みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

母帰天

2009-11-27 17:48:00 | Everyday is special
突然ですが、長野からこんにちは。
じつは、20日に母が帰天しました。80歳でした。

2年前にがんが見つかって、手術は受けない生き方を自ら選んで、化学療法や放射線治療を受けながら、自宅で療養してきました。

それが、今月に入って弱くなり、自らの力では歩けなくなり、入院することになったのが9日のこと。先生も、ここまでよくがんばったとおっしゃったそうです。そして、13日にはホスピスのある市内の病院に転院し、20日に、病院の先生と今後のケアーの方針を相談する予定でした。前晩まで、意識もしっかりとしており、周りに気を使うような話もしていたそうです。

容態が急に変わったのは20日の未明。ぼくは、夜寝るときは携帯電話もパソコンも電源を切ってしまいますので、兄たちはなかなか連絡ができないでいました。それがようやく通じたのは、兄が友部の修道院に電話してくれたからです。そこからケソン市の修道院に電話が入り、すぐに病室の母に電話をかけました。それが息を引き取る30分前のこと。

母は、かなり息苦しかったようですが、ぼくが、すぐに帰るから待っててね、というと、何度も、ありがとう、と言ってくれたのが分かりました。
それから、母の息づかいが穏やかになり、最期はやすらかに息を引き取ったとのこと。
本当は予定を早めて24日に帰国することにしていたのですが、間に合いませんでした。が、最後に、電話で話ができて、ぼくはラッキーでした。

それから、フィリピンを訪問中の管区長の山田神父さまと、なんとかその日のうちに帰国することができ、一連の葬儀の司式をさせていただきました。説教は、長野教会の主任司祭の濱田神父さまにお願いしましたし、山田神父さまをはじめ、何人もの仲間の司祭も来てくださいましたので、なんとか役目を果たさせていただきました。

今年は父の13回忌。父が亡くなったときも、ぼくはフィリピンにいました。

母の葬儀が終わって、あわただしかった時が過ぎると、母のことをいろいろと思い出すようになって、ようやく悲しみを感じるようになりました。
心のいやしのためには、十分に悲しむことが必要だと、仲間の司祭がインドからメールをくれました。ありがたいですね。

というわけでして、母は、やすらかに、そしてしあわせに旅立ちました。

皆さんのお祈り、本当にありがとうございます。

神に感謝。

写真は、前回会議で行ったカレルエガの黙想の家にて。

ふぉと日記5年目

2009-11-17 15:40:00 | Everyday is special
先週は会議で、タガイタイから少し先の、バタンガス州にあるカレルエガ(Careluega)という、男子ドミニコ会の黙想の家に行ってきました。

ここは、敷地がたいへん広く、ひとつの丘全部を占めているようなところで、黙想者だけでなく、多くの一般市民の方々も、週末にはピクニックに訪れるような公園になっています。

ぼくたちが泊ったところは、コッテージのようになっていて、4部屋それぞれに入口があり、トイレ・バスルームがついています。しかも、古い石造り風で、中世の街に来たかのよう。

会議中、マニラ市内のドミニコ会の高校や大学の学生の黙想会があり、ちょっとにぎやかでしたが、日本ではめったに見られない光景。多くの熱心な若者たちを見ると、こちらも元気をいただきます。

さて、このふぉと日記も、11月11日で5年目に突入しました。正直、日記と言えば三日坊主のぼくが、ここまで続けることができるとは想像もしていませんでした。
これも、読んでくださる皆さんのおかげ。心から感謝です。

そして、趣味のカメラと写真とのつながりも大きいですね。当時新調したカメラは、いまでもメインのカメラとして活躍中。途中、いろいろと修理もしましたが、丸4年間、よくがんばってきてくれました。カメラにも感謝です。

日記更新の頻度は、ずいぶんと減ってしまいましたが、もともと「がんばらない」がモットーですから、まあ、これで十分ということにしておきましょう。

これからも、ふぉと日記のこと、あまり期待せずに、末永くよろしくお願いします。

上の写真は、カレルエガの黙想の家の聖堂(夕暮れ)。



これは、コッテージから、少し下の集会室を見たところ(朝焼け)。



コッテージ前のベンチ。

ピンク・シスターズ?

2009-11-09 16:30:00 | Everyday is special
先月の黙想会は、「ブルー・シスターズ」と呼ばれる聖霊会の黙想の家でありましたが、そのお隣は、「ピンク・シスターズ」と呼ばれる、同じ神言会ファミリーの
「神の慈しみの聖体礼拝会」という名前の修道院があります。いわゆる観想修道会ですね。

最初フィリピンに来たころは、「えっ、ピンク・シスターズって、何?どこかのスナックかバーの名前??」などと、不謹慎にも思ってしまいましたが、これがどっこい、24時間(ミサの時間を除いて)聖体礼拝をしている修道会なのです。で、着ていらっしゃる修道服が、鮮やかなピンク色をしていて、その上に白のヴェールとスカプラリオを身につけていらっしゃいます。
シスターたちは、通常一人30分ずつご聖体の前にひざまずいて礼拝し、交代していきます(修道院の人数からすると、一人1日2回ほど)。

じつは、いま滞在しているケソン市の神学生の家の近所にも、同じ修道会の修道院があり、そこでも常時聖体礼拝を行っていて、日中なら、誰でも自由にお祈りに行くことができます。

1986年2月に起きたピープル・パワーの無血革命(二月革命)では、当時のフィリピンのカトリックの指導者で今は亡きシン枢機卿が、民衆に呼びかけて軍の戦車を祈りとロザリオで阻止し、選挙の不正が明らかになったマルコス元大統領を退陣させたとき、何よりもまずピンク・シスターズの院長に電話して、フィリピンの平和のために断食して祈ってくれるようにと頼んでいたことは、じっさいにあった裏話です。
そして、マルコス元大統領は妻のイメルダや家族と共に国外に脱出し、コラソン・アキノ女史が大統領になったのでした。(詳しくは、ぼくも翻訳のお手伝いをした『2月革命の77時間』をご覧ください。)

そのアキノ元大統領は、ガンのため、8月1日に惜しまれながら帰天されました(AFP BB News)。

じつは、ぼくは、叔父の西本至神父のところに遊びに行くために、1986年に初めてフィリピンに行ったのですが、それが革命の直後のことで、そのとき、叔父と共にシン枢機卿にも出会わせていただき、大きな感銘を受けたわけです。
このとき、まだ洗礼も受けていなかったぼくは、オーラたっぷりの彼に握手されたとたんに何かを感じて、カトリック教会にひかれていき、翌年ついには洗礼を受けるまでになっていったわけです。(本当は、たまたま革命の真っただ中に出発する飛行機を予約していたのですが、空港が閉鎖されて行けず、たしか革命直後の3月1日に行くことができたんですね。マニラに着いたときは、革命の興奮が冷めやらぬ状態でした。)

あれから、もう23年も経ったのですね

ところで、このタガイタイのピンク・シスターズの修道院には、一般の人でも宿泊できる小さな黙想の家もあり、ぼくが神学生だった頃、お世話になったことがあります。今回、黙想しながら、いろいろと思い出しました。

さて、明日から別な黙想の家で会議があり、行ってきます。今週末まで、またふぉと日記の更新やメールの確認ができなくなりますが、どうぞご心配なく。

上の写真は、表通りの看板。ピンク色の文字で書かれているので、本当にスナックか何かの看板に見えてしまうのは、ぼくだけでしょうか。


修道院への入り口。



広くてきれいな駐車場。



これが常時聖体礼拝の聖堂です。



聖堂に集合していらっしゃるシスター方。



聖堂正面。

レヴィ=ストロース氏の帰天

2009-11-05 22:40:00 | Everyday is special
フィリピンからこんにちは。

最近、こちらのケーブルテレビの料金体系が変わったようで、海外向けのNHKが見られなくなってしまいました。見られるようにするには別料金を払わなければならないとのこと。とりあえずは、ニュースはインターネットで読んでいるので大丈夫なのですけど、大河ドラマがねえ、見られなくてねえ。。。

ところで、昨日のニュースで目に飛び込んできたのが、フランス在住のクロード・レヴィ=ストロースという思想家の死でした。101歳の誕生日を目前にしての帰天で、わりと最近まで活動的でいらしたそうです(関連ニュース:YOMIURI ONLINEasahi.com時事ドットコム)。

この方は、20世紀後半の現代思想の中で、もっとも大きな影響力を持った社会人類学者であり思想家でした。
ぼくは、彼の思想については間接的にしか読んだことがありませんが、西欧中心の上から見下すような思考法に対して、むしろ下に見られていた野性とか未開とか神話の世界に現れる人類の素晴らしい思考法を復権させたことに大きな功績があったのだと理解しています。

それにしても、彼が100歳で亡くなったということは、彼の人生そのものが、20世紀という一つの時代を現わしていたんだなあと感慨深く思いました。

写真は、彼の天国への旅路を祝福し、先日のタガイタイの黙想の家で撮った花をたむけます。