葉っぱが黄色くなってしまったけど、まだ飾っている。理由はないが、捨てる理由もないから窓辺において置く日曜日の部屋である。小さな花はすでにドライになっているけど、花はそれなりに鈴蘭の花である。そして今朝、隣の奥さんから花をもらった。バイカウツギ ( 梅花空木 ) の花と言う。五月の青い空の下、干している白いシャツのような清潔感のある花で、香りがいい。ここに枯れた花の写真を掲載して、新鮮な花のことを思うことは、これは一個のロマンティシズムである。
五月が去るとて
何を悲しむ。
たとえ伏す身といえど
熱き血潮をたぎらせて
生きると決したのは
この五月の時では
なかったのか。
五月が去るとて
何を悲しむ。
この胸に
真白きバラを
押しつけて
進もうと誓いしは
この五月の時では
なかったのか。
五月が去るとて
何を悲しむ。
ああ だがこの若き十六歳を
むかえての
五月が再びまいらぬと思えば
我胸は涙でむせぶ。
これは、矢沢宰詩集 『 光る砂漠 』 の中の 「 五月が去るとて 」 という16歳の時の詩である。この六年後に病気再発で彼は亡くなった。来月、見附市図書館で詩人・八木忠栄氏が講師になられて 「 矢沢宰の詩を読む 」 という講座が1日 ( 日 ) 、14日 ( 土 ) 、29日 ( 日 ) に開催される、という。今年は矢沢宰の生誕70年の記念の年でもあるので、こういう機会にこの地域の僕たちがもっともっと “ 遺産 ” を食べて栄養をつけてもいいと思う。