来訪者あり

2014-05-12 | 日記

どうもまた一日遅れの “ 日記 ” になったが、昨日は一昨日の流れで、帰京するお二人を我が家にご案内した。長岡駅で途中下車していただき、ご馳走は新緑ばかりの田舎に来ていただいたのである。僕が晩年にその謦咳に接することができた日本の抽象絵画のパイオニアにして教育者・末松正樹 ( 1908-1997 ) の娘さんである香山マリエさんと、今では “ レジェンド ” となった洲之内徹 ( 1913-1987 ) の、若い友人とでも言った方がいいのか洲之内を語り継ぐ人となった後藤洋明氏のお二人である。香山さんは2011年に 『 天井桟敷の父へ 』 という著書を出版されているが、以前にもこのブログでも紹介したような記憶があって、僕もいつ書いたか忘れてしまった。後藤氏は相変わらず洲之内関係の展覧会で忙しくしている様子である、というのを聞いていたが、彼とは6年ぶりの再会だろうか。

人と人との間に “ 絵 ” が挟まると、どうも時間的距離は一気に縮まるようであるし、僕には彼らとの環境的距離もあんまり気にならなかったのだった。きっと彼らもそうだったに違いないだろう、というようなことも思われて、それは部屋の窓を開けると新鮮な緑の空気が入ってきて、長岡駅にあるジュピターという店で挽いてもらったモカ珈琲を飲みながらの話の雰囲気で、それを感ずるのである。そして、こんな田舎の僕の部屋に、末松正樹の大きなタブローが掛かっていたからでもあった、かも知れない。そうは言っても、五月の午後の、新緑の山間の村の、絵の掛かる一室でおしゃべりできたことは、これからまた何かと繋がって行くかも知れない、という予感がある。また、行くという実感もあったのだった。

末松正樹もそうだし田畑あきら子もそうだが、新潟に生れた二人の抽象芸術家が僕らに残したものは実に “ 希望 ” のようなものではなかっただろうか、と最近強く思うようになった。なぜならそれは、彼らの作品が本人自身の “ 希望 ” でもあったに違いないからである。希望は希望の誘因になり、希望は希望を誘引するからである。