みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

ビファー神父のお兄様

2007-02-28 18:10:00 | Everyday is special
イエズス・マリアの聖心会の会員で、水戸教会主任司祭のビファー神父のお兄様が、きょう帰天されたと、ビファー神父ご本人からお知らせがありました。

そのお兄様は、レデンプトール会の司祭で、ビル・ビファー神父といいます。87歳とのこと。

どうぞお祈りください。

写真は、2月16日のモロカイ島の朝焼け。

カラウパパ岬とカラワオ

2007-02-26 17:00:00 | Everyday is special
(聖フィロメナ教会)

モロカイ島2日目は、セスナ機でカラウパパに行きました。
そこにダミアン神父がハンセン病患者のために尽くした場所があります。

いまは、国立カラウパパ歴史公園として整備され、許可なしには入れなくなっています。が、現在でも、何人かの住人と2名のシスター、公園職員などが住んでいます。

カラウパパにはもともと漁村がありました。
ハンセン病患者が隔離されたのは、その小さな港から2キロほど離れたカラワオというところにあります。


(カラワオの岸壁。この奥の渓谷にある泉から、ダミアン神父はパイプを敷いて水道をひきました。数十年前まで、カラウパパも含めての水道システムとしてじっさいに使用されていたと聞きました。)

そこにダミアン神父が上陸したのは1873年5月10日。彼が33歳のときでした。
それから1889年4月15日に49歳で帰天するまでの16年間、常住司祭として活躍しました。

ぼくたちが訪れた日は、他にも見学者が何人もいて、アメリカのスクールバスのようなものに乗って案内されるのですが、ほぼ満席でした。

皆がセスナ機で来たわけではなく、ミュールという、馬とロバをかけあわせた可愛らしいウマに乗って崖を降りてきた人や、徒歩で来た人も何人もいました。

そんなわけで、あまりゆっくりと見たいところだけを回ることはできなかったのですが、ダミアン神父が日々歩き、祈った場所を訪れることができ、感慨深いものがありました。


(聖フィロメナ教会聖堂脇にあるダミアン神父の墓。)

ダミアン神父の遺体は、1930年代にカラワオ地区に住む人がいなくなり荒廃したため故国ベルギーに移されましたが、1995年の列福を機に、遺体の右手だけがカラワオのこの墓に戻されました。「右手」は、福者や聖人の偉業を示すシンボルでもあります。


(聖フィロメナ教会の反対側の空き地。ここにハンセン病患者たちの住むセツルメントがありました。いっしょに写っているのは、ガイドの方にえさをもらった猫。)


(帰りのセスナ機内。操縦士も含め9人乗り。どの席も「窓際」です。こんな小さな飛行機に乗ったのは初めて。たった5分のフライトですが、十分楽しめました。)

特製カレンダー

2007-02-24 06:40:00 | Everyday is special
ハワイと日本の時差は19時間。でも、日付を抜きに考えれば実質5時間(ハワイの方が先)です。アメリカ東海岸の時差と比べればたいしたことはないのですが、それでも、朝はまだ目が早く覚めてしまいます。

上の写真は、モロカイ島の「トップサイド」の展望台(「ルックアウト」)から見たカラウパパの岬。この展望台は500メートルほどもある断崖絶壁の上にあります(下は海)。モロカイ島2日目は、岬の先にある小さな飛行場(見えるかな?)へ小型セスナ機で飛んでいきます。

さて、ダミアン神父巡礼記のつづきは、また来週にするとして、きょうは「みちあき神父特製カレンダー」(2007年3、4月版)を皆さまにお届けいたします。


(これは見本です。)

昨年4月に筑波山で撮った花々です(左上からカタクリ、スミレの一種、ニリンソウ、キクザキイチゲ)。
どうぞお宅でプリントして飾ってくださいね。
また、うまくプリントができない方は、ぼくが印刷して差し上げますので、どうぞご遠慮なくおっしゃってくださいね。

以下をクリックしてPDFをダウンロードすると、お手もとのプリンターでA4サイズに印刷ができます(クリックしてからPDFが表示されるまで多少の時間がかかります。また、マット紙などの上質用紙を使うと、より一層きれいに印刷できます)。
http://sacred-hearts.hp.infoseek.co.jp/photos/photocalendar20070304.pdf

それでは、どうぞよい週末をお過ごしください。

初日からモロカイ

2007-02-22 18:10:10 | Everyday is special
きのう夜、ハワイより無事に戻ってまいりました。
おかげ様で、すばらしい巡礼の旅となりました。
お祈りを、どうもありがとうございました。

これから少しずつ巡礼記を綴っていきたいと思います。

さて、2月15日の夜9時に成田空港を旅立ったぼくたち一行は、約6時間の飛行時間を経て、現地時間の同日午前8時頃ホノルル空港に着きました(途中日付変更線を東へ越えるので、このように時間が戻ります)。

空港では、イエズス・マリアの聖心会のハワイ菅区長、ケアヒ神父が生花のレイを皆の首にかけて出迎えてくださり、大感激。花の甘い香りが、その後も何日もなくなりませんでした。

そのまま、ぼくたちは国内線に乗り換え、一路モロカイ島へ。小さなプロペラ機で飛行時間はわずか25分。お昼頃到着しました。

それから3日間、ロイさんという、曙をスマートにしてハンサムにしたハワイ人の方にお世話になり、大きなバンで、あちこちに連れて行っていただきました。

彼は、歌が大好きでとってもうまい。いつも愛用のウクレレ(6弦の特製と思われる)を手に、どこでも歌ってくれます。

まずは、カラウパパという、ダミアン神父ゆかりの岬の見える断崖絶壁の上の展望台へ。
それから、ダミアン神父が地元の信者さんと建てたという聖ヨゼフ教会へ(上の写真)。脇にはたくさんのレイで飾られたダミアン神父像が。
この聖堂で(真ん中の写真)翌々日ミサをささげることになっています。

それから、悲しみの聖母マリア教会へ(下の写真)。これもダミアン神父が建てた教会。ここでぼくたちは、モロカイでの最初のミサをささげました。

夜は、地元の聖ソフィア教会の有志の皆さんが集まって、持ち寄りの、心あたたまる歓迎パーティーをしてくださいました。

食事の後は、ウクレレ2台の伴奏によるハワイアン。歌も踊りもプロ級。
モロカイ島にちなむ歌も多く歌われ、やっと、モロカイに来たのだなあという実感が湧きました。

今回は、参加人数が少なく(ぼくも含めて6名)、添乗員さんが付かなかったので、ぼくがその役目も担いました。といっても、ハワイは、ぼくはまったく初めて。参加者の皆さんとロイさん、地元の信者さん方のおかげで、実質40時間近い長い「一日」が無事に終わりました。





きょうからハワイ

2007-02-15 08:55:55 | Everyday is special
きょうから福者ダミアン神父巡礼の旅で、ハワイに行ってまいります。
(ダミアン神父についてのウィキペディアはこちらからどうぞ)

今回のハイライトは、やはり彼がいのちを尽くしたモロカイ島での2泊3日。
カラウパパなどのゆかりの地を訪ねます。

よい巡礼の旅となりますように、どうぞお祈りください。

またしばらく(一週間)ブログの更新とメールができなくなりますが、どうぞご心配なく。

写真は、いずれもジョグジャカルタにて。上は「ランブータン」という、種が大きく果肉が白くてとても甘い果実。「ライチ」に似た味と食感です。下は、ご存知ママイヤ・・・・・あれぇ?あ、そうそう、「パパイヤ」でした(どうぞ、ここで笑ってくださいな)。


ジョグジャカルタのみこころ会

2007-02-14 21:18:00 | Everyday is special
1月31日の夕方から、ジョグジャカルタのイエズス・マリアの聖心会の会員たちが勢ぞろいして、感謝のミサをささげ、パーティーが開かれました。

ジョグジャカルタは、独立後の最初の首都でしたが、教育文化都市としても有名で、カトリックのすぐれた大学もあり、聖心会では、2つの神学生の家と、ひとつのシスターの共同体があります。

6月には、初誓願を立てた若い会員たちが修練院のあるマニラから戻ってきますが、そうなると誓願を立てた神学生の数は37名にもなるとのこと。

パーティーでのお楽しみは、みんなの出し物。
歌や踊り、ゲームなど、若さがみなぎって、本当に楽しいひとときを過ごさせていただきました。

日本から参加したぼくたちも、ぼくのギター伴奏で「かみさまといつもいっしょ」と「アーメンハレルヤ」を歌い、コーラス部分ではインドネシアの皆さんも大合唱。
日立教会のヒーリー神父のアーメンハレルヤの踊り(!)も、日本ではぜったいに見られない、楽しいものでしたよ。

翌日は、いよいよインドネシアを去る日。
ジョグジャカルタの空港からジャカルタに飛び、夜行便で日本に戻りました。

ジョグジャカルタ空港では、スリ・ワルヨ神父のご両親とお兄さん、そして甥子さんにも出会えてよかったです。

上の写真は、ジョグジャカルタの「ピクプス神学生の家」の玄関。
下の写真は、その2階から見た活火山のメラピ山(標高2968m)。その奥の山(名前を忘れました)も、3000メートルを越える休火山。マルティヌスの故郷は、この2つの山の間に位置します。



ジャカルタ空港を、日本時間で深夜12時に出た飛行機は、3日朝7時過ぎに成田に到着。

朝日に照らされた富士山を期待していたのですが、うっすらとしか見えませんでした(そのかわりに、お月さんがきれいでした)。
でも、ぼくは飛行機(車も列車もですけど)の窓からの景色を見るのが大好きです。
着陸直前には、九十九里浜(多分)が美しく見えました。




世界遺産ボロブドゥール

2007-02-12 20:00:00 | Everyday is special


(画像をクリックすると、大きく見られます。)

マルティヌス神父の故郷での初ミサの翌日(2月1日)、ぼくたち日本からの参加者はマルティヌス神父と、現在山形教会で働いている同じインドネシア人会員で、今回の叙階式に同行したスリ・ワルヨ(インドネシア語で「美しい命」というお名前)神父の案内で、ジョグジャカルタ近郊の観光の日を一日いただいて、世界遺産となっているプランバナンというヒンズー教の寺院とボロブドゥールという仏教の寺院を訪ねることができました。

いずれも8世紀後半にできたというもので、日本でいうと平安時代初期。ぜひ訪ねたいと念願していた世界遺産でした。

ぼくが、いちばん感激したのは、やはりボロブドゥール仏教遺跡(ウィキペディアはこちら)です。
これは、平たいピラミッドの形をしていて、5層からなっていますが、下から俗界、そして天上界へと、各回廊のレリーフを見ながら歩くことができます。

発見されたのが、けっこう最近のことで、それ以前は、ジャングルの中の土に埋もれた丘であったとのこと。
今回、インドネシアに行く直前のテレビの番組で取り上げられていたこともあって、じっさいに見たときの感動はひとしおでした。
(ちなみに、奈良県の明日香村には、これとそっくりなミニチュア版の仏教遺跡があるとのこと。こちらにも行ってみたくなりました。)

いちばん上から見る景色は、あたかも8世紀にタイムスリップしたかのよう。古代のロマンに思いを馳せました。

なかでも、石の籠のようなものの中に安置されている仏像群は、ほんとうにすばらしかったです。
その中の仏像の手に触れればしあわせが訪れるという言い伝えがあるとのこと。
ぼくも、1200年前の、その指先に触れさせていただきました(宗教の違いなんて、もう関係ありません)。

時間も限られていたので、全部の回廊を巡って見ることはできませんでしたが、本当にすばらしかったです。

インドネシアには、世界に誇る歴史と文化遺産があるのだと、あらためて思いました。(ぼくは、この遺跡に一目惚れしてしまって、機会があれば、ぜひまたゆっくり行きたいと思います。)

ちなみに、ワルヨ神父の故郷は、ここから車で一時間弱のところ。訪問は叶いませんでしたが、翌日空港で、ご両親とお兄さん、甥子さんに出会うことができ、うれしかったです。






(この写真も、クリックすると、はみ出た部分が見られます。)

アンバラワでの初ミサ

2007-02-09 21:35:00 | Everyday is special
バンドゥンでの叙階と初ミサの一連のお祝いが終わり、ぼくたちは一路ディーゼル機関車に引っ張られた特急列車でジョクジャカルタにあるイエズス・マリアの聖心会の「ピクプス神学生の家」に向かいました。

バンドゥンからジョグジャカルタには、列車の時刻表によれば4時間半で着くはずでしたが、雨季で地盤がゆるんでいるのでしょう、途中の山岳地帯では徐行運転を余儀なくされ、結局9時間近くかかりました。

ジョグジャカルタは、多くの古代遺跡に囲まれた古都で、日本でいえば、ちょうど京都と同じくらいの歴史を持っているそうです。

マルティヌス神父の故郷は、アンバラワという村で、ジョグジャカルタから車で約2時間半のところにあります。
昨年も噴火したメラピという火山や、他の3000メートルを超える山に囲まれたアンバラワには、美しい湖があり、その湖岸に沿うように人々が住んでいます。
マルティヌス神父の実家も、そんな村の一角にありました。

1月31日の夕方5時から、彼の実家で初ミサがささげられ、皆で参加してまいりました。

マルティヌス神父の実家は農家です。そして、彼のお父さんは地区の世話役を長年務めていたこともあって、家には集会のできる大きな部屋があります。
そこに地区の信者さんや主任司祭、そして、あちこちからの参列者が集まって100人以上の参加者であふれるほどの初ミサとなりました。

とてもすばらしい初ミサでした。
彼のご両親も、兄弟姉妹たちも、笑顔でいっぱいでした。
そして、この村から海外への宣教師が生まれたという誇りも感じられました。
彼の説教も、笑いがあったり和やかでありつつも、たいへん力強いものでした。

こころから、おめでとう!と皆でお祝いしました。

上の写真は、表の通りからマルティヌス神父の実家に来る道。

下の写真は、近くの水田。
そして、一番下の写真は、本来なら雨季で水で一杯になるはずの湖。釣り好きのマルティヌス神父が育ったところ。干されている植物は、編んで作る民芸家具の材料となります。




バンドゥンでの初ミサ

2007-02-07 16:03:05 | Everyday is special
叙階式の翌日、バンドゥンにあるイエズス・マリアの聖心会のダミアン・セミナリー(上の写真)で二人の新司祭による初ミサがささげられました。

このセミナリーには、聖心会に入ることを目指している志願者たちが15名ほど、指導の司祭やブラザーたちと過ごしています。

初ミサは夕方6時からささげられました。

主司式はデディ神父。説教はマルティヌス神父。

ミサ後、セミナリーのメンバーやシスターたち、そして、新司祭たちの家族もいっしょに盛大なパーティーが開かれました。

若い志願者たちによるさまざまな出し物(歌や踊り、寸劇)が楽しくて、おなかの底から笑うほど。
ぼくも楽しかった自分の神学校時代のことを思い出しました。

ちなみにバンドゥンは、1955年、第1回のアジア・アフリカ会議(いわゆるバンドン会議)が開かれた場所で有名です(下の写真がその会場となった所)。(こちらからウィキペディアをご参照ください。)
ここで宣言された「バンドン10原則」は、現在でもなお、とても大切なものと思います。



日本は、戦争中3年間インドネシアを占領していましたが、じつはぼくの母方の、いまは亡き祖父が軍隊でバンドゥンに駐留していたとのこと。彼は衛生兵だったそうですが、現地の人々とはよい関係を持っていたようで、インドネシア語のあいさつをいくつか覚えていました。

が、ぼくが2002年に初めてインドネシアを訪れた際に、イエズス・マリアの聖心会の何人かのオランダ人宣教師が日本軍によって殺されてしまったことを知って、たいへん複雑な気持ちになりました。

下の写真は、セミナリーのホールに飾ってあった人形。聖心会の修道服を着ています。


マルティヌス神父の誕生

2007-02-05 10:25:55 | Everyday is special
おととい、無事にインドネシアから戻ってまいりました。
おかげ様で、すばらしい一週間を過ごさせていただきました。
これから少しずつ、マルティヌスの叙階と初ミサの模様をお伝えしていきたいと思います。
(デジカメの本領発揮、一週間で1000枚以上も撮りました。これから整理がたいへん。)

まず、いちばん最初は、やはり叙階の瞬間。
司教の按手(手を頭の上に置きます)。

この日、司祭に叙階されたのはマルティヌスとデディ(どちらもイエズス・マリアの聖心会)です。

手前に頭だけ写っている後姿の方が、マルティヌス神父のお父さんです。

場所は、バンドゥン市内の聖ガブリエル教会。信徒数3000人の小さな(!)教会。

1月28日の夕方5時からの式でしたが、直前から雷を伴ったたいへんな夕立となり、道は小さな洪水状態。
道を隔てた家で準備していた司教と35名ほどの司祭は目の前なのに歩いていくことができず、ホンダのフィット(現地では違う名前でしたが)で4人ずつピストン輸送で移動。

式が始まったのは5時半でした。

最初は、インドネシアのジャワの民族衣装の男女による祝福の儀式。

そのあとに、司祭団と叙階される助祭、司教が入堂しました。

聖堂は、水戸教会よりも小さいくらい。駆けつけた人々は中に入りきらずに、外にたくさんはみだしていました。

叙階の中心は、司教による祈りと按手です。それから、すべての司祭が按手をしました。

按手の次は、司教が新司祭の手のひらに聖香油を塗ります。そして、司祭の祭服が着せられ、カリスとパテナ(ミサの聖具)が手渡されます。

叙階式は2時間ほど。その後、ホールと聖堂を使ってパーティーが開かれました。

ぼくも、10年前の自分の叙階式のことを、鮮明に思い出しておりました。