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考えるアシ

2012-06-29 | 雑記
子供のころ、何かのテレビ番組だったと思うが、パスカルの言葉が紹介されていた。


恐らく多くの方がご存知であろう、あのフレーズである。


「人間は考える葦である」


確か、画面には葦の群生地の映像も流れていたはずなのだが、なにを思ったか、こう考えていた。


「そうか、人間は脚で考えているんだなぁ」などと。で、母親にそんなことを言ったら「ちゃうちゃう、植物の葦や」と訂正された。



余談だが、葦簀(よしず)と行ったり、吉原(元々あそこは葦「あし」の群生地である)といったり、スルメをアタリメと呼称してきたのは、験を担いだ、廓言葉から来ているそうな。


アシだと悪しと響きが重なるので、反対の言葉を当てたのである。



しかし、考える脚、というのも間違いではないのかもしれない、と後で思ったこともある。

なんでも、脚が弱ってくると、つま先のほうまで循環している血が登ってこれなくなる。太股だとかの筋肉がポンプの役割をしているのだとか。「第二の心臓」とまで言われている。

第一の心臓がないと死んでしまうが、脚のある限りは第二の心臓もまた代わりがないほど重要だといえる。



よし、じゃあ歩け!という話をしようというわけではないので、本題に入ろう。



さて先日、トニー・ライト著「レフト・イン・ザ・ダーク」の話を紹介した。元にしたBeyond 5 Sensesの記事はこちら。なかなかに難しいので、こういうのはどうだろうか?というような話をした。そもそも、菜食主義だけでも変な目で見られる。ちゃんと理に適ったところがあるのに、理解できないのではなく、理解しようとしない、のが大抵の世人の反応である。

さらにそれの上を行く話である。「果物を主食としなくなった人類は、脳が縮んでおかしくなっていて、現在の人類はどうしようもなくなったその脳が作り上げた妄想の世界でのた打ち回っている」などと言われて「左様で」と答えられるだろうか。

こちらとしては「やはりそうだったか」と膝を叩くところだが、その話は措く。



人類の祖先は森で暮らしていた。霊長類というのは、例えばチンパンジーやらゴリラといった、人間に近い種類もまた、森で暮らしている。チンパンジーよりさらに人間に近いピグミーチンパンジーというのもいる。

彼らの主食はほとんど果物であり、比率は少ないが、虫を食べたり、これも滅多にないが、チンパンジーは集団で狩をして、他の猿を捕まえて食べることがある。

といっても、毎日観察できることではない。だから、肉は彼らの主食ではない。そして、我々人類の五倍は屈強である。チンパンジーと力比べをしたら、腕をもぎ取られかねないのである。ゴリラやオランウータンならまず確実にもぎ取るだろう。



と、話が逸れた。「森で暮らしていた」というところに話を持っていきたかっただけである。



さて、また話が変わってしまうのだが、野口晴哉はこういうことを言っている。

「歩いて脚が疲れたなら、寝るときに折りたたんで寝ると、次の日に疲れが残らない。これは、脚は伸ばした状態より折りたたんだ状態のほうが自然だからである」などと。

だから、正坐すべし!という風な話である。



「折りたたんだ状態のほうが自然」。そして、「人類の祖先は森で暮らしていた」。この二つから考え得ること。


想像してもらいたい。


木の上に猿がいる。ニホンザルでもいい。木の上で何かを食べている。

その時、彼らの脚はどうなっているだろうか?リクライニングでだらしなく寝そべっているのだろうか?

恐らく、蹲踞のようになっているのではなかろうか?膝を曲げて腰を落とした状態であるはずだ。


チンパンジーも、移動するときは、実は歩くことが多いそうだ。体が少々大きいので、木から木へ飛び移るというのは難しかったりする。


テクテク歩いて次の木に辿り着いたらよじ登って、折れそうにない枝に腰を据えるとする。その脚は伸びているだろうか?多分、上の例えと似たようになっているのではなかろうか。


正坐について以前こう想像した。「正座は、人類が裸だったときに、地面に坐るために考案したのではなかろうか」と。


胡坐のように尻を直に接地する方法というのは、体の大事な部分を傷つけそうだから、そうやって脚で守る坐り方を考えたのではなかろうかと思ったのである。


それよりももっと単純な理由で「正坐の状態が、猿だったときのくつろぎ方を思い起こさせるから」なのかもしれない。実際に猿がくつろいでいるのかはわからないが。

それなら脚を折り曲げているには違いない胡坐はどうなのか?と思われるだろうが、蹲踞の姿勢を取ってみれば判る。実際に猿が蹲踞をしているわけではないが、脚にかかる力がまったく違う。

胡坐は足腰が弱くても出来る。正坐といい、猿の坐り方(想像)は、足腰が強くなければ出来ないのである。といっても、彼ら(人類以外の霊長類)と、果物を食べていた時の人類にとっては当たり前のことで、現代の人類からしたら「強かった」というところである。


正坐して果物を食べる。なんだか冗談にも聞こえるが、これが人類の本来の姿だったのかもしれない。


しかし、現代は、特に南国でもない日本では果物を主食とするのは難しいかもしれない。


そこで、以前の記事で触れたことをおさらいしておく。


まず、脳の萎縮の原因となっているのが性ホルモン「テストステロン」。これは実に簡単な話で、肉を食べるとよく出てくる。要するに肉は食べないことだと。食べたければ週に一回とか段階的に減らしていく、というのでもマシにはなる。

個人的な体験では、昔から余り肉は食べなかったが(魚は食べるほうだが)、その上でさらに食べるのをほぼ辞めてしばらくすると、目の輝きが違ってくる。それだけではないが、注意深く見ていればすぐ判る変化が起きる。
最近は少々食生活が荒れ気味(主に食べすぎ)だが、無理して筋トレしていた時より体つきがしっかりしているのである。

ところで、菜食主義者の方がよく食べられる偽肉。確かに肉の味や歯ごたえがしっかり出されていて、肉を食わなくても肉の感じが味わえると評判である。肉にそもそも多大な未練があったわけではないので、利用したことはない。

肉を食わないが故に菜食主義なのに肉の味を忘れたくない、というのも変な話だが、原材料が危険(主に大豆タンパク。その話は長くなるのでここでは詳しくはしない)である、という以外に、別の意味で危ないようだ。

どこかの菜食主義者のブログで読んだ、という程度で申し訳ないが、「肉ではないが肉の振りをした物を食べると体が勘違いして、結局肉を食べたときと同じ反応をする」という。テストステロンが出るのかは、その時はあまり注目していなかったので忘れたが、肉を食べたのと同じ反応を体が起こすというのなら、肉を食べるのと同じであろう。大豆タンパクなどの醗酵していない大豆は実際は猛毒になりうるので、「それなら肉そのものを食ったほうがマシである」と言えるが、そもそもは食うべきではない、という前提でお考え願う。こちらも、時折肉を食べてしまうが、ステーキやら焼肉やら牛丼やらハンバーガーといった、肉の塊には魅力を覚えなくなっている。


それではたんぱく質はどこで取るのだ?と、皆判で押したように申す。それなら空気をよーく吸い込むべし。


これは別に科学的に示されたという話ではないが、上記の偽肉の体内での反応を語っていたのと同一人物の方の話で、たんぱく質の主な原料が窒素であり、窒素はまた空気中に多く存在している。空気を吸っていれば足りるんじゃないかと。


そこはまあ、冗談(とも言い切れないが)としても、実際は現在の食事で肉や乳製品を抜いたところでたんぱく質が少ないということはないのである。
むしろ多く取りすぎたが故の弊害の方が起こっているのである。

そして、ボディビルディングについても同様。然る専門家が断言している。「体を大きくする食べ物など存在しない」と。筋肉はトレーニングで大きくなっているだけである。ただし、鍛えたら適度に弛緩させる必要がある。
こちらとしては、随意筋のみを鍛える(随意筋と言うのは意識のみで動かせる部分である)のは、返って心身の成長を阻害するという話をよく知っているが故、ボディビルディングを推奨する気はないが、体を使う必要があることには賛同する。では何をどう鍛えるのか?という話はまたいずれやりたいと思うが、申し訳ない未定である。


果物には「フラボノイド」という化学物質があり、これが人類の祖先の脳を、当初の三倍にまで大きくさせた要因であったという。
果物を食うのが手っ取り早いわけだが、ないなら代わりにお茶でもどうかと。緑茶にも少々含まれていると言われる。熱には弱かろうが、水出しにするだとか、抹茶を水で溶いて飲む、というのもまた、置き換えにはならないだろうが、補助としてはいいかもしれないだろうと。

茶については、支那の伝承で伝説上の皇帝が怪我をした時、茶葉を食して治した、という話が伝わっている。
煎じて飲んだ、じゃないが、茶葉自体は実にいいものだと考えられる。

紅茶と烏龍茶と緑茶は、それぞれに合わせた品種や栽培法を取られているのだが、そもそも全部同じ茶の木の仲間である。

どれもこれも熱を加えたり醗酵させたりするのだが、緑茶だけはあまり熱を通さず、従って醗酵もさせない。完全とはいえなくとも、生の葉に近いものがあると思われる。
今すぐ果物を主食に出来ない、したくない、といわれる方は、まずは肉をなくすところからだが、コーヒーや紅茶を飲むより緑茶を選ぶ、というのが、下手なサプリメントを飲むよりはいいだろう。
飽くまで補助だが、0よりはいい。


さて、もう一つ。メラニンと勘違いした(すぐ気付いたが)メラトニン。脳の松果体より分泌される、ビタミンCも及ばない抗酸化物質である。

フッ素で石灰化が進んだ人はどうしようもないのかもしれないが、瞑想で額が疼く時、ここが刺激されているという。


瞑想の呼吸法は、吐くときを長くするのだが、これは副交感神経を優位にさせる。つまり、副交感神経が優位になっていればいいといえる。
ここしばらく、仕事が立て込んで、着物を着る時間が少なかったのだが、やはり着ると落ち着く。
それは、帯を締めることが腰にある副交感神経叢を刺激し、副交感神経優位に働かせているのだという。
その状態になるので、息自体も深くゆっくりとしたものになるのである。

着物なんていきなり無理だ、という方は、褌なんてどうだろうか。理屈は同じである。

女性の方が褌をし始めたら、今まで治らなかった病気がなんだかしらんが治った、などという話が出ており、某女性週刊誌に載っていたそうな。
ある男着物のサイトをやっている人がそれを読んで「そんなわけない」などと笑っていたのを見て、その無知さ加減がどうしようもないと感じ(本当に着物着てるのかと)、ブックマークを消したものである。


余談は措くとして、そういう手もある。



さて、上の二つ(フラボノイドとテストステロン関連)はまだ普通に食事(果物を食うにしても何食か食べる前提)を摂る話ではある。


体に取り込む物質がおかしくて脳が萎縮して今にいたったわけだ。人類全体も、また、個人も。


断食や瞑想、利き手でないほうを使うなどして、サボっている脳に喝を入れるべし、というわけだが、金もあまり掛からず即座に出来る方法である。すなわち、要らないものをなるべく入れないようにする。


断食して瞑想し続ければよいのである。何か飲むとしたら水出し緑茶等、という具合である。年がら年中食わずに瞑想、というのは急に出来るようではないので、まずは一日の食事を減らすところから。

戦後の食糧難で日本人が絶滅したわけではない(ある意味したかしらんが)ので、今までの基準の一日分を三日で摂るだとかに徐々に変えてしまえばよい。勿論、肉はなし。食糧難が来てもビクともしなくなるだろう。

そうして、メラトニンをたくさん出しておけば、脳が腐ることもなくなるだろう。少量とはいえ緑茶のフラボノイドも効くかもしれない。それに、腐るようなことをしたら拒絶反応が出るようになるとも考えられる。


テレビを消して、夜は明かりも消す。PCは必要なことを済ませたら電源を消す。

明かりが欲しければロウソクを燈す。そして正坐し、ゆっくり呼吸をするのである。正坐してなくてもゆっくり呼吸である。

意識的に瞑想をするのもいいのだが、元々が瞑想状態ともいえる和装が打って付けであると考えている。なければ褌を。


さあ、二つに一つ。果物を主食にするか、なるべく食わないで修行をするか。



ちなみにこの修行。「スーパーの果物食うのもな」と思ったのと、元々食事の量を減らしていっても大丈夫な状況にする(実際、遥かに食べる量は少なくなったし、腹が減ったから食べなくてはならぬ、という考え方自体なくなった)ために、元々やってきたこと+考案したことである。本当に断食と瞑想をやり続けたわけではないが、食べる量と次に食べるまでの時間を、一般の基準とは違うところにしてきた。俗に言う「不健康」な状態である。


やってきたとはいえ、中々難しいところもある。皆様方におかれましては、果物を主食にするというのをお勧め致したいと存じ上げております。

というわけで、正坐で果物を食べて「先祖返り」しましょう。では、また。