風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ドラマ・はだしのゲン/再現された被爆地

2007-08-11 23:56:55 | コラムなこむら返し
 決して絵としては上手とはいえない中沢啓治の原爆マンガ『はだしのゲン』がTVドラマ化された。原作では被爆後の、つまり戦後の復興期のエピソードがほとんどなのだが、ドラマでは広島にもどった平岡元が母子とバラックを廃材で作り出すところで終わった。復興をシンボル化してみせただけだった。そこから、62年後の原爆ドームに時間はとんで、老いた元(山本学)が現代の子供達を目を細めて眺めて飢えを元気づけるための歌をくちずさむという終わり方だった(10日、11日の二夜放映)。

 この番組はフジTVの終戦特集らしい「千の風になって」でドラマになったものだが、一番苦心したろう被爆後の広島市内の再現をどこかのビルの解体現場を使ってうまく切り抜けていた。そのロケ地となったビルは言うまでもなくコンクリート製で、鉄骨も組まれていたろう。昭和20年当時の建物は、コンクリート製より石組みのビルが多かったと思う。被爆のシンボルとして世界遺産指定にまでなった原爆ドームは、当時の産業奨励館(元物産陳列館)の跡地である。これもレンガ積みの建築物であった。チェコ人の建築家の設計である。
 だから、石組みの建築物の崩壊もしくは焼跡と、解体ビルは明らかに雰囲気が違うのだが、なんというか、その廃墟的なシチュエーションが戦争廃墟(戦跡tも言う)で、良かった。ヒロシマの被爆跡の再現としては決してうまく再現した訳ではないが(それは、残された写真やGHQの記録フィルムなどで確認できる)、TVドラマとしては良かったのではないだろうか。少し前(昨年だったか)、野坂昭如の『火垂るの墓』がやはりTVドラマ化された時、その神戸空襲の再現、焼跡の再現に疑問を持っただけに今回はその舞台の提示としてはよかったのではないか。しかし、『火垂るの墓』でも思ったが、俳優が肉付きが良くてとても戦時下の日本人にはとても見えないのが、残念だ(笑)。


総員玉砕せよ!/水木しげると戦争(3)

2007-08-10 23:45:23 | コラムなこむら返し
 水木しげるが『総員玉砕せよ!』という作品に込めた思いは10頁あまりのラストシーンに一番あらわれているかもしれない。そこでは、玉砕を強要された兵隊たちが(指揮者は「見届ける」という名目で生き延びようとする!)、あてどない斬り込みという冥土への旅に旅立つ一部始終が、爆風に吹き飛ばされ手足が散り散りになる兵隊??その無惨な死体で語られてゆく。
 戦場で我に還って幽鬼のように彷徨う兵隊丸山は、突入前に皆と歌った慰安婦の歌をがなり、アメリカ兵に気付かれて「ジャップ!」と狙い撃ちされ死んでゆく。

 「ああ、みんなこんな気持ちで死んで行ったんだなぁ/誰にみられることもなく。誰に語ることもできず……ただわすれ去られるだけ……」

 南島の野山に放置された兵隊たちの死体。腐敗し溶けてゆく肉。腐臭がただよい、「天国のようだった」島は「全員が天国にゆく」島となる。放置されたまま、野山にジャングルで白骨化してゆく死体たち。戦後62年を経てもいまだ拾われない幾多の遺骨が放置されたままであるように………。

 水木にもし、反戦思想というものがあるとしたら、なぜに日本の軍隊と言うものはかくも情けなく、残忍だったのかということだろう。敵や、現地で徴用したり、強制連行したりといったレベルだけでなく、軍隊はその「天皇の軍隊」の一兵卒であった兵隊と言う貴重な人材、資源に対して情け容赦なく無惨だったし、残酷だった。それは、7月7日の廬構橋事件70年の記事のところでも書いたが、日本の軍隊の中にあった「恥」の観念の押し付けゆえにであったろう。つまり、日本の軍隊は敵の捕虜になることを死に値することとマインドコントロールしたのである。「生きて俘虜の辱めを受けず」という精神主義があったがゆえに、沖縄戦などにおける住民への強制命令的な自殺(自決)の強要があった。

 玉砕の思想は、「本土決戦」という国民に強制的な自決を強要する思想にまでつながった。沖縄はまさしく不運な悲劇の発端で、あのような非戦闘員の市民、農民まで兵士と同じ死に方を強要するものだった。玉砕の思想の強要こそが、沖縄のそして兵隊たちの不幸であり、悲劇だった。


8月9日/ナガサキ2007

2007-08-09 23:44:05 | コラムなこむら返し
 午前11時02分、「長崎の鐘」が打ち鳴らされ遠く離れた東京などの各自治体のサイレンが、8月の真夏の空に鳴り渡った。長崎市の田上市長が「平和宣言」を読み上げ、白いハトが青空に放たれる。長崎の平和記念公園の平和祈念像(北村西望作)の真後ろには、白い雲がポッカリと浮かんでいる。
 広島の時もそうだったが、TV中継のマイクを通してセミ時雨れが聞こえる。きっと、62年前のあの夏の日と同じように……。

 TV中継では映されなかったが、浦上天守堂ではミサがとりおこなわれていた。あの日のプルトニウム型の原爆は平和公園のある場所の頭上500メートルで炸裂し、その熱線は飯ごうの中の米を炭化させ、人間を蒸発させ、ロザリオを骨と溶け合わせてしまった。地上まじかにもうひとつの太陽が出現したかのようだった。それだけではなかった。瓦礫の街となった市内を救護活動や、看護や不明家族探しで活動したひとたちは残留した放射線で被爆した。現在もなお被爆者援護法の被爆者として未認定の多くのひとは、このような放射線被爆をしたひとたちであるらしい。
 「黒い雨」は、そのようなひとたちの上にも非情にも降り注いだ。原子野は地上に地獄の光景は、かくなるものと思わせる光景を現出させた。

ヒロシマや ナガサキと説く 原爆忌 もの憂い夏の 蝉時雨やむ

日盛りの まばゆいほどの 光景に 62年を フィードバックせよ!

信仰の 篤(あつ)き里ゆえ 天守さま なぜに試練を お与えになる

黙祷の 合図告げるや 長崎の アンジェラスの鐘 祈り鎮(しず)めて

(4首とも自作)


総員玉砕せよ!/水木しげると戦争(2)

2007-08-08 23:51:56 | コラムなこむら返し
 ボクは貸本復刻版だが東考社(桜井文庫)から出版された水木の戦記もの(戦争マンガ)の傑作を3点コレクションしている。『暁の突入』(1958年)、『零戦総攻撃』(1961年)、『戦艦比叡の悲劇』(1961年)である。東考社は自身劇画家であった桜井昌一が主宰する小さなマンガ出版社だったが、復刻版ではどこよりも早く水木などの復刻出版に手を染めている。ちなみに桜井昌一は劇画という言葉を作った辰巳ヨシヒロの実兄にあたる。かっては、「劇画工房」に属し探偵推理ものを『街』、『影』などの劇画誌に掲載していた。2年ほど前にお亡くなりになってしまったが、ボクがこれらの復刻版を買った時、東考社に連絡を入れるとちょうど入院なさったと奥様から聞いたばかりだった。マンガ(劇画)ファンには記憶していて欲しい方のおひとりだ。

 さて、それらの初期戦記もの(戦争マンガ)は、いわばエンターティメントとして描かれたもので、昭和30年代の後半におこったガン(拳銃)、戦艦、戦闘機などのメカニックなものに対するフェティシズム的なブームにあやかったもので、けっして水木の描きたいもののすべてではなかっただろう。
 1973年、すでに売れない貧乏マンガ家を脱皮していた水木は(とりもなおさず1965年に「テレビくん」が講談社漫画賞を受賞したことによって水木の生活は一変する。ビンボー漫画家から超売れっ子へと)、満を持して戦記もの(戦争マンガ)の総集編とも言うべき作品『総員玉砕せよ!聖ジョージ岬・哀歌』を発表する。その作品は、すべてではないがほぼ事実に基づく戦争そして帝国陸軍へ対するうらみつらみと批判が凝縮された作品だった。それに、かっての仲間、犬死にを強制され戦死した日本兵への追悼、哀悼の意味ももっている作品のようだ。


敵対的TBの禁止およびアダルトサイトのTB貼り付けの禁止

2007-08-08 00:50:59 | 社会・経済
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総員玉砕せよ!/水木しげると戦争(1)

2007-08-07 23:56:47 | コラムなこむら返し
 ボクが少年の頃、貸本マンガで水木しげるは他のペンネームも使って戦記もの(戦争マンガ)の第1人者だった。紙芝居制作で培ったその画力は、モノクロのスミ(墨汁)つまり陰影の魅力を十二分に計算し尽くした描写力で群を抜いていた(水木は一時武蔵美に籍を置いていたこともあった)。

 兎月書房での貸本マンガ3作目には、つまり実質的なデビュ-作である『ロケットマン』の次作にもう戦争マンガである『戦場の誓い』(1958年)を描いている。ただ、その作品は荒唐無稽な飛行艇が登場する内容だから、同年に描いた『0号作戦』の方を、水木自身の苛酷な戦場体験が反映されている戦記もの(戦争マンガ)の最初の作品にしてもよいかもしれない。とにもかくも、水木しげるはその圧倒的な画力でもって貸本マンガ作家だった初期に戦艦や、戦闘機をペンで描いた。

 だが、水木の戦争マンガには奇妙な悲哀のようなものが漂っているのである。たとえば、「金剛の車輪打ち」というゼロ戦からの曲芸射撃が得意だったという主人公とひめゆり部隊の一員として、互いに近い場所で戦死する妹との兄妹愛をテーマにした『暁の突入』(同年)などは、ラストシーンで「兄さん」と呼ばう妹の声に気付いた兄金剛が振り返るとともにアメリカ兵に兄妹ともに射殺されるシーンで終わる。互いに手を伸ばしたまま、無惨にも機銃射撃で死んでゆく兄妹。昭和20年6月22日の昼の出来事であった(この作品は実話に基づくと巻頭に書いてある)。


62年目のヒロシマに

2007-08-06 23:27:13 | コラムなこむら返し
 ヒロシマは今日、62年目の「原爆の日」を迎えた。8月6日午前8時15分、しめやかな黙祷とともに平和記念式(慰霊式および平和祈念式)が平和記念公園で行われた。それをTVでボクは見ていたのだが、広島市長の平和宣言、そして子ども代表の市内の小学6年生の男の子と女の子の被爆の歴史を語り継いでゆくという誓いの言葉に感動した。とりわけ市長の平和宣言の中で、「我が国の平和憲法を尊守し、アメリカの時代遅れで誤った政策には付いてゆくべきではない」とはっきり言った言葉に勇気と希望を感じた。
 だが、この国の「内閣総理大臣」と名乗る男は、明解な口調を失ってしまったかのようになにが言いたいのかわからない口調で非核三原則の堅持を述べるだけだった。

 この国ではかって左翼と呼ばれた人物が、まるで憑物が落ちたように、いやそうではない、憑物が憑いたかのように核武装論までブチあげはじめている。自主憲法制定、核武装を主張とした政党が、先日の参議院選挙には比例区から立候補し、幸いにして泡沫として終わったが、その政党を極右ともファッショとも弾劾する声は、一向に聞かなかった。それとも、無視するに如(し)くはないと会得していたのだろうか?
 しかし何と言うことはない、この政党は安倍首相が胸の奥で秘かに画策していたことを(それが、祖父の亡霊の遺志を継ぐことだと固く思い込んでいるために)先取りしてみせたにすぎなかった。この泡沫政党はもちろん、祖父の亡霊に操られるシラケの首相にも国民の鉄槌が下ったのが今回の選挙結果だった。

 安倍首相の歯切れの悪いハグらかすもの言いは、ますます最悪となり、仮面をかぶったかのように表情は乏しくなり、内面の動揺を覆い隠す鉄面皮となりつつあるようだ。それは、権力に固執するものの醜い顔だ。
 安倍首相はどうやら、「『美しい国』の醜い日本人」に変貌を遂げつつあるようである。それのどこが美しいと言うのだ!



過ぎてゆく夏に

2007-08-05 23:46:25 | コラムなこむら返し
Sairei_1 近所に箱庭のような小さな神社があって、昨日今日と祭礼だった。社(やしろ)も普通の神社のおそらく3分の1くらい。鳥居も半分以下。敷地は民家くらいしかなく、実際、社務所というより民家の庭先に建っているかのようだ。だから、当然のように盆踊りのヤグラは立たない。中心にポールを立て、そこに太鼓を置いてひとびとはおなじ地面の上で巡るように輪を描き、盆踊りを踊る。
 生ビールなどを飲みながら眺めていると20時になり、ずっと彼方の遠い空に花火が上がる。遅れて大きな音が轟く。その小さな神社の背景に、狭山丘陵がありその丘の頂きに遊園地があるのだ。以前は、学校が夏休みに入るとともに始まっていたのだが、いまは8月の第1週めの土日からビアガーデンをかねた花火大会が開催され、それがこの日からはじまったのだ。
 台風は北上し、やっと真夏日がはじまった。夏は駆け足で通り過ぎる。あと2、3週間あとにはまだやっているこの土日の夜の同じ花火を見て、今度は秋を感じるのだろう。

 ムギワラ帽子の少女に少年が恋慕を感じるように、少女は夏の訪れとその過ぎゆく早さに胸掻きむしられる。


「水族館」からの帰り道

2007-08-04 01:43:35 | コラムなこむら返し
 「水族館」からの帰り道??このタイトルは、だれかが携帯で書いたもののパクリ。でも、ボクは携帯で長文を書くほど進歩していないので、帰宅途中考えながら帰ってきたものをテキストおこしてアップするしかない。

 3日のE.G.P.P.100/step74も濃い内容だった。11人のエントリー。ニッパチ(2月と8月は客が少ないと言う、水商売のジンクス。でもボクのイベントは水商売という訳じゃない)なのでもっと少ないかと思っていたが、予想に反して盛り上がりそして熱かった。うん、40年前の熱気がこうして細々とであれ、新宿の片隅(会場の「水族館」のある、新大久保は新宿区なんです)で続いているのがうれしいじゃありませんか(と、みずからエツに入ってみる)。「水族館」の常連のM子さんをゲット(笑)。彼女は、先月もカウンターで熱心に見てくれ、写真まで撮っている。話し掛けたら、「面白いイベントなので、見に来てます」とのこと。名前を聞いて、みんなに紹介、来月からはオーディエンスとしてであれ仲間に入ってくれるかも。
 「1967年ってなにかあったんですか?」という素朴な質問が新鮮だった。そうそう、もっとボクらが、きちんと伝えなければならないことがあるんだ。聞いてみると、お父さんがボクらと同世代、つまりいわゆる団塊ジュニア世代の娘さんなのだ。
 ガンジーさんがテナーサックスをもって参加してくれ、久方ぶりにユニット復活。打ち合わせなしの割りには、決まっていた。有名スタンダードな曲をくずしながら、吹きまくる。ボクはそれにあわせて67年を再現するべきポエトリーを叫ぶ。

 金曜日の夜、満員の電車の中から解放されると満月から4日目の右側を食べられた月が、煌々と照っている。台風の影響なのか、風が強い。同じ日からはじまった「あさぎり天空まつり」へ行っているbambiさんは、楽しんでいるかな?
 この夏キャンプイン出来るだろうか? なんだか、今年は短い夏になりそうじゃないか。


再放送される!

2007-08-03 03:24:45 | トリビアな日々
 今年の1月3日にNHKBSで放映された「日めくりタイムトラベル」という番組がこの8月に再放送されるらしい。ボクは、第1回めの「昭和42年」つまり1967年のところ(8月11日15時から放映)で登場します。はじまっておおよそ2時間たった「8月」のパートで(各回3時間番組)、福島泰樹さんのナレーションで登場します。見逃されたかたはこの機会にどうぞ!

 この8月に、5年分の「日めくりタイムトラベル」の再放送が予定されているのでお知らせいたします。
スケジュールは以下の通りです。

(NHKBS2にて)
8/11(土)15:00~18:00 昭和42年
8/12(日)15:00~18:00 昭和47年
8/13(月)15:00~18:00 昭和52年
8/14(火)15:00~18:00 昭和57年
8/15(水)15:00~18:00 昭和62年


ベルイマン/アントニオーニ……二人の名監督の死(3)

2007-08-02 01:16:05 | コラムなこむら返し
Blowup アントニオーニ作品が、あなどれないのは『赤い砂漠』(1964)を経てスウィギング・ロンドン直前のイギリスを当時のロックを映画の中に取り入れ『欲望(Blowup)』(1966)などのファッション性でも見のがせないポップな感覚の映画をも撮ってしまうことにある。フィルムの中には地下のクラブで演奏するYARDBIRDSの姿がある。若き日のジミー・ページやジェフ・ベックが見れるのだ。最初、ボクはその映画をトニー・リチャードソンみたいだと思ってみていたようだが、道化の集団が現れ、球のないテニスなどをはじめるシーンでアントニオーニはやるなぁと感心していたのを覚えている。60年代必見のフィルムの1本である(『欲望』の音楽監督はハービー・ハンコックである!)。
 この映画では現在でも充分通用するスタイルのバネッサ・レッドグレープとともに、ジェーン・バーキンもその美しい姿態を見せてくれる。ボクは、あんまり好きすぎてDVDを買ってしまったほどである。

 さらに、アントニオーニは1970年には『砂丘』(Zabriskie point)というサイケデリックな映画作品もものしてしまう。この作品の音楽にPINKFLOYDを起用している。ピンクフロイドの音をバックに、超スローモーションで爆発シーンが撮られている。このシーンはおそらくキューブリックの『2001年宇宙の旅』の宇宙飛行士が時空を超えるシーンとならぶ60年代のアルタードステートな映像だったと言えるだろう。

 晩年、脳卒中に倒れ言語が不自由になったらしいが、寡作とはいえ2004年までメガホンを握っていた。最期の作品になったのは、他の監督とのオムニバス競演となった『愛の神、エロス(Eros)』(2004)だった。
 最後に明かしておくと、「愛の不在(不毛)」の美しきヒロイン女優モニカ・ヴィッティはアントニオーニ監督の公然たる愛人だった。愛は不在(不毛)どころか、成就していたのだ。

(画像は『欲望(Blowup)』(1966年)のDVDソフトのパッケージから)

(おわり)



ベルイマン/アントニオーニ……二人の名監督の死(2)

2007-08-01 03:42:29 | コラムなこむら返し
Monica_1 ローマ市長が明らかにして分かったことらしいが、ミケランジェロ・アントニオーニ監督が7月30日ローマ市内の自宅で死去した。死因は不明、94歳だった。どうやら、ベルイマンの死去時間の数時間あとだったらしい。

 アントニオーニ監督は50年代なかばから1970年にかけてめざましい活躍をした。それも「現代の愛の不在」というどこかヌーベル・ロマンの実験的な物語手法を先取りしたかのようなテーマで美しい映像の、そしてどこか空虚な心象風景といった物語と風景をフィルムに定着した。
 その人間存在の不安と、不在をテーマにした初期作品に欠かすことの出来ない女優が、モニカ・ヴィッティだった。
 美しく整った顔だち、その唇は心持ち開き、美しく澄んだ瞳はどこを見ているのか分からないほどにオドオドとし、彼方のまるでこの世の風景とは思えない鋼の大地に突き刺さったかのような工場の光景を見つめている。あるいは、心象風景そのもののような寂しい海の光景、もしくは風塵が舞うだけの砂漠の光景。それは、おんな主人公の求めても得ることのかなわない「愛」の「不在」だ。

 これは、実存主義をへて、カミュなどの思想の影響もあるのだろうが、60年代の思想的あるいは哲学的キーワードは「不条理」、「疎外」(不毛、不在)、「反抗」だったのではないだろうか。いまにして思えば、60年代のメインストームやアングラを問わず、これらのキーワードを念頭において読むと、かなりのものが読み解けるような気がする。
 それに、当時は三人娘、御三家という歌謡曲エンターティメントからアートまで「三」でくくって提示するのが、いわばブームのようによく使われた。ベルイマンが「神の沈黙・三部作」なら、アントニオーニは「愛の不在・三部作」だ。
 ミケランジェロ・アントニオーニの「愛の不在・三部作」とは『情事』(1960)、『夜』(1961)、『太陽はひとりぼっち』(1962)のことを言う。

 アントニオーニはベルリン、ヴェネチア、カンヌの三大映画祭をも制するという偉業も達成している。それだけでも、アントニオーニ監督のかかげるテーマがいかに当時のアクチュアルなテーマだったかが分かると言うものである。

●1956年 『女ともだち』 ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞
●1960年 『情事』 カンヌ国際映画祭審査員賞
●1961年 『夜』 ベルリン国際映画祭金熊賞
●1964年 『赤い砂漠』 ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞
●1967年 『欲望』 カンヌ国際映画祭パルム・ドール

(画像はアントニオーニ監督の美しき「不在」のヒロイン、女優モニカ・ヴィッティ)