みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

明日から4月

2006-03-31 10:10:46 | Everyday is special
アッという間に今年も4分の1が過ぎ、明日から新年度が始まります。
この調子だと、復活祭を通り越して、すぐにクリスマスが来てしまいそうな気がします。(って、はや過ぎ? でも、ホントに!)

進学や就職、転校や転勤など、大切な旅立ちの時でもあります。

新しい環境に慣れるだけで最低3ヶ月はかかりますし、人に慣れるには、それ以上の時間がかかります(ぼくは、3年かかると思っています)。
ですから、最初からがんばりすぎないことが肝心。
でも、これって難しいのですよね。やっぱり周りから期待されたりすると、それに応えようとがんばるのが人の常です。周りの期待なんかどうでもいいやと思っていても、自分自身のためにがんばるものです。それで、がんばり過ぎちゃうと、いわゆる五月病になりやすい。

そんなときは、どうぞ立ち止まって、自分が自分らしくなれる時間と場所に戻ってきてくださいね。

と、偉そうなことを言っているぼくですが、たまっていた疲れが出たのが、ここ数年では珍しく風邪をひいてしまいました。
が、急に高熱が出たわけでもなく、昨日一日ゆっくり休んだら、おかげ様で今朝は熱も去り、咳も止まり、ものもらいのように腫れていたまぶたの腫れもひいてきて、どうやら今回は医者に診てもらわずに治りそうです。
(市販の葛根湯と解熱剤を飲んでましたが、一昨日、信者さんが開業なさっている土浦の鍼灸院でハリとお灸をやっていただきました。その鍼灸の先生に治療していただくと、本当によく効きます。肩や腰、膝などの痛さだけでなく、ぼくのようなうつ病もそうですが、あらゆる体と心の不調を、全人的に診てくださる東洋医学の名医です。うちの修道会の司祭たちは何人もお世話になっています。母も、たまにですが背中や腰の痛みでわざわざ長野から出てきて、お世話になるほどです。本当にいつも感謝です。)

季節の変わり目、皆さんも、どうぞ体と心の健康にお気をつけて、お元気でお過ごしくださいますように。

写真は、2月の蔵王から。見たこともないような雪の造形に出会いました。

なごり雪

2006-03-29 13:31:00 | Everyday is special
春になってからの雪を、人は「なごり雪」と呼びます。
きょうは、冬に戻って、茨城県は強い北西からの風が吹いています。

今年は、残雪が多く、蔵王辺りでは4月に入ってからもスキーが楽しめそうですが、ぼくはもうできないなあ。
雪国の人々にとって、雪解けの春はたいへんうれしいものですけど、ウインタースポーツを楽しむ人々にとっては、「惜雪」とでもいう感傷感があります。
春の、解けていく雪は、あの真っ白な世界とは違って、黒っぽくなり、それはそれで新しい芽吹きを感じさせるのですが、あまり美しいと思えるものではありません。
が、そこにやってくるのが、桜の花でしょうね。
モノトーンの世界から、一気に華やかな色の世界が広がっていきます。

今週は月曜日から、イエズス・マリアの聖心会のインドネシア管区の菅区長が来日し、きょう会議がありました。

うちの修道会にとって、アジアでもっとも古い宣教の歴史があるのがインドネシアですが(約80年)、何年か前までは、インドネシア人の召命を受け入れることには消極的でした。
が、現在インドネシアは、誓願を立てた総会員数がインドネシア人と数名のベルギー人とを合わせて75名になり、2001年には「準管区」から「管区」に昇格し、アジアでの宣教の拠点となりつつあります。
そんな中、すでに日本に2名のインドネシア人の宣教師が派遣されており、これからも継続的に派遣されることでしょう。
そして、もしこのまま日本人の召命がないなら、日本準管区はインドネシアの管区に属することになるかもしれません(現在はアメリカ東海岸管区に属しています)。

また、インドでの召命も多く、キリスト教の宣教地図からすると、将来は、アジアやアフリカなどから欧米、日本に宣教師が派遣され、今、そのことが現実に起こりつつあります。

日本人の召命を祈りながらも、これからはアジア的な視点で日本国内の教会をながめていく必要があるようです。

写真は、2月の蔵王から。横からの強風で、小さなブリザードのようになっています。(横位置の写真ですので、はみ出た部分は画像をクリックしてご覧ください。)

新垣壬敏先生 2

2006-03-27 16:57:24 | Everyday is special
きのう、おとといの新垣先生のお話とご指導は、彼の信仰の深さ、教会の典礼にかける情熱、神学的知識の豊かさとバランスのよさ、ユーモアあふれる人間性がにじみ出て、本当に力強いものでした。
彼のお話は、このように言うと変ですが、なんだか司祭の説教よりもずっと心に響き、すばらしい四旬節の黙想会になったと思います。

何が彼をここまで熱心にさせているのか?

信仰の神秘、とでも表現したらよいのでしょうか。
その反面、自分の情熱の低さが反省させられ、とても大きな刺激を受けました。

学生時代の指導教官が、教師となった教え子の授業を参観に来たような気分で、ぼくは久々に一語一句緊張しながらミサをささげました。

今回参加された皆さんにもたいへん好評で、今後も先生には継続的にご指導に来ていただけたらと思っています。

写真は、昨日開花した教会の桜です。何という種類かわかりませんが、早咲きで、幹は白っぽく、花期も短く、葉がすぐでてきます。花は小さめですが、ほのかなピンク色がとても可憐です。

新垣壬敏先生

2006-03-24 13:26:49 | Everyday is special
明日25日と翌26日は、取手教会の四旬節黙想会として、カトリックの作曲家、新垣壬敏(つぐとし)先生をお迎えします。

新垣先生は、「ごらんよ空の鳥」や「マラナタ」、「キリストはぶどうの木」をはじめ、『典礼聖歌集』や新しい『カトリック典礼聖歌集』の中の数々の聖歌の作曲をされています(いずれもA.T.と書かれた曲)。
白百合女子大学教授で、長年、東京カトリック神学院でも神学生の典礼指導にあたっておられます。
ぼくも、1989年から2年間、その神学院在学中、先生にはたいへんお世話になりました。

毎年、司祭叙階を記念して、聖歌を発表されておられてますが、ぼくの叙階式のときにも「イエズス・マリアわがよろこび」を作曲してくださり、今でも歌っていますが、とても感激したのを昨日のように覚えております。(今年の新曲は「恐れることはない」です。)

イエズス・マリアの聖心会ともかかわりが深く、「指なき合掌」という福者ダミアン神父の歌も作曲くださり、『カトリック典礼聖歌集』に入っています。

そんな新垣先生が、明日取手に来てくださことは、本当にうれしいことです。

25日(土)は午後3時から5時頃まで、聖歌と時間があれば朗読の指導をしてくださる予定です(とくに聖週間の聖歌の練習が主になると思います)。
26日(日)はミサ後、午前11時から、先生の典礼音楽についての講話があります。

取手所属の信徒でなくても参加できますので、どうぞ奮ってご参加ください。


写真は、少し前にいただいたクリスマス・ローズ。名前はクリスマスですが、花期は1~4月頃とか。花は下向きに咲いて、色合いも落ち着いていますし、とても控えめな印象ですが、つぼみもまだあり、元気に咲いています。

STRETCH YOUR HEART 2

2006-03-22 08:15:20 | Everyday is special
おかげ様にて、Stretch Your Heart 若者たちの黙想会は、とても実り多いものとして終わりました。

今回の講師は楠神父さま、そしてミサの説教はヒーリー神父さまで、とても心に響くお話をしていただき、ぼくにとってもよい黙想になりました。

2日目の朝食からお昼前のミサまで沈黙の雰囲気を味わいました。
みんなも、とてもよい黙想をしてくれたようです。

最後の分かち合いは、天気もよかったので、外にブルーシートを敷いて座り、行いました。
すごくよいグループで、ぼくもたくさんの元気をもらいました。

もちろん、それぞれに思い悩んでいることはありますが、神さまがすべてを包み込んで、祝福し守ってくださることでしょう。

まずは、簡単ですが報告まで。
お祈りくださり、どうもありがとうございました。
ご協力くださった皆さん、本当にお世話さまでした。

STRETCH YOUR HEART

2006-03-20 12:33:38 | Everyday is special
きょうは聖ヨセフの祭日です。
本当は3月19日ですが、昨日は日曜日だったので、きょうになりました。

今晩から友部で1泊2日で若者たちの黙想会、Stretch Your Heartがあります。
参加者は男女青年19名。
そこに、エスコラピアスのシスター2名、三位一体聖体宣教女会のシスターひとり、それに、わたしのイエズス・マリアの聖心会から会員4名が参加します。

毎回多くの参加者に恵まれて、とても楽しい時間を過ごします。
今回は、黙想が主ですが、もちろんお楽しみの時間もあります。

よい実りをもたらす黙想会となりますように、どうぞお祈りください。

写真は、またまた蔵王シリーズから。半日で400枚ほど撮ったので、まだまだ続きます。しばしお付き合いを。
と、いっても、その中から本当に気に入った写真は10枚程度なんですけどね(同じ場所で角度を変えたり、アーデモナイ、コーデモナイと、何枚も撮っていますので)。その中から選ぶのも一苦労ですが、楽しみのひとつでもあります。
枚数を気にせず撮れるのは、デジカメのもうひとつの良さです(でもフィルム時代の「一枚入魂」の精神は薄れてしまうのですが・・・)。
これがフィルムだったら、フィルム代と現像代でたいへんです。

聖パトリックの日

2006-03-17 12:17:24 | Everyday is special
きょう17日は聖パトリックの記念日です。
毎日のミサの解説を引用してみます。

「385年頃、英国に生まれる。若い頃に奴隷として捕らえられてアイルランドに連れ去られ、羊飼いの仕事をさせられた。自由の身になると聖職者になり、やがてアイルランドの司教に叙階されて人々に熱心に福音を宣べ伝え、多くの者をキリスト教へ導いた。またアイルランドの教会の組織を作った。461年にダウン市郊外で死去。」

彼は、アイルランドの教会の礎となった聖人ですが、元は奴隷として行っていたのですね。

この日、アイルランド本国だけでなく、世界中のアイルランド人は“Happy St. Patrick's Day!”と言いながら、みんな国の色である鮮やかなグリーンの衣服(シャツでも、スカーフでも何でもいいのですが)を着て、盛大にお祝いします。
四旬節なんて関係ないほどです。

うちの修道会にもアイルランド出身の神父さんたちが何人もいるので、これからお祝いコールしなきゃな、と思っています。

写真は、ちょっと春らしく、ホトケノザ。おととい小貝川の土手をサイクリングしたときに撮りました。
名前の由来は、花の下の葉っぱの形が、仏像の座る蓮華座に似ているからとか。
じっさいの花は小さいのですが、こうして拡大して写すと、うぶ毛が生えているのがわかりますし、合掌しているようにも見えて可愛らしいです。

スギ花粉の季節ですが

2006-03-15 11:26:08 | Everyday is special
ぼくがフィリピンから戻ってきて司祭になったのは1997年ですが、翌々年あたりからスギ花粉症となり、毎年くしゃみや鼻水、目のかゆみが出て、たいへんでした。
最初にかかったお医者さんが漢方の「小青竜湯」(ツムラの19番)を処方してくださり、幸いよく効いてくれたので、それ以後、どこに行ってもその薬を処方してもらっていました。

が、今年は多少目がかゆくなる程度で、まだ例年のような症状が出ていません。
昨年よりも飛散する花粉量が少ないとのことですが、もしかして、1年前から食べ続けているヨーグルトのお陰なのか、だったらいいなと思っているところです。

1年前、何かの番組で自己免疫力を高めるひとつの方法としてヨーグルトの効果が取り上げられていて、それからわらをもつかむ気持ちで市販の「特定保健用食品」と書いてあるヨーグルトにオリゴ糖をかけて毎日食べるようにしました。

果たして、その効果が1年経った今現れてきたのか!

確かに、腸が元気になったのか、調子がよくなっているように感じます。
高かった中性脂肪も正常値まで減りました。
もちろん、他にも改善の要因はいろいろとあったと思いますが(たとえば食生活とか)、しばらく様子を見てみようと思っているところです。

花粉症で苦しんでいらっしゃる皆さん、参考にならないかもしれませんが、どうぞお大事に。

写真は樹氷の合間から見えた朝日連峰。

教会近況

2006-03-13 10:25:07 | Everyday is special
友部から、おはようございます。
先週は葬儀で友部に来ることができず、また先々週も来ていなかったので、久々の友部となりました。
クレイグ神父さまは、相変わらずお元気でいらっしゃいます。


一昨日の土曜日は、午後は教会学校、夜は中高生会が開かれました。

教会学校では、お祈りの後、今度群馬県に引っ越してしまう茜ちゃんのお別れ会、また小学校を卒業するお友だちのお祝いを兼ねて、パーティーがありました。
教会学校のお父さんお母さん方がやってくださったヨナの物語の人形劇(紙に描いた人形)は、とてもよかったです。
そして、毎回ぼくがギターを持ってくると「ギター侍やってー」とせがんでくれる茜ちゃんですが、今回もせがまれたら本当にやってあげようと思っていたら、言ってくれたので、やりましたよ。ギター侍のマネ。
でも、やっぱ練習しないとうまくできませんねえ。
あのリズムに合わせながら言葉を発していくのが、意外に難しいことがわかりました。
茜ちゃん、今度来たときはもっと上手にやってあげるからね。

夜は、中高生会の卒業記念お好み焼きパーティー。
中高生よりも多い青年リーダーたちのパワフルなノリに乗って、みんなでとても楽しく過ごしました。
それにしても、いつもは小食のみんなでしたが、お好み焼きや焼きそばだと、よく食べますねえ。
ぼくもつられて、おなかがいっぱいになりました。


ところで、このところ教会の方でご病気で手術を受けられた方が続いています。
きょうも、昼から手術を受けられる方がおられます。
皆さまの一日も早いご快復をお祈りいたします。

また、鹿島教会の小林神父さまが先週の火曜日、くも膜下出血で倒れられて入院されました。
いまのところ命に別状はないとのことですが、透析も週2回受けておられる方なので、ちょっと心配です。
どうぞ、皆さんもお祈りくださいますようにお願いいたします。
(きょうの午後、お見舞いに行く予定にしています。)

それでは、皆さんにあっては、どうぞお元気でお過ごしください。

『死の神秘』 2

2006-03-10 12:23:45 | Everyday is special
お待たせしました。それではさっそく、前回の続きです。

4つの福音書の中でいちばん古いのはマルコ(西暦65年頃)ですが、マタイとルカ(85年頃)は、マルコを元に同じような観点から書かれたのもですので、それら3つの福音書のことを共観福音書と呼んでいます。
ヨハネ(95年頃)は、もちろんマルコの福音書のことは知っていたはずですが、別な形で深められていきます。

それで、福音書の中でいちばん古い形を残しているマルコに焦点を当ててみましょう。

マルコでのイエスさまの最後のことばは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」でした。
が、注目すべきは、周りに居合わせた人々のうちには「そら、エリヤを呼んでいる」「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」という者がいた、ということです。

なぜ、エリヤを呼んでいると聞こえたのか。

そこで、当時のパレスチナ一帯で話されていた日常語がアラム語(もしくはアラマイ語ともいう)であったということに注目してみます。イエスさまも、このことばで日常を過ごし、宣教しました。ちなみにヘブライ語は、当時祭司や律法の専門家くらいにしかわからず、典礼(詩編)のことばとしては一般の人々も歌えたと思いますが、現在の私たちにとってのラテン語といっしょで、歌えても意味まではしっかりとわからなかったことでしょう。つまり、死語であったわけです。

「エロイ・・・」はアラム語です。そこから、エリヤとは聞こえてきません。
とすると、周りの人が「エリヤを呼んでいる」と聞こえたことが説明できません。

そこで、ある聖書学者たちは、当時人々がしゃべっていたアラム語でエリヤを呼んでみたらどうなるのか、と考えたわけです。

Elia' ta' (「エリヤよ、来てください」)

最後の「タ」は来てくださいとの意味で、「マラナ・タ」(「主よ、来てください」)の「タ」と同じです(1コリント16:22)。

ところが、このアラム語のElia' ta'の区切り方を変えると、ヘブライ語では、発音はほぼ同じですが、まったく意味の違うことばになります。

Eli' atta (「私の神は、あなたです」)

それで、イエスさまは十字架上でこちらのことば、Eli' attaと言われていたのではないか。そして、周りのヘブライ語を理解できない人々(おそらくは兵士たち)は、アラム語でエリヤを呼んでいるように聞こえたのではないか、というわけです。

さて、このEli' attaは、(旧約)聖書の中にはたったの6回しかでききません。しかも、そのうちの5回は詩編です。すなわち、詩編22、31、63、118、140。

以下、レオン=デュフール神父著の『死の神秘』から引用します(218-219頁)。
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詩編22はまさしく「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という句で始まる叫びであって、心底からほとばしり出たこの叫びの第一部は、「わたしの母の胎内より、わたしの神は、あなたです」で終わる。詩編31は、ルカにあるイエスの祈り、「わたしの霊をみ手にゆだねます」の源であるが、この詩はまた、共謀して詩人を殺そうとする敵たちを前にして、「しかし主よ、わたしはあなたにより頼み、わたしは言います。わたしの神、それはあなたです」と宣言している。詩編63は、ヨハネ19・28の伝えるイエスの祈り、「わたしは渇く」のもととなったとも言えるが、その最初の句は、「神よ、わたしの神、それはあなたです。暁より、わたしはあなたを望み、わたしの魂はあなたに渇いています」である。このように、「わたしの神、それはあなたです」という叫びが、それぞれマルコ、ルカ、ヨハネの基調をなす三つの詩編の中に、まさしく見いだされるのである。
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こうして、イエスさまの最後のことばは、Eli' atta、すなわち「わたしの神は、あなたです」であったのではないか、ということができるのです。

これはあくまでも仮説です。が、「これが真相かもしれない」とレオン=デュフール神父は書きます。
では、それぞれの福音書が、そのEli' attaをどうして別々の詩編の中に見いだしていったのか。簡単に言ってしまえば、それぞれの福音記者が、十字架上の最期のイエスさまのお姿を伝えようとしたときに、それぞれの書かれた時代や場所、どんな読者が対象になったかによって、もっともふさわしい詩編を選んだのだ、ということです。

いずれにしても、イエスさまが十字架上で最後に発せられたのは、「わたしの神は、あなたです」という、もっとも簡単ではあるけれども、もっとも深い信頼の宣言である詩編の叫びだったのです。


いかがでしたか?
ちょっと長くなりましたが、十字架の神秘の黙想の小さな手助けになればと思います。