ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

シロクマは実在しない

2017-06-13 | 雑記
家の近所に、秋田犬を飼っているところがある。

実は二代目で、初代は亡くなった。去年の桜の季節に生まれたので、サクラちゃんと名付けられ、そして、その家で飼われているのである。

秋田犬はなんというか、仏頂面というか、ムスッとしているとでもいうのか、少々険しい顔つきをしている。

聞いた話では、狼の血が他の犬より濃いのだとか。たしかに、がっしりしている。

そんなサクラちゃんだが、何度か散歩中の飼い主共々出会って、撫で回している。

この間は、その飼い主と他の知り合いが話していて、撫でながらその犬に纏わる話をしたりしなかったりで、撫で回していた。

家の前を通りかかると、たまに門扉の裏にいて、気付くと吠えてくる。警戒されているのかと思うのだが、手を出すと、別に噛まない。

触れるまでワンワンいうのだが、触れるとムニャムニャと黙る。そして、手を放すと、飛び上がって吠え始める。また触るとムニャムニャ。

こういった遣り取りをしているものである。

その、飼い主と他の知り合いの人が立ち話しているところで撫で回しているときのことだったのだが、かがんで撫でているこちらの横手に回りこんで、首を上に逸らすように身体をこすりつけてきたものである。

どうやら甘えているのだろうと思ったら、今度は地面に横になった。腹を出したわけではないが、何故か寝転がったものである。

そういうわけで、門で吠えているのは、撫でろと催促しているのだといえよう。満足するまで撫でないと、ムニャムニャループに陥って困るのだが。

そんな秋田犬だが、サクラちゃんの体毛は白と、一部茶色である。

撫でているときに気づいたのだが、肌に近い部分は、黒い。初代はもともと黒かったから気付かなかったが、もしかしたら、寒い地方で育った特長なのだと思われる。

それで思い出したことがあった。

シロクマという動物が存在する。

彼らの体毛は白いが、秋田犬のサクラちゃんと同様、肌に近い部分は黒い毛で覆われているのだとか。

五分刈りにしたら、真っ黒になるのだろう。サクラちゃんもシロクマも。


シロクマというと、温暖化の旗印になっている。

昔あった、小さな氷の上で二頭のシロクマが乗っかって、カメラの方を見ている写真というのがある。

ちなみに、この写真を撮った人物は、「面白い構図だと思っただけ」と証言している。別に温暖化の証明のためにやったわけでもないし、あんな風景が北極中に広まっているわけではなかったとのこと。

ともかく。シロクマさんの生息地が侵されている!人間の生活のせいだ!悔い改めよ!というのが、昨今の流れである。

先日触れた、キネシオロジー・テストというものによると、こういう結論だという。

「温暖化はしているが、二酸化炭素によるものではなく、太陽活動の影響である」とのこと。

ちなみに、キネシオロジー・テストは未来予測は出来ない。裏を返せば、太陽活動が弱まれば寒冷化すると言っているのに等しい。

太陽の影響という結論は、デーヴィッド・アイクも同様のことを示している。アイクの場合は、地球温暖化の原因は二酸化炭素、と言っている方々がそもそも詐欺師だという話を前提にしていることと、それを示す証拠を挙げた上での論である。

さて。ここで我々は、自身の思い込みについて、考えを広げなくてはならない。

アイクの著作でもデータを列挙して書かれていたが、近年より、例えば1945年なんかは、地球の平均気温は今より高かった。

これ以上になると解けて危ないと示している温度より高かったと、書いてあったはず。

二酸化炭素が原因なら、半世紀前より今のほうが充満しているわけで、今のほうがもっと高くなっているはずで、だとすれば、シロクマは水泳選手になっていることだろう。

だが、そうはなっていない。ちなみに、シロクマは自然の水泳選手。むしろトライアスロンというべきか。平然と長い距離を泳いで渡りつくという生活を、元々しているそうだ。

つまり。地球は熱くなったり寒くなったりを、繰り返しているだけだったのである。

ここ何年か暑いから、「温暖化している!!」というのなら、「その通りですね」というだけである。

寒かったころよりは温度が上がっていることを、「温暖化」とものものしく言っているに過ぎないのだから。

それだけの意味しかない言葉に、我々は「地球と人類の生活の危機」という意味を込めており、振り回されているのである。

昨今は「気候変動」という言葉に取って代わられているらしい。半世紀前と現在の気温の変動は凄まじいので(半世紀前のほうが氷が解けているはずなのに)、現在までにどこかの島国はすでに水没し、シロクマはトライアスロンから水泳に転向しててもおかしくなかったのに、何もない。

「気候変動」と言い出す前から、気候は変動するのが当たり前で、これも、上記のような危機意識を煽る意味合いを込めて流布されているに過ぎないのだといえる。

アイクは、かつて「爬虫類人がどうこう」と語りだした当初は、キチガイ扱いを受け、一時期はテレビでタレントが「アイク」だかフルネームをいうだけで笑いがとれるほどだったという。

「アイク」という名に、キチガイで笑いのめす対象であるという意味は存在しない。世界のデーヴィッドさんに謝らなければなるまいが、そうなっていた。
デーヴィッドと言えば、ロックフェラーの重鎮が過日、亡くなられたという。人によっては大喜びしているそうだ。

世界を牛耳っているという存在の一人だったとのことで、祝福している人もいるそうなのだが、先日書いたように、牛耳られた(といわれている)世界があるからこそ、あなたは生まれ、生活し、陰謀とやらに気付いて(と思い)、その上、人の死に欣喜雀躍できるのだと。

別に、哀悼の意を示しましょう、というわけでもないので、勘違いしないように。

寧ろ、世界を牛耳ってきたということを前提で言うなら「世界を牛耳る仕事を今までよくやってくれました。お疲れ様でした」とでも述べる。


アメリカの政策だそうだが、ケネディ暗殺の時に出来たやり口に、「陰謀論」がある。これは以前も書いた。

目撃者多数なので、隠しきれてなかったりするのだが、公式見解では遠くから撃たれて死んだと発表している。

それに異を唱えるのは「陰謀論だ」として、つまり、「アイク」と口にしたら笑いを取れるのと同じ状態に情報操作していったというのである。

実際に陰謀としか言えないものを指摘したら、そっちこそ陰謀だとやり返すというわけである。

陰謀論という言葉自体が、甚だ虚しいものであることがわかるだろう。無意味だといっているのではない。


それはつまり、陰謀論という言葉に、「人類解放への道標」とでもいうべき、上記の温暖化の件で述べたこととは逆の煽り文句を込めているのである。
これも、アイクがいう詐欺師が温暖化を押し広めているというのと同じで、詐欺師が危機意識を煽っているのである。
危機意識の煽動という点だけでも、どちらも詐欺師には違いない。
それに、人が死んだことをやたら喜ぶような具合なら、なおさらである。


我々は思い込みで、黒いものを白いのだと思っているのである。

シロクマの本来は白くないのである。そもそも、ホッキョクグマなのだから。


では、よき終末を。


気がかり故に

2017-06-09 | 雑記
拙の記憶が正しければ、四月のことだった。

近所の米屋で買い物をして、家の近くの住宅地の道路を歩いていると、反対側の道から、制服を着た中高生の女子が歩いてくる。

こちらがそれと認識した後だった。凡そ十メートルからもう少し離れていたと思う。

前髪をそろえた髪形だったのだが、何故かその辺りからずっといじりながらすれ違う。

風も吹いてないのに、どこが乱れていたのか。不思議でならないのだが、こう思うことにした。

拙も、まだまだもてるのかもしれないと。でなければ、不審者だったので、不安を紛らわせていたのだと言われそうだが。

昔、何かのテレビで、男性に対面した女性が前髪をいじるのは気を引くためというのがあると、心理学者が芸人だかとの対談で語っていた。

いきなり化粧を直すわけにもいかないので、すぐに直せて目立つ前髪を整えようとするのだという。

話は覚えていたのだが、余り気にしていなかった。

ただ、今年に入ってから、そういう話を思い出して人に語ったもので、それから見てると、前髪をいじってすれ違う人を多々見かける。

話で上げた例では、仕事の時に、カウンターにやってきた予約の女性客が、拙が応対に出ると、急に前髪をいじり、いじりながら「予約の○○です」などと言い始めた、なんぞとやったものである。これは数年前の話になる。

さらには、こっちを見ていないのに、前髪をいじっている女性を見かけるほどである。

そこはまあ、いいとして。

ただ、気がかりがある。

数こそ少ないが、何故か、男性まで前髪やらをいじって拙とすれ違うことがある。後に絶世の美女でもいたのだろうか、と思いたい。

もしくは、拙の背後に何かが・・・。見えない何かが・・・。しかし、背後に何かと言われても、首を捻ると背中はどっかいくので、いても見えない。映画『エクソシスト』ばりに、さらに九十度回さないことには無理である。


これらについて、別の視点を示す。まるで見た目がいいことを自慢しているだけになるからである。それだけではないが。


四月はまだ夜が寒い時があり、家でこうやってブログやらを書いている際に、厚手のシャツを羽織っていた。袖は通さず、肩に掛けている状態で。

今日はいるか、いらないか、などと、日によって気にしたりしてなかったりしていると、ある日、街中で上着をそうやって着ている女性を見かけたものである。

二度ほど見たような気がするが、同じ女性だったのかもしれない。他にもいたと思うが、数えていないので忘れた。


そこから考えてみると、こうなった。

拙はここしばらく、髪が伸び放題である。勤務中は整えてあるが、たまに崩れて顔にかかる。仕事以外で整髪料をつけていないと、『ゲゲゲの鬼太郎』にできるほどである。

つまり、前髪が気になって仕方がない。そんなわけで、街行く人々も、拙の気がかりが影響して、老若男女問わずに前髪をいじるのであろうと、そういうわけである。

向かい合ってすれ違った人はともかくとして、男性及びこちらが視界に入っていないのにいじっている人は、こういう影響なのだろうと考えている。


さて、いつもの話になる。


例えばキリストは、神の前では人類は平等、と謳っている。

それでもって、救済とやらも、釈迦の言にある「この世とあの世を共に捨て去る」というのと同じだという。

聖書の記述は詳しくないのだが、起こした行動の違いだけで、到達している地点は両者とも変わらないとのこと。

この場合の「神」というのが、アイクも言っている「意識」とほぼ同義といえる。だから、違って分かれているように見えるけど、皆一緒。だから、人類は平等という訳である。

ふざけた例えになるが、クトゥルーとかクトゥルフ神話と呼ばれる、小説群をご存知だろうか。

詳しい話はググってもらうとして、簡単に言うと、地球はずっと昔の神がかった宇宙生物やらが一杯いて、時折見かけて恐ろしい目に遭う、というような内容のホラー小説である。コズミック・ホラーという。

大抵は邪神だとか化け物で、そのうちの一つに、言い方が色々あるが、「ニャルラトホテプ」というのがいる。

ライトノベルの『這いよれ!ニャル子さん』のニャル子がそのニャルラトホテプである。元のクトゥルー神話からの意味合いからは少々ずれているが、とりあえず。

そのニャンとかいうのの特技というかで、自分の分身を作って人として過ごさせるというのがある。しかも、複数に。

ニャンとかいうのの眷属だという自覚があったりなかったりするそうだが、ないままに、お互い戦いあったりしているのだという。実に悪趣味だと言わざるを得ない。むろん、本体たるニャンとかは、誰が自分の分身かわかっている。


というわけで、「意識」とやらが邪神だと言いたいわけではないのだが、我々人類がやっていることは、ニャンとかのやっている悪趣味と同じ状態なのだといえる。

またもや悪口になるが、ついでに。


拙が一時期、仕事場で果物ばかり食べていたりしたのはとある人物の影響だったと、話をする機会があった。

アイクの翻訳をして、「意識」の話をしっかり読んでいたであろうその御仁は、「自給自足のフルータリアン生活こそ至高」とのたまい、アイクを超えたと語っていたと伝え、それを例えていった。簡単に、物質は意識が見せる幻である、という話もした上である。

人類皆平等(例えだと切り出したのに、聞き手は「人類は平等ではないですよ」と二度ほど茶々をいれてきた)だとその根拠を語っている人に、「これこれのことをしているから、俺のほうが偉い」と言っている状態だと。

聞き手は大笑いして、感想を述べたものである。

「今年で一番笑えた」と。


悪趣味は邪神の専売特許ではないのである。
生涯の笑い話とならぬよう、努々、精進を怠たることなかれ。


では、よき終末を。


計画通り

2017-06-07 | 雑記
先日、馴染みのお店で問われた。

「結婚しないのか?」と。

そういえばこの話はしていないと思い、実家が創価学会で云々とはじめ、拙自身は所属していることに嫌気がさしている点、もし仮に結婚することになれば、一般人なら入会を勧めるというより半ば脅迫されるであろうから、そうなると相手が可愛そうだと伝えた。

「色々つらかったろうね」と少し同情されたものである。親については、今はそうでもないと、答えておいた。

さらに、「そういうのを乗り越えられる人がいたら?」とも聞かれた。

「いたら、考えるかもしれません」としておいた。

つまり、そういう人はいない、というつもりである。

拙は結婚できない理由として、上記のことをいつも取り上げる。

後は金がないとか、生活態度がメチャクチャだとか、いわば言い訳ではある。


それでふと考えた。


人というのは、しようと思ったことしか出来ないのである。当人はそう感じてないだけで、そう動いているのだという。

本当に彼女が欲しいなら、それに沿った行動をするものである。だが、まったくしない。以前やりかけたが、梨の礫である。

家庭の理由でしづらいのは飽くまで想像(だけではないが)であり、するだけなら出来るだろう。まあ、実家には顔を見せるだけで、縁を切るかもしれんが。

しつこくて申し訳ないが、件のおっさんとその愛人。

結婚しようとしないのは、本能に反する的な言い草で、拙に説教してきたものである。

「幸せになりたくないのか?」というのである。

記憶は多少曖昧だが、その時も冒頭の話をしたものである。


さて、話は昔に戻る。

中学の英語の授業だったか。将来の夢というか流れというかを、それまで習った英語で書くというのがあった。

その時の一行と、それを見た教師との遣り取りを今でも覚えている。

I will not marriage.

英語教師は目の前で添削しながらこれを読み、「しないの?気になるなぁ」と言っていた。


拙は当時から思っていた。己のようなものは結婚すると、必ず相手を苦境に立たせるだろうと。

そういう風に考えていたのだが、我が親の結婚生活とその家族の様子を見ていて、「こうなるからやりたくない」と思っていたのだろう。

拙の中学時代の夢は既に叶っていたのである。結婚しないというのが。


ついでに、拙に恋人ができたり、もしくは結婚したらどうやり取りしかねないか、想像してみよう。

女「ディズニーランド行きたい」

拙「ミッキーより多摩のモグラがいい」


女「犬飼いたい」

拙「でかい猫がいい」


女「どこか行きたい」

拙「どこでもいいな?」

そして数時間街中を散策。しかも相手は興味のないようなところばかり行く。
仮にお互い興味のある場所でも、歩いていける距離(拙基準)なら歩いていく始末。


恐らくこんな感じになるだろう。もしくはこうする予定である。これでは相手も疲れる。


テレビや一般的なネットの話題もなしで延々喋ったりと、人によっては受けるかもしれないが、静かなのが嫌な人にはBGM代わりにいいかもしれない。

しかし、そういうつもりで掛かっていくと、貝のように口を閉ざすかもしれない。ううむ。侮り難し。


これを言ったら人のそしりは免れないが、ついでに書いておく。

女「子供欲しい」

拙「ちゃんと餌やるんだぞ」

ここで、「いらぬ」と言っていないのがポイントか?



昔読んだ漫画で見た遣り取りを。

主人公(に変装した別人)が、女をはべらせている。そのうちの一人が抱きつきつつ問う。

女「ねぇ。○○(主人公の名)さん。彼女いるの?」

男「いらん」

女は「何言ってんだこいつ?」みたいな顔をして、もう一度問う。

女「だから、彼女いるの?」

男「だから、いらんっつってんの」


というわけで、結婚しないという子供のころの計画通りに進めておる。
だから、「彼女いるの?」と問われれば「いらん」と答えることにする。

まあ、滅多に聞かれないので、よく忘れる。


では、よき終末を。


碧い話

2017-06-06 | 雑記
先月だったかその前か。煙草を切らしてしまったので、仕方なくコンビニで、アメリカン・スピリットのターコイズというのを買った。

これが実に美味く、シガレット自体もご無沙汰(敢えて書かないが、煙管で葉っぱだけ使うから)だったのもあり、解すことなく、終えたものであった。

愛称アメスピのオーガニック銘柄は、今のターコイズとゴールドの二種類となっている。青い箱が気に入ったので、そちらにした。

それで先日、手巻き煙草用の方を買って来て、先ほどようやく開封したのだが、不思議だった。

ビニールで密封されているのだが、それを開くと、煙草とは思えない、いい香りがした。

そして、中身を開いて煙草自体の香りを確認すると、これまた煙草とは思えないような、いい香りがする。

他の有名銘柄だと、マニトウのオーガニックというのがあるが、それとは違う、爽やかな香りであった。

マニトウの方は畳みたいな青臭い香りだが、多分、青臭い分類だとは思える。


さて、煙草の話はいいとして、思い出した話をする。


去る日、仕事場で、なぜか宗教の話をしていた。いきさつはあまり思い出せないが、そうなったのである。

とはいえ、別に特定宗教がいいとか悪いとかの話しではない。ある意味、悪いという意味ではあった。

話し相手は、例えば釈迦自身が「再び人として生まれることはない」と語り、悟りを開くとそうなると言っているのに、何故だかイタコの如くやって、釈迦の生まれ変わりだとかほざくのに騙される人が多い。しかも、高学歴に限って、と憤り気味に語る。

そして続けた。

「釈迦が言ってたことは、正しい生活やって解脱して二度と人に生まれ変わらないってことなのに、そんなのに騙される。特定宗教に肩入れする必要はないが、宗教の基礎知識を学校で教えていかないと、詐欺に騙される奴らばかりになる」と。

拙もその通りだと思い、「確かに。中村元の翻訳一つ読むだけで、バレバレですからね」というと、「実は子供向けの解説書も、あの人は書いているんですよ」と語っていた。
「なら、小学校で授業にするべきですな」と笑いあったものである。

中世の日本仏教史を勉強したのか調べたのか、色々と詳しく、拙が創価学会だというと、「うちも天魔の禅なんですよ」などと笑いながらいっていたものである。

禅の何が天魔かというと、日蓮が時の幕府に送った『立正安国論』にある、他宗派非難のキャッチコピーである。他は余り覚えていないが、真言亡国とか書いてたはず。

こういう風に物を見ている人は、意外と近くにいるものだなと、感心したものである。というより、これが普通なのかもしれない。

それはともかく。何ゆえ、世の中そういう風にならないのかということを、私見を交えて語ろうと思う。


ここで何度か書いてきたが、釈迦だとかイエスだとか、インドの聖典といわれているアシュタバクラ・ギーターだとか、ほとんど同じ境地を示している。

デーヴィッド・アイクの言う、全ては意識で、この世は意識が見せている幻なのだということである。
表現が違うだけで、同じ事を示しているのである。


子供心にそんなことを吹き込むとどうなるだろうか。すくなくとも、先ほどの話し相手の言の通り、頭の腐った宗教に肩入れして、身上を滅ぼす輩は減る。

さて、一つ問題がある。特定宗教に肩入れすることがなくなる、もしくは減るという点。

何故かというと、釈迦の言の通りに生きるなら、この社会を肯定することを是とする立場から言うならば、反社会的にならざるを得ないのである。

別に、皆托鉢坊主になって、乞食だらけになる、というわけでもないが、全ての権威、伝統、習慣を否定するからである。よって、宗教と名の着いていない宗教も否定する。

反社会的行動をとるようになるから危険だ、というわけではない。寧ろ粛々と従う。言ってしまえば、マハトマ・ガンジーの非暴力運動状態となる。
非暴力?それじゃダメだろうと思われるだろうが、これにはトリックがある。

確かにガンジーの運動は、暴力に訴えなかった。暴力ではないもので抵抗していたからである。

それは、不服従。

どこかの陰謀論ブログだかで見たのだが、例えば、ガンジーの非暴力は教えても、不服従は教えるな、とやっているという。

釈迦にしろイエスにしろ、本質的な意味での宗教、言い換えれば精神的、スピリチュアルといえるものは、世の中のことは幻なので、例えば五感の刺激に惑わされるなとか、不変の物はこの世にはないので、対象にすがるのはよせと言う。

単純にあの世とも言わない。『スッタニパータ』にもあったが、「この世とあの世を共に捨てる」と言っている。

されはさておき。

一般的な観念としての釈迦や仏教の言説から考えてみても、己の不安定な心を制御して、節制して生きろというものになる。

しかし。国家や社会というのはどういう代物か?考えてみても欲しい。国家や社会が教えたがらない理由を、箇条書きにする。

・国家や社会が必要とする人というのは、権威に逆らわず、自分で考えない、伝統や習慣を盲信し、不安を煽ればすがり、けしかければすぐに消費に走る存在であること。

・この世が幻であるのを前提とされると、家族や地域のしがらみを抜け、子供を作らなくなるので、戦争も出来ないし、消費活動のための労働もそこそこにしかしなくなるので、国家運営がしづらくなる。

・不安定な心を本質的な意味で制御されてしまうと、不安を煽っても誰も乗ってこないので、例えば北にミサイルを撃たせても意味がなくなる。

・陰謀論の理論に従って言うと、国家にとっての一番の不安は、国家運営者がそれぞれの国家に対してのものではなく、そもそもがそれらの上司達へのご機嫌伺いから来ているからである。

・根本的に国家や社会というのは、物質への偏愛から生まれたものにしか過ぎず、それらを否定するような思想は反逆でしかないので、触れたくないか、触れても本質は絶対に教えない。

もっとあると思うし、上手い表現があると思うが、とりあえずここまで。

かつて、アメリカがイラクだかに派兵するとき、なんといったか。

「自由と民主主義のために」だったか。そういう煽り文句を叫びまくって戦争に行ったものである。

アメリカに、自由も民主主義もないのは、よく知れ渡っている。それでもあると信じている人々にはあるし、ないと思っている人には当然となっている。陰謀論の話だけではなく、内外で色々と語り草になっている。

それで、上記の如く、悟りかねない状態の人々ばかりだとどうなるか?

「そもそも、この国にもこの世にもあなたがたにも、あなたがたが語るような理想は存在しない」となる。

かくして、ブッシュは藪の中へ。今は切り札らしいが、とんだババを引くかもしれない。


さてもう一つ。

国家社会や政治を変えても、上記に示した如く、それ自体が執着であり迷妄の産物なのである。

かつて、ビートたけしが例えたと聞いたが、「うんこにバケツ一杯のシャネルぶっかけても、うんこはうんこ」なのである。

国家や社会という物にまったくの恩恵がないとは言わないが、我々はうんこにシャネルをふりかけては、喜んだり怒ったりしているのである。

シャネルは解脱に必要ではないが、香水は自分に振り掛けるべし。


国家や社会があるから、ロスチャイルドやらの大富豪や宇宙人がいるから、我々が脅かされているのではない。

己の不安定な心をそのままにして、感情に振り回されているのが問題なのである。


地球に広がる世界というものは、そもそもそういうものである。

勧めはしないが、変えたいと思うのならば、せめて香水は自分に振り掛けるべきであろう。


では、よき終末を。



Grateful illuminati

2017-06-03 | 雑記
世の中、感謝しても仕切れないことがたくさんある。死ぬまで感謝するしかないのかもしれない。

例えば、拙の両親について。

実家のことは何度か書いてきた。祖父の代からの創価学会の家で、子供のころは仏壇の前に座ることを強要されたものである。

そんな時は、父親の隣で唱題をしている際、長くなってきたら、軽く肩でぶつかって、こちらから終了を促すという、今になって考えてみると、子供のころからメチャクチャだった気がする。

さて。多感なころになると、他の創価学会の家の子供達もあったりなかったりだが、「変じゃないか?」と考えたり、表立って反発したり、飛び出して悩んでは結局、創価学会は素晴らしい!となったりならなかったりする。名詞を交換すれば、どこでもある話である。

創価の家であることが、実に腹立たしかったものである。とはいえ、別に普段参らないのに元旦だけ参って初詣、とかいうのもふざけていると考えてはいた。そういう指摘をする父親の言は、確かにその通りだと、子供心に感じていたからだ。

なんやかんやあって、現在に至る。兄貴に胸ぐら掴まれたこともある。

この時の兄貴の言は、これもかつて書いたが、「創価学会は宗教団体じゃない」だった。

そこはひとまず。


長くなったが、要してみよう。

創価学会の家に生まれたお陰で、宗教とはなんぞや?世の中とは何ぞや?といった疑問を持ち続けることになったものである。
言うまでもないが、日蓮宗系の宗教団体なので仏教となるのだが、釈迦は一体何を言っていたのか?という疑問も同時にくすぶり続けることとなる。
今、拙があるのは、あの家に生まれたからである。感動を覚えるのである。

などと書くと、冗談染みているのだが、そこは良いとする。


そして、結局どういう結論に到ったのかを書いておく。


妙法蓮華経も唱題もおかしいものではなく、いい物と言える。

ただし、創価学会に所属していないと意味がない、というのは頭のおかしな理屈である。

明治の初版と現時点で書店で買える夏目漱石の小説を比較して、初版以外は読む意味がない、と言っているのと同じである。

貴重であるかないか、なら判るが、読む意味がないなら、どちらにしても意味のないものだと言ってやろう。

それなので、創価学会は、宗教の名を語った会社である。実際に宗教団体として登録しているので、詐欺集団である。

先日も書いたが、釈迦もイエスも、同じようなことを述べている。見出したものは同じなのだと。釈迦の言にならうなら、「真理はそれ以外にない」のだといえる。

宗教を否定しているアイクも、現実が幻であるという話や、愛がどうたらという。釈迦やらイエスと実際には変わらないものの見方になっているといえる。

「昔から言われていることと変わりないから」とけなしていた人がいたが、宗教を否定しているものが本質的な宗教的認識に到ることに思いをはせることが出来ないのである。

こういう物の見方をよく勉強出来たので、感謝するのである。


拙も思うこと仕切りなので人のことは言えないが、ネガティブになると思うだろう。

「こんな腐った世の中なんざ、消えてしまえ」と。

また、陰謀論だと、「明治に天皇入れ替わってから世の中おかしくなった、戦後でさらに加速して継続中だ。ひどいひどい」とやっている。

ちなみに、徳川家康の家康はイエスから来ているのでは?という話があって、西洋の秘密結社やらの影響は、ずっと昔からあったと言えるのかもしれない。
イエス=秘密結社になるかどうかはしらんが、詳しい人は知っているだろう。戦国時代にやってきた宣教師は云々と。

まあ、言ってしまえば、世の中は腐っているのが常であると思ってしまえばいい。


そして、考えなければなるまい。

その腐った世の中があったればこそ、こうして生きているのだと。そういう生きがい?みたいな物を得て、他人を貶したりして、頑張れたりしている。

とはいえ、他人を貶して暮らすのはよしたまえ。そこで、「馬鹿な日本人は滅びて当然だ」とおっしゃった日本人のことを思い出してあげよう。

本当に馬鹿なのかはしらないが、馬鹿と見なせる日本人が暮らす世の中があればこそ、そうやってふんぞり返ることが出来たのだと。

馬鹿(も多いだろうが)な日本人が暮らす腐った(上記の通りなら、世の中とは腐っているのが常だが)世の中を作り上げたのが、然る秘密結社だというのなら、斯様な者たちは感謝しても仕切れまい。

イルミナティに感謝を!最大限の謝辞を!

いや、別に感謝の言葉を送る必要は多分ないが、人の世とは面白いものだと、感謝せざるを得ないのである。


では、よき終末を。