『デス・ゾーン—―栗城史多のエベレスト劇場』河野啓(集英社)
それをすると面白いのか、視聴者の興味を引くのか、視聴者の支持を得られるのか。
こんな思考法をとる栗城くんと、仕事への取組み方やマインド、行動様式がそっくりと思ってしまったのは、著者の河野さん。そっくりだからこそ、河野さんにとって栗城くんは取材対象となったし、いったん興味を失いしばらくブランクがあったのに、再び取材対象となったのではないか。類は友を呼ぶというやつか。
河野さんは、栗城くんの関係者に精力的に接触を試み、取材をしている。ただ残念なのは、栗城くんにいちばん近いと思われる事務所の側近中の側近から取材拒否されたことにある。常に近くにいるだけに、もっとも栗城くんの心情を知っていたであろう人から話を聞けなかったのは、臥龍点睛を欠くというものだ。
それはさておき、いきなり核心を書いてしまおう。この本のクライマックスは、栗城くんの最後のエベレスト遠征にまつわることだ(以下ネタばらしになるので、これからこの本を読もうという人は注意)。
まずは5度目のエベレスト挑戦でSNSで大炎上したことが絡んでくる。この時GPSを装着することで栗城くんの位置情報を公開したわけだけれども、電源のON/OFFを繰り返してついたり消えたり、しかもゆっくりとした歩みが突如3倍のペースに変わったりと不自然さが際立った。支援者をだましてでも、演出して盛り上げようとしていたのではないかという疑惑が巻き起こり、Webでは大炎上した。真相はこうだ。シェルパもGPSを装着して登り、さも栗城くんが登ったように装ったのだ。だからシェルパが登った地点の栗城くんの映像はない。
またあれだけ「単独・無酸素」を標榜していた割には、栗城くんはBCに酸素ボンベを持ち込んで吸っていたし、C2やC3の上のキャンプ地にもシェルパが荷揚げした酸素ボンベがあって吸っていたことが明らかになった。単独といいつつ、まるで昔の極地法のような登山スタイルで荷揚げをしていたのは周知のことだ。
加えて驚きだったのが、凍傷で指を切断することになった件。あんな不自然な凍傷は見たことがないと登山関係者は声をそろえたという。演出のために故意にグローブを外して指を雪に突っ込んだのか?という疑惑もあったようだ。おそらく実際そうだったのだろう。凍傷になったというドラマティックな映像をつくるつもりが、やりすぎて指の組織を壊死させてしまったというのが真相だろう。
そして驚くべきは、著者の河野さんは栗城くんの死は自殺ではないかと疑っていることだ。死ぬ前の言動からさまざまな憶測を呼んだが、たしかにその推理は当たっていそうだ。「単独・無酸素登山」に疑惑をもたれ、激しい誹謗中傷を受けて自暴自棄になっていたこと、どんなにがんばってもノーマルルートで酸素ありでなければ、エベレスト登頂の可能性は低かったということがある。それを裏付けるように最後のルート設定は夢枕獏さんの『神々の山嶺』に出てくる未踏ルートであり、登頂の可能性はないといっても過言ではなかった。最後に華々しい散り方をしてカッコよく自分の人生に始末をつけようとする演出だったのではないのか。
どうしてこんなことになってしまったのか。最初に戻るが、冒頭に掲げたテレビ屋さんマインドに侵されてしまったからなのではないか。エスカレートすれば、倫理感は失われ、やらせが当たり前でバレなければなんでもよしとしてしまう、ちょっと前のテレビ屋さんと同じだ。河野さんはじめ栗城くんをとり上げたメディアの方々が知らず知らず追い詰めてしまったのは否めない。そう感じているからこそ、事務所の側近は取材拒否したのだろうか。
最後にこの本で、違和感を感じたのは、「山頂アタック」という言葉を頻繁に使っていたこと。初出で断り書きがあったが、山登り関係者でいまこの言い方をしている人はまずいない。山は攻撃や攻略するものではなく、われわれと一緒にそこにあり調和しているものであり、登らせてもらうものという感覚が普通であり、「サミットプッシュ」という言い方が一般的だ。この本の読者は、登山とは無縁の一般の人が対象ということで、わざわざ「山頂アタック」としたのだろうが、まさにテレビ屋さんマインドの象徴という気がした。
参考:当ブログ 栗城史多とはいったいどんな存在だったのか?Nスペで総括