ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

趣味の優劣について

2017-05-31 | 雑記
先日、後輩とある話をしていた。長くない話だが、その何日か前にも同じテーマを話していた気がする。

それは、「ゲームは趣味といえるかどうか」であった。

この場合のゲームは、件の後輩は、スマホやらアイホンでやる、モバイルゲームというのか、あれをやりながら聞いてきたもので、広義に言えば、テレビゲームともいえようか。

かなり前にもそのテーマで話をした覚えがあったのだが、その時も同じように言ったものである。

その内容はというと、ずっと昔に、何かで読んだ趣味のことについてのエッセイだったと思われる。それに則って、見解を述べたのである。

「趣味というのが高じれば、創作に向かっていくものだ。ゲームなら作るようになったりしていく」と。

後輩がそれに対して言う。

「ならば、ゲームをプレイするのは趣味にはならないのか」と。

書いた発言はそのものを記したものではないことをお断りしておく。

趣味にならないわけではないが、例えばコレクションの趣味なら、ゲームのキャラの装備やらレベルを上げていくのもコレクションの趣味とはいえようが、何にせよ、無いところから作り上げていくのが究極なのだろうと、そういう風に伝えたものである。

それに続いて、後輩の知り合いだとか、モバイルゲームで伝え聞く話で、例えば何かを手に入れるのに20万円ほど使ったとかいう話があった。

今ではそのアイテムは使い物にならないのだとかいうが、課金に文句言う奴に限って、ビタ一文払わなかったりするのは、拙が以前やっていたゲームでもよく聞いたもので、どこも同じなのだなと、感想を述べたものである。

実は以前に、その後輩には、アイクが語っていた「意識」(普通の意味での意識と区別するために、とりあえずカッコをつける)と物質の話を軽くして、その引き合いに、マケヒコのおっさんの話をしておいたので、課金についての所見を、こう述べておいた。

「そもそも全部幻なんだから、何につぎ込もうが、好きでやっているんだから、それでいいんだ」と。

大体、手に入れいるのに20万円かかっただけで、一回目で引き当てたり、2000円分で引き当てる人もいる。

当たらなかったものの僻みか、金を一円も入れないが故にそもそも手に入れることが叶わないものの遠吠えといえようか。


さて、別に課金の話をしたいわけではない。運営も慈善事業ではないので、払いたくなったら、自分が払える分で払えばよろしい。

余談だが、税金が義務なのは日本ぐらい、という話を何かで聞いた。アメリカの憲法だかの規定でも、「気持ちで払うもの」と書かれているのだとか。まあ、消費税はあるが。
神社の賽銭も税金も、果ては基本無料ゲームの課金も、同じ意味になってしまうとは、驚きである。

余談は措くとして、話を進める。


後輩に、趣味についての見解を述べたが、そもそもがとあるコラムの話が気に入っていたからである。

今でもそうなのだろうと思うが、かといって、創作にあらずんば趣味にあらず、とは思っていない。


また例の「意識」の話に戻すが、人間とその精神及びそれらを取り囲んでいる物質や現象は、一つたる「意識」から立ち現れているのだという。

歪曲するくらい噛み砕いて言えば、人間をやっているということ自体が、「意識」とやらの趣味なのだといえる。

そして、それは実に悪趣味だという見解を述べているのが、例えば仏陀だったり、イエスだったり、名前しか聞いてないのでよく知らないが、クリシュナだったりする。


一つの「意識」があれやこれやと見ているのか見せかけているのかは判らないが、こういう話を聞いたことはないだろうか。

人は、ある対象を好きなのはもしくは嫌いなのは、こういう理由だと述べるが、実際は好悪の理由は本人も判らない、言語以前のものだったりするのだと。


以前に書いた例え話で、上手く書けなかったが、改めて下手なまま書く。

ある漫画だとかアニメのキャラがいて、ひどく気に入ったとする。

それを描いたのは、ある漫画家だとかアニメーターになるわけだが、時代の流行だとかで、その作家が思いついて描いたというのは間違いはない。

しかし。一つの「意識」から本来は出来上がっているのがこの世だというのなら、実際は作家が単独で思いついたのではなく、それを気に入ったあなたが作り上げたのだと言えるだろう、とこう書いた。前はこの様に、重々しくは書かなかったが。


人間は「意識」の悪趣味という話に戻る。

蓼食う虫も好き好きという。悪趣味なつくりの人間というものに、ひどく愛着を持つのが我々である。

例えばダイエットして、綺麗になったからと、悪趣味なのが本質の人間という己を、素晴らしいものかのように信じ込む。

例えば瞑想だとか精神修養をして、本質は悪趣味でしかないのに、高邁な存在になったとうぬぼれる。

例えばベジタリアンになって、肉を食う人は頭がおかしいと、本質の悪趣味な自身のことは顧みず、他者を非難しては悦に入る。

そういう人が例えば、テレビゲームやったりだとか、服買ったりだとか、所謂一般的な生活の趣味を非難する。

己の悪趣味を棚に上げて。


もう一ついえば、一般的な趣味も、人間という悪趣味からは逸脱してはいないことを弁えておいて貰いたい。

それなので、人間が悪趣味だという事を理解しないでは、どのような生活をしていようが、悪趣味の域を超えることはないのである。

「このような生活をしているから、我々は悪趣味ではない」と信じたがるのが、そもそも悪趣味なのである。


一つの「意識」からの、言ってしまえばオンライゲームの運営が配信しているゲーム内の複数のイベントのうちの一つに現を抜かしているに過ぎないのに、「わたしの趣味のほうが高邁だ、見習え」と、やっているのである。
笑って欲しいのかも知れないが、笑えるところがない。

いかに己が高邁か、を人に見せようとやっきになる姿は、人間という悪趣味を如実に現し、そして当人はそれを素晴らしいと勘違いする。

それならば、そんな固定観念を無視して好きなことをやっているほうが、余ほど高邁なのである。

ビンのふた集めであろうと、筋トレであろうと、はたまたテレビゲームであろうと。


少し話がずれたが、もう少し。

趣味は創作になっていくのが流れ、と書いた。

しかし、先ほど書いた例えに則れば、実はすでに創作していることになる。

というわけで、趣味が創作になろうがゲームのプレイになろうが、何の違いもないといえる。

繰言になるが、高邁ぶって悪趣味をひけらかすよりは、好きなことに没頭しているほうが余ほど高邁である。

どちらにしろ、一つの「意識」が作った悪趣味な人間の、手慰みである。
やたらと恥じ入る必要はそも、ないが、だからといって、偉大な物だと勘違いするのもまた、どうかしている。


趣味が高じて創作へといたるというのならば、人間を「意識」へと創作するのが究極の趣味だと、仏陀だとかイエスだとが言っているわけである。

噛み砕きすぎな話なので、余り当てにしないように。


では、よき終末を。


愛は面妖

2017-05-28 | 雑記
聞いたところによると、二十世紀の物理学が物質の本来の姿はなんなのかというのを見出したという。

二十世紀といっても間は百年あるが、その辺りはよろしい。前からずっと書いている話のことである。

波動といって、英語で書くとwave。波動で検索すると、科学用語としての波動と、オカルトとしての波動の二種類の説明が、Wikipediaに書かれていたりする。

その波動の動き方しだいで、肉になったり野菜になったり、犬になったり猫になったり、男になったり女になったり、昼になったり夜になったりしているわけである。
男がいきなり女になったり、その逆になったりというのは見たことがないので(性転換手術だとかそういう話でなく)、一応、現れたものは覆しきれないのだろうという約束の下で、世の中は動いているのだといえる。

これをどう説明するのか。三年くらい悩んでいた、というのは冗談だが、もっと詳しい人は判りやすく説明してようものだが、自分なりに噛み砕いてみようと。

その一端が、以前書いた、部屋のフィギュア眺めてたら口パクしてたり、腕やら身体が息をしているかのように上下しているという話である。

目がおかしくなった、薬でトリップした、と言うのならそれでも構わないが、精神に多大な影響を与える薬なんぞもってない。

目がおかしいというなら、ここで文章をまともに打てはしないと思う。

読みづらくて訳がわらかない、という評価なら、それはそれで仕方ないのだが、読める日本語の文章を書き込んでいるはず。


さて、しばらく前に、家の本棚にあった漫画を読んでいた。

なんという漫画か、というのは別に問題ではなく、そこにあった、よくある表現のことである。

敵の魔法使いだとかが、幻術で実体のない化け物を呼び出して襲わせるというものが、よくあるだろう。

それで、その化け物に噛み千切られたり、爪で切り裂かれたりと、襲われた人やら物がそうなる。

しかし、主人公だとか仲間だとかが幻覚だと見破って、「気をしっかり持て!」だとかやって、見事打ち払う、という展開は、見慣れたものかもしれない。

無論、切り裂かれてもないし、血も出ず、物も壊れていないのである。それで死んだと思い込んでいる脇役は、本当に死んでいたりするわけだが、見た目は壊されていないのである。


言ってしまうと、我々の日常もこれと同じ状態なのだと、物理学者の研究で発見されたというわけである。

嘘だ、指切ったら痛いだろうに。お前の先輩も心筋梗塞で死んだろうに、と言われるだろう。

無論、拙も指切ったら血が出て痛みを覚えるし、心筋梗塞になったら墓場に拘束されることになるだろう。

でも、これら全てが、幻覚の化け物なのだと。


波動というものの話に戻るが、以前、コメントで「記憶や感情も物質と変わらん」とやったものである。

野口晴哉もいうとおり、生物無生物問わず、気を発している。

気は物質以前の存在といっていたが、感情といったものですら、波動なのだというわけである。その波動の余波か何かかは知らねども、人間としての感覚で見聞きできる形として現れているのが、気だとかプラーナだとかいうわけなのだろう。


仏陀は、この世の有り様の根本は苦しみだと言っていた。

人が人たるというのは、苦しみの波動で作り上げられた悲劇の人形といえる。

苦しみでしかないものにすがりつくのが、そもそも間違いなのだという訳である。

いや、それはおかしい。世の中、人を喜ばせたりするものが色々あるではないかと、普通は思うだろう。

その喜ばしい物事自体が、苦しみの原因なのだと。愛するものをもつな、と言っていた。

愛するもの自体が、苦しみで出来ているのだと。その感情自体も、となる。


生の苦しみを抜けた先はつまり、人間を卒業するということになる。再び母の胎に入り込んで生まれることはない、と仏陀は述べていた。


以前に、「人間マイスター」とかいう妙なタイトルの記事を載せた。

なんたらマイスターは、昔放送していたガンダムのシリーズの用語から取った。パイロットの別称である。

つまり、我々は人間という名のモビルスーツに乗っているだけで、腕が千切れようが足がもげようが、関係ない。

もっと言えば、ラジコンなので、木っ端微塵になっても問題ないとなる。


しかし、我々は木っ端微塵になったラジコンが本体だと思って、またラジコンを買ってくる。

書いていて意味が不明になったが、デカルトの命題をもじっていうと、こうなる。

「我動かす、ゆえに我あり」と。本来はラジコンを操作しているほうが本体なのに、勘違いを起こしていると。


拙もいきなり、腕を切り落とされたら、生きた心地がしない。場合によっては死ぬ。

こういう話は、俄かには信じられない。書いている拙としても、実証できるとかそういうレベルにはない。

では、すぐに人はそう考えがちであるということを、卑近なレベルで例える。


この世界はヒミツケッシャの陰謀で云々、というのはここで書いてきた。陰謀論、と十把一絡げに言われている奴である。

実際に陰謀の結社がいるかどうかは、本来は関係がないのである。いないと言っている訳でもない。

人の不安を煽る存在が名を変え品を変えて示されているだけだからだ。

国は税金集めることばかり考えてるとか、企業は目先の利益に囚われて人の暮らす環境を破壊しているとか、別に結社である必要はない。

今の例えだけでも、「そんなわけないよ」という人は普通にいる。

とある方は、そういう一般的な、言ってしまえば怠惰な思考回路の大衆に腹を立てていた。

ついでに言うと、自給自足の生活に舵を取ろうとしなかった拙にも腹を立てて、怒鳴り散らしてきたものである。

などと書くと、特定してしまうことになるが、我慢していただく。


さて、とある方は、物質世界の本質は幻で、幻の約束事のうちで人を操っているのがこの世の中だと言っている活動家の本を翻訳しておいて、なんといったか。

「そんなわけないよ」であった。そう言った訳ではないが、覆しようがないので(と決め付けて)、森の中での自給自足の生活が正しい、と述べた。

他人の怠惰な思考に腹を立てる前に、己が怠惰を見直さなくてはならなかったのである。

何にせよ、他人ばかり見て、自身の姿を顧みなかったといえる。


人の姿とその思考と感情に愛執を抱くと、こうなる。


我々も、とある方を笑うことなど出来ないほど、怠惰なのである。

愛ゆえに、人は苦しまねばならぬ、と、昔の人気漫画の台詞にあった。

苦しんでいるのに苦しんでいると判らぬのが、幻覚の幻覚たる所以であり、それを仏陀は言っていたのである。


では、よき終末を。


虫の報せ

2017-05-26 | 雑記
日曜日のことだそうだが、大学時代の一つ上の先輩が亡くなられたという。

死因は心筋梗塞だとか。大学時代に茶の湯をやっていて、その先輩後輩としての付き合いがあっただけ、といえばそうなる。その方が卒業されてからは連絡を取ったことはないのだが、顔や声の感じはこうだったなぁ、と思い出せるくらいは覚えている相手であった。

年齢はこちらの一つ上。享年三十五か六であった。

笑い話になってしまうが、後輩が訃報を知り、メーリングリストで報せていたところ、旧姓と同じ(亡くなられた方は女性である)名字の、着付けの先生だと思ったらしく、慌てて報せていたらしい。その着付けの先生も高齢で、そうなってもおかしくないとはいえ、慌てすぎである。後ほど訂正を付け加えたものを再度流していたと、拙に直接報せてきた後輩が言っていた。

さて。その訃報を受け取ったのは、実は火曜日だった。

去る日曜日は夜勤。日曜の夜勤は静かであるが、その日は少し体調がよくなかった。窓開けて寝てるのがいけないのか、呑みすぎた覚えはないのだが、呑んだのがいけなかったのか、などと思いながら勤務していた。

勤務時間中、二度ほど、頭が痛いような重くなるような、気が遠のくような、少し怖い感覚を抱いた。

「ああ、こりゃ死ぬかもしれんなぁ」などと、その時に考えたが、特に倒れることもなく、平然と過ごしていたものである。

仕事が終わり、帰宅の途中、近所の神社に立ち寄った。前述の通り、訃報はまったく知らない。

すぐ上に「平然と過ごした」と書いたが、やはりなんだか妙な感じがする。日課のお参りをして帰ろうと思い、賽銭箱に十円玉を投げ込んだ。

賽銭箱は、全部がそうかはしらないが、真ん中の溝に向かって斜面が作られている。逆三角形になっているわけだ。

ここしばらく、賽銭は溝の中に落ちないことはなかったのだが、その日だけはなぜか、手前の斜面で止まってしまった。

やはり何かおかしいと感じ、お参りを済ませて帰宅した。

さっさと寝ようと思ったのだが、しばらく動物の動画を寝転がって見てから、眠りに付いた。

ひどく疲れていたらしく、何度か目が覚めることはあったが、すぐに眠り直す。寝すぎが惰眠を呼ぶのか、火曜の夕方まで寝ていた。

そして、いい加減起き上がろうと思い、ケータイを確認すると、着信とメールがあった。同一人物からの電話とメールで、その訃報の話だったというわけである。

亡くなられたのが日曜。時間帯等は知らないが、日曜の勤務中に二度ほどあった頭痛。それと賽銭のこと。話の種として後日、馴染みの店で話を振ってみたら、やはりこういわれた。

「安生さんは、何か引き寄せるたちなんじゃないですか」と。

「何か引き寄せるなら、こっちも死ぬところだったんじゃないかね」と、笑っておいた。


さて、もう少し。

日曜の勤務は暇だと書いた。暇なので、読書をしていた。

といっても、ページ数は少ない。何せ、仏典だったから。

膨大な仏典もあろうが、短いのがある。仏教学者の中村元が、仏典の日本語訳を出している。

最古の、とついた場合の話は以前した。向こうの言葉をカタカナで書いて、『スッタニパータ』という。

岩波文庫で『ブッダのことば』というタイトルで出版されている。

それに近いぐらいの、仏陀自身の言葉で書かれているらしい仏典があるそうで、『ダンマパダ』という。

「真理のことば」で検索すると、すぐに出てくる。もしくはすぐ上のカタカナの名前でもよいと思われる。

仏陀が語ったとされる詩の名詩撰だとのこと。

中村元の翻訳そのままを載せたのかはしらないが、あるサイトに乗っていた、それほど長くない『ダンマパダ』の翻訳を読んでいたのである。

もしくは何かの拍子に『感興のことば』のほうを読みかけ、気づいて読み直したりしたので、実はそこの話だったかもしれないが、ともかく。

どの章か見出せなかったので、うろ覚えで書くが、仏陀はおっしゃったものである。

「あるものは母の胎で死に、あるものは生まれると同時に死に、あるものは歩き回っていくうちに死ぬ。老いも若きも、どんどん死んでいく」という風に語った箇所があったと記憶している。

また、『スッタニパータ』で語っていたが、人間は生きて八十年ほどという。


話が急に変わるが、六年前の大地震で原発が吹っ飛び、大きな原発のあった福島辺りでは、若い者ばかり急に死んでいって、周りは老人だらけになっていると、涙ながらに訴えている動画があった。

ツイッターやらブログの証言でも、急に周りで死ぬ人が増えた、これは放射能と陰謀(食い物やらに混入の化学物質)のせいだろうという風に語られていたものである。


原発もない、自然豊かといえば聞こえのいい時代で、生きて四十年と語るのならまだしも、日本の平均寿命くらいは仏陀の時代でもありきたりだったといえる。

そういう社会だったのに、仏陀は、老いも若きもどんどん死んでいくのだと語る。

つまり。人の世は、今も昔も同じなのである。ほんの何十年か、誤差程度に偏っていて見えなくなっていた現実を垣間見ているに過ぎないのである。

我々はそのうたかたの夢を繕うのに夢中になっていたのである。夢を繕うなどとは、夢を見るのも大概にしなくてはなるまい。


などと、詩人だか哲学者だかになったような話では、拙の気が治まらない。人でなしの発言に聞こえる、ある人物の言動を紹介して、筆を擱くことにする。

ここでも何度か取り上げてきたが、その人物とは、漫画家の故、水木しげるである。

第二次世界大戦の折、彼は動員されて、東南アジアの激戦区に送られ、そこで片腕を落っことして引き上げてきた。

同僚のほとんどは死に絶えたという激戦で生き残った彼は、後年、何度かその地に足を運んでいたという。

彼はそこに行くと、笑いがこみ上げてくるのだという。

他のやつらがくたばって清々した?そういうわけではない。

「ああ、俺は生きているんだなぁ」と感じて、笑いがこみ上げてくるのだという。

他者の死を悼むとかいうのではなく、純粋に自分が今生きていることの実感と喜びとでもいうものだろうか、そういうことを、周りで何人も死んで、なお且つ自身の片腕も落としてきたかつての戦地で、そう思うのだとか。

彼は妖怪だとかよく言われるものだが、ある意味、悟りを開いていたのかもしれないと、歳の近い、拙のかつての知り合いの訃報を聞いた際に、そう考えたものである。

そういうお前は、妖怪漫画家みたいに笑いがこみ上げたのか?と尋ねられたら、こう答えておく。

「勤務中の頭痛で死ぬかと思ったが、拙は生きてるのだなぁ」と。


では、よき終末を。


天皇陵のお土産

2017-05-21 | 雑記
しばらく更新を怠っていた。ほかの事にかまけていたのと、拙が何か言わなければならない理由が見当たらなくなったからである。

拙、ってなんぞと突っ込まれる前に言うと、わたし、とか僕、とかと同じく、自称である。この記事内だけの話なので、不断の努力で普段からやっているわけではないことをお断りしておく。

さて、先日。都内某所にある、天皇陵に墓参してきた。

多摩御陵と武蔵野御陵が併設、というとなんだか墓っぽくないが、そういうところである。

埋葬されているのは、大正天皇と昭和天皇、その両皇后であられる。

かなり前にも一度参ったことがあった。そしてその後、某陰謀論者とつるんで、昭和天皇はイルミナティの飼い犬だのとやったものである。今ではいい思い出である。

するとまた転んで、天皇万歳だとかいう気持ちになったのかというと、そういうわけでもない。説明は後でするかもしれないので、忘れてたら後日突っ込みをくれると、はぐらかすつもりなので、期待するように、などとコメントの催促をする。誘いに乗ってはいけない!

実は、二度行ってきた。しかし、一度目は時間切れ。家を出るのが遅かった上に、歩いていける距離(一時間ほど)だったので、歩いていったら見事最終入園時間をぶっちぎっていた。

しかたない。また日を改めようと、入り口から左の細道を通り、駅の方面に向かった。

御陵にそった脇の道を通っていると、御陵の上空に日が差し始めた。

「ははぁ、天皇の名は伊達ではないのだなぁ」などと、暢気なことを思いながら、大通りに出て、家のほうに向かって歩き始めた。

しばらく歩いていると、なんだか妙なのである。並木参道だとか名がついていて、まっすぐな道になっているのだが、何十メートルか先は翳っているのに、拙が歩いているところは日が照っている。

歩いていく先々が晴れていくといった具合になっていた。おかしいと思い、背後上空のお天道様を見上げると、曇り勝ちの空で、その時もお天道様の回りはほとんど雲。しかし、その時だけは丸々姿を覗かせ、照らしているのである。少しでも雲が動けば覆い隠そうというほどの状態であるにもかかわらずに。

「こりゃ一体・・・」と思いながらもそのまま歩き続け、御陵のある地区から外れたころだろうか。ようやく、雲に隠れた。

「入れなかったから、お土産でもくれたのかな」などと心の中で笑いながら、馴染みの店に入って今の話をしたものである。

晴れ男だのあんた何者か、たまに仙人とか言われる、みたいなノリで話をしていたような気がするが、忘れた。


そして日を改めて、間に合うように到着し、ようやく墓参してきた。なんだかずっと照らされるとかいう、あからさまな現象は味わうことはなかったが、御陵というのは不思議な空間である。

昔、初めて行った時は感じてなかったのか、それとも目が悪くなったのか(別の意味でよくなったが)、視界が少し湾曲するというか、膨張しているような、妙な感覚を覚えたものである。

もう少し詳しく言うと、遠近感がおかしくなったかのようである。御陵の作りがそうなのか、それとも日常の感覚で理解しうる物理法則とは別のものがあったのか(気だとかなんとか)、そのあたりは判らないが、興味があっていける方は、一度たずねてみるのもよいだろう。


さて。この前の記事だかに、神社にお参りしてきた話を書いている。パワースポット巡りがどうと書いた。

元来、宗教というのは、我々が認識しうる全てを作り上げた超越的な存在、神だとか真理だとか、そういうものへ到ろうとするものなのだという。
そのための教義であり、戒律なのだが、教義を覚えて戒律を守ることに宗旨、じゃなくて終始しているのが常となっている。
宗教のための教義ではなく、教義のための宗教組織の維持が認識を阻んでおり、害悪となっているというわけである。
そこを極端に悪用したのが、カルト宗教というわけであろうか。

そこを超えれれば、大体の宗教は全て同じところに到るというのである。二十世紀の物理学者が見出したように、全ては一つ、というのも本来はおかしいのだが、一つの意識から現れていることを知ることなのだと。

だから、実家で療養中の弟が、毎日だか三時間仏壇に向かって題目を唱えていることに、「無駄だから辞めろ」なんぞとは言わなかった。

「三時間やったからすごいとか、そういうのはない。何か違うなと感じられるものがあったなら、三唱で充分になる。それで三時間続けたなら、仙人にでもなれよう」などと、遠まわしには伝えておいた。
弟の感想は「さすが仙人のいう事は違うなぁ」と、褒めているのかなんだか、よく判らん感じであった。

実家のカルト宗教の戒律で、神社にお参りなんぞバチが当たると散々言われているのに、拙は平然と神社にお参りして、弟にそんなことを伝えたりするわけである。

日本最大の宗教団体の教義に浸っているから正しいなどというのはまったくない。そして、神社に賽銭を投げ込んで拍手を打っているから正しいというのもまったくない。

その先とでもいうべきものを見出せるかどうか。本質に行き当たるかどうかなのである。

本質を見出そうとしないものは、表面を変えた、自分で変えたと思い込んでいるだけの、中身は変わらないこと、つまり、本当の意味での幻に溺れ続け、この先も長いときを彷徨うのである。

言い方を変える。我々にとっての現実とは、我々の日常の感覚からしたら幻としか表現できないものが現実であり、それ以外のものは全て見せかけなのだということである。

誰のこととは言わないが、論語読みの論語知らずとは、けだし、明言である。

さあ。あなたも騙されたと思って、たまには神社にお参りして、賽銭は一円でいいから投げ込んで、なんでもいい(死ねとかそんなの以外)のでお祈りでもしてくるべし。

余談だが、上記の天皇陵直近の駅のすぐ近くに、小さな神社がある。そこの樹は、何の樹か忘れたが、二種類の樹が根っこからくっつきあって伸びている。

縁結びの樹だとのことで、小石に自分の名前と意中の相手の名前を書いて根元に置くと結ばれる、との謂れがあるとか。

まあ、観光案内程度の話である。気が向いたら覗いてみるのもよろしいかと存じる。


では、よき終末を。


続口熊野霊異記

2017-05-09 | 雑記
しばらく更新を怠けていた。これはいけないと思い、重い腰を上げて、今日は昼から夕方まで散歩していた。

いや、更新じゃないのか?と突っ込んではいけない。だからこそ、こうして書いているのである。多分。

市内にある神社でも訪ねようと、歩き回っていたのである。

今日は曇りで日差しが強くない分少し涼しく、歩きやすかったが、午後一時前に出て行って、家で風呂はいったら七時だったとかいう。

歩き詰めだったのではないが、途中で久しぶりに立ち寄ったそば屋で一時間ちょっと飲んでいたくらいで、家の近くまで戻ってくるのにそこから二時間ほどかかり、近所のネパール料理屋でチャイを飲んでようやく帰ったという有様であった。

市内で歩いたところがないというまで、そのうち歩こうか、などと思ったが、気が遠くなるので忘れよう。

さて、特にその中で何があったという話しはないが、やはりああいう場所は不思議である。

一つ目に参った神社の本殿の脇に、小さなお社があった。その前に立つと、本殿より何か感じるものがあった。

境内は大きな木もあり、涼しいのだが、そこだけ暑い。もしかしたら、熱いのかもしれない。

不快感はなかったが、不思議であった。

というわけで、パワースポットめぐりの話は終る。


実家に帰省した時に気づいた話をついでに。

ここのところ、アパートのどこかの部屋でエアコンがなっているのか、「クワァー」といった感じに響く音がする。

こんな音してたかな?などと無視していたのだが、なんと。実家で寝ていても同じ音がする。

ボイラーか何かの音かと思えなくもないのだが、生憎、二階の天井から聞こえてくる。そして、そこには何もない。

これも何かの聞き間違いかと思ったが、帰省から戻ってすぐの仕事の時、早めにチェックアウトした部屋で寝ていた。

するとどうだろうか。やはり同じ音がする。偶然が三つも続くとは考え難い。

「ああ。これが耳鳴りなんだな」と、暢気に考えるのであった。これが何しおう、クチサケール病とかなんとか。メニエールであろう。

頭の上のほうから聞こえてくるような、そうでないような。ハチマキ巻いた上半身裸の投げキャラみたいな名前のに、ソクラテスも従っていたとかいう。大門じゃなくてダイモンである。

「そこでコマンド投げ!」とか言われたら、大門決定ということにしておく。判り難いネタで申し訳ない。


さて過日。ふと気になっていたことがあり、軽く検索をかけてみた。

「タバコ スピリチュアル」といった具合である。

グーグルの検索結果一ページ目を見たところ、「タバコは悪い」か「タバコはまあいいところもあるけど悪いほう」といった具合であった。

一つ目のがそうではなく、その上、判りやすい内容で書いていた。肺が真っ黒の写真だとかは嘘っぱちで、悪くするために証拠をでっち上げている。こういう話は、以前ここでもよくやった。

煙が嫌いだからタバコは悪い、という風に大体の人は落ち着いて落ち着いてないのだが、事実に感情を紛れ込ませて真実を見なくしているのであると。
その理由がピューリタニズムで、事実かどうかではなく、作り上げたドグマで物事を壟断しているだけなのだといっていた。
世の中の法律だとか常識というのは、そういう風に作り上げられてきているのだよ、と書いておった。

なんでそうなるかというと、「人間には根本的に善悪を判断する能力がない」からだとか。

じゃあ、それ書いている人は判るのかというと、その人自身が判るわけではない。

そのブログで紹介しているというか、その人自身がセミナーやったり勉強しにいったりして来たそうだが、「キネオソロジー・テスト」というものがあるのだとか。

アイクで言うところのConsciousnessとほぼ同義の意味での意識が、全てを作り上げていて、そこにアクセスすれば、真偽の程がわかるという理屈である。

ほぼ同義、といったが、多分まるっきり同じである。

それはともかく、それでテストすると、良いか悪いか判るのだと。タバコの場合は、混ぜ物が少ないものなら問題なしとのこと。具体的に上げていたのは、アメリカン・スピリットのオーガニックの物や、高級な葉巻だとか。
この件は拙も以前書いたが、タバコと言った場合に大体の人が思い浮かべるのは、シガレットである。まずはそういう思い込みから考え直すべし。

その「キネオソロジー・テスト」というのを開発した学者が、世の中の色々な物を検査したそうで、それが書かれた本も存在するのだが、未邦訳である。

代わりに、そのHPの人が、翻訳とさらに解説なんかを大量に加えて著作権問題をクリアした状態のリストを配布しているそうなので、気になる方はそのブログへアクセス。

さっきの検索ワードで出てくるはずなので、後はお好きに読んでいただく。

スピリチュアルって一体何なのか?拙もよくわからないというか、どうやら間違っていたらしいが、多少当たっていたらしい。

目標は、「人間卒業」なのだとか。ん?人間を辞める?どこかで聞いたような?まあ、よかろう。

詳しくかくと大変なので簡単に言うが、とぼけて言ったほうの人間を辞めると、「人間卒業」はまったく意味が違う。

森に入ってそこで自給生活するというのは、つまるところ、将来への不安の払拭を、物にすがっているだけである。金が土地やら樹になっただけのことである。これはどこまでいっても人間そのものである。この辺りは散々書いたので、終わりにする。


拙が気になった、というよりは、やはり疑問に感じたことが当たっていたようだと。そんな話を読んできた。

理由は、最初の検索ワード。そして、たまに紹介していた「空色ノート」というスピ系のブログ。

そこの方が載せていた新江、じゃなくてアラーエとかいう、宇宙人のメッセンジャーというのか?チャネリングか何かの文章を以前紹介した。
実を言うと、そこ自体ではなく、注釈の方が面白かったから紹介した。その記事は・・・別にいいか。


さて、人類の未来のためになにやら語りかけている?未来のためだったっけ?は措くとして、それなら物事をちゃんと伝えないとおかしいだろうなと感じた次第である。
曰く、「タバコを攻撃に使ったりしている」だとかなんとか。
タバコの煙がー!身体が悪くなるー!ってのは上記でも示したとおり、洗脳である(紹介した記事でも断言している)。
タバコなのかシガレットなのか、混ぜ物してるのか、本当は身体にいいところが多いのにそういうのを無視し、迷妄を破らせようとしないで、作り上げられた迷妄を利用して話するというのは、不誠実極まりないと思うのだが、実際にそうだったようである。

上記の「キネオソロジー・テスト」で、有名どころのチャネリングはどうか検査したそうだが、バシャール、プレアデス共にアウトだとのこと。
新江さんもプレアデスでしたね。ソウデスね。
ついでに、チャネリングという行為自体もアウトだとのこと。

まあ、タバコは身体にいいから、選んで吸うならいいですよ、なんて宇宙人が言うとは思えないので、仕方もないか。

何ゆえか?ちゃんとしたタバコを吸われると、自分たちに着いて来てくれなくなるからだと思われる。吸っているかどうかというのは別の話だが、嘘はばれるものである。

「人間卒業」と言っていたが、そのHPの人も言うとおり、こういう話は釈迦やらイエスやらも到達していたというものなのだとか。

『スッタニパータ』にも、掻い摘んで言えば、馬鹿なことをしてきているから、また母親の胎内に入って、馬鹿な人間に生まれるなんて繰り返すんだとあった。

アイクだと多分、そこに向かう道筋を見出したくらい、とでもいうところか。さすがに、「人間卒業」では人が集まらない。


さて、ご注意を。


件のHPは、人によっては拒絶反応が激しいと思われる。特に現代社会における道徳的振る舞いに血道を上げているような方には、到底受け入れられない話もあろう。


「人間卒業」。上等である。いや、いきなり卒業できるもんではないが、以前にも書いた。

己の意識を変えれば、周りも変わるのだ、と。この場合は意識というより思考だが。

唸って変わるものではないので、ご参考までに件のHPを覗いてみてもよかろうと存じる。


では、よき終末を。