ウヰスキーのある風景

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うなぎパイ

2015-08-10 | 雑記
うなぎパイというお菓子がある。

浜松の名物というあれで、仕事場の人間が旅行にいってきたのでその土産として、仕事場に置かれていた。


食べながら他の人が言う。

「うなぎを混ぜてるっていうけどわからんね」

「でももし、死ぬほどうなぎが嫌いって人が、他の人がわからん程度のこれでも反応したりして」


というので、わしはこういった。

「それだけ反応できるって事は、寧ろ好きなんじゃないか」と。

当然の反応だったが、周りは何も答えなかった。答えはあったが、同意というのはなかった。



いつものようにここで書いてきた理屈をカイチンするとしたら、こうである。


うなぎが嫌いということで頭がイッパイなっているので、本の少しでも反応する気構えとでもいうべきものが出来ているといえる。

それはあたかも、好きな物のことで頭をイッパイにしているので、例えば麗しの相手方の一挙一動にありもしない反応をしでかす、頭がオカシクなっている状態と同じであるというわけである。

かいつまんで、「嫌いでイッパイな人は好きでイッパイなのと変わらん」といったわけだ。


好きと嫌いは同じだ、とは大雑把にはいわんが、向きが違うだけで力の作用は同じである。単純に好きと嫌いは同じだというと混乱、もしくは無理解による拒絶の方が多いので、こういったほうがいいのだが、これでもリクツっぽい感じは否めない。


それはさておき。


うなぎパイはうなぎイッパイとも思えない。月に一度は食べてる奴がいうので間違いない。


以上、うなぎパイの話である。



さてさて。


頭がイッパイという話で続けていこうかと存じている。しかしだな。何を書くのかすっかり思い出せない。

うなぎのことでイッパイになっておったようである。これは困った。



以前、メールしたか書いたか喋ったか忘れたのだが、例えば、ベジタリアンの如きが今までの平常の食事をしている人間を下劣だと見下す脳みそを持ちがちだと書いた。ここは先日書いたが、それに繋がる話をやったかは忘れた。

後は、陰謀論からベジタリアンだとかになったキチガイは、陰謀論の象徴たるあくどい奴ら(例えばイルミナティだとかいう)の手先と変わらないのであるとやった。
陰謀論がどうこうでなくても、腐った脳みそでものを言っているあたりは、区別がつかない。
手先のようにならなくても、たぶらかされたりしている点では何も変わらない。

そんでもって、そのような馬鹿げた思考回路は釈迦の時代から突っ込まれているのであるとも続けた。

ということで、彼らが見下す下劣な人類と同じでしかないのに、人類を超えただとか、低劣な人類よりは比較的まともだとか、二転三転してたが、こういうところに思い至って思い上がり、猿も木から落ちてトマトピューレになる。

めでたしめでたし。


めでたしめでたしなのはいいが、話がめでたく終れない。うなぎのことを考えつつ、続けていこうと思う。


例えば、現代人の生活で、環境が汚れ(化石燃料の使用が云々)、口にするものが汚され、我々はおかしくなった、そしてそれを続けているおかしな人類のせいで我々は生きていくことが出来ない!と言っていた。今も言っているだろう。同じように言っているかはしらんが、似たり寄ったりなことは他の奴も言っている。
今も言っているかしらんが、馬鹿な人類は死んでしまえ、というわけである。こういう思考回路になれば、大なり小なり思うだろう。場合によっては、一般でも思い至る。ま、上記の約めて言えば地球万歳を唱える人というのは飽くまで例だと考えればよい。


では、地表を木で覆えばいいのか?というとこれもまた違うだろう。

「素晴らしい自然」という妄想で頭がイッパイなので、軽挙妄動しがちなのである。あばたもえくぼ、というやつだ。


では、少し「素晴らしい自然」というものについてお話しよう。といっても、以前にもやった話である。


イルカというのがいるが、野生環境下で観察された行動で、グルーミングと名づけられたかな。グルーミング、という言葉自体は他の動物の行動にも当てはまるのだが、わしが読んだのは、イルカの行動のことについてである。

なんでも、「複数の雄イルカが、雌イルカをリンチして殺す」という行動をとるそうだ。

飼育環境でストレスがたまり、というならまだわかる。根拠がオカルトだったとしても、なんでもリクツをつけないと気がすまないのが人間だからだ。

自然に沿って生きているなら、例えば、「自然に沿った食生活」たる野菜や果物を食っていれば、他者を傷つけるようなことにはならない、というやつが、他人を殺すために生きているかのような言動をする。


海のイルカと変わらん。これが自然だ、などと断じる気はせんが、「頭がイッパイ」には違いない。


イルカと人間じゃあ、隔たりを感じるか。では、猿ならどうだろう。


日本よりは遥かに木々が多いであろうインドには、ハヌマンラングールという猿がいる。

ハヌマン、というのは恐らく、ヒンズー神話とでもいうのか、それに出てくる猿の神様から取ったものと思われる。


それはさておき。



猿と言うのは、ボス猿をトップにした、ピラミッド型の生活構造をしている。

サル山のボス、という揶揄があるように、あれをやるわけだが、ボスは戦って勝つか、もしくは勝ち続けてボスに居座る。

ハヌマンラングールだけの行動かはしらぬ。ニホンザルはやってるな。ひろさちやが話の展開のために紹介していた話で、そこから持ってきただけなのでな。

余談はいいとして、新たなボスの座をかけて、新旧の雄猿の熾烈な戦いが幕を切った!

よる年波に勝てず、あわれにも前ボス猿は負けてしまい、群れを追い出されることとなった。

若くて力の強い雄猿は、悠々と玉座につき、ボス猿としての生活を満喫するのであった。めでたしめでたし。

はー実にめでたい。

というのも、新ボス猿になってやることはいうと、「前のボス猿が群れの雌に生ませた子猿を殺す」のである。

いやーめでたい。そうすることによって、雌猿は妊娠できる状態になるのである。実にめでたい。

実に自然というのは素晴らしい。森の中で暮らしている、人間の遠い(実際は違うかもしれないが)親戚は実にめでたく暮らしている。


ところで、この話を聞いてうかんだ疑問がある。

釈迦も野口晴哉もいってたが、「動物というのは決まった命の形があるが、人間にはそういうものはない」というやつである。

動物というのは、本能によって生きている。その本能とは、己の生命を維持し、繁殖していくこと、と簡単に言える。

鳥は鳥の、カエルはカエルの本性にそって、上の二つをまとめていえば生命維持活動をしているというわけである。あたかもそれはプログラムで動くロボットのように必ず行うものである、とされている。


人間が「ハヌマンラングール」と名づけた猿の種を繁栄させることが必須な行動プログラムならば、どうして同じ猿の子を殺すのか?

イルカにしてもそうだ。何ゆえ、繁殖のプログラムに必要不可欠な雌を殺すのか?

母性本能は自然だというなら、何ゆえ自然分娩で生まれたはずのわが子を、野生環境でも見捨てることがあるのか?

野生環境の動物でも、同性愛は観察されている。何ゆえ繁殖しないはずの同性愛を行うのか?

自然が麗しいのなら答えが出せるはずだ。人間の活動による環境ホルモンだとか破壊のせいだ、などという知ったかぶりの答え以外で出せるはずだ。


だが、聞いたことがない。それに答えを出しているであろう人(聞く気もないが、研究者に)に問おうというのではないことはお分かりかと思われるが。



これが答えである、とは言わないし、そういう話をしたいわけではないが、言えることがある。


前回、いじめのリクツを書いた。欧米で研究されているとかいう、エナジーヴァンパイアというやつである。

その話は前回を読んでくれたら早いが、いじめをやっている子供は命を粗末にしているのではなく、「己の命は宝物である」と理解しているという点で命を大事にしているからやっている、という話である。


そこで、猿の話をもう一度思い出してもらう。わしの呈した疑問も踏まえてだ。


新ボス猿は、前のボス猿の子供を殺す。殺すのは、自分の子供を産ませるためだ。雌は初期化され、妊娠可能になるゆえ。

猿は、いわゆる種の保存なんぞ考えておらん。己という個体の種の保存をだけ考えている。それが結果として現代まで続く繁栄になっただけである。


つまり、いじめっこと猿と「己という個体の存続がが脅かされるから馬鹿な人類は滅びろ」とほざくキチガイは、まったく同じであるということだ。


猿といじめっこだけ取り出して話をする。


言うまでもないかと思うが、「己の命は最高の宝物」と認識しているからこその行動である。だから、血なまぐさいことを出来る。

つまりは、生きていることは尊い、という現代のテーゼである。

ならば、命を粗末にしろというのか?と必ず思うだろう。

半分はそう思う。

みじめったらしく他人を傷つけるのがまるで目的のように生きるくらいなら、猿が前のボス猿の子供を殺してまで繁栄を願うように生きるくらいなら、死んだ方がいい。

「己の命は最高の宝物」という意味から来ている「尊い生存」というお題目は、実際はこういうものなのである。

いっておくが、皆死んでしまえ!といっているわけではない。言ったって理解しないやつもいるが、言っておくぞ。

ついでに言っておくが。

「人間とはこのように醜い存在ならば、死んでしまおう」などと考えるのも馬鹿馬鹿しい話なので、お気をつけ頂きたい。

スッタニパータには「生存には種々の患いがあることを理解せよ」とある。

自殺しようというのもまた、一つの患いであるゆえに。上のリクツなら、「清かったら生きよう」などとふざけた妄念を抱いているからである。


生存という欲望つまりは患いに歯止めをかけようとするのが、例えば釈迦の話だとか宗教というものである。極限を言えば死ぬことになるが、釈迦も「死ね」とはいっとらん。


歯止めをかけることがなければ、いたずらに文明を拡大させるのもそうだし、また、ハヌマンラングールと変わらんいじめっこを止めることも出来ない。逆のいじめが起こるだけである。

いたずらに文明を拡大させている「患い」を持ったまま文明を破壊したところで、それは木々立ち並ぶ「文明社会」が出来上がるだけのこと。


彼の者は頭がイッパイである。まるでうなぎパイのうなぎに反応する者の如くに。


それはうなぎが好きでも嫌いでも、まったくもって同じ意味で軽挙妄動しているのである。

風船を裏返しに膨らませるのと同じである。



205 人間のこの身は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出る。

206 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。



「(己の)生存は尊い」という妄念を食らい、悪臭を放ち、(とりつくろいを以て)まもられている。そんな種々の汚物が充満しているものを垂れ流す(生存を尊いとのたまう)のならば、森にいようが街中にいようが同じである。


人間というのはつまり、猿の時から変わってないし、釈迦の時代以前から変わらない動物である。少なくとも、前述の三つの並びは。


それならば、うなぎパイで頭をイッパイにしたほうがまだマシである。うなぎはちと高いのでな。


では、よき終末を。