みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

叙階記念日

2006-04-29 09:36:50 | Everyday is special
きょうは叙階記念日です。
イエズス・マリアの聖心会の何人かの司祭たちも、同じ日です。

ぼくは司祭としてはまだ満9歳(小学3年生)。
それでも、この9年間、密度が濃く、とても深い経験ばかりで、なにやらもう何十年分の経験をさせていただいたように感じます。

司祭になる前、やはり司祭の叔父から「司祭になることよりも、司祭であり続けることの方が難しい。‘Becoming a priest’よりも‘Being a priest’の方が大切だよ」と言われていましたが、まさにその通りだと思う日々です。

それでも、ここまで司祭として成長させていただいたのは、何よりも神さまの助けと多くの皆さまのお祈りによるものです。

これから、さらに神さまと皆さまの忠実なよいしもべとして生きていくことができますように、お祈りをお願いいたします。

アンデレ・ヨハネ 千原通明

(写真は1枚目が信徒会館裏のさくらんぼの花。今が満開、実が楽しみ。2枚目は、いただいたオダマキの鉢植え、3枚目は近所の畑から教会方面を撮ったものです。)






カメラの話

2006-04-28 09:11:42 | Everyday is special
きょうは朝からすっきり晴れて、すがすがしいですね。

さて、このブログを見てくださっている方からときどき質問を受けるのは、どんなカメラをお使いですか?ということです。

ぼくが使っているのは、いわゆるコンパクト・デジカメというもので、レンズ交換式の一眼レフといわれるデジカメではありません。
それでも、自称デジカメ・オタクとしては、少々古いものを入れて3台のコンパクト・デジカメを持っていますが、このブログに貼っている写真のほとんどは、ポケット・サイズの小さなもので撮ったものです。
やはり、常に持ち歩くお散歩カメラとしては、小さいことに越したことはありません。

が、コンパクト・デジカメはマクロ撮影といわれる接写が簡単にできるのが特徴です(カメラによって多少違いますが、花マークのボタンを押すなりしてマクロ・モードを選択します)。
これが一眼レフですと、高価なマクロレンズを買わなければなりません。

先日のカタクリの花を下から撮った写真では、カメラをほとんど地面につけて撮っています。
高さが10~15センチほどの花ですから、大きな一眼レフではそのようなことはできませんね。
もちろんそれでも、這いつくばって撮っているのではなく、ファインダーやモニターを見ずに適当にこの辺かなと狙いを定めながらシャッターを何回か押して、後でモニターで確認します。
撮ったものをすぐに確認できるというのも、デジカメのひとつのよさです。

この花も、先日の筑波山で撮ったものですが、名前がわかりません。
どなたか教えてくださればうれしいです。

フィリアの愛

2006-04-26 16:21:19 | Everyday is special
きょうは聖書勉強会でした。
取り上げたのは、ヨハネの21章15-17節。
イエスがペトロに3度「私を愛しているか」と問う場面です。
これは、イエスのことを3度否定してしまったペトロの愛を確かめると同時に、このことを通してペトロを救済したと考えられます。

さて、この3度の質問とその答えに使われている「愛する」という動詞には2種類の ギリシア語が使われています。
ひとつは、皆さんご存知の「アガペー」の愛が動詞になったもの[アガパオー]。
もうひとつは、「フィリア」という友愛を意味する言葉が動詞になったもの[フィレオー](ちなみに「フィロス」は友のこと)。
聖書の中で「アガパオー」は、神と人との間にも人と人との間にも用いられる動詞です。
が、「フィレオー」は人と人との間には用いられても、神と人との間には用いられた例がありません。
このことに注意しながら読んでみましょう。

(15節)食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛[アガパオー]しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛[フィレオー]していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

(16節)二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛[アガパオー]しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛[フィレオー]していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

(17節)三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛[フィレオー]しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛[フィレオー]しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛[フィレオー]していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい・・・。

最初の2回の質問では、イエスはペトロにアガペーの愛を求めますが、ペトロが答えたのはフィリアの愛でした。
が、3回目の質問でイエスの方がフィリアの愛に変わります。

これはどういうことなのか。

ペトロは一貫してフィリアの愛で答えていますから、イエスを神であるとはまだ認識していなかったと思います。
が、イエスの方が、その友としての愛でよいのだ、そのフィリアの愛で愛してくれ、と言われているようです。

「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15章15節)

このようにして、イエスは神でありながら私たちと同じ地平にまで降りてきてくださったのです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2章6-7節)

イエスとペトロとの対話は、イエスと私たちとの友としての永遠のきずなをあらわしているようです。

ニリンソウ

2006-04-24 09:36:27 | Everyday is special
わたしの
小さな祈りの花が
咲いてゆく

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これは、ある方にプレゼントしていただいた詩です。
こんなにやさしい言葉を紡げるのは、とても素晴らしいと思います。
どうもありがとう。

この花は、先日筑波山で撮ったニリンソウ(二輪草)です。
日陰の多い林の中に咲いていました。
その名のとおり、普通1本の茎から2つの花をつけるそうですが、この写真では、もうひとつの花はまだつぼみでした。

きのうから友部修道院に来ていますが、会議はなし。
きょうは久しぶりの休日。
まったくのDay Offです。

こんなときは、つい、何をしようか、と考えてしまいます。
何もしないでゆっくりする方が難しいですね。
近くに温泉でもあればいいんだけどなあ。

戻ってきたロザリオ

2006-04-21 12:06:21 | Everyday is special
4月11日、受難の火曜日でしたが、歯医者に行く途中のどこかでロザリオを失くしてしまいました。

関東鉄道常総線とつくばエクスプレスと武蔵野線に乗ったわけですが、いつもズボンの左ポケットに入れていて、ケイタイも同じところに入れているので、もしやケイタイを取り出したときに落としたのかと、思い出してみました。

帰りに、来た道をたどりながら探しましたが見つからず、最後に常総線の稲戸井駅の駅員さんに聞いてみました。

「あのー、キリスト教の数珠みたいなもので、先に十字架がついているロザリオというものを落としてしまったようで探しているんですが・・・。朝8時40分発の下りに乗ったんですが・・・」

「ああ、んじゃ水海道駅に電話して聞いてみっから・・・。ネックレスみたいなもんかね?」

「あ、はい! そうです!」

と、いうわけで、朝乗った列車の中にあったそうで、落し物として水海道駅に保管されていました。
そして翌々日の朝(聖木曜日)、無事に手もとに戻ってきました。

このロザリオは、亡くなった母方の祖父の形見で、元々義理の伯母が聖地巡礼のときに買ってきた、オリーブの種でできたシンプルなものです。

神学校に入る前でしたが、一度失くし、一週間後にアパートの駐車場の土の中に埋もれていたのを偶然見つけたことがあります。
神学校に入ってから、金属のクサリがゆるくなり、自分で全部編み直したものなので、とても愛着のあるものです。

これを持っているだけで落ち着きます。

カタクリの花

2006-04-19 14:22:15 | Everyday is special
これがカタクリ(片栗)の花、別名「堅香子(カタカゴ)」の花とも呼ばれています。
ユリ科の植物で、確かにおしべの形はユリの花そっくりですね。

ユリ根のような鱗茎から片栗粉が取れるので、以前は乱獲されたそうですが、現在では多くの場所で保護されて、可憐な花を身近に見ることができるようになりました。

この花も、芽が出て花が咲くようになるまで何年もかかると聞きました。

筑波山のカタクリの花は、少し小ぶりで、高さ10センチほど、花は3センチほどです。
米沢の斜平山(ナデラヤマ)付近の群生地では、残雪に囲まれて咲きます。
残雪を背景にしたカタクリや春の野草は、いのちの芽吹きをより印象的にしてくれます。
今度は水芭蕉かなあ。


友部での会議が続いています。
聖週間で力を使い果たした身にとっては、正直きついです。
でも、話の内容は大切なものばかり。気を抜くことはできません。

キクザキイチゲ

2006-04-18 08:15:33 | Everyday is special
きのうは、取手から友部に来る途中、大きな寄り道をしてきました。
筑波山です。
やはり、カタクリの花を見なければ、ぼくにとっての春は始まりませんので。

たくさん咲いていましたよ。満開でした。
登りはケーブルカーを利用したのですが、下りは登山道を歩いてきました。
カタクリの花もよいのですが、キクザキイチゲ(キクザキイチリンソウ)が咲いていて、とてもうれしかったです。


さて、生駒教子さんの葬儀の日程が決まりましたのでお知らせします。

通夜式:19日午後6時
告別式:20日午後1時
いずれも、(旧)友部町(現笠間市)鯉渕6222のメモリアルホール浄土会館です。

みこころ会の司祭たちだけでなく、行事などで友部を訪れた人々にとっても、優しくて頼りになる大きな存在でした。
どうぞお祈りをよろしくお願いいたします。

HAPPY EASTER!

2006-04-17 10:20:34 | Everyday is special
復活祭、おめでとうございます!

土日は取手でも寒く、日曜日は少し雨も降りましたが、多くの皆さんが集まり、主の復活をお祝いしました。

土曜日の徹夜祭では2名の成人洗礼と2名の改宗式が行われ、喜びもひとしおでした。

きょうはこれから友部修道院に行き、明日から会議があります。
毎年復活祭とクリスマスの後には、このように修道会の管区会議があるのですが、多くの皆さんは休暇で友部に行っていると思っていらっしゃるご様子。
違うんですよー。会議漬けなんです。オシリが四角くなります。

でも、修道会の仲間が集まれば、心をゆるして皆でワイワイと楽しみます。

今週は毎日のミサで栄光の賛歌を歌い、アレルヤの合唱をし、「神に感謝!アレルヤ!!」と叫び、主の復活の八日間を祝い続けます。
毎日が復活祭です!!!

皆さんも、よい一週間をお過ごしください。


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ところで、今朝訃報が入りました。

長年、友部修道院で台所のお仕事をされて、昨年退職された生駒教子(のりこ)さんがご帰天されました。
まだ60歳前だったと思います。
信者さんではありませんでしたが、修道会の会員たちにとっては肝っ玉母さんのような存在で、明るく大らかな性格に多くの人が元気付けられました。ぼくもその一人です。たいへんお世話になりました。
主の復活に合わせて主が天にお呼びくださったように思います。
まだ葬儀の日程は決まっていませんが、どうぞお祈りください。

もう一人の弟子

2006-04-14 10:27:05 | Everyday is special
きょうは聖金曜日。福音は毎年ヨハネの受難物語が読まれます。

ヨハネの福音書の中で「ヨハネ」と言えば洗礼者ヨハネのことであって、12使徒の一人であり、この福音の著者とされるヨハネの名前は出てきません。
13章以降に出てくる「もう一人の弟子」と書かれた人が、この弟子のヨハネであると考えられています。

「弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者」(13章23-25節)
「もう一人の弟子」(18章15-16節)
「母とそのそばにいる愛する弟子」(19章26-27節)
「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」(20章2-4、8節)

ヨハネの福音書が書かれたのは、西暦90年代後半と言われています。
イエスの受難と復活から60年以上も経ってから書かれたので、じっさいに弟子のヨハネの手による書であるというよりも、ヨハネの共同体のメンバーによって書かれたと考えられます。

もちろんヨハネの福音書の内容は、弟子のヨハネによって伝えられたものが大きく反映されていると言えましょう。したがって、この「もう一人の弟子」はヨハネ自身を指していると言えるわけです。

が、わざわざ「もう一人の弟子」と書かれる理由が他にもあるようです。

ひとつは、ヨハネの共同体の中で育まれてきた理想像としての弟子として。
もうひとつは、福音書の読者も含めて、すべてのキリスト者に当てはめることができる存在として。

理想像としての弟子というのは、この弟子が直接イエスの愛を受けていたということと、イエスの胸もとに寄りかかるほど近い存在であったことを見ればわかります(13章21-30節)。
また、ペトロといっしょに空の墓を見に走ったとき、弟子たちの長であるペトロを優先させるために、この弟子は待ちました。
が、「来て、見て、信じた」のは、この弟子の方でした(20章1-10節)。

一方、他の3福音書では、イエスの十字架の近くには誰もおらず、ただ遠くから眺めていた女性たちがいましたが、ヨハネの福音書では十字架のそばに「その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立ってい」ました。
そのとき、十字架上のイエスは、母とその「弟子」に向かって話されます。

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(19章26-27節)

ここでの母は、単にイエスの産みの母親であるマリアを指しているだけではなく、母性の象徴として、これから起こる新しいいのちの産みの苦しみ(十字架の死)をあらわします。
しかし、この苦しみは、大きな喜びへと変わるものです。ちょうど、母親の出産の苦しみが、新たないのちの誕生の喜びに変わるように(16章21節)。

以下、私の恩師の一人である雨宮彗神父さまのことばを引用します。

「イエスの十字架に母が付き添う。それによってヨハネは、十字架が新たないのちを産む苦しみ、喜びへと変わる苦しみであることを示す。そうであるなら、母の「そばにいる」愛する弟子はこの苦しみから産まれる新たないのち、すなわちキリスト信者を表すであろう。(雨宮彗『主日の福音 B年』オリエンス宗教研究所、1990年、99頁)

私たち一人ひとりは、新しいいのちに生きるようにされた、この「もう一人の弟子」なのです。

写真は、つくば市にある農林水産省の研究施設内の有名な桜並木にて。

イスカリオテのユダ

2006-04-12 08:24:38 | Everyday is special
受難の物語には、必ずイスカリオテのユダが登場します。

イスカリオテのユダはなぜイエスを裏切ったのか。
その理由について、マタイとルカとでは大きな違いがあります。
それは、金銭欲か「サタン」の存在かの問題です。

「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(マタイ26章14-15節)

「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22章3-6節)

ヨハネの福音は、金銭欲とサタンの存在との両方を描き込みます(ヨハネ12章6節と13章27節)。

一方、マルコの福音は明確な理由を書いていません。

ところが、最近「ユダの福音書」なるものが見つかったとニュースになりました。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060407i301.htm
(YOMIURI ONLINEより)
http://www.asahi.com/international/update/0407/006.html(asahi.comより)

もちろん、これは正典ではなく「外典」と呼べるものでもありませんので、なんら正典としての聖書解釈に影響を及ぼすものではないでしょう。また、元々ユダ本人が書いたものの写本であると言えるものでもありません。

が、イスカリオテのユダを、忠実にはたらいたイエスの僕として描くことによって救済しようとした人々がいた、ということなのでしょうか。

それだけイスカリオテのユダは、私たちの心の中に潜む、きわめて人間的な影の姿をあらわしているのかもしれません。

さて、きょうは群馬県の伊勢崎教会で聖香油のミサがあり、ぼくも行ってきます。ここで、司教による油の聖別があります。また司祭団にとっては、叙階の秘跡を記念し、その約束を更新する日でもあります。

写真は、ユキヤナギの花。