歌碑はあった

2014-05-19 | 日記

      

先日 ( 5月6日 ) 、「 歌碑はなかった 」 というタイトルで下記のようにブログを書いていた。それをここに再掲載する。

今年2月17日 ( 月 ) 付の新潟日報の紹介記事欄 「 先人のふるさと 」 に、長岡出身の歌人・内藤策 ( ないとうしんさく ) の歌碑が、湧き清水で有名な長岡・栃尾地区の 「 杜々の森・名水公園 」 内にある、とあったので写真を撮りに訪ねて見た。それで公園を管理している係の方に尋ねたが、それが何も分からなかったのである。管理事務所にあったそれらしい文献なんかも見させていただいたが、お目当ての歌碑の記録は何もなかった。

係の方は 「 そういうものはありませんですね … 」 と困ったような、申し訳なさそうな表情を浮かべながら謝るのだった。僕もたいへん恐縮してしまって、記事を僕が見間違ってしまったかも知れないナ、と申し訳なく思ったのである。帰宅して記事を確認したけど、歌碑は栃尾市民会館前にある他に、やはりこの 「 杜々の森・名水公園 」 にその歌碑はある、と書いてあった。日報の記者は何を見られたのだろうか。または、ご自分で実際見に行かれたんだろうか、その辺の事がどうも気になってしまうのである。なので今日は歌碑を見つけることができなかったのである。

このブログを書いた翌日だったか翌々日だったかに、親切にも栃尾支所商工観光課の佐藤氏から同級生の土田君にFAXが入って、公園内にあるという歌碑の場所を示されたのだった。その日は、違う歌碑が目立って建ててあったので、僕の思い込みで、もう内藤策のものはないものとばかり思ったのである。佐藤氏から案内をいただきながら今日の日まで都合で行けなかった。そこで今日の天気のいい日に … 、そして、やはり在ったのである。それがこの写真である。佐藤氏と土田君に感謝します。

歌碑は、写真では分かりにくいと思うが一部、正面の上部二ヶ所が欠けていたのには、なぜか心が痛んだのである。歌碑に刻まれた歌は調べると、明治42年 ( 1909年 ) の 『 新潮 』 7月号に掲載された歌で、この年は策が八丈島に渡って三年後に帰京したその年の歌で、策21才であった。

      森の葉に陽の射すあはれさ、静なる水のほとりのもののあかるさ

裏面には 「 平成四年 栃尾市 コメリ緑資金 」 とあった。コメリ緑資金とは、ネット検索して調べると、平成元年 ( 1990年 ) に設立された地域振興を資金援助する団体で、株式会社コメリがその資金を提供しているという。コメリは今でも、メセナ活動を止めることなく継続している会社であった。メセナとは、企業が文化・スポーツなどを支援するために、その利益の1パーセントを拠出して資金援助や助成する活動のことで、1990年代には社会現象にもなったのである。ここにある内藤策の歌碑も、コメリという会社のメセナ活動の恩恵の一つだったのである。それにしても、どうしてこの策の歌碑になったのだろうか。そういう建立についての経緯も聞いてみたいものであるが、何か文献はあるんだろうか。平成四年という年は策の没後35年に当たるが、なにしろ策は明治・大正の時代、東京で 「 抒情詩社 」 という出版社を興し、それは高村光太郎 ( 1883-1956 ) を詩人たらしめた当代に斬新な詩集、 『 道程 』 を出版したのである。

 『 道程 』 奥付 ( 昭和48年復刻版 )

「 栃尾 」 はもっと大切に、内藤策という 「 あはれ 」 なる、「 静なる 」 、「 あかる 」 き “ 文化遺産 ” を噛み砕くことに、ヘンに興味を持ってもいいのではないだろうか。あかるい真昼の空の下、池のほとりには、静かに、あはれにも、端の欠けた一本の石が象徴的に立っている。