ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

目にも止まらぬ訓練

2021-06-18 | 雑記
先日書いた、「筋トレ不幸論」なる記事が面白かったと、Twitterで知り合った人に感想を頂いた。
それで気分を良くしたので調子に乗って何か書こうという。単純な奴である!

しかし、ふとした事で気になったりすると、それに纏わる話が舞い込んで来たり、思い出したり、はたまた身に覚えがあったなどととなったりする。不思議なものである。


感想を頂けた方とは別の方とのやり取りの件で、そういえば・・・と思う話を少々書いておく。

詳しくはTwitterの記事を!と言うのはここしか見ていない人には困るので、簡単に話をする。

タバコのニコチンというものは、体内の神経並びに筋肉に受容体があり、これに取り付くことによってエネルギーとして利用されるという。
これが不足する場合は、ATPというのが余分に生産されるという。アデノシン三リン酸の略称のようである。
こうなると、筋肉と運動野が強固な共鳴を維持することになる、という。

この話からすると、これが昔読んだ、喫煙者のアスリートの成績が良かったという比較実験の報告の原因なんだろうと。躁うつ病や花粉症が治るのは、神経だけでなく筋肉にも影響があるからかなんだろうと。身体のこわばりが和らぐのかなと。
そんなことを書いたら、返信があった。こういう内容である。
「自分は余り動かない日もあるが、その場合は物を書いたり深く考えて脳を鍛える。脳を鍛えていけば筋肉を増やすことも可能だ」と。

その話を受けて即座に思い出したことがあり、こちらも返信した。


とあるセミナーを開いていた氣功士の方が語っていたが、身体と脳は連動している。頭を良く使う、例えば教授だとかは特に鍛えていないのに結構丈夫だったりするものだと。

それで脳力開発のために、普段脳の内で働いていない部分を活性化させる氣功の訓練へと話は続いているのだが、その内容はネット上から消えているので、参照することが今は出来ない。

とはいえ、理屈は簡単で、両手のひらでボールを持つような具合にして意識を集中するという、氣功の初歩訓練だったように覚えている。それを毎日やっていくと、脳の内で神経回路が繋がり、さらに強化されていくと語っていた。
日常では繋がり得ないものが繋がって、幅が広くなるのだと言える。

この話と思考で筋肉が増えることに何か関連があるのか?と思われるだろう。

件の氣功士の方が引き合いに出したのは、日常レベルの延長上の賢さの大学教授である。

とすると、日常では中々使わない脳の部分を開発していくとどうなるか?常人離れとまでは行かなくとも、余り動かなくても鍛えられるという具合になってもおかしくはない。

拙自身も、前腕部は、ビルダーみたいにはならないが、鍛えてもないのに意外と筋肉があるなどと評されたことがある。
その時は、マウスとキーボード操作で文字チャットしながらゲームしてるから、そのせいで鍛えられたのだ、などと冗談を返したものである。

関連した話で有名人を引き合いに出すと、ブルース・リーがいる。

リーは映画の中でとても素早い攻撃を繰り出して相手を倒すのがカッコいいのだが、リーが普通にアクションを取ると速すぎてまともに映らないので、リーに速度を落としてもらって撮影していたという。

また、相手の手のひらにあるコインを手が閉じるまでの一瞬で相手が気付かないうちに奪い取るといった、とんでもない早業が出来たとかいう。この「コインマジック」はよく人に見せびらかしていたそうな。
また逆に、相手が気が付かないうちにその手のひらに戻すだとか、目を疑いたくなるような具合である。

何故このような身体を持つに至ったのかというのを、この話を紹介していた動画が語るには、「脳を極限まで鍛えた」というようなことを述べていた。
実際に、リーは脳浮腫で亡くなっているので、脳の使い過ぎのせいというのも、あり得そうではある。


この世は思考した通りになるという。意識したことが起るのだと。

筋トレで筋肉が付くのは、筋肉を鍛えようと脳を働かせて付いたからであって、筋トレが原因ではないのかもしれない。

とあるスポーツドクターの話だが、筋肉が膨張するのは、リラックスしている状態だと述べていた。
勿論、トレーニングを行った上での休息という話だが、ここでもう一つ面白い話がある。
脳が一番働いている状態は、実はぼんやりしている時なのだとか。
あれやこれやと思考を巡らせて整理をつけたりしているという説がある。
ぼんやりしてくるのには何かがあったからと言えるので、上記のスポーツドクターの話となんだか似てくる。

思考というものは目には見えないが、見えないものが見えるものを作り上げるというのは、度々ここで書いてきたことではあるが、改めて目にすることになったわけである。いや、見えないか。


では、よき終末を。


引き寄せの黒っぽい鳥

2021-06-16 | 雑記
昨日の夕方、コンビニへタバコの補充に向かった。

ここでたまに話に出る、近所の池のある公園を通った時の事である。

その公園の前辺りで、電線の上でカラスが鳴いているのを見た、かどうかは忘れてしまったが、池の淵に降りていく階段の横を通りかかった時、カラスが舞い降りて階段の手すり辺りにとまった。

その時ふと思い出した。そういえば、たまに池の淵に降りて日光浴がてら読書をしていると、先ほどのカラス同様、手すり辺りをうろついていたのを。

同じカラスなのかは流石に分からないが、何となく氣になったので「元氣そうだなぁ」と低く声をかけておいた。


2ちゃんねるなどの面白い話をまとめたサイトで昔見たものに、カラスに纏わる話があった。

要約すると、いつも見かけるカラスに挨拶していたら、ある日不良に絡まれた時に助けられた、といった具合のものである。
カラスに限った話ではないのだろうが、その脳の容量では考えられないほどの知能がある、という報告もあるという。

その話を読んだせいかは忘れたが、なんでも、カラスの色は真っ黒ではなく、少し青みがかっているというので、いくつか見て回ったこともあった。それとも、日本語訳でどれもカラスになるが、英語では種類を区別していて、それがどう違うかを調べた時だったか。
種類にもよるのかもしれないが、氣になる方はお調べのほどを。


さて。最近、新型コロナのワクチン接種で色々大変なことになっていると騒ぎになっているのだとか。
滅多なことは言えないが、打った後ほどなくして死亡したというのはニュースにもなっているようである。

打った人から妙な化学薬品の匂いがするという話も目にしたが、これはワクチンに限らずある。
影響があるのかないのかまでは分からないが、体調の悪い人が独特の体臭を放つことはよくある。
ましてや現代人。何かの処方薬を飲んで症状を緩和させるというのが大多数であろう。
拙の周りにも、毎日薬品のような匂いを漂わせてる人がいた。身体も大きいが故に目立つのだろう、喘息もちだったり花粉症もあるしで、色々服薬しているせいかと思われる。
体内で普段行われていない化学反応が起きている証拠なのだと言える。
つまり、この点のみで危険だと断定するには判断材料に欠けると思われる。

ただし。体内で普段行われていなかった化学反応という点に注意してもらいたい。その前の体調の悪い人の体臭という点もである。

少なくともそのような状態は平常の身体とは言えない。要するに体調がおかしくなっている。

詳しくは調べていないが、ワクチン接種をした地域で何故か感染が増えた、という報告が出ていたことがある。
真偽のほどはともかくとして、今回のワクチンは遺伝子組み換えだと騒がれるような具合で、ウイルスそのものは入っていないという。ウイルスの遺伝子の一部にある、細胞への取りつき方を司るものを利用したという。
専門的な話は他に譲るとして、それで体内で抗体を作り続けるシステムを構築させるものだとか。

これが危険だ危険ではないと騒がれているのだが、危険でなく効果があるものとして、それと何故接種後に感染が増えたのか、というのも本当の事と仮定して話を続ける。


現代の感染症の定説というのは、パスツールが提唱した「病菌原因説」が根底にあるというのは知る人ぞ知るというところだろうか。

この論を大雑把に言えば、「殺菌すれば病氣にならない」となる。
コロナ以前から殺菌消毒の製品が売られまくっているのがその証左と言えよう。

しかし。ご存じだろうか。食中毒が起りやすい飲食店というのはどういうところか?
汚らしい店だと思われるだろうが、殺菌消毒を徹底している店で発生することが多いという。
その逆の店で起きていたとしても、不真面目なので報告していないだけでは?と言えなくもないが、それなら徹底すれば起きないはず。だが起きている。

これは有名な話かもしれないが、メチシリンという抗生物質がある。
黄色ブドウ球菌という病原菌を殺菌できるというので、その感染症状が現れた際によく使われていた。
だがある時。明らかに黄色ブドウ球菌の猩々、ではなく症状なのにメチシリンが効かないという症例が出始めた。
調べると、黄色ブドウ球菌はメチシリンに耐性を持って逆襲してきたのだという。メチシリン耐性黄色ブドウ球菌、英語の頭文字でMRSAとかそんな名前である。逆襲の黄色ブドウ球菌!

孔子のある二人の弟子が論争していた。片方は知識がとてもある。片方は知識がとても少ない。知識が多い方がいい少ない方がいいといった具合の論争をしていたそうな。
そして「先生!どちらが正しいでしょうか!?」と判断を仰いだ。
孔子はこう言われたという。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と。

黄色ブドウ球菌に耐性が付いたのは、使い過ぎたからという指摘がなされていたものである。
ちょっと風邪引いたと言っては医者に行くと薬を貰うものだが、それで抗生物質をちょくちょく配っていたというわけである。
だが、これを医者の責任だけに還元することは出来ない。

「風邪ですね。家で寝てください」と言う医者と「では、念のため、お薬出しておきましょう」と言う医者では、後者のほうを信頼してしまう心理があるからである。

話を戻すとして、ワクチンで抗体が出来たであろう人々がまた感染する。

抗体が出来ているなら、かなりの確率で防ぐはずだが、そうはならなかった。もっとも、ワクチンは病気にかからないようにするためだという触れ込みはいつしか軽症にするものだとか、話が二転三転している。インフルエンザなんかはいつの間にかそうなっていた。

これはつまり。体内で出来た抗体というものも身体の一部なわけなら、体調が悪いとまともに働かない。
以前からのワクチンでも打つと体調を崩すという人は少なからずいた。そんな状態では罹るのもおかしくない。
何せ体臭を放つほどの尋常ではない化学反応を体内で起こしているのだから、予想以上に身体は疲れているだろう。
抗体はその病気を防ぐ能力はあるだろうが、その能力を働かせる人体については無視しているのである。
これが西洋医学の伝統とでもいうべきものの見方であることは、ご存知の方もおられるだろう。


この件も何度か触れてきたが、パスツールの同僚で、その説に反対をしていた人物がいた。

彼の主張は、健康を保って免疫を付けろというものである。名前をいつも忘れる癖に調べていない!

二人の論争はパスツールの死の間際まで続き、病床にあったパスツールは最後に説を撤回したと伝わっている。


人のことは言えないのだが、これらの事は人の心理における問題点を示している。

パスツールの理論はつまり、「他のせいにする」である。
彼の同僚の理論はその逆で、「己のせいにする」である。
これは文字数を揃えただけで、深い意味はない。

どちらが楽か?それはもちろん「他のせいにする」である。
医療業界に限って悪く言うなら「己のせいにする」と儲からない。


よく口をついて出る非難の言葉というものがある。

「こんなことをして、死んでしまったらどうしてくれるのだ」などと。

死ぬだと極端だが、怪我したらどうしてくれる、とかいうぐらいでよかろうか。

怪我をしたら治るまで療養するしかないだろう。だが、これは「他のせいにする」が常態化しているが故に飛び出す言葉である。
これを「被害者意識」という。その逆は「当事者意識」とでも言うのかな。


この被害者意識というものは、恐怖心に彩られている。恐らくは、恐怖心が被害者意識を作り出すのだと思われるが、細かい話は措く。

つまりは、何かにつけて原因を外に求めるのが人間の悪い癖なのだと言える。

いつもの道を歩いていたら、暴走した車が突っ込んできた。巻き込まれて怪我をした。その運転手が悪い。

確かにそうではある。だが、果たしてそれだけで片付けられることだろうか?

いつものように怪しげな話に持っていく。

あなたはいつものように起きて準備し、いつもの道をいつもの時間に歩く。

しかし、風邪を引いたわけでもないのに、何か変な氣がする。氣分が悪いというわけでもない。胸騒ぎという奴か?
などと感じたかもしれないが、些少の違和感は夕べの食べ過ぎや飲み過ぎやちょっとした夜更かし等のせいだろうと無視する。
そしてその日その時。上記のような事故に遭う。
そのほんの少しの違和感に耳を傾け、それで数分でも遅れて歩いていたとしたら、事故に遭わなかった可能性もある。
つまりは「己のせい」で事故に遭ったと言えなくもないのである。
これを客観的に証明するのは無理だが、そういう経験をした人もいるだろう。

とはいえ。怪我をしたから嫌な目に遭った、だけとも言えないということも述べておく。

遠方の恋愛成就の神社に参拝した人がいた。そしてその神社から出たら交通事故に遭ったという。旅先で入院することになって、途方に暮れていたが、なんとその世話をしてくれた看護師と結婚することになったという。
まあ、余談である。


話があちこちに飛んでいるが、MRSAの件で思いついたことを書いて終わる。

所謂新型コロナの症状は今まで見たことが無いものだ!肺がおかしくなっている!という報告がある。
肺の細胞が繊維状に変質してしまうとかいう話をどこかで見かけたものである。人工呼吸器が原因だとかなんとか、いろいろ騒がれていた。

MRSAが発生するような西洋医学の流れが今も続いているのなら、新型コロナはどこかの研究所から漏れたものではなく「他のせい」にしてきたツケなのではなかろうか、などと考える。逆襲のコロナかもしれないと。

昨日カラスが近くに舞い降りたと書き始めて、気が付けばこんな話になっていた。
これはきっと「カラスのせい」だろうとしておく。


では、よき終末を。


筋トレ不幸論

2021-06-08 | 雑記
この前の日曜、馴染みの店に久々に立ち寄って、昼飯を食べていた。

そうすると、こんなことを言われた。

「前より顔色が良くなった」と。

実は二日連続で来店しており、その日は前日にはいなかった店員さんもいて、その人が言う。

店主までそうだなぁと言い出し、挙句の果てには小学生のその息子までが言う。

ちっとも健康的な生活をしてないのだがなぁと思い、そう答えたが、後は以前は夜勤だったからだろうと付け加えると、それもあったんだろうとのこと。

何が健康にいいのか。悩ましいところである。


さて。面識はないが、とある人物が「不眠症は死ぬほどつらい」と言っていた。

筋トレしていて身体もかなりムキムキのようである。といってもネットで見たというだけの人なので、本当にそんな身体なのかはわからない。身体を動かしているのに不眠症で悩むというのは不思議だが、そう言っていた。

昨今、筋トレがブームらしく、その関連事業も広まっている。トレーニング・ジムが増えたり、プロテインがよく売られているのは周知の通りかと思われる。

ある程度の運動をすると幸福感が増すという報告もあるという。弟がそんな話をしていた。
そんな弟も毎日筋トレをしている。拙なんぞと比べたら圧倒的に引き締まった身体をしている。
幸福度が増すのかは知らんが、男の喘ぎ声の如きを聞かされるこちらは不幸になりそうである。

さて、そんな悪口は措くとして。
ではきっと幸福そうなんだろう、と思われるが、ストレスの方が多いので、いつも疲れた感じである。
そして疲労がピークなのか、調子を崩して先週末から寝込んでいる。医者に行ったら胃腸炎だとのこと。

あらかじめ断っておくが、筋トレをするな!とも、しろ!とも思わない。ただ、西洋的な唯物主義的考察で成り立っている機械的な筋トレをするというのは、脳を機械的に動かしているにすぎず、徒に繰り返せば、ただただ「硬い身体」にしかならないだろうとは思う。

プロレスラーのアントニオ猪木の修業時代は、山奥で岩石を持ち上げるといったことを行っていたと聞くが、こういうものの方が柔軟性の高い頑強な身体を作り上げるだろう。しかし、現代人にそれをやれるかというと厳しい。
拙も岩石を持ち上げに行きたいとは思わぬ。

筋トレの効用、みたいな説明を見たか読んだかしたことがあるが、利点の一つとして、結果が分かり易いというのがある。やればやるだけ効果が見えてくるからである。腕が太くなるとか、腹筋が割れてくるだとか、目に見える。
それで徒に繰り返しやすくなると。有体に言えば、依存症である。
機械的に繰り返す筋トレを行って結果が見えてくると、病みつきになってさらに機械的に繰り返すだろう。

広告媒体が散々取り上げるというのは、流行らせるのが目的であって流行った結果ではない、という点を感じているなら、こう疑うのもそれほどおかしくはないだろう。
何も筋トレだけに限った話ではないが、名詞を変えれば他の事も同じである。

さて。不眠症の話で思い出したことを一つ。

またもや野口晴哉の逸話を。

とある不眠症で悩んでいる青年がいた。もう死んでやる!とまで追い詰められていたそうだが、野口はその青年をとっ捕まえて将棋を指す。わざと下手くそに指し、何度ももう一戦!と繰り返し、三日徹夜したという。
さすがに疲れ切ったわけで、件の青年はその夜はぐっすり眠れ、以後は不眠症で悩むこともなくなったという。


この話はいくつか解釈があるだろうが、拙が思ったことを続ける。

まず、青年個人については、不眠症で眠れないから辛い、という観念に憑りつかれている。死ぬほど眠れないからこの辛さから解放されるためには死んでやる!とこうなっていたわけだ。そして死ぬほど眠れない状況を続けさせたら、死ぬほどよく眠れたと。
つまりは思い込みだとなる。思い込みを侮ってはいけない。「想像妊娠」というものを聞いたことがあるだろう。
あれはただの狂言ではなく(そういうのもあるが)、実際に女性の体内では妊娠した時と同じような体勢を取ることがあるという。

なら、不眠症は眠くなるまで放っておけばいいと言えなくもない。試したら死んでしまったとか言われても困るが。

眠れないから辛い、というのは実際にあるが、これは「条件付け」というもので、依存的傾向を強める。

以前からよく書いたものだが、例えば「これを拝めば幸せになる」という、胡散臭い宗教だとかの謳い文句があるだろう。

転じるとつまり「これを拝まなければ不幸になる」と言っているのである、と散々書いてきたものである。

死ぬほど辛いが、辛いだけでは人は死なないので、死ぬまで生きるだけである。本当に死ぬほど辛い環境なら、既に自殺するだとか過労死だとか他の死に至る病に侵されるだろうし、よく眠れている人も次の日にコロッと亡くなったりする。

話を戻すが、将棋を指している間は、眠れないだとか余計なことを考えることがなくなり、自身がしがみついていた観念を捨てさせることが出来たというわけである。

表面上はふざけたやり方だが、三日も親身に付き合ったというのは、青年もありがたかったことだろうと思われる。

とはいえ、世の中そんな有難い人だらけでもない。

個人で個人の問題を解決するというのなら、自身で自身を親身になって付き合うということになる。なんだか意味の分からない言い方だが。

不眠症というものが必ずしも思い込みだけで成り立っているとは言えないかもしれないが、こう考えてみてはいかがだろうか。
※実際に脳機能の異常で眠らない人というのはいたという。不眠症とは違うだろうが。

「辛いとどうなるのか?」と。

本当に辛かったら動けなくなるので、それでもうよかろう。ぐっすり眠れる。
こういうと怒られるだろうが、死んでしまったらそれはそれで死ぬほど辛いと思っていた通りになったと。

辛い、というのもこれまた次の条件付けに繋がっていくというのもある。

辛いから調子が出ない。出ないから仕事をミスする。ミスをして怒られてさらに辛い、といった具合になっていく。

これがまた最初に問題として条件づけられた不眠症に戻っていく。辛いのは不眠症のせいだと。

作家のひろさちやのある著作に書かれていたと思うが、まるでガンを治すために生きているかのような人の話があった。もしかしたらそういう状態になっていく、のかもしれない。

辛いけど頑張ろう、と考えるのも逆張りという奴になるだろう。前提条件の「辛い」から抜けていないからである。



やり玉にあげる形になってしまった例の人物は、所謂陰謀論者という具合の人物であった。

陰謀というものがこの世に存在しないとは思わないが、「常識」も陰謀論も「条件付け」が上手く利用されているので、深入りしないのがよろしいとは思う。前回書いた、昭和天皇の発言の趣旨の曲解などは「天皇は悪党に決まっている」という前提からなされているわけで、発言の前後の文脈を読み取る気がなく、これはそもそも貶めるための悪意か、前提による思い込みでしかない。仮に昭和天皇が悪党であったとしても、それはまともな感覚から逸脱している。マスメディアがよくやっているという、発言の切り貼りと同じになっている。

もし、拙の指摘したような硬直化した思考が故に不眠症(陰謀論もか?)だというのなら、機械的に筋繊維を肥大化させることは決して人を豊かにしないのだろう。

身体を鍛える必要はあるが、筋線維を肥大化させることは手段であって身体を鍛えるという目的に置き換わるものではない。

何が健康にいいのか。実に悩ましい所である。


では、よき終末を。


キャラメル箱の中の標本

2021-06-02 | 雑記
ついさっき書いたのにまた書くとかいう暇人ぶり。自慢にならぬ!

それはさておき。先ほどの記事で「今まで書いてきたことが本当なのかわからない」と述べた。

先月にTwitterを始める前から、新型コロナの話を色々見て回ってきたが、まあ、多く見てきたのは「新型コロナは嘘だ」とかそっちの方面ではあった。

じゃあどういう立場なのか?というと、どっちも本当かもね、とはぐらかすことにする。

お互いがお互いをデマ呼ばわりしているような見苦しいのもあれば、証拠立てて話しているのにまったく取り合わないというようなのもある。ま、このことに限った話ではないが、怪しげな証拠で騒いでいるなと思えるのは、所謂陰謀論の立場の方かなとは思う。

何故こういう風に語るのかというと、既存の科学や常識が一片の疑いもないようなものの場合、「新型コロナは危険」というのは間違いがなくなる。もちろん、その逆では「新型コロナは嘘」となる。しばらく前に紹介した風刺漫画の如くである。

スピ系と呼ばれる方面では、現代世界は「二極化」が進んでおり、光と闇がどうこうと騒いでいる。今は光が闇を駆逐しているのだ!とやっている。
その動きが本当かは判断しかねるが、言ってしまえばテレビドラマの水戸黄門だとか暴れん坊将軍の悪役が斬られるシーンに差し掛かっているというわけだ。

ぱっと思いついた例えではあったが、丁度良い。

オカルトの言だが、「闇は光の量の違いでしかない」という。

光と闇という区分なんぞ、そもそもなかったというわけである。闇の正体は光だったと。

ドラマで斬られる役の俳優と斬る側の主人公の役者は、撮影や舞台以外でまでそうなるか?そうはならない。
人気が出すぎて、悪役が板についた俳優の子供がそれでいじめられた、などという話はあるが。

つまり、ただの配役に過ぎないのだが、真に迫っていたりすると、視聴者が真に受けてしまったりするわけだ。

コロナが嘘だというのも、危険だというのも、どちらもいわばテレビドラマの脚本通りなのだろうと。

実際に死んでいる人がいるのにけしからん!とお叱りを受けるところだが、内実はともかく、死んでいる人は実際にいる。

それも含めて、我々は脚本通りに動いているだけなのかもしれないなと考えるわけである。言葉遣いは違うが、こういう話は受け売りみたいなものである。


さて。話は代わるが、所謂陰謀論で、「天皇は酷い奴だ!」という言説がある。

二次大戦終了時に、時の昭和天皇がGHQのマッカーサー元帥と対談した際に、その時に語った内容がアメリカの機密文書の期限切れで公開され、それが出版された、のかは忘れたが、その時に話していたという内容がある。

曰く「日本人は頭が空っぽだ」と。よく陰謀論者の間で広まっていた。

酷い!と思われるが、実際はこうである。

曰く「日本人は主体性に欠けるところがあり、上からの命令に従いがちで、民主主義的風土が育ちにくい云々」

と、こういう感じの冷静な分析を、日米との比較を交えつつマッカーサー元帥に伝えていた。細かいところは忘れたが、アメリカに見習いたいところだという風に続けて語っていたように覚えている。

思い切り歪曲すれば、「頭が空っぽ」と言えなくもない。~に欠けると言われれば、その分の頭の中身が足りていないと言えなくもないからである。

それを所謂陰謀論者というのが上記の如く誇張して広めていた、というのがあった。
まあ、人のことは言えないが、この件については、見たすぐ後に知って訂正をした覚えがある。

あとは昭和天皇は当時英国から陸軍大佐だかの称号貰ってるからグルだ!というのがあった。ガーター勲章もだったか。
ガーター勲章については、明治天皇も大正天皇も拝領している。この大佐だかの称号は、儀礼的なもので、昭和天皇だけの特別ではない。第二次世界大戦開始時には、ガーター勲章もだったか、英国王室に一時返還している。

だからといって、グルでない証拠にはならない!というのが陰謀論だが、仮にグルだったからといって悪いかどうかはまた別である。納得できない部分があるだろうが。


「あ、そう」というのが昭和天皇の口癖だが、こうだけ書くと素っ気なく聞こえる。

気になっていたので後年、その口癖が写っている映像を見てみると、「あぁ、そう」という具合だった。
その映像は、戦争で親を亡くした子供がしゃべっているのに相槌を打って「あぁ、そう。あぁ、そう」とやっていたものである。

この世に完全な善も悪もない!とは言わんが、過ぎたるは猶及ばざるが如しというし、大賢は大愚の如しともいう。

拙は昭和天皇のエピソードで一つ好きな話がある。実家の和歌山が生んだ大学者、南方熊楠との話である。

ある時、南方熊楠が天皇陛下に研究標本を差し上げて、講義するというのがあった。後で調べたら、ご進講とご新献という。
昭和天皇は和歌山は田辺の沖に浮かぶ、神島(かしま)に行幸された。
なんと、その時南方は標本を大きなキャラメルの箱に入れたのを献上したそうな。

その後は南方の講義となるのだが、昭和天皇は予定の時間を過ぎても聞いていたそうな。

昭和天皇は生物学者でもあり、それでこの話になったというが、南方が感激するのは当然として、実は憧れの学者に会えたと昭和天皇も感激していたのかもしれないな、などと思う。

と、話が長くなってしまった。

なんにせよ権力者と言われるような立場の人物は何かと言われる。
実際にそういう点があるのかもしれないし、本当に悪人と呼ばれるようなことをしていたのかもしれない。

だが、憧れの学者に会ってプレゼント貰って予定の時間を越えても講義を聞いてたとかいうのなら、大悪党と断罪するのもバカバカしくなる。

少なくとも、正義感に憑りつかれて発言を歪曲する人よりは、遥かに人間らしい。

天皇が善人か悪人かであるかという単純な話でもない。
所謂陰謀論では(全部かはわからないが)天皇は悪党というのが常識ではある。
一般的には新型コロナは危険で、ワクチン接種が必要だというのも常識である。
常識というのはつまり、ある一定範囲内においての多数が善と認めるものということになる。
人が生きるのは善で死ぬのは悪。大雑把な言い方だが、これもまた常識といえる。
コロナ危険という方も反コロナという方も、その点では共通している。これも全部かはわからないが。

さて。その個人や集団が生きるのは善か悪か?生き延びた場合は問答無用で善たり得るか?
そのような思索は常識ではなしえないので、「歴史が決める」としか言えないと述べておく。

ふと、ニーチェの著作に『善悪の彼岸』というのがあったなと思い出したところで終わる。

では、よき終末を。


話すは放す

2021-06-02 | 雑記
たまに読んでいた引き寄せの法則のブログを、しばらくぶりに読んでみた。

中川翔子がデビュー時は売れず、他のアイドルの真似をして、ケーキを作ったこともないのにケーキ作りが趣味です、などとプロフィールに書いていた、などとあったものである。

それで半ばやけになって、元からのオタク趣味を全快にしていったら、あれよあれよと売れていったという話が書かれていた。やけになったわけではないが、自分らしく行こうと。

そうか。自分らしくか。というわけで、Twitterの方にブログのリンクを貼っておいた。余りフォローしてもされてもないが。
ツイッターのアドレスは@Himagineatpである。
一時期自己紹介の所に書いてあった、「Imagine」の替え歌が元ネタ。

そこで自分らしくってなんだ?と数日前から夜も眠れなくなるほど悩んでいたところ、やはりわからない。

昔やっていたゲームの実況プレイ動画か?と思ったが、そうとも言い切れない気がする。

自分らしくというのがわからない、という人は多い。上記のブログの人物のセッションとやらでもよくあると、昔読んだように思う。


自慢にしか聞こえないが、人と話すと「物知りで話が上手い」と言われることがよくあった。
具体的な指摘だと、「例え話だとかで分かり易く話す」と。ブログと大違いである。

そんな拙だが、かつて、ゲームの実況プレイ動画を始めた時、緊張するからと少々酒を呑んでから取り掛かる、という状態であった。思えば、ブログの初投稿もそうだったように思う。
要するに、人見知りで怖がりなところがある。

酒は人の本性を現すとはいう。人の本性とはいうが、そういうものはいくつかある側面の一つなので、必ずしも乱暴だけになるわけでもないのだろう。
と、そういう話はどうでもよくて、飲むと大体喋っていることが多い。

今はよくわからんが、かつては流行り言葉でいう「陰キャ」であったといえる。

話そうと思ってもどう話したらいいか分からない、相手にどう思われるか、といった不安がその人をその人らしく話させることが出来ない原因だったりするが、そういう具合だったのだと思われる。

というわけで、拙は人とおしゃべりしたかっただけだったのだろうと。対面による話が一番として、ゲームの実況プレイ動画でしゃべってそれにコメントが来る。それにまた対応してと。リアルタイムではないが、おしゃべりだったと。


正直言って、この世の中が北斗の拳みたいな荒廃した世界になろうがなるまいが、関係ないのかもしれない。

ここで今まで書いてきたような話が完全に疑いのないようなことなのかも、実際は分からない。

実際にそんな世界になるかどうかはその時まで分からない。それまでは仮説に推論で、つまりは情報である。

知行合一というのだったか、知識は行動に基づいてこそ本物になるというのが仏教にあるようだ。
頭に仕入れた知識というのは、それだけでは情報(知と呼ぶ)でしかなく、使いこなし(識と呼ぶ)て、初めて「知識」だという話も昔聞いたものである。この話は筋トレなどで例えている話を先日読んだものである。

話が横道にそれた。


拙は、情報はおしゃべりの手段でしかなかった(というと語弊があるが)のに、目的にしていたのだろうと。


世の中がよくなるに越したことはない。寧ろ望んでいる。

しかし、情報に翻弄されて、挙句の果てに目的になっているとしたら、楽しくなんかないだろう。楽しくおしゃべりも出来まい。それでは、よくなるものもよくなるまい。

未だ来たざるものが来れりとしても、それはそれで問題ない。それが良きにつけ悪しきにつけ。

この世全てを作り上げている「情報」は、どこまでいっても手段でしかないのだから。

というわけで、これからもよくわからない話を続けていくつもりである。


では、よき終末を。