( 新潟絵屋の資料より )
昨日は新潟市美術館で 『 洲之内徹と現代画廊 』 を見て、詩人・吉増剛造氏 ( 1939生 ) と美術評論家・大倉宏氏との対談 「 夭折の画家・田畑あきら子をめぐって 」 を聞いた。これが記憶に残る対談となったのは僕だけではなかった、と思う。
吉増氏の、マイクに向って屈み込んで話す、行きつ戻りつしながらの田畑あきら子 ( 1940-1969 ) との青春時代の思い出のお話は、やはりエレジーがあるのであった。二十八歳の若さで逝った女の生涯は、やはり絵がものを言うのであり、彼女の詩が彼女自身の人生を予感するのである。
つい昨日のことなのに、僕は詩人が何をしゃべったかを覚えていない。しかし詩人が静かに田畑との追憶を、屈み込んで訥々と話すその姿は、これは何よりもの田畑あきら子の絵画がもたらすポエジーでもあった。彼女の引く線には、真っ直ぐな線は何処にもない。線は、歪んだり屈曲させられたり、どれもヘンに曲がっているのだ。若くても、また年を喰っても人生は曲がるのである。だけど、彼女の絵の、詩の、人生のまたは線の、曲がりはなんと美しいのだろう!
彼女の自問自答の書 『 「 プルーストの質問書 」 による、田畑あきら子の回答 』 に、「 最後に、お好きな銘句または信条の一つを 」 の回答にこんな句を書いている。
黄金、火だるまのなかの白い道
心なし身にもあはれは知られけり、しぎ立つ沢の秋の夕暮れ
美しきもの見し人は、はや死の手にぞわたされけり