南無煩悩大菩薩

今日是好日也

角を矯めて牛を殺すことなかれ

2020-01-05 | 古今北東西南の切抜
(photo/source)

人間にしても同じことです。どうも私はおこりっぽくていけないからとて、その感情の根を押し潰し、また私は欲望が多過ぎて苦しいからとて、その根を断ち、また私は子供っぽくて困るからと、その根を刈ります。結局生きているのか、死んでいるのか判らないような人間になって、世の中の役に立たなくなってしまいます。これは人生の素人であります。

すべていけない方に目を付けてこれを刈込んでしまう。これでは誰でも、何事でも、痩せて、枯れて、滅してしまう一方です。

子供を育てるにしろ、人を使うにしろ、相手をすっかり萎縮(いじけ)さしてしまって、その特色を引き抜いてしまいます。

ちょうど正反対の方面があります。何でも、あるがままがよいとして、食べたい放題、遊び放題、無理の言いたい放題、不義理のし放題――それを、また世間でも、磊落だとか無邪気だとか言って買い被り、苦笑しながらも黙って見ているようなことがあります。もし世の中が、あるがままがいいということになったら、人生は骨折りも努力もいりません。

残すだけを残した髯と、無精髯とは見分けてやらねばなりません。

人間がたった一人、この世の中に生れて来て、そして自然の中に生きて行くのなら、相手も自然、こっちも自然、それで気が合ってよろしいでしょうが、しかし、人間が二人となり三人となる以上、協調ということが生活上必要になって来ます。協調ということは折れ合うこと、折れ合うということはしたいことも相手に遠慮して差し控えるということです。程よく保ち合うということです。

まして人間には、たった一人のときでも自分を完成し、周囲の自然を開拓しようとする意志は持って生れているのですから、その人間本来の意志に従わず、勝手気ままな外界の自然のありさまを手本にでも見習うような放縦な生活は、どうあっても「真理」の逆行です。

私たちの持っている人間性、これを刈り取ってはいけず、さればと言って、伸び放題うっちゃって置いてもいけない、なかなか難しいことになりました。

でもそれは言うまでもなく、前に述べましたように、一見、邪魔、不善に見える人間のいろいろの性情の根は、実は非常に大切なものでありますから、これを潰したり押えたり、刈り取ったりしないで、これらをみんな活かして善用して行き、立派に役立てて進んで行くという人生の大道です。

「煩悩即菩提」(迷いや欲の本性は取りも直さず悟りのもと)と言ったり、「凡聖不二」(愚かしい心と霊知の心と根は一つ)と言うのは、この事を指しているのです。

田の草をそのまま田への肥料(こやし)かな

これなぞも人間性といわれる性質の中のどれ一つとして絶対に人間に不利益と見究めのつけられるものは一つもない、みな使い方によっては立派に人間の向上、進歩、発展の薬になるものだという寓意を含んでおるのであります。

「自分がいくら骨を折ってやっても、することなすことみな無駄になる」
 
苦学をして勉強していた一青年が、こう歎じました。実際彼が骨を折ってなしたことがみな無駄だったように見えました。彼はすっかり懐疑家になり、しばらく呆然(ぼんやり)として暮していましたが、反撥心を起して、こう言いました。

「こうなったら、もう自暴(やけ)だ。今度は逆に、無駄なことばかりしてやろう」

青年はそう決心はつきましたものの、さて、その決心に添うような無駄事を探す段になって、はたと行き詰りました。世の中の事は何一つとして必ず何か用途を伴うもので、全く無駄というものはない。ふてて、ごろりと寝ていることさえ、身体の休養になってしまう。
 
消炭の屑は鍋釜の磨き料になるし、コロップの捨てたのは焼いて女の黛になるし、鑵詰の空鑵は魚釣りの餌入れになるし、玉子の殻はコーヒーのアク取りになるし、南瓜のヘタは彫って印になるし、首のもげた筆の軸は子供のしゃぼん玉吹きになるし、菜切庖丁の使い減らしたのは下駄の歯削りになるし、ズボンの古いのは、切って傘袋になるし――。青年は家の中を見廻して、あまり無駄なもののないのに圧迫を感じて居堪まれなくなって表へ飛び出しました。

青年はふとラジオ店の前に立ちました。某水産技師の講演放送中でありました。
「みなさん、あの何万粒の数の子の中から孵って鰊になるのは、ほんの二、三匹に過ぎないということを聴いて驚かれるかも知れません。自然は何という無駄をさせるだろうと。しかし、それは人間の頭の考えであります。自然にしたらば、はじめからその何万粒の無駄を承知で、その中のいくらかの鰊の生を世に送るのであります。もし何万粒の無駄がなかったら、そのいくらかの鰊の生もないのであります。

従って自然においては、いくらかの鰊の生のために他の何万粒の犠牲は無駄どころか当然なかるべからざる用意なのであります。故に、自然は、その何万粒のどれにも厚薄のない同等の念を入れて世に送るのであります。それを無駄と考えるのは人間の頭であります。ここに自然の考えと、人間の考えとのスケールの大きさが違うのであります」

もう青年は、これ以上聴く必要はありませんでした。無駄をしまいしまいという考えは却って無駄をすることになるのだ。それはちょうど生きるだけの鰊の数しか数の子の粒を用意しないようなものだ。孵らないにきまっている。その中に無駄のあることを予想してかかる仕事こそ、却ってその無駄を意義あらしめる結果になるのだ。自然が何万粒の数の子を、いくらかの鰊として予算するようなものだ。そう考え付いた青年は、腕組みして、強い息を吐きながら、折りしもつきかけた町のネオンサインの旋廻を眺めながら言いました。

「僕も、無駄を平気でやれるような人間になろう」

人間に心があり、心に感情がある以上、だれにも好き嫌いの気持ちがはたらくのはあたりまえです。それを好いてはいけない、嫌ってはいけない、と道学一ぺんに叱ってしまったら、目も鼻も撫でて延ばしてしまった顔のようなのっぺりした人間ばかりになってしまうでしょう。

松や桜や、梅や竹や、その百木千草の変化があって自然の風光が面白いように、人間に好き嫌いの気持ちの陰影があってこそ、むしろ人々の変化やリズムがあって面白い、世の中が単調に流れません。ですから好き嫌いは大いにあってよろしいのです。
 
ですがこういったあとで殊にも言い添えなければならないのは、くれぐれもその好き嫌いの気持ちに捉われてはいけないということです。捉われて、それをいこじに通して行こうとするとき、その人は我儘者になるわけです。

-切抜抜粋/岡本かの子「仏教人生読本」より

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