(Bodisattva/original unknown)
尺八を吹く人は世間にたくさんあるが、真に尺八の妙趣を会得して吹く人は稀である。尺八寸の1管の笛は、単に人の心を慰める玩弄品の笛ではない。あの尺八の裡には実に甚深の禅理が寓せられている。
尺八の元祖は紀州由良の興国寺法燈国師の弟子虚竹禅師、その人であるが、故事来歴のことはしばらく置くとして、尺八を吹く人のために、尺八の極意を語ってみる、尺八には投機の偈と云うがある。これは虚無僧の経文とまでせられている偈頌で、実に大切なる二十八文字である、曰く、
一従裁断両頭後 尺八寸中古今通 吹起上那一曲 三千里外絶知音
尺八の極意はこの一絶のなかに含蓄されている。此の偈頌は解ったようであっても、その奥義に徹底することは容易ではない。が、今ここに蛇足をつけてみると、笛はわずかに尺八寸の管であるが、これに唇を触れて一曲また一曲と吹き起こすときは、心中の雑念、いつしか雲と散り煙りと消えて、我もなく人もなく、笛の音もなく、いわんや恋い、富み、煩悶、名誉利達の念のあろうはずがない、三千里外何物も無くなって、唯天地間に一つの微妙なる笛声あるのみ、ここに至っては悪魔も覗うこと能わず、神仏も守ること能わず、天地独歩の境涯で、この境涯に体達しない以上、真に尺八の極意を会得したとはいえないのである。
すなわち虚竹禅師はこの尺八によって世尊伝来の的々相承の禅理を諸人に周知させるため、また一つには尺八によって人の荒い気性を和らげ、汚穢なる心情を洗い去るために、自ら虚無僧となって天下を周遊せられたのである。
今ここに一軒の家があって夫婦喧嘩をはじめ亭主は割り木を振り上げうぬ畜生!と怒鳴り、女房はなに糞!とすりこ木を持って喧嘩をしている真っ只中へ、飄然一人の虚無僧が天地も蕩けよと嚠喨たる尺八吹奏してきたならどうであろうか、微妙の笛声が耳朶に触れ心の琴線に響いたならば、鬼の如き夫婦も、我知らず魅せられて一種の霊気に触れたかのごとく、振り上げた手もいつしか垂れ下がって、心中なにものかを悟るがごとき思いがあるであろう。
すなわち虚無僧が人の門の前に立って尺八を吹くのは、もと一切衆生を強化する大慈悲心より出たものであるが、近ごろの虚無僧にこの心あるや否やは、予の知るところではない。
ー引用/村田無道「参禅実話」より
Tamuke (Offertoire)
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