みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

「がんばらない」(2)

2008-07-30 10:10:10 | Everyday is special
暑中お見舞い申し上げます。

さて、鎌田實さんの『がんばらない』の続編の名前がおもしろいです。

『あきらめない』と『それでもやっぱりがんばらない』(いずれも集英社刊)。

題名を読むだけで、鎌田さんの訴えようとしていることが見て取れるようです。

これらは医療現場での患者さんへのメッセージが元ですが、鎌田さんご自身の生き方にもつながっていると思います。

がんばらないけど、あきらめない。
それでも、やっぱり、がんばらない。

やっぱり、いいなあ、と思います。

前回、我意(自分の思い)と神意(神の思い)について触れましたが、いったい何が神の思いなのかを知ることは、とてもむずかしいことですし、「これこそ神の思いだ」とわかったつもりでいると、かえって危険でもあります。

いったい神の思いとは何なのか。

その思いを知るためには、沈黙のうちに全身全霊を耳にして聴く姿勢が大切のように思います。

しかし、聴いて聞こえるものではありません。

それでも、神の思いがどのような方向に向いているのか、それは聖書を読むと自ずと見えてきます。

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神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
(ヨハネ3章16-17節)

わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
(ヨハネ6章38-39節)
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イエスのメッセージが、「福音」すなわち「よい知らせ」と呼ばれる所以がここにあると思います。
そして「神は愛」である、ということが、このメッセージの根本にあります(ヨハネの第1の手紙4章7節以下)。

神の大きな思いと愛に自分の身をあずけることができれば、本当にがんばらないで生きることになるのかもしれません。

写真は、今週、御聖体の宣教クララ会軽井沢修道院のシスター方のミサとゆるしの秘跡のために訪れた軽井沢は白糸の滝にて。夏休みで人が多いのですが、いつ来てもよい滝だなあと思います。

「がんばらない」

2008-07-23 12:55:55 | Everyday is special
いよいよ本格的な夏到来。聖堂裏の畑には、トウモロコシがすくすくと育っています。

さて、日記のテーマにもなっている「がんばらない」。過労でうつ病を得てからのモットーでもありますが、これには自分なりの思いを込めています。

ぼくが初めてこの言葉に出会ったのは、鎌田實さんの『がんばらない』(集英社)の本ですが、その中にも書いてあるとおり、長野県在住の知的ハンディを持っている西沢美枝さんの書いた書が元になっています。その書が鎌田さんが院長をしておられた諏訪中央病院の一角に飾ってあることから、本の題名にもなったとのこと。

そこには、病院では医療のスタッフががんばるから、患者さんは安心して、がんばらなくてもいいんだよ、との思いが込められています。

ぼくは、西沢さんの「がんばらない」の書に、偶然別なところで出会いました。その書に感動して、以来、このことばが座右の銘のようになりました。

そして、昨年1月、ついに西沢さんが活動している所を訪ね、ご本人に会うことがかないました。

「わたしが西沢美枝です!」と元気に出迎えてくれた彼女。あまりにあどけないので、まったく年齢不詳ですが、笑顔のとてもチャーミングな女性です。

しばし、いっしょに過ごした時間は、とてもゆったりとした、肩の力が完全に抜けていく心地よいものでした。

なんとかご本人直筆の書が欲しいと思い、いっしょに書を楽しめるようにスタッフの方が配慮してくださったのですが、彼女はなかなか筆を持とうとしません。仕方なく、ぼくがちょっと書いたら、それを見て、

「ちはらさん、字、ヘタだね」

と言われてガックリ。わざと、子どもっぽく書こうとしたのがばれてしまったのでしょうか。でも、とてもよい思い出になりました。

ところで、「がんばる」ということばについて、広辞苑(第5版)では次のように書かれています。

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(「頑張る」は当て字。「我に張る」の転)
 ① 我意を張り通す。「まちがいないと―・る」
 ② どこまでも忍耐して努力する。「成功するまで―・る」
 ③ ある場所を占めて動かない。「入口で―・る」
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ぼくたちが、日ごろいろいろなことで励ましたりするときに使う意味は②の意味でしょうね。しかし、がんばりすぎると①の意味のように、我意を通すことによって他人の思いや力の入る余地をなくし、自分の力にだけ頼るようなことにもなってしまいがちです。

これは、信仰の面でも同じことが言えるのではないかと思います。
つまり、自分の力にだけ頼ってがんばればがんばるほど、神の力の働く余地がなくなってしまうのではないかということです。信仰とは、我意を通すことではなく、神の意(思い)が実現するようにと自らを明け渡すことだからです。

そのような意味で、ぼくはいつも「がんばらない」で歩んでいけたらと願っています。が、じつは、これがとてもむずかしい。どうしても我がままになって我意を通そうとしますし、自分の力に頼ってしまいます。「がんばって」しまって、結局は我意が通らずに疲れ果ててしまうのです。

そんなとき、西沢美枝さんのことを思い出すと、ありのままの姿、弱いがままの姿で生きる喜びや悲しみの中に、がんばらないで生きる本当の道を教えられるように思うのです。

ヒグラシ

2008-07-16 11:11:11 | Everyday is special
友部修道院では、先週からヒグラシが鳴きはじめました。

あの、カナカナカナ・・・という鳴き声を聞くと、夏の終りの夕暮れを感じさせてくれますが、セミの中でも比較的早く鳴く種類だそうですね。7月が盛りだそうです。

今年の夏も、いよいよ始まったようです。
高校野球も、夏の甲子園に向けて各地で熱戦が繰り広げられていますね。
ぼくは、長野の出身校がベスト8に入ったと知っただけで、あの応援団の熱気が伝わってくるようでした。

写真は前回行った蔵王のお釜。
下は、右から朝日、飯豊、吾妻の各連峰を望むパノラマ(合成写真)。クリックすると大きく見られます。




今年の駒草

2008-07-08 08:30:00 | Everyday is special
先週、少し時間が空き、しかも天気がよさそうだったので、たった一日でしたが思い立って蔵王に駒草を見に行きました。
例年だと、今頃はいくつも咲いているはずです。
が、今年はところどころに雪渓の雪がまだたくさん残っていて、ようやく咲き始めた頃でした。

この冬は、山では雪が結構たくさん積もったようですし、5、6月の平均気温もそんなに高くはなかったのかもしれません。

それでも、今年もしっかりと咲いてくれた駒草。なんとも言えない感謝の気持ちが湧いてきました。

ありがとう。





神父さま教えて(3)

2008-07-01 10:10:10 | Everyday is special
早いもので今年も半年が過ぎました。クリスマスももうすぐです(?!)。

さて、「神父さま教えて」の第3回はあおいちゃんからの質問でした。

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あおい「私はどうしても暗いところが怖いという気持ちを抑えることが出来ません。神さまを信じきれていないからなのではないかと思うと悲しくなります。どうしたら神さまを完全に信じて、暗いところも怖くなくなりますか?」

神父「あおいちゃん、暗い所が怖い、というのは、人間ならきっとだれでも感じることだと思うよ。
ぼくだって、大人になってからも、やっぱり暗い所は怖いもの。
でも、神さまを信じきれていないから怖く感じるのだ、とは考えないほうがいいと思います。
神さまが人間をつくられたとき、完全な者としてはおつくりになりませんでした。
人間は、かならず弱さを持っていて、いつも神さまの助けが必要になるようにおつくりになりました。
それは、人間が、自分の弱さをとおして、神さまを知ることができるようになるためです。
怖い、と感じることも人間の弱さのひとつ。
そのように感じるとき、神さまがいつもいっしょにいてくださり、必ず助けてくださる、と祈ればいいんだよ。
そうすれば、怖いときも、きっと安心して過ごすことができると思います。
神さまの、いちばんのメッセージは、『わたしはいつもあなたがたとともにいる』ということだったんだね。」
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子どもたちの質問には、いつもとても純粋なものを感じます。
自分の忘れていたものを呼び起こしてくれます。
誰でも「みんな子どもだった」という素晴らしいことを忘れないようにしたいと思います。
つたない答えですけど、質問してくださる皆さんに心から感謝します。

写真は前回行った裏磐梯の五色沼散策路にて。小さな川ですが、流れには勢いがありました。