、作家さんのものだよ」と。「じゃあ普通に買ったらとても高いんでしょうねぇ」と聞いてみたら、やっぱり一桁違う値段を言われた。ちなみにこれは八千円。その一桁違いというから、推して知るべし。


さて、帰宅して広げてみたところ(上記の写真を撮ろうと思ったからだ)、落款の他に筆で名前を書いてあった。「應挙」

ふんふんオウキョか、オウキョといったら丸山応挙だよなぁ・・・えっ?


たぶん、江戸時代の人間が書いたわけはないので、応挙の作品を写した、というところが妥当か。

ちなみに、應はいわゆる旧字だが、挙は旧字なら「擧」になるはずなので、まああまり気にしないでおく。どうせ見えないし。軽く調べると「応擧」で作られている落款もあることはあるようだ。


話が逸れたので戻す。そう、この長襦袢の素材はどうやら絹で出来ているようだ。ああ、道理でさらっとした手触りと、普通には見られない光沢だと。シルクっぽい化繊かもしれないが、判らない。


まあ、絹ならいいか。しるくぷろていん配合、なんていうシャンプーで髪も環境もズタズタにしている世人と同じにしないでくれたまえ!というわけでもう一枚。





美夜古企画さんで頼んであった、だるまマントが先日出来上がった。届いたのは先週だった気がするが、ブログに書き起こす機会を逸していた。今回ようやく掲載できた。

頼むときからわかっていたのだが、毛100%である。まあ、毛ならいいんじゃないかな。羊さんは毛を刈り取ってもらわないと暑くて余計に苦しいらしいし。


古着屋さんを後にする時、「今度着てきてくださいよ」といわれる。次は着ていってみても悪くないが、次は何を買うのだろうか。とりあえずは決まってないし、しばらく緊縮財政である。では、また。



作り方

2011-10-25 | 雑記
西洋料理で誰でも聞いたことはあるだろう食材。

わかった!トリュフだな!それだとタイトルがおかしい。

トリュフは掘り返すものであって作るものではない。よってフォアグラと確定する。


そんな話は措いておくとして、その作り方。


まずはガチョウ。たぶんガチョウ。鴨とかアヒルみたいなのでいいんじゃなかろうか。

こいつを首だけだせるように作った箱に押し込めて、首だけ出しておく。


そして、次から次へと食い物をその嘴へ押し込めて太らせていく。

早晩、死を迎える箱の中の鳥を掻っ捌いてみると、肝臓が脂ぎっしりに肥大化している。

これが世に言うフォアグラである。よーするに、鳥の癌化した肝臓なのである。


無理やり食わせなければガチョウ君、もしくはガチョウさんは天寿を全うされたことであろう。アーメンだとか南無なんとかと祈ってあげなくても良い。土に埋めましょう。


バカ食いすると(上の場合は食わされたのだが)体がおかしくなって死ぬと。子供でもわかる話である。

そんな不健全なものを美味い美味いと食べる人間はもっとおかしいと。別にそんな話を今回したいわけではないが、一度考えてみてもいいだろう。




話は変わるのだが、歳を食うと時間の進み方が早くなったように感じる、というセリフを聞いたり見たりするだろう。歳食った時の時候の挨拶みたいなもので、実際そう思ったり感じたりしているのかはよくわからんが。

しかし、何もすることがなくなった爺さん婆さんは一日が長いとぼやいたりすると。子供時代を振り返ると、あの時は一日が長く感じて、目一杯楽しめた、なんていう話もあったりする。「夏休みが三十日もある!」が歳を経て気づけば「三十日しかない」になっていた、という記憶はなかろうか?


こいつは何の違いなのか。


思うに、一日が短いと感じる人は「箱入りのガチョウ」状態なのではないかと。


ぼんやりテレビを見ていたら寝ようと思った時間を過ぎてしまった、とか、まあ、なんでもいい。


本来、自分自身に必須とは呼べないものを摂取し続ける状態。ガチョウは箱に入れられているが、人は自由じゃないか、と思うだろう。


どこかの誰かが何らかの意図(例:金儲けというか他にないような)で作り上げた種々のものの中から選ぶ以外まかりならぬ(皆ケータイ持ってるから持つのが当たり前、とか)。そんな状態から「自分の意思で選んだ」と思うほうが不思議である。

AとBを提示して、他の選択肢を選ぶことを考えさせないような状況。実はCがあるのに見せない見ようとしない、そして感じようとしない。

そしてCを選んだら嫌な顔をされたり、場合によっては罰しようとする。しかも、提示する側だけでなく、「ただ選ばされている立場の存在」も一緒になって。


TVや新聞、映画や音楽にゲーム、その他諸々の娯楽。それを「自分の意思」で摂取してきたと思えるだろうか。

首だけ出してるガチョウは恐らく、嫌がって暴れているだろうが、人は体こそ縛られていないから感じていないが、心が縛られている。


過剰に娯楽と刺激(カダフィ「死亡」のニュースも刺激だな)を摂取「し続ける」日々。


これは肝臓という目に見える物体の癌化ではなく、精神の癌化なのではなかろうか。死に向かって全力疾走状態になっているから、時間が早くなってしまうと。

そこから完全にとは言わないが、解放されている子供と老人は時間が本来あるべき速度に戻っているというわけだ。現在の状況ではどいつもこいつも癌化してるだろう。

半ば死に掛けたフォアグラ直前が、進んでフォアグラ二世を養って(きて)いるのだから。



いつものことだが、抽象的な話なのでわかりにくい。そして恐らく気持ち悪がられているだろう。実に本望です、ではなくて、本人もわかっているのか怪しいので、具体的な例を指摘し、それについての所感を述べて終了とする。



街中でもどこでも、イヤホンを耳に差し込んでいないと生きていけないかのように過ごしている人々がいる。

あれを見るにつけ、嘴が耳に成り代わっただけで、フォアグラを作っているのと変わらないなと感じるのである。作る、ではないな。「進んで」フォアグラになろうとしているのだろう。精神の「フォアグラ」になろうとしているのだ、と。

フォアグラにされる予定のガチョウの一生は短いので、精々、悔いの残らないように楽しんでいただけたらよいですな、と皮肉をこめて思わざるを得ないのである。ま、こういうこちらも「箱入りのガチョウ」と変わりませんがね。

では、また。

本場の味

2011-10-22 | 雑記
というわけで、約束していた、センナリウリのアチャールを持っていつもの「和」に行ってきた。


感想はというと・・・非常に微妙な感想を言われた。(後で別の話題のときに「まずいっていうときはいいますよ、だからいつもカレー!っていうんですから」などといわれる始末。まずかったわけじゃないですが、と言い直してた)


でもまあ、こういう料理があっちではあるんだよ、というと納得する味だという。ちなみにアチャールは食べたことがないようなので、近所のカレー屋で作り方はまた違うが置いてあるので味わってみるべし、とは伝えておいた。


今日はタコ尽くしでやってもらった。細かいことは書かないが、思うところがあって、冷凍を辞めるつもりだという。別にこっちは気にしてなかったのだが(味も悪くなかったし)ナニカあったようです。


タコのから揚げバリエーション二つほどやって、こうするといいんじゃないかと突っ込みあいながら、これからのメニューの想像を膨らませたのであった。今回はたこ焼き用のタコだったので、これからに期待である。



さて、話は戻って、いつも降りる駅の地下から階段を上がると、駅ビルの広場でなにやら売っている。


何日か前にも、盆栽が売ってるなぁと思って、何気なく見てみると、「ひば」なんていうのが置いてある。


細かく砕いたそのひばの木のチップやら、一枚板に切り出したまな板、チップを入れた枕、線香なんてのも置いてある。


芳香剤と防虫もやってくれる優れもののようだ。香りも、精油かなにかのスチームを出していて、なかなかいい香りがする。


着物を買ってから、置き場所をどうするか考えているのとついでに、防虫剤をどうしようか考えていた。スーパーにあるようなものはなんだかな、という、一般受けしない危惧である。


すると、天然記念物のひばの木というものに出会ったわけだ。なんという天佑。お店の人が言うには、線香は焼肉の後に使っているとかなんとか。

枕もいい硬さで、大きさを調節した余りをネットに包めば防虫芳香剤に使えますと聞いておきながら、最初に見たネット入りチップも下さいというと、おまけしてもらった。


帰宅して早速、重ねておいた着物を包んだ畳紙の上に置いた。いい匂いである。虫も寄らないしいい香りがするのなら、これは実にいいものである。


いくら給料が入ったからといって、今日は帰って飯作ろうと思ったらコレである。先が思いやられる。


終わりに、カレーの写真をどうぞ。





よく寄る自然食品のお店で、葉っぱもついた大根を買ってきた。今回はそれで色々入れたサブジにしてみた。今度持って行ってみようか、と思ったのだが、アチャール自体の感想を聞いてみたいので、チャパティだけにしたら、上の感想である。ただ、チャパティはうまいと言っていた。カレーとチャパティだけならお店が出来るな、うん。

余談だが、別のカレーを持っていた日に、カウンターで出会ったほかの常連さんと共に「カレー屋やったらいい」などといわれたのであった。


アチャールとご飯と共の全体像



こういう食い物を着物だとか作務衣で作ったり食べたりしているのである。はて、わしは何人だ? 出身はインドやネパールだったっけ? だが、和歌山は近畿のチベットですね、などといわれることがあるとかないとか。高校時代の恩師がそんなことを言っていた。


さて、部屋の風通しも丁度いいころあいかと思ったので(雨降ってるが)これにて。では、また。

駄洒落

2011-10-18 | 雑記
先日、いつものお店で軽く飲んでいたら、店のお兄さんが瓜をくれた。

千成瓜?せんなりうりと言っていた。はやと瓜ともいうのだが、飲んでいたので記憶があいまいである。


何にあうかねぇと話しつつ、じゃあ今度、インドの漬物作って持ってくるよと。じゃあカレーも、とは最早いつもの挨拶レベルになりつつあった。


瓜はなかなか大きいのが二つ。といっても洋ナシみたいな感じである。


とりあえず、仕事行く前に一つ仕込んで置いて、二日ほど。もうひとつはどうしようと思い悩んだ末(大袈裟なことをいう)カレーにしてみた。


大体、カレー、特にインドのカレーには、ニンニクとショウガが入っている。それにトマトとタマネギでほぼルーのベースが出来てしまうと。


インドの子供には人気がないが、大人向けの味で、「アルムリマサラ」というのがある。アルはジャガイモ、ムリはダイコン。ジャガイモダイコンというわけだ。

それには上に書いたものが一つも入らない。カレーなんて一括りには出来ないので、もっと単純に言うと、インド料理はスパイス料理です、というところなようだ。


以前作ったときの写真はこれ。




なかなか美味かったのだが、汁っぽいのでチャパティと食べるのはどうなのかと思った。水が多かったのだろう。ダイコンだし。


これを例の瓜で作ってみたらどうだろうかと。恐る恐る二日酔いでクラクラしながら作ってみた。名付けて「アル瓜(うり)マサラ」。


さすがに食べきれないだろうと思ったが、あっさり食べてしまった。カレー恐るべし。

カレーには外せないスパイスのターメリック。日本語ではウコンといえば判る人もいるだろう。あれは二日酔いに効くといわれている。

時間が経ったせいなのか水をがぶ飲みしたせいかは判らないが、まあ、何の処置もなかったよりはマシになっていった気がする。単純にカレーが好きなのだなぁという認識でよい。


さて、帰宅してアチャール(インドの漬物)の瓶の蓋を開けて耳を近づける。少々シュワシュワ鳴っている。前回のニンジンのよりは謙虚な音だった。

味はちょっと塩辛いかもしれないが、ご飯やチャパティと一緒に食べる分には恐らく問題ない。インドではマンゴーで作ったりもするようだ。色々一緒に混ぜて浸けた「ミックスアチャール」というのもあるという。


しかし、今から持っていくのはしんどいので(つい昼飯を外で食べてしまったのだ)また後日にする。着物の中に着る下着が欲しかったので、そういう買い物までする始末。

ちょっと失敗したのが、半襦袢というものを試しに買ってみたのだが、なんとこれ、袂と衿がポリエステルだった。肌襦袢二枚にすればよかったと思ったが、洋装にあるような肌にくっつき続けるものではないのでよしとする。

化繊にアレルギーがあるというほどではないのだが、最近嫌になってきているので(パンツ辞めて褌にしたり、寒くなってきたのに素足にサンダルで通勤してたり)まあ、今日みたいに洗っているから代わりに着るという感じでいくことにする。

実際、ポリエステルと書かれているから気になる程度で、言われなければ気にしなかったとは思う。ただ、やっぱり長時間は着たくないなぁと感じ出してきた。お茶でも飲んで落ち着くべきだろうな。

さらっとしてるので、意外と夏にはいいかもしれない。さて、日本は次の夏までもつのでしょーかと。もったらもったでその時考える。



文字だらけだと最後まで読んでいる知り合いがほぼいないようなのだが、改めて書いておく。言いたいことがそこにあるのに冒頭に書かないというのがアレだが、そこは忘れてもらおう。


TV見てるとアホになる、(そういう親父は熱心に野球を見ていたが)と昔言われたものだが、最近は本気でそう感じている。

見てるとぼんやりする。それを感じ出すと、その感覚を払拭しようとするので、頭が痛くなる。延々ぼんやり眺めていたらどうなることやら。もう子供のころからたっぷり見てきたから手遅れだろうがな。

ある医者が言うには、幼児期からTVやビデオなどの映像に曝されていた子供は、言葉の発達が遅れたと。自分と変わらないくらいの年齢の人間が、その発達障害ともいうべき状態にあるせいで、施設暮らしをしているという話もある。


歳とともに言葉の発達はなんとかなるんじゃないのか? といわれているそうだが、人間の、特に子供の脳は非常に繊細である。


子供の脳に多大な障害を与えるのだ。大人になったからといって大丈夫だといえるだろうか? こう聞いて何も感じないなら、これからも何も考えずにTVを見続けて結構である。


というわけで、映像つながりであるTVゲーム。こちらもダメだとついぞ感じるわけである。

普段忙しく働いてきて(一般的な話ね)、帰ってきて空き時間にあくせくゲームやると。TV見てるより能動的だよ、と思うかな? もう思えなくなったのだ。


ドリフの演出で笑い声が聞こえるだろう。「ここで笑いなさい」と強制してきているわけだ。強制だと思わないが、皆笑うところだと思って笑う。


敵が出てきたよ、さあ殺しなさい。とTVゲームが強制してくるわけだ。強制だとは思わないが、皆殺すところだと思ってボタンを押す。


その人の意思によってTVゲームが動いている、なんていうのは幻である。そして、二次元の映像は人の感覚を鈍らせる。一説では、LSDと同じ感覚とも言われている。同じ状態になる、ではないが、向きが同じというわけだと思われる。毎日見てるのだから、結局は同じレベルになっていたりして。

そんな中で競争に耽ったり、「敵を殺す」訓練をしたり、数値の増減に一喜一憂し続けるわけだ。まともな精神が保てるとは到底考えられない。


動画が終わったら辞めよう、と考えていたが、動画自体も半ば辞めてしまっているような状態である。とりあえず、今年一杯でゲームから撤退するつもりである。ゲームから撤退、ではゲーム会社のようだ。まあ、辞める辞めるいいつつ、ゲームの動画を見ていたりはする。だが、それくらいである。


チャットするのはよかったが、もうゲームをしたいとは思わない。先日、久しぶりに会ったLさんと某オンラインゲームでチャットしていたときに、例のグラボの話を振られても判らなかったのは、もうあのサイトも見ていないからだったのだよ。


もう、TV見るのもゲームするのも辞めようじゃないか。頭が空っぽになるならいいが、ただただ、「自分以外の何か」に操られるだけになるのだから。それで結構というならどうぞ。警告はしたからね。では、お達者で。


冬の定番

2011-10-12 | 雑記
「いいニュースはないんですか?明るいこと書きましょうよ」

と、言われる。おそらく前回の話を受けてなのだと思われるが、詳細は聞いていない。聞いていないがそういうことにしておく。


時折思い出してしまったらなにやら言い出すかもしれないし、特に相手を前にしたら皮肉や嫌味をかましかねないが、大体ああいう話は空気というか雰囲気というやつが相手なので、その時対峙する相手はなんのこっちゃわからないので、困惑するだけであろう。直接の当事者とはいえなかったりすると。だから、黙ってないで書いて置いた。書いても見る人はまったくもって部外者だが、後はまあ、飲みに行って「この間のうちの学祭でな」とやるわけである。


というわけで、気分をかえて、カレー以外の料理を作ってみようと考えた。


まだ秋なのだが、冬向けの料理を思い出す。


例の地震に丁度ぶち当たったころ、国立西洋美術館でレンブラント展をやっていた。そこのレストランでは、期間限定でオランダの家庭料理がアレンジされて提供されていた。


まだ肉を食べていた時期だったので、ひとつ食べてみた。名前を覚えて自宅で色々調べては、作って何度か食べたものである。


スタンポットという、要するにオランダのマッシュポテトというものだが、かなり緩めのマッシュポテトである。


材料はジャガイモ、ニンジン、たまねぎ、ソーセージやら肉、スープ。市販のコンソメでいいんじゃないですかねぇ?バターがあるとシチュー風になるそうで。後は味付けに塩や胡椒。

ドイツ語でザワークラウトとかいう、オランダにも名前がオランダ語なだけの同じ、キャベツの漬物があって、本場ではこれを入れる。漬物は好き嫌いの分かれるところだろう。食べたことがないのでわからないが。

勿論我が家にはないので、存在を忘却する。漬物とは呼べないが、刻んだキャベツを塩もみして、水気を切った後酢を混ぜた酢の物もどきを作って入れたりはした。本場の味は知らないが、悪くなかったと思う。


キャベツの漬物以外で、上記から外すものを列挙する。

まずは肉。食べない食べたくない。次、スープ。市販のコンソメスープなんぞ毒物(肉のエキスだとか言う前に、「鯵の素(仮)」が入っている)である。バター。乳製品もいらない。外で食べる時は気にしないのだが、家ではもう使う気はない。気にしてたらナンが食べられないのである。でも、最近はチャパティで食べているよ!ランチでもチャパティを選べるカレー屋があるので、ついつい行ってしまうのである。


野菜だけでどうやって作るのか?問題ない。秘密兵器がある。


帰りに干し椎茸を買ってきた。こいつは水につけて戻して料理に使う、というのが基本なのだが、その戻し汁がいい出汁になる。干し椎茸と出汁昆布を一緒に水に一晩浸けておいたものを「精進出汁」と言って、精進料理に使われている。

タイム風呂敷はさすがにないので、土鍋でご飯を炊いている間水に浸けておく。そして、コンロが空いたら火にかけて、一煮立ちしたら昆布と椎茸を取り出して、出汁をボールにでも移す。(鍋が一つしかないんでな)

昆布はまあ食べても捨ててもお好きなように。最近は味噌汁だと刻んで入れたり、それ以外だとつまみ食いしている。椎茸は重要な具なので、適当に刻んでおく。

あとはまあ、刻んだ野菜と椎茸を軽く炒めて出汁を流し込んで煮ていくと。ただ、ジャガイモの数を間違えていて、一個しかなかった。これでは砕いてもお粥にもならなそうだ。

というわけで、あらかた砕いた後、いつもチャパティを作るのに使っている、全粒粉を混ぜておいた。こうすりゃとろみがつくだろうと。


前後したが、煮込んでいる最中は実に椎茸の香りがする。何を作っているのか我ながら判らなくなりそうだったので、ローリエを一枚入れて煮込んでみた。椎茸の香りが消えて、洋風の香りがする。未完ながら味を見たが、おかしいとは思えなかった。


と、いうわけで、小麦粉を混ぜて胡椒を振って混ぜた後、皿に盛り付けた。ちょっとなんだかひどい見た目だとはいつも思うので、小さい写真にする。クリックで拡大してくれたまえ。




ちょっと赤っぽいのはあれだ、ニンジンが多いから。擂粉木の棒でジャガイモを砕いていくと、こんな感じの色になる。ジャガイモが多くて、もっとニンジンが少ないなら、赤みは少なく、ジャガイモの色がはっきりした感じになる。


さて一口・・・。これは・・・シチュー!

そう、スタンポットを作ろうとしたら、実はシチューが出来上がった。今度はシチューを作るつもりで材料をそろえて、手順を変えれば(オリーブオイルと小麦粉をフライパンで熱して混ぜたところにスパゲッティとその茹で汁を入れて軽く熱すると、カルボナーラになってしまうのだよ)シチューだと騙して食わせられないこともないだろう。「和」の兄さんに食わせて反応を見てみるか、と考えるのであった。

それにしても、もうシチューは食べることがないだろうと思っていたのに、メガテンの合体事故の様に予想外の(といっても小麦粉入れた時点でなりそうとは感じたが)悪魔が出来上がった気分であった(一般的なネタではないので無視してよい)。袴穿いて襷がけで料理したからだね!では、また。


打ち落とされたもの

2011-10-10 | 雑記
先日、これを書いているこの日とその前の日、近所の通っていた大学の文化祭があり、去年は顔をあわせられなかった着付けの先生に会うため、それと最近は着物で過ごし始めたので、見てもらおうかと思ってちょっと行ってきた。

お出かけには羽織が必要である。気楽な散歩程度ならいらんかしらんが、着てみたらコレが驚くほどビシッとする。


最近その大学を卒業したさる後輩にはメールで見せてやったのだが、こういう格好をしていったのである。


一日目
いつもの「和」にて
(なんで妙に写真が小さいんだ?と突っ込まれたのでもういつものサイズにする)

ちなみに頭に乗っかっている帽子は、これまた帰り道の商店街にある呉服店にあった。店頭の首なしマネキンにかけてあったのを、一週間くらい前だか、通り過ぎたときに「あれは?」と気に掛かっていたのを、文化祭前日の夜勤明けに改めて確認して買ったもの。

ハンチング、古くは鳥打帽とか言われてたような気がしないでもない。古風な帽子なのだが、明治大正ならきっとハイカラである。今の時代ではきっとニューエイジ、などと人心を惑わす言葉を弄してはいけないのである。

そもそもHuntingが訛った名前だから、Huntingだけどこいつはハンチングであると。わけわからんね。


写真じゃわかりにくいが、着物の部分は紬(つむぎ)という、お出かけ用くらいのグレードの生地で仕立てられたもの。表面に毛羽みたいなのがたくさんあるのだが、別に生地が傷んでいるわけではなく、そういう仕立てである。紬というのは糸の作りか何からしいので、なんとか紬というようだが、その辺りは忘れた。

しかし、古着屋で置いてあったのを買ったというのに、なんでこうぴったりなのか。昔のわしが着てたのか?と冗談を考えたが、それくらいあんまりズレのないサイズだった。


ただ、わざと外した羽織紐は先生方にしっかり突っ込まれた。


二日目
某大学の茶室傍にて

同じのを着るのもあれだと思ったので、組み合わせを変えてみた。

まあ、羽織以外取り替えただけ。

着物と袴を仕立ててもらったやつにして、無理やり羽織を羽織ってみた。サイズが合ってないので、着物の袂が少し出ている。これは少しダサいが、ファッションですと言い張ることにする。


写真じゃよくわからんのだが、デニムのやつである。


袴は「武道袴」というやつで、仕立ててもらった「美夜古企画」さんのオリジナル袴だそうな。

穿いて歩くと大して細身には見えんなぁと思って直立で写真に写ると、おどろくほど細かった。歩くとふわっと広がって、階段も一段飛ばしが余裕で出来たりする。

居合いなどの稽古着として使われたりしているだけのことはある。素材は木綿なので家で洗えるのだが、アイロンがなかった。

それにしてもなんだか地味な感じがする。派手な陣羽織、しかも武将陣羽織とかいうようなやつでも仕立ててもらおうか。こいつではサイズも合っていないわけで。


ちなみに左に写っているところが茶室の一部なのだが、正確な日時は不明だが、(茶の先生がいうには今年一杯で)取り壊しが決まっているそうだ。というわけで、OBだからと昼過ぎから夕方までここと騒がしい一般向けの茶会をやっているところを往復して過ごしていた。

何故か蝉が鳴いていたりするのだが、騒がしくなくてよかった。ただ、後輩どもは実に無愛想であった。まあ、わしもOBだからといってまったく知らん人がいてもどうしていいやらわからんだろうが、待てど暮らせど茶の一杯もでてこないのであった。

はて?先輩が来たら飲む飲まないは別にしても茶をすすめるもんではなかったろうか?と思ったが、所詮昔の話である。

心をたいせつにせー(そんなくだけた言い方じゃないが)とかいう指針があったような気がしないでもないが、おもてなしの一端すら垣間見せることが出来ないほど忙しいらしい。忙しいとは心(りっしんべん)を亡くすと書く。毎日忙しい忙しいが口癖の現代人。どうやら元々大切にする心がお亡くなりであったようである。こうグチグチここで書いているわしもそのお仲間なのだろうが、見知らない後輩だからという以上に居心地の悪さとなにやら裏切られたような気持ちが綯交ぜになった風になったので、あったかもしれない打ち上げに飛び入り参加でもしようかと当初思っていたのだが、馬鹿馬鹿しくなったので駅前で飲んで帰ってきてここで書き殴っている。

腹立ち紛れにもう一つ書くと、一般向けの茶会をやっていた場所で茶の先生に「どうぞお茶を飲んでいってください」と勧められたので着席していたら、「手続きしてください」と言ってくる。

わしはOBの、というと「知ってますが、申し訳ないがお手続きを」という。そんなこと先輩にやったこともない。やってたのかもしれないが、少なくともそんな指導はされた覚えもないし、するもんではないと思っていた。

確かに、受付の芳名録に名前くらい書いて座るのが当然かとは思ったのだが、馬鹿馬鹿しいので、連れてきた近所の後輩共々二人分の席料を払って座ることにした。当然、受付はわしらがOBであるという指示は受けていなかった。


こんな立派な後輩を持ってわしは実に果報者である。これで茶の先生と着付けの先生に対する義理立てだけで十分会いに行く理由があろうというもの。茶の先生は闊達とした人で問題ないのだが、着付けの先生はひどく寂しがり屋である。今は、然る後輩の母親の方が最近のイベントでは一緒に来て着付けてくれたり話し相手になっていたりするのだが、一日目に会いに行ったら、先生方は先生方としか話していない状態だった。

そんな調子だ。去年のこの時、正午頃にたどり着いたらもう帰られたという。余談だが、その時、わしの応対に出てた子は、今年もまだ現役だったようで、わしの顔を覚えていたのが、ちょっとだけ嬉しかった。

今回はそれを避けられたのはよかったのだが(お前の出る幕じゃなかったがな!といわれても仕方ないが)普段着付けだけでしか顔を合わせない先生とおしゃべりできない(物理的に忙しいという状況があったとしても)のだから、見ず知らずに近いくらいの人間は人と思わない可能性もあろうよ。


というわけである。茶道に、いや、日本人に、延いては人間に「忙しい」など害毒でしかない。心を亡くしたものは人とは呼ばない。単なるロボットである。血が油に、臓器がトランジスタやコンデンサになっても別に違いはない。まあ、その某大学(そもそも公的教育機関も、なのだが)とその設立団体が日本有数のロボット作成所なのだがな。では、さようなら。

忘れそうになる

2011-10-05 | 雑記
前回の更新から気がつけばもう、一週間ほど経っていた。

小さなパン屋に行ったり夜勤に行ったり家で作ったカレーを「和」に持っていって食わせたり(味見はした)その時隣に座っていた人とおしゃべりしつつ、ボトルキープしている酒をもらったりしていた。


その人は昔、とある理由でインドを放浪したことがあるそうだ。何でも、仏教のルーツを捜し求めたのだとか。まあ、向こうでタバコばっかり吸ってた、なんていってたが、行く契機がそういうことだったのだ。

詳細を語ると聞くほうも(誰も聞いちゃいないが)喋るほうも面倒くさいことこの上ないので簡単に言うと、同志といえなくもない人間だったようだ。同志!なんと大げさな響きよ。


ちなみに、文革時代の中国で、お互いを呼び合うときに考え出された言葉が「同志」(カタカナで簡単に発音すると「トンツー」)。しかし、毛沢東がいなくなってからすぐに廃れた。今時、中国に行ってお店で「同志!」などと呼びかけると、相手がびっくりするので気をつけよう。


この粒はクミンシードですよねとか、スパイスの味を細かく知っているんですかなどなど聞かれたが、ごく簡単なのをちょっと知っているだけですよと答える。あと、酒をお互い飲んでいるのだから、ターメリックが効くんだと話しかけたらなんだか別のほうに話が逸れたので(酔っていたし)グダグダになったものだった。


さて、帰宅してブログを書いていたら荷物が届いた。着物である。


着物は着物だが、袴のほうを頼んであった。袴なら前に穿いていただろう?と思われるが、あっちはちと高級品なので、普段穿くには向いてない。古着なのであまり気にしないが、クリーニングに出すような存在である。

自宅で洗ってもいいかもしれないが、変なリスクを背負うのはよしたほうがよい。というわけで、美夜古企画さんでちょっと珍しい袴を頼んでみた。


珍しい、と言っても別に袴のカテゴリから外れているようなものではなく、居合などの武道をやっている人からの要望を取り入れて出来上がった袴だとか言う。そのまんまの名前で「武道袴」という。


さっそく着てみようかと思ったのだが、雨だ。辞めておこう。着物も洗いたいのだが、雨だどうしようもない。


というわけで、忘れそうになっている、というか忘れていた動画を撮ったことを思い出した。掲載して終わることにする。


十六着目


久しぶりでなにやら元気にしゃべっているが、反応はないようです。そろそろ見限られたかな?


十七着目


来年来年うるさいから、先に突っ込まれたようです。「良いお年を」


雨の時は下駄が丁度よいかもしれない。特に着物は裾が汚れる。明日は休みなので、ちょっとお出かけしたいような気がしないでもない。では、また。