みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

なごり雪

2006-03-29 13:31:00 | Everyday is special
春になってからの雪を、人は「なごり雪」と呼びます。
きょうは、冬に戻って、茨城県は強い北西からの風が吹いています。

今年は、残雪が多く、蔵王辺りでは4月に入ってからもスキーが楽しめそうですが、ぼくはもうできないなあ。
雪国の人々にとって、雪解けの春はたいへんうれしいものですけど、ウインタースポーツを楽しむ人々にとっては、「惜雪」とでもいう感傷感があります。
春の、解けていく雪は、あの真っ白な世界とは違って、黒っぽくなり、それはそれで新しい芽吹きを感じさせるのですが、あまり美しいと思えるものではありません。
が、そこにやってくるのが、桜の花でしょうね。
モノトーンの世界から、一気に華やかな色の世界が広がっていきます。

今週は月曜日から、イエズス・マリアの聖心会のインドネシア管区の菅区長が来日し、きょう会議がありました。

うちの修道会にとって、アジアでもっとも古い宣教の歴史があるのがインドネシアですが(約80年)、何年か前までは、インドネシア人の召命を受け入れることには消極的でした。
が、現在インドネシアは、誓願を立てた総会員数がインドネシア人と数名のベルギー人とを合わせて75名になり、2001年には「準管区」から「管区」に昇格し、アジアでの宣教の拠点となりつつあります。
そんな中、すでに日本に2名のインドネシア人の宣教師が派遣されており、これからも継続的に派遣されることでしょう。
そして、もしこのまま日本人の召命がないなら、日本準管区はインドネシアの管区に属することになるかもしれません(現在はアメリカ東海岸管区に属しています)。

また、インドでの召命も多く、キリスト教の宣教地図からすると、将来は、アジアやアフリカなどから欧米、日本に宣教師が派遣され、今、そのことが現実に起こりつつあります。

日本人の召命を祈りながらも、これからはアジア的な視点で日本国内の教会をながめていく必要があるようです。

写真は、2月の蔵王から。横からの強風で、小さなブリザードのようになっています。(横位置の写真ですので、はみ出た部分は画像をクリックしてご覧ください。)

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2 コメント

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外国人神父様 (SEKIYAMA@Colorado)
2006-03-31 09:34:22
僕が今住んでいるコロラド州の田舎町は人口10万人、カトリックの教会は4つあります。それぞれの教会に複数の神父様がいらっしゃるようです。あちこちの教会の様々な時間帯のミサに出てみて思うのは、アメリカ人ではない神父様が沢山おられるということです。



これって、アメリカでも現地人の召命が減っているということなんでしょうか、それとも他国との人事交流が盛んなんでしょうか。キリスト教国(アメリカも人口の約3割はカトリックです)なのに不思議です。千原神父様はそのあたりの事情はご存知ですか。



もしどこの国でも経済的・物質的に富めば富むほど召命が減るのだとしたら、複雑な気持ちになりますねえ。
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SEKIYAMAさんへ (みちあき)
2006-03-31 16:53:03
そうですか、コロラド州の小さな町でもいろんな国籍の司祭がいるのですね。



たしかに先進諸国と言われてきた国々の司祭・修道者の召命不足はたいへん深刻のようです。



ぼくの修道会は1800年にフランスで生まれ、その後ヨーロッパを中心に広がり、現在では世界40カ国以上に修道院がありますが、当のフランスでの召命は(教会に来る信徒の数もそうですが)、いわゆる世俗化(Secularization)の波に押されて、相当数が減っていて、深刻な状況です。



みこころ会はアメリカにも東、西、ハワイの3つの大きな管区がありますが、ぼくの知る限り過去10年以上で1人しか司祭になっていません。

日本での召命の少なさはもっと深刻で、1979年に楠神父様が叙階された後召命が途絶え、その後27年間でぼくも合わせて2名しか司祭になっていませんし(1989年本間神父様叙階、1997年にぼく)、現在も神学生はおらず、これから少なくとも8年間は日本人会員の司祭叙階はありませんので、35年で2人だけということになってしまいます・・・(司祭になるには7、8年かかりますので)。

他の大きな修道会も、最近の召命の減少傾向と司祭・修道者の老齢化に悩んでいて、アジアやアフリカからの若い宣教師たちに頼るところが増えているように思います。



原因としては、やはり経済的・物質的な豊かさ、あるいは少子化があるのかもしれません。が、しかし、このような時代だからこそ、精神的・霊的渇きもあるはずで、じっさいいくつかの新興宗教が発展している姿を見るにつけ、どうしたらよいのだろうと思ってしまいます。



果たしてカトリック教会の歩んできた道が、どこか間違っていたのか。



すぐにはそうは思いませんが、一方で韓国でのカトリック教会の著しい発展振りを見ると、何か教えられるものがあるのではないかと考えています。
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