目指せ! 標高1122メートル

山の神にお供して歩きつづける、ある山のぼら~の記録。ネイチャー、冒険の本もとりあげるよ。

南極越冬記

2011-11-12 | 山・ネイチャー・冒険・探検の本

01

南極で越冬するとはいかに?

今でこそ、当たり前のように聞こえるこの事実だが、初めてそこへ向かう人の志、心情はどんなものだったのだろうか。第1次南極越冬隊派遣当時においては究極の冒険だったに相違ない。でも、志願者は多く、優秀な人材11人が選抜されて、まさしく少数精鋭でこの越冬隊は編成された。

選抜メンバーは研究者を核に、通信担当やお医者さんや料理人など、昭和基地を運営するうえで不可欠な面々たちだ。しかも健康面、体力面に不安がない人たちで、加えて、砕氷船宗谷の来年の状況次第では、基地に到達できないことも考えられたので、2年以上にわたる任務(念書をとられていた)を受け入れていた人たちだ。

年齢は、隊長の54歳を頂点に、30代・40代が中心。最年少は27歳であった。すなわち、それなりに人生経験、知恵、体力があり、担当部門の実績もあって、観測や研究などそれぞれの職務を遂行するのに適した人材だった。他国の南極基地のスタッフは、20代中心の編成であったらしいから、家族を大切にする欧米人ならではなのか、あるいは体力重視、はたまたリスクに無頓着な若者が自然に集まったのかもしれない。ひとついえることは、20代ばかりだと、どうしても不測の事態に右往左往しそうで心もとないが、年齢がそれなりであれば、問題発生時にもうまく対応できるというものだ。

問題発生は日本の越冬隊でも多々あったが、そうした南極における難局(ダジャレではない)を無事切り抜けている。第1に物資の海への流出。宗谷から下ろした物資が氷海に漂い始めてしまい、結果的にはなすすべなく失ったわけだが、燃料の使用量を抑制するなど、失った物資の分をやりくり算段するわけだ。

第2にはカブースの火災だろう。本棟ではなく、別棟で起きた火災だが、ヘタしたら、本棟へ延焼した可能性がある。燃料の入ったドラム缶が膨張し始めていたというからいつ爆発してもおかしくなかった。隊員が身を挺してドラム缶に雪をかけ難を逃れた。南極で基地の建物が全焼したら(想像するだに恐ろしい)、命にかかわるから、この事件以来、火の始末には細心の注意を払うようになったようだ。

そして第3に通信や観測の機器類の故障。かちゃかちゃいじっているうちに、直ってしまうんだな。理科系の方々はすごいと思う。私はまったくダメだけど。

こう書いていくと、キケンと隣合わせの南極の日々を連想されてしまうかもしれないが、フツーの楽しい日常もつづられている。西堀隊長はやらないが、娯楽はいつもマージャンとか、食堂、珍々亭のメシの話とか。珍々亭のシェフは、洋食も和食も何でもつくれる万能料理人で、当時では珍しいパンも一人で焼けるスーパー料理人なのだ。そして南極だからこその話題であるオーロラやペンギンの話、犬ぞリを駆使しての基地付近の探検、ウランなどの鉱物採集と興味深い話はつづいていく。

最後に、第1次南極越冬隊の隊長を務めた著者の西堀栄三郎についてひとこと。フランス文学者の桑原武雄や生態学の棲み分け理論で有名になった今西錦司らと京都学派の一翼を担っていた著名な学者であり、彼らとは山仲間としても交友を深めていた。西堀の奥さんは今西の妹であるからその関係は深い。また梅棹忠夫は後輩で、梅棹の著作に出てくる京大の山岳部で歌われていたという「雪山讃歌」は、西堀栄三郎が山岳部OBを代表して作詞者として登録されているということだ。(ちょっとうんちく)

この本は初版が1958年。最新版は2009年第38刷になっている。それだけ長く読み継がれてきた貴重な記録といえる。

参考:
梅棹先生の遺作『山をたのしむ』
http://blog.goo.ne.jp/aim1122/d/20111025

南極越冬記 (岩波新書 青版)
クリエーター情報なし
岩波書店

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