ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

仙人、空を扇ぐ

2018-06-30 | 雑記
ある日のことであった。

駅前の大通りから細い路地の方へ入り歩いていると、向こうから女性が歩いてくる。

お互い道の両脇を歩いていたので、ぶつかるというようなことはなく、ただすれ違うはずであった・・・。


などと言うと大仰に過ぎるのだが、ただすれ違ったことには変わりはない。ただ、ひどく注目せざるを得ない状況を目の当たりにしたのである。

十メートルほど先から女性が歩いてくるのを確認し、その女性もこちらが視界に入ったと思しき瞬間、女性は長い髪を何か必死に梳きはじめるのである。

その路地はビルに挟まれており、特にビル風もなかった。そう。向こうから歩いてくるのを見た時に風で髪がぐしゃぐしゃになったというのも見えはしなかった。

余りにも梳き続けるので、「それでは余計に髪が乱れるのでは?」と心配になるほどであった。


などという話は、度々していたものである。

自慢か?そりゃ勘違いだろう?と言われても仕方ない話ではある。

とはいえ、勘違いのつまらない話で終らせても、面白い話にはならないであろう。



とはいうものの、勘違いのつまならい話としか言えない続きをやっていくことにする。



「雲消し」というのをご存知だろうか。この話も以前やったものである。

大きすぎる雲では出来ないので、ある程度小さなちぎれ雲を対象にするとよいのだが、それをじっと見ながら、「雲は消えました」と念じていると、消えたり消えなかったりする。

コツは過去形にすることであり、雲は消える、ではならないそうな。

たまに思い出したときにやってみると、雲全体ではなく、見定めた端っこが千切れて消えていくというのがあったり、歩きながらしていると建物などで隠れたりするので、その後見ていたと思しき場所を確認すると、見ていたはずの雲が見当たらなくなったりする。

不思議だなぁと思うのと、やはり勘違いなのか?と両方思わなくもない。


それである日、応用してみた。

某駅前の喫煙所で一服していると、そこからはバスロータリーが見渡せ、視線の先には建物の間にそこそこ空が広がっている。

少々風のある日で、雲は向かって右から左に流れていく。

ぼんやりと眺めながら、ふとこう思った。「止まれ!」と。

そうすると、本当に止まっているのである。そして意識するのをやめると、思い出したように動いていく。

雲の形は変わらないので、建物による隠れ具合で移動は確認できている。本当に勘違いでないのならば。


また、これはもう少し前のこととなるが、夜勤明けで最寄り駅までまっすぐ帰り、よく立ち寄るネパール料理店で飲んで食べていた。

事前に天気の具合を見て、これは帰りに降られるかと思いつつも立ち寄ったのである。雨雲の動きが丁度な具合であった。

そして、店に入る前だったか出た後だったか。「雲消し」の要領でこうやった。

「雨は止みました」と。

その後、途中にあるケーキ屋で買い物しつつ、しばし雑談した後に帰途についたが、雨に降られることはなかった。

ついでにいうと、店の人が心配して傘を借してくれたのだが、結局、使う事はなかったのである。



上記までのと趣が違うが、これまた不思議なことがあった。


仕事場には、モーニングコールを受けた場合に使用するデジタル時計が何個か置いてある場所がある。

手前に三つ並んでいて、その後に一つ隠れているのがあった。

たまたまその一つが目に入った。尋常に動いているなら気にならなかったのだが、その時計は表示がおかしくなっていた。

電波時計という奴で、時折受信して調整する機能付きとはいえ、仕事場では実は機能していないし、仮にその機能が働いていたからとしても、特殊な表示がされるわけでもない。受信のアイコンが表示される程度である。

「ああ、壊れたのか」と右手を伸ばし、左手と共に支える形で眼前に持った瞬間、まともな表示をしていなかったその時計が、思い出したように動き始めたのである。

流石に、少し時間がずれていたが、時刻合わせしている間にまた壊れる、ということもなく、平然と時を刻み始めた。

元の場所に戻し、それから数日して出勤してから確認すると、その時は問題なく動いていた。今は判らない。これを書いたせいで元に戻ったりしているかもしれないが。



勘違い?たまたま?それも結構。


だが、本当に勘違いやたまたまで済ませられるほど、我々はこの世の仕組みを知らないのもまた、事実である。

そう思えば、世の中というのはひどく面白いものとなろう。



後輩がたまにこう聞いてくる。「何か面白いことはないのか」と。

拙はこう返すのである。「ないなら作ればいい」と。

物事を勘違いや偶然でだけで済ますのならば、面白いことなどどこにもないのである。


ないなら作る。それが出来るのは、人だけなのだから。



では、よき終末を。


仙人、他山の石を拾う

2018-06-27 | 雑記
いつも誰かの批評という名の悪口を書いてばかりいるが、今回はちょっと矛先を変えて、ラクダ達以外の話に行き当たったので、少し書いておこうと思う。

とはいえ、これ自体は特に話の中心ではないし、きっかけは例のラクダ達に関係があるといえばあるが。


以前、拙の弟の調子がよくなくなり、今年の頭に働き始めたが結局辞めてしまったと書いた、と思う。

自分のことは自分でどうにかしろ、というのが本音なのだが、どうにかするには本人に踏ん張るところ、いわば基礎体力のようなものがないとどうしようもない。

というわけで、然るHPに載っていた呼吸法を教えた。呼吸法を教えるのがメインのサイトではなく、いわば基礎体力アップのための方法だと思ってくれればいいが、一昔前かそれより前だと確実に眉唾だと無視されるであろうタイトルである。

記事の題に「オーラ視の獲得」とある。この呼吸法をしっかりやっていけば、オーラが見えるようになるかもしれないというのである。

とはいえ、それが目的ではなく、そういう呼吸法をやっていくと、底力が出てくる。

かくいう拙も、そのサイトで学んだわけではないが、古くは野口整体の背骨呼吸だとか、魔術だとか仙道の呼吸法を色々試してきた結果、ここ数年ほど、それまでならすぐ疲れるようなところが平気になったものである。おかげで財布がすぐばてる。

何やら靄のようなものがあらゆるところで見えるようになったのは、そのせいなのか元からなのかはよく判らないが、これは元々かもしれないと、知り合いとの雑談で思ったところである。

弟には、そのサイトで気になるところがあれば、よく読んでおけと伝えておいた。拙が自分なりにやってきて思い当たったことを、その人物は既に書いており、信頼できるだろうと踏んだからである。

とはいえ、それだけでは心もとないかもしれぬ、と思っていた矢先、件のサイトを見ていたら、とある石の話をしていた。巷でも当たり前になってきた、パワーストーンというものである。

その話については、以前読み漁っている時に見出したものだが、特に気にしていなかった。が、改めて注目してみようと思ったら、近い内容の別の記事で色々書いていた。

石の名は「アズライト」という。組成としては、酸化銅の一種といえる。酸化が進むと、マラカイトという緑の石に変貌する。

一口にパワーストーンといっても、その石が合うのか合わないのか、もっと遡れば、掘り出した場所や掘り出した人、また加工して販売する人が良いか悪いかというのが多大な影響を及ぼすという。

寧ろパワーストーンとかいう、いわば科学的に根拠がないといわれるようなものだからこそ、こういう話は気になるところである。とはいえ、普通はそこまで気にせず扱うのが大多数だろう。

さて、そのアズライトというものはというと、その人物が言うには、「誰が持っても、どこに置いていても大丈夫」と太鼓判を押している。

理屈はというと、ネガティブをポジティブに反転する構造なのだとか。そしてこれはアズライトの結晶構造由来なので、勝手になり続けるという。

アズライトの存在はそこで読み漁っていた時に知ってはいたし、そういう話を書いていたなとは覚えていたが、ついでに水晶もセットで完璧だというのは忘れていた。

しかし、お高いのでしょう?と思って忘れていたのである。が、まあ、見るだけ見てみようと検索してみたところ、東北の方の天然石販売店の通販で、安くて一個千円少しから買えるというのが判った。

然るパワーストーン辞典のサイトで効能を調べると、精神によい影響を与えるものだとか。花言葉ならぬ石言葉というものが書かれており、「瞑想力」とあった。

そのサイトで、病状ごとに向いている石から検索すると、「うつ(欝)」の項目にもアズライトの名があったので、実家に送りつけようと考え、帰宅後(帰宅したら夕方だったのは秘密)に直接実家に送り届けるよう手配した。

いきなり石ころ一個が家に届くと、不審なことこの上ないので、母親と弟にそれぞれ話をしておいた。「パワーストーンって知ってるか?」と母に聞くと「うちもしてる」といっていたが、何をつけているかは聞いていない。

後二つを自宅に向けて購入し、そのうち一つは仕事場のロッカーに入れておくことにした。

夜勤中に調べて、「うつで困っている弟にこういう石を送ってやろう」などと話していたら、上司が「こっちの方がストレスたまってウツになりそうだから、俺にくれ」などと言うので、やらぬ代わりに我がロッカーに放り込むことにしたのである。


この石は、古くは二十世紀の超能力者とか予言者とか言われている、「エドガー・ケイシー」という人も持っていたそうで、彼は「喋る石」と呼んでいたそうな。

また、こう述べていた。「人類にはまだ早い。だが、二十一世紀にはその助けが必要とされるだろう」という風に。この場合の人類は二十世紀の時点となる。

エドガー・ケイシーについては、昔、ある話を聞いたことがある。なんでも、「揚げ物料理は人間の食べ物ではない」のだとか。

二千年代になってからだが、アクリルアミドと呼ばれる化学物質が発見された。これは強烈な発がん性物質で、炭水化物に高熱を加えると発生する。炊き込みご飯のおこげだとかもそうなる。

その話が混同されて、焼き魚の焦げ目に発がん性が云々というのもついでに現れたが、本来はこちらである。

アクリルアミドの原因は、モンなんたらの農薬のせいじゃないか、という話もあったがともかく、科学者でもない人物が、かつてそういう指摘をしていたのである。


さて、買った日はよく判らなかったのだが、自宅で、また仕事の合間にロッカーで持ったとき、不思議な感覚があった。

以前から拙は、気がどうこうという話をしているが、つまるところ、気功のようなことが多少出来るようになっている。

何かで人を後から触れずに倒すとかいうのがあるが、申し訳ない。そこまでは出来ない。出来たとしても見世物のためにやってきたわけでもない。

それはともかく。物を持ったときに、ただの温度だけとは言い難いものを感知したり出来るといえる。

アズライトの話に戻すが、これを持って手のひらの乗せると、腕に熱が出る。別に石がお湯のように熱いというわけでもない。

腕に熱が伝わる感覚は、実は普段から出来るのだが、石を持っただけでこういう風に熱が出るという経験は初めてである。

右手は自分の意志で出来るが、左はあんまりである。気功の話を色々と聞くと、右は出す方で、左は吸い取る方というのがあるので、問題はないようではある。

それで、左手のひらに載せると、左腕が熱くなる。石ころ一個に驚かされるという目にあったものである。


アズライトのことを紹介していた人物も語っていた。「石を触っただけで、筋力が弱くなったり強くなったりする現実に衝撃を覚えてください」と。本当に衝撃だったナァというところである。


というわけで、知り合いに教えてみようと思い、アズライトって石がすごいぞと話をしたら、いきなりこう返答してきた。

「見たことないけど、なんだか青だと思った」と。青い石だという前にである。

長い前振りは終わり、これから本当の戦いが始まる・・・。

というのは嘘ではない。


ここでたまに存在を匂わす程度に紹介していた、とある魔術関係のことを書いているブログがある。


上記の知り合い(正確に言うと、元姉弟子)と、何ゆえかそのブログの話になった。


どうしてそうなったのかはあまり思い出せないのだが、実はそのブログの人は、昔はHPを運営していて、その記事の一つがかつてのヒトコブラクダのHPの記事ネタになっていたのである。

そういう話をすると、先方も承知していた。それだけならまだしも、なんと、その人とメールをやり取りしたことがあるとも語っていた。


そのブログは、以前はちょくちょく見に行っていたのだが、今は見る気が起きない。理由は簡単で、つまらないからである。

どうつまらないかというのを掻い摘んで書くと、元姉弟子の一言が判り易い。

「オタクなんですねぇ」と。

色々と解せぬのだが、『魔術入門』を所持し、アイクの著作を全部読破したというのに、どうしてこうも、俗世間の目から離れた視点を持とうとしないのか?というのがずっと引っ掛かっていた。

『魔術入門』で著者のバトラーは魔術の定義を、師匠の言を借りてこう述べている。「思うがままに意識に変革をもたらす技術」なのだと。

それでもって、アイクもいう。「全ては意識なのだ」と。

上記の元姉弟子にオタクと評されたブログの人物は、アイクを「魔術教団のバックアップを受けている」と指摘しているのだが、寧ろ魔術教団で薫陶を受けた人物だとするなら、どうして宇宙人のせいにするのか思い至らないのだろうか?という話を元姉弟子にしたというわけである。


それで、すこしピンと来たのである。

かつて、彼はヒトコブラクダの言動を詳しく知らぬからこそだろうが、かつてのHPで関わりを持てたことが嬉しかったのか、「大人の男」だとか言っていたものである。

そして、今も昔も、ラクダは俗世間の目、つまりは常識から一歩も外に出ない理屈で物を言っている。

ここでいう常識というのがちと範囲が広いかもしれないが、我々という存在は地上で確認されている物質のみで出来ているという視点である。

そして、舞台を森に移しただけである。地球云々は昔から言っているが、レベルは変わらない。

「似たもの同士だったんですねぇ」とはまた、元姉弟子の言である。

両者とも知識偏重な具合で、本質は何かを見ようとはしなかったというわけである。知識の「オタク」というわけで、上記の「オタクなんですねぇ」と相成る。

全ては意識なら、意識に変革をもたらすということは、全てを変えてしまえるということである。

そんな話を入門に書いてあるのに、すっかり忘れて、宇宙人がどうこうだとか、この世を牛耳っている奴らは魔術師だとか、漫画やアニメのシナリオの元ネタは魔術師達で共有しあっているネタ保管庫の如きものがあるだとか、どうでもいい話ばかりだと思ったので、読む気がなくなった。

またもや元姉弟子の言になるが、引用しているのは同感だからである。

「で、それで?っていう内容ばかり」と。

真を見抜くのに方法なんぞいらぬ。ただ、集中するのみ。

『魔術入門』で書いてある修練をしっかりやっていったほうが、成功できるやもしれぬなぁと、お節介なことを考えるのであった。


ああいう色々と目新しいネタを掘り起こしているだけのつもりなぐらいなら、森で生活している方がなんぼかマシである。

そういう意味では、ヒトコブラクダは「大人の男」かもしれないが、あれもまた、前例踏襲主義というか懐古趣味というべきかの古来の宗教復活を願っている点では、知識偏重である。

宗教とは生活パターンである、とは以前に書いたと思う。例えば、ニューエイジも古きよき生活を営むことで安心感を共有しあっているわけで、間違うかたなき宗教というわけである。

現代文明とのハイブリッドを志そうが関係ないのである。宗教は宗教なのだから。



さて、こういう話をしたかったわけでもない。したくもあったが、本題でもない。



キネシオロジーテストというものがある、と何度か書いたものである。筋反射テストだとか訳されるもので、簡単に言えば、良いものには力が入り、悪いものは力が抜ける。

それの考案者が色々テストして、数値化したものがどうこうとある。それを現地で習ってきて、日本で流布している人もいる。

考案者のホーキンズ博士がいうには、誰がやっても同じ結果が出るので、科学的だという。でも、同じようにやっても同じようにならなかったりする、という話もあって、疑似科学だと批難もされている。

キネシオロジーテストの批判をやろうというわけではない。ただ、例えを思いついただけである。

その前に。このキネシオロジーテストというのを実行する際には、ステイトメントをはっきりさせる必要がある、と聞いた。曖昧な質問ではだめで、例えば、コーラは200を越えるのかどうか?と言った具合にやるべし、なのだとか。

それでいて、ホーキンズ博士と同じような計測結果が出ない場合は、やはりその人のレベルの問題なのだろう。そういう話も書いてあった気がする。ある程度のレベルの人が揃わないと、まともな測定は出来ないらしい。

つまり、殺人鬼の二人組みで釈迦を計っても意味がないというわけである。これは極端な例とはいえるが。


思いついた例えの話にする。


フェルマーの最終定理というものをご存知だろうか。大昔のフランスの数学者のフェルマーが、自分の日記だかに一言、この定理を解いたと書いてあったのだが、近年まで誰もそれを解くことが出来なかったという代物である。
余りにも解けないので、嘘じゃないのかと言われ続けた。

イギリスの数学者がこれを解き明かし、話題になったものである。とはいえ、数論という、数学の上に位置する学問は、はっきり言って素人には理解できない。

素人どころか、数論を研究している学者が全員理解出来るのかというと、そういうものですらなかったりするほどのものだとか。

では、何ゆえ認められたのかというと、数論の権威がそれを確かめて、間違い無しとしたからである。

その確認の具合すら、一般には理解できないレベルの話ではある。


キネシオロジーテストというのも、そういう具合のものがあるのかもしれないと、拙は考える。

というより、あるとしかいえない。

キネシオロジーテストは理解できないが、数論は理解できるとでも?数学者でもないのに?ご冗談を。

とはいえ、あなたの心身が健全ならば、体が勝手に反応するものである。ホーキンズ博士と同じ数値になるかどうかなどとは考えなくてもよい。

そのためには、身体全体を通して集中力を養う必要がある。先ほど書いた、両方の意味での頭でっかちではなしえない。

そうなれば、「他山の石」は真価を発揮するといえよう。

なんやかんやと書いたが、ともかく。文字通りの他山の石としても、そういうつもりでなくても、アズライトは勧められる、とだけ申し添えておく。


では、よき終末を。


風呂敷的なお報せ

2018-06-15 | 雑記
前回の記事の最後の方に書くとかいう、見せる気がないだろうとしかないようなお報せをしておいたが、改めてお報せしようかと思う。

来る七月一日、午前十時からお昼過ぎまで、風呂敷で作る鞄の講習会が開催される。ランチもあるので、午後二時くらいまではかかる予定。

場所は西八王子駅すぐ近くの「サクンタラ」というネパール料理屋で、参加ご希望の方はお店のフェイスブックからどうぞ。もしくはお店の人へご連絡を。

参加費用は2,500円。ランチも込である。後は風呂敷持参で。なければ何枚か用意はあるし、知り合いが家から探してくれるとはいえ、自分の鞄として作るつもりの方は、どこかで購入するなりしてご用意の程を。

しかし、この鞄はそんなに難しいものではないので、講習会の時間が一時間半ほどあっても、それを全部使い切れるかはちと不安である。

そんなことをいうと、企画者のネパール料理屋の日本人スタッフの方は、「寧ろ話ばかりしすぎて進まないほうが心配だ」と別の心配をしていた。


当日その話をするかは判らないし、いきなり言われてもお客さんは当惑するだろうから、参加を迷っている方がおられるなら一つ助言でも。

魔法使いというのは、自分の道具は自分で作るという。鞄が魔法使いの道具かはさておき、そのモットーに倣ってみるのもよいかと思われる。

というわけで、自分で使うものを何かで作ってみるというのは何かの機縁になるやもしれぬので、一つお試しいただきたい。


風呂敷といえど、別に和装と合わさなくてはならない道理はなく、こちらは洋装で使っているが、不審がられるどころか、見知らぬ人から「おしゃれな鞄だ」などと言われて、たまに困っているぐらいである。

着物ですら、実はそこまで和洋にこだわる必要がなかったりする。漫画『サザエさん』の磯野波平の着物姿で、下に着ている服は和装用のものではないし、明治大正あたりでは、スタンドカラーシャツを襦袢の代わりに着ていたり、それだけ着て袴を組み合わせるというのがあるが、特に違和感はなかろうと思う。
大学生の女性の卒業式でも、袴姿にブーツを履くというのがあろうが、ブーツが定着する前の時代は、雪駄とか下駄だったわけで、前後するが、襦袢自体が外来語であり、定着するまでは着ていなかったことになる。

フランシス・ベーコンだかの肖像やら、あの時代の西洋人の服装に、首の回りに花が咲いたかのような襟をした服装があるのをご存知だろう。

江戸の少し前ぐらいに、ああいう南蛮の襟付きのを着るというのが流行ったことがあると、何かで読んだものである。ああいうものを指しているのかはよく判らないが、ともかく、突き出した襟の襦袢を着たりする、なんていうことをやっていたりしたのだとか。

これも昔に書いたかもしれないが、和装和装とよく言われるが、和装と言ったらこうだといわれている着物というのは、そもそも呉服という。

三国志の南の方の国で、魏と蜀との三つ巴で覇権を争っていたあの呉から来ているので、だから呉服。

日本日本という割には、どこにも日本などないのである。余り気にしてはいけない。

と、別に説教をしたいわけではないので、簡単に言うと、別に怖がるようなものはないので、気楽にご参加いただければと思う。

Facebookはこちら

サクンタラのHPはこちら

HPの方のEVENTの項目に、でかでかと紹介されている。後、微妙に誤字脱字が目立つので、後日突っ込もうかと考えている。

応募要項はHPのEVENTの項目にもある。Facebookの方と内容は同じになっている。


では、よき終末を。



仙人、風呂敷を広ぐ

2018-06-11 | 雑記
いつも何のことだが、人が判りかねるような内容を書いてばかりでは、こちらが人間であることを疑われかねないなと。

疑うのは勝手だが、それで悪魔だとか何かの手先だとかと、石持て追われるのは本意ではない。

拙はただ、人間の限界を知り、超えたいだけなのである・・・。


というのは措くとして、日常的な話を書く。



先日、近所、といっても歩いて二十分ほど行った所に、カフェがある。

当初は欧風カレーとネルドリップのコーヒーを出していたが、カレーは仕込みに手間がかかるので、カレー以外にも色々出すお店になっている。

色々拘った素材を使っていたりするのだが、別に高級店ではない。同じ内容で都心で食べたら少ない量で倍する、というような具合にはなるだろうが。

そのお店は、然る舞台演出家とその奥方のお二人が切り盛りしているお店で、開店当初からちょくちょく出向いている。

飯を食ってコーヒーを飲んでしばし雑談していると、その舞台演出家のご主人がこういう。

「君はカリスマとまではいかないが、何か人をひきつける魅力があるようだ」と。

奥方は「カリスマじゃないのか」と笑われておった。


そこで昔や、最近でも言われた事などを思い出す。


かつて、某ハンティングアクションゲームをプレイしていたときのことだが、何かで仲良くなって一緒に行動していた人が、ログインしてきたある日のこと。

しばし雑談していると、眠くなってきたのでログアウトすると言い出した。ついさっき来たばかりだが、深夜ぐらいの時間だし、仕事で疲れていたりだとかもあるのだろうと。

そう思ったら、こう言った。「あなたと話していると、落ち着いてしまって、眠くなっちゃった」と。

別に催眠術なんぞかけた覚えはないのだが、そういって寝てしまわれた。


今度は最近の方だが、よく雑談して、たまには買い物もしている、蛙の雑貨店がある。

この話は先日も書いたが、そこのお店の店員のお姉さん(年齢的に)は、本人は気功を習ったりしているわけではないが、血筋の影響やらで、ご子息が気を練っては肩に乗せてもらって癒してもらうだとかしてもらっていたという。
何かの切っ掛けでその話になったので、お互いの手をかざしてみると、お姉さんはびっくりして「息子の時と同じ具合だ」と言っておられたものである。

その人はこう言っていた。「いつも楽しそうに来るので、お店の雰囲気も明るくなる」という風に。

話が前後するが、こういわれたというのを、上記のカフェの奥方としゃべっていたら、奥方も同意し、ご主人の方があのように言われた、こういう流れだったと思う。


やはり、カリスマというほどではないのなら、拙は参謀のような立ち位置で振舞うのが最良なのだろうなぁと思うのだが・・・。

誕生日とか、選択肢を選んでいって調べるオーラの色診断、なんていうものがあるが、その結果も、似たようなことを言われた覚えがあった。

ある意味望み通りとは言えるが、人生は上手く行かないように上手く出来ていると思うような出来事が起こっている。

そのことは後述する。


先日から話題になっている、子供虐待死のニュースがある。内容はここで改めて書くまでもない。

そういったニュースは、非情に聞こえるのは承知で言うが、ありふれている。痛ましいと思わない、という意味ではない。

アリス・ミラーを紐解くまでも無く、子供に躾とは名ばかりの虐待をするというのは、機械的に行動する個人の力だけでは如何ともしがたいものであろう。本人は当然と思っているのだから。

行政の怠慢がどうこうというのもあるだろうが、怠慢があるとして、それがどうして引き起こされたのかを、ただの人間に本当に理解し、解明できるのだろうかと思う。


というわけで、その事件のニュースを見聞きして思い出した、奇妙な話を綴ることにする。


内容はというと、とあるゲームのシナリオなのだが、感慨深いものがある。


『真・女神転生Ⅲノクターン(ノクターンまでがタイトル)』というのがある(以下ノクターン)。これの追加シナリオ版で、さらに『マニアクス』(以下マニアクス)というのもあって、ノクターンで語られなかった部分や、追加のダンジョンやボスや調整を施した限定版である。

上の話に繋がる部分を説明するためには、冒頭のシナリオから書かなくてはならなくなってきたので、もうしばらく我慢いただきたい。


主人公が、病気で入院している先生の見舞いに行くと、変な男に会って、その男は主人公の先生は別に病気ではなく、一仕事してもらうからここにいる、ということを言われる。

ゲーム内の言葉で、「東京受胎」という次元が捻じ曲がるようなことが起こり、その病院にいた人以外は皆、様々に変貌してしまう。

東京を舞台にしているのだが、地面を内側に曲げた球形の状態になっており、その球体の真ん中には太陽ではないが、太陽のように光り輝く物体が浮かぶ。

周りは異形の存在だらけになり、主人公も死にかけるのだが、異形の力を授かり、一命を取り留める。己もまた異形の一つと成り果てて。


と、こういう始まりである。病院にいなかった人々は、大体は想念体という形で、幽霊みたいになって道端に浮かんでいたりする。


シナリオの途中で、「マネカタ」という、人の形はしているが、色々とぎこちない言動をする人々?が登場する。

「マネカタ」は琉球の伝承だとかに存在する言葉から来ていると思われる。

その「マネカタ」のリーダーは、顔も凛々しく、普通の人と変わらない言動で、他の「マネカタ」たちを率いて町を作ったりする。名前は忘れた。

そして、「マネカタ」を虐殺してその顔の皮を剥ぎ取る「マネカタ」がいる。こっちも名前を忘れた。


シナリオ終盤で、両者ともご退場したと思うが、マニアクスの追加ダンジョンで、この二人の関係がほのめかされていた。


「東京受胎」で、病院にいなかった人は姿を変えたといったが、追加ダンジョンに現れる想念体がそれぞれ上記の固有名のある「マネカタ」と思しきことを語っている。

片方は若い殺人鬼。得々とかつての殺しの話をする。しかし、「生まれ変わるなら、人と触れ合ってよく生きたいな」という風なことを最後には語る。

その想念体の形は、「マネカタ」のリーダーを彷彿とさせる形だった。

もう一つは、その殺人鬼に肉親を殺害された男性で、普通の人だったのだが、「あいつを殺してやりたい」という風なことを語っていた。

その形は、「マネカタ」の顔の皮を剥ぎ取る「マネカタ」を思い起こさせる形をしていた。


さて、例の事件の話に戻る。

アリス・ミラーの論から語るなら、例の親は、その親かそれに当たる存在に同じ目にあわされていたとなるだろう。

そして、子供には自身の子供時代の姿を投影して、という流れである。これはまだ目に見える形だから、理解できるかと思われる。

だが、本当はもっと込み入った因縁が、例の事件だけではないが、そういうことを引き起こしているのではなかろうかと。


おかしなことは毎日起きている。「マネカタ」が「マネカタ」の顔を剥ぐ、というのはおかしな話であろう。

しかし、それは故あってのことだったと書いた。


実生活とやらからすれば、虐待死させたのは覆しようもない事実である。

法律で裁くことは当然だが、しかし、人が人を本当に裁けるものなのだろうか、と思わざるを得ないのである。


山田さんという人がいるとしよう。本当にその人は山田さんとして生きて死んだ、と言い切れるのだろうか?

あなたは?わたしは?本当にそうなのだろうか?目に見える形からだけでは決して言い切れないものなのだが、目に見えるものが答えだとする世の中では、キチガイの戯言になる。


然るオカルトレベルの説だが、人類は地球のために存在する状態がずっと続いていて、それ故に、人類は人類としての進化は阻害されているという。

その状態を抜けようとすると、地球のための歯車であることへ引き戻される。目立つ人がいると足を引っ張るかのようであるが、これが人類の状態なのだという。

上記と直接関係ない部分だが、そこでも釈迦と同じ事をいっている。釈迦の言はこうであった。

「己の見解を真理と見なしている」から、お互いの論を攻撃しあっているのだと。


また、別のところからの話だが、人類の最大公約数は宗教になるという。そして宗教というのは、生活パターンであるという。

民族が違っても、お互い共通して保持できる約束事があるという安心感を持たせるためのシステムが宗教なのだとか。

だから、宗教が民族をまたがって大きく存在しているのである。それを働かせるための権威として、神が既定されている。

宗教を超えたことを言い出すと、深く考えない人々ほどひどく叩き始めるのは、その約束事に機械的に安住しているが故であろう。

上記のオカルトレベルの説と書いたところと同じようである。

思うに、現代の宗教が地球だと以前書いたことは間違いではなかったようだ。

世界統一の宗教を、こちらから言えばかつての宗教を復活させたがるのは、別にどこかの誰かの陰謀ではなく、我々が機械的に生きているが故の帰結だったのである。


さて、宗教は生活パターンのことだと述べた方が言っている。

我々は宗教を超える始まりなのだ、と。

同じ生活をしていても、抜け出でる存在は現れるものである。

生活パターンを投げ捨てろとは言わないが、だからといって、生活パターンに則れば判る物でもないのである。

「法によらなくても悟れるとは言わないが、だからといって、法によれば悟れるというものでもない」という風に、釈迦も言われていた。


今ある人の世、人の姿というのはある意味自然の流れであり、奇跡ともいえる。

しかし、「奇跡とは自然に反することではなく、我々が自然だと思っていることに反しているに過ぎない」のである。


奇跡だとか自然だとか、そういうものすら乗り越えるのが、人間としての本当の進化なのかもしれない。


では、まだ終らない。







ここから冒頭通り、日常的なお知らせである。後述する、で区切った続きである。


来る七月一日都内某所にて、風呂敷だけで作る鞄の講習会が開催される予定である。

その孔子、じゃなくて講師はなんと、拙である。

色々と風呂敷を広げて来たものだが、今度は畳み方を教える羽目になるとは、因果なものである。

拙は参謀であってリーダーではないのである・・・。

ここであまり詳しく語りたくはないので(身バレというのを恐れてみる)、「西八王子 ネパール料理屋」で検索したら出るお店のホームページやらフェイスブックでお知らせがされていると思われる。

近くに住んでいて、やってみたいという方は、お店のほうにお申し込みの程を。


では、よき終末を。


孤独のゲーム

2018-06-04 | 雑記
近頃、ちょくちょく何やら食べすぎたのか、暫く前は腕の関節が、そして最近は脚の関節とそれより下の部分が痒くなって、書き、ではなくかきすぎて血が出たりしたものであった。

原因は・・・と思ったら既に書いていた。別に空腹が激しくて倒れそうとかいうわけでもないのに、少々食べ過ぎていたようである。

で、さきほど夜勤明けで帰ってきて夕方から数時間寝て、晩飯は食べずにいるのだが、痒い感じはない。予想通りだったといえる。

ここのところ、さらに空腹感とそれに起因していると思しき疲労の具合が遠のいている。とはいえ、腹が鳴って、何か食おうと思えば天丼の大盛りを平然と食べていたりもするので、別に消化器官に不具合があるわけでもない。おやつやらで多少胃に物が入った上で食べると、少し眠くなったりするが、眠くてかなわない、という具合も大昔と比べれば少ない。無理して眠気をどうにかしようというつもりもなく。

こういう話は去年の今頃も書いていたものである。つまりは、相変わらずといえよう。


さて、仕事場で食事の時間になると、ある人が決まってからかってくる。

「君は空気からエネルギー取れるから、食べなくても平気だよね?」などと。

拙は当初、「そんなわけないでしょう」と普通の返しをしていたのだが、面倒になってきたので、「まだそこまで到ってません」と答えることにしている。

そうするとさらに「片岡鶴太郎みたいに、呼吸だけで大丈夫なんでしょう?」などと追撃してくる。

寡聞にして知らなかったのだが、タレントの片岡鶴太郎はそういう具合になっているらしい。

しかし、その御仁には直接、拙が妙なことになっている話をした覚えはないので、誰からか聞いたのだろうが、どう伝わったのかは謎であった。


健康だとか不食にまつわるサイトを以前見つけたのだが、明治だか大正あたりの日本で、二十歳あたりから何も食べないで過ごすようになった女性の話を書いていた。

それから二十年ほど生きてから亡くなったそうだが、その死んだ時の姿はまるで少女のようだったとある。

やはり不食では長生きできまい!と言い立てる人も出てこようが、知ったことではない。

動物のナマケモノは、飯を食っていても餓死することがあるほどの極まったナマケモノである。

食おうが食うまいが、今ある姿を辞める約束なのが生き物の常である。生きているつもりで死人の想念に突き動かされ続けているよりは、己の天寿を全うする方がよい。

如何なるものを食べて暮らすべきか、が現代日本の昇天、ではなく焦点であることは論を俟たないが、それが進むとナマケモノと変わらないことになるやもしれぬとだけ、一言申し添えておく。


死人の想念、などとおどろおどろしい文言を用いたが、故がないわけではない。

というわけで、驚くほどの話でもないつまらないニュースをお伝えしようと思う。


過日、「ラクダ達のHPが消滅した」とお知らせしたものである。

ラクダ?砂漠の足に使われている?そっちではなく、比喩のからかいである。

まるで教条的キリスト教徒みたいな物言いをするので、「富める者が天国にいくのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」という聖書の言葉から、ヒトコブラクダとフタコブラクダと渾名をつけた、とある人物達のことである。

持って回った言い方は詰まらないので、率直に言うと、別に彼らは今まで通り生きていたというだけの話である。

ただし、まったく別のドメインのHPを開設して、表に立っているのはフタコブラクダのほうだったという流れだったが。


何にせよ、かつて関係のあった人物が共食いでもしたとかいう陰惨な結末を迎える(元姉弟子とそんな冗談を言い合っていた)、とかいうこともなく、安心したというか、「幸せそうで何よりだナァ」と思ったものである。

理由は簡単である。陰惨な結末を迎えていたというなら、それはかつて関係があった拙の影響-他人に「これが証拠です」と見せられるものではないが-もあることになり、そうなったら拙もそういう陰惨なものを引き寄せる存在になってしまっているわけで、よろしくはないなと、そう考えたからである。

それなら、拙もそのなんとかダイエット教徒にでもなろうかと、そういう話には無論、ならない。


結論から言うと、人と地上の環境を整えるということには異論はない。ただし、彼らの方法が唯一無二だとは思わない。

だから、従う意味などない。とはいえ、日常の文明生活で苦しんでいるだけの状態をどうにも出来ないだとか、その状況を覆す方法が見当たらないというのなら、ああいう方法はまったくもって悪手ではないといえる。
自然環境と呼ばれるものは、人を助けるのに大いに役立つ。とはいえ、それが答えではない。

何度もこの手の話をする度に書いては誰も突っ込んでこないのでこの断りを記すのを辞めようかとも考えているが、地上の所謂自然だとかを破壊すべし!という理屈で物を言っているわけではないことをお断りしておく。


さて、ここからは人によっては特殊な話になりうるので、理解されにくいかもしれないのだが、彼らの方法が唯一無二ではない理由を述べることにする。

ラクダ達のかつてのHPはデータを消去されており、以前のドメインだけがただよっていて、そのドメインの検索によって、かつての記事が散見される状況である。

その中で見受けられた話で、もしかしたら、以前に直に読んだのかもしれないのだが、こうある。

「ローヴィーガンをやっていてよかった。手足が勝手に温まってくる」と。


さて。野口整体のある道場のHPで読んだのだが、そこの師範が生徒さんにこう聞いたそうだ。

「頭寒足熱というのは足を温めて頭を冷やしておくという意味だと思っているか?」と。

生徒さんは「当初はなんとなくそう思ってました」というわけで、この「頭寒足熱」なる状況はちゃんと理解されていなかったのだなぁと書いていたものである。

心身の状態を整えると、野口整体流に言えば、身体が整っていれば、勝手にそうなるのであって、布団やら湿布を貼って養生する話ではないのである。

ということは・・・野口整体はローヴィーガンか!?というと、そんなことはしない。何かを使って養生する話ではないのである。

活元運動という、一種の瞑想法が野口整体には当初から伝えられているのだが、創始者の野口晴哉も「人の本来の体力が発揮されれば、健康になって、さして食わずとも、余分に休まなくてもよくなり、お互いに活元運動をやって(発動している人が他の人に伝え、音叉の如く相手も発動していく方法だから)健康になっていけば、お互いを疑い合うようなこともなくなり、悪いこともさしてしなくてよくなるような世の中になっていく」という具合に『整体入門』で述べていた。


翻って、拙の話をする。去年も書いたし、この間の冬はかなり寒く、それゆえにさらに実感できたので、改めて述べる。

寒い中、コートの前を開けて歩いていると、吹き込んできた風が胴を冷やし、「寒いのだなぁ」などと暢気に思いながらそのまま歩いていると、今度は手足が何やら暖かくなっていく。

手には手袋はなく、ポケットに手を突っ込んでいたりするのだが、突っ込んでいる手が汗をかかんばかりに、熱くなった。

足も足で、カイロなんぞいれてもないし、よくある保温性の高い新素材で出来た衣類を着用しているわけでもない。

ちなみにコートはダウンどころか、ワタもあまり入っていないようなウールのコートである。

コートの下はドレスシャツとジャケット。シャツの下は下着用の薄いTシャツだけである。そんな服装で、大雪の中を歩いて帰ったりしていたのである。
流石にその時は、ジャケットが濡れるのでコートの前は閉じた。

勢い余って、ケーキを買いに駅まで戻ろうかと考えたが、寒いからではなく、岐路の橋で滑りそうになったから辞めたとかいう、妙な具合であった。

まさか・・・ローヴィーガン!?無論、そんなことはしていない。


これというのも、そこまで熱心にやった覚えは余りないが、人に備わる本来の体力を発揮させるということをやってきただけのことである。

上記の如く、頭寒足熱にするではなく、頭寒足熱になる、という自然の状態を引き出したといえる。

何か食べていないと、こういうところで暮らしていないと、というのは、文言を変えてみれば、なんという事はない。

現代人は現代文明が無ければ、等と言うし、よく聞いてきたものであるが、ここで、先ほどの片方のラクダの鳴き声を思い出してもらおう。

「ローヴィーガンやってよかった云々」というのを。

己自身ではない何かを頼みにして物を言っているだけなのを、どうして理解しないのか。このような足萎えが言うのである。

地球を綺麗になどと。おためごかしはやめるべきである。
それは、かつては文明にどうにかしてもらっていたのを、地球などと言い換えたに過ぎぬ、堕落した文明人の堕落した言葉と何一つ変わらないのである。
地球だったらいくらでも頼って寄生しても構わない。そう言っているのである。これで綺麗になるわけがない。


拙の話からだけでは不十分なので、先日、改めて内容を知って驚いた、ヴィクトル・フランクルの話をする。


昔読んだはずなのに、ちっとも覚えていないという情けなさなのだが、それゆえに、改めて驚いたわけである。

前置きはやめて、そのフランクルだが、かつて、ユダヤ人収容所に放り込まれ、そして一人生還するという経験をした。

そのことを綴ったものが『夜と霧』というタイトルで出版されている。この辺りはご存知の方も多かろう。

屈強な囚人たちは次々と餓死していき、元気に振舞って周りを励ましていた人達もダメになっていく。

食事も、ほとんど具のないスープが出てくる。これでは数ヶ月も持つまいと、心理学者であるフランクルは思う。

そんな中、ある切っ掛けで、彼はこう考えたそうだ。

「人は孤独であり、それゆえにどうしようもなく自由なのだ」と。

劣悪な牢獄で彼はどのようなことを見出したのか。大まかに二つ書かれていたのを、また例の如くうろ覚えで記す。


まず、どんな状況でも、この世には美しいものがあることを見出す。

牢屋に差し込む朝日や夕日を美しいと感じる、ということをしていたそうだ。

もう一つは、こういうことをやろうと決めて取り組む。

フランクルは、収容所から連れ出されて作業所だかに行くときには、必ず右足から出ると決めてやっていた。

ベッドで横になればその木目を数える、という風に、看守にも見破られない独自のゲームを繰り広げていたのである。

そしてどうなったか。

周りは全員死に絶えたが、彼は生き残り、そして新鮮な果物なんぞないのに、歯槽膿漏は治ってしまったのである。


拙も人のことは言えないのだが、麗しい森があるからとか、現代文明があるからとか、それは己自身でない物に頼りきりというより、惑わされているだけではないのかと。


森も街も、天災でもあれば、瞬く間に灰塵に帰すものである。

そうなった時、人は生きられない、と、我々はそう教え込まれ、すぐさまそう考えるようにしてきた。

だが、我々は本質的には自由なのである。森にいようが街中にいようが、その両方でもないところでも関係なくである。

そう考えられないのは、振っておいて忘れていたのを見直して思い出した、「死人の想念」であろう。蛇足的だが、お一つどうぞ。


森でのみ自由があると述べる彼らは、どうしようもない。敢えて言わない他方も含めてではある。

人のことをいちいち非難するのもバカバカしいのだが、彼らの生存を確認して感じたことは、上記の如しである。


それからここは冗談めかして付け加えておく。

ダイエットして健康になるのが目的だったはずだろうが、昔からわざと太ってまた痩せてというのを繰り返してはHPに上げている。

痩せて太れる体は実に健康であろう。


人はどうしようもないほど自由だが、孤独を知らぬ自由はどうしようもなく不自由なのである。


では、よき終末を。