目指せ! 標高1122メートル

山の神にお供して歩きつづける、ある山のぼら~の記録。ネイチャー、冒険の本もとりあげるよ。

講演「関野吉晴が地球を這って見たこと、考えたこと」

2022-11-26 | イベント

探検家関野吉晴さんの講演会が調布のたづくりで催された。たまたま関野さんのフェイスブックでこの講演会のことを知り即座に申し込んだのだが、すでに満席でキャンセル待ちとなっていた。ほとんどあきらめていたこともあり完全に忘れていたところ、先週会社帰りに主催側からキャンセルが出ていますと電話をもらった。思わず小躍り。

講演は、関野氏の半生をたどるように20代、30代のころのアマゾンの南米探検に始まり、人類のアフリカから南米への移動を逆にたどって人類のルーツを探ったグレートジャーニー、そして日本人のルーツをたどるべく南方ルートの解明、そして探検の旅で出会った人たちの生活にも及んだ。コンパクトにまとめた映像も織り込んでのトークは旅の臨場感を十分に伝えるものだった。

興味深い話はいくつもあった。たとえば極北の民は、狩猟に出るときにもっていく道具4点セットがあるのだという。それは家を出て何か月も過ごせるほどのすぐれもの。ナイフ、マッチ、釣り道具、そして意外なことに縫い針だそうだ。縫い針は極寒の地で暮らすためには絶対に欠かせないもので、動物の革をかぶったり羽織ったりしても隙間があれば、そこから体温を奪われて凍死してしまうのだが、縫って体に密着させればそれを防げるのだ。なるほどと納得し感心した。ちなみに縫い針の発明は2,3万年前であり、それ以来人類は極北の地に住めるようになったとされている。

アマゾン川流域のある集落の話も秀逸だった。その集落では皆が協力しあって生きている。捕った獲物は皆で分配するから、多くの数をカウントする必要がない。ということで数字を表す言葉は1、2、3で終わり。また家族内でお父さん、息子と呼べば、ことが足りてしまうから、一人ひとりが名前をもつ必要がない。そこで関野さんがある家族に名前を付けてあげたというのは笑った。一人は五番目のお子さんだから五郎を連想して、「ゴロゴロ」にしたとか。他にも面白いエピソードが次から次へと飛び出して、会場はうなづいたり、笑いに包まれたりで話に引き込まれていった。

講演でもっとも印象的だったのは、ポール・ゴーギャンの言葉を引いたことだ。
「我々はどこから来たのか? 我々は何者なのか? 我々はどこへ行くのか?」
このゴーギャンの疑問が関野氏のグレートジャーニーのインセンティブにもなったようだ。

最後に披露していたのが、現在進行中の活動で、コロナ禍で中断していた『うんこと死体の復権』と題する映画の撮影。最近はやりの持続可能な社会、自然の循環を意識した内容で、排泄物や死体が生物によって分解され、土に還り、自然に戻っていく、その姿を描いたものになるらしい。

こうしたテーマを選ぶのは、関野さんらしい。関野さんは海を糧に暮らす人びと、山を糧に暮らす人びと、川を糧に暮らす人びと……、その土地土地に根差した素朴な生き方をしている人に共感を示している。自然の循環の中で生活することがいかにすばらしいことかを大胆に表現しようとしている。映画は完成したらポレポレ東中野ほかで上映されるとのこと。関野さんを応援がてら公開されたら、観に行ってみるかな。

講演:2022年11月26日(土)13:30~15:30

 
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竹内洋岳氏エベレスト登頂50周年記念の妄想登山

2020-04-29 | イベント


エベレストのベースキャンプ地(Russell_YanによるPixabayからの画像)

8000メートル峰14座全山踏破した竹内洋岳氏が、日本の登山隊がエベレスト(8848m)登頂を果たした1970年から今年で50年になるのを記念して、一般に公募してエベレスト登山隊を編成し、奇しくも植村直己さんと松浦輝夫さんが登頂を果たした、5月14日に参加者全員がサミッターになろうという企画を立ち上げた。

新型コロナウィルスの蔓延さえなければ、、、

ということであきらめきれない竹内氏は妄想登山をフェイスブックで展開している(現在ベースキャンプ)。
https://www.facebook.com/hiro14takeuchi

ベースキャンプまでの行程は以下のサイトで追えるようになっている。
https://honeycom.co.jp/hirotaka-takeuchi/delusion-everest/

竹内氏によれば、ベースキャンプからエベレストに登る行程よりも、ベースキャンプにたどり着くまでのトレッキングのほうが楽しいという。たしかにサミットプッシュはつらいだけのような気がする。ヒマラヤの集落を移動し、移りゆく景色を楽しみながら、おいしいものを食べ、お茶を飲むのは極楽なんだろう。

最近の記事ではプジャ(チベット仏教の法要)を、妄想ではなく現実に行うのだと告知を出していた。祈願するのは、道中の無事では無駄になる。やはりここは新型コロナ感染の収束だろうか。なにはともあれ、妄想から早く現実の登山へ移行してほしいものだ。

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石川直樹 この星の光の地図を写す オペラシティアートギャラリー

2019-02-26 | イベント

2月24日(日)産経新聞の記者さんからいただいたチケットで、山の神と東京オペラシティのアートギャラリーで開催中の石川直樹「この星の光の地図を写す」を見に行った。

彼の旅した足跡をたどるような小ぶりな(?)写真がポツン、ポツンと並べられていた。ぼんやりとしていてピンが来ていないもの、わざと斜めにして見ている人を不安にさせるもの、、、

どんよりとした、そして陰鬱な雲が印象的なもの、雄大な自然の造形を切り取ったもの、野生の動物たちを活写したもの、、、

南太平洋のプリミティブな人間が創造したのであろう素朴な音楽が奏でられる中、エフェクトをつけた静止画がまぶたに焼き付けられる。

ノースフェイスのドームテント内で映像を流してもいた。

展示内容は、パンフレットによればこうだ。

Gallery1
DENALI 1998/POLE TO POLE 2000/POLAR 2007/ANTARCTICA 2011/NEW DIMENSION 2007

Gallery2
CORONA 2010/THE VOID 2005/Mt. Fuji 2008/K2 2015

Corridor
MAREBITO 2009-/ARCHIPELAGO 2009-/AUTHAGRAPH/知床半島 2017/石川直樹の部屋

最後の「石川直樹の部屋」に置かれていた書棚は眺めていて飽きなかった。冒険ものや山岳もの、民俗学、人類学等の本がずらりと並んでいて、こうしたジャンル好き人間には、垂涎のラインナップといえよう。

2019年1月12日(土)にスタートしたこの展覧会は、3月24日(日)で終わってしまう。油断は禁物。この土日にでもさっそく行って、石川直樹の世界を堪能しよう。

この星の光の地図を写す <北極カバー>
クリエーター情報なし
リトル・モア
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冒険家と探検家はべつものだった。下北沢B&Bトークショーにて

2018-12-18 | イベント

 昨日12月17日(月)下北沢B&Bにて『冒険家たちのスケッチブック』刊行記念トークショーがあった。題して「冒険・記録・食べること」。ゲストは豪華で、かのグレートジャーニーで有名な探検家の関野吉晴氏と、冒険家・写真家の石川直樹氏。司会はこの本の編集を務めたワダヨシ氏。

夜も更けた20時に第1部がスタート。内容は「食」が中心だった。一部始終をかいつまんで紹介しよう。

まず関野氏がアンデスで脂肪のうまさにとりつかれたことを披露していた。なんでもアンデスでは写真を撮られると、「脂肪が抜かれる」と表現するとか。日本だと明治時代に「魂を吸い取られる」みたいなことをいう人がいたと聞くが、それと同じことらしい。それだけアンデスでは、脂肪は重要な栄養であり、生命の源なのだそうだ。そんな場所だからこそ、したたりおちる脂肪がうまいと関野氏はいう。一方石川氏は、来る日も来る日も同じものを食べていたときに、アラスカで食べたイクラ丼がうまかったと披露していた。

そこから発酵食品、たとえばセイウチや、アザラシの腹に海鳥を詰めてつくるキビヤックに話は飛ぶ。臭いや味が強烈なようだが、その土地土地に根ざした食べ物は、やみつきになるのだとか。

ほかに関野氏は、学生に「食」の学習をさせていることを話していた。生き物を屠ることで、われわれの口に入る食べ物となるという当たり前の事実を当たり前として受け止めてもらう。コリアンダーやうこんなどの一年草を育てることや、山形の鷹匠を訪ねて、鷹が小動物を狩るシーンを見せてもらい、そうすることで食べ物の何たるかを実感してもらうのだそうだ。

石川氏はだいぶ脱線して、nalgeneボトルで盛り上がっていた。私も使っているけれど、飲料水を入れるという用途だけではなく、お小水用にも使うのだとか。ネパールで売られている中古のnalgeneボトルは、トイレ用だったかもしれないので、決して買ってはいけないと皆に忠告していた。

第2部は21時頃にスタート。私としては圧倒的に第2部の内容のほうが面白かった。「道具」、そして「冒険家・探検家」についてトークは進んだ。

最初に道具。意外なことに2人ともアナログカメラがお好きのようだった。石川氏は、筋金入りでフィルムをセットして10枚しか撮れないカメラを使用していて、同じ場所では最大撮っても2枚までという。フィルムの質感が好きというところまでは理解できるが、レンズを換えられないので、被写体の近くに行ったり、逆に遠ざかったりとカメラをもって移動して撮ることをしていると聞いた時には、なんでそこまでするのかとあっけにとられた。望遠レンズを使えば済むことだ。そんな面倒くささがいとおしいらしいが、私には理解不能だった。関野氏も似たようなことをいっていて、デジカメは何枚でも撮れるから、撮るという行為に緊張感がなくなっていく。フィルムを現像するときのドキドキ感は、デジカメでは失われてしまったとその喪失感を残念がっていた。

道具話で印象的だったのは、2人ともガムテープの効用を非常に主張していたことだった。なんにでも使える。テントの外張りが破れたときや、ポールが壊れたとき、自転車がパンクしたときの応急処置、はてはネームプレート代わりにも。

道具話のハイライトは、関野氏が記憶をたぐるように話始めた、4つの根源的な道具とされるものだった。それは以下の4つだった。
釣り道具
マッチ
ナイフ
縫い針
原始的な生活を送る人たちには、絶対欠かせない道具なんだろう。

そして今回のトークショーで最も印象深かった冒険家と探検家の違いへと展開していく。私はいままであまり気にすることなく、なにげなく使っていた2つの言葉だけれども、じつはその中身はかなり違っていた。

冒険家とは、危険を冒す人。探検家とは、探り検べる(調べる)人。つまりその人の趣味・嗜好で、楽しいから未知の領域に入っていくのが冒険家であり、調査して世の中の役に立てようと殊勝な心持ちで未知の領域に入っていくのが探検家なのだ。

例として世界最初の南極点到達を争った、アムンゼンとスコットを挙げていた。どちらがどっちかって。南極点に一番乗りして、戻ってきたアムンゼンが冒険家。スコットは調査隊を率いていた探検家。探検は調査が目的だから、どうしても装備が重くなり、機動的に動けなくなるんだろうね。スコット隊は南極点に到達したけれども、戻って来れずに全員遭難死した悲劇の隊だ。 

ということで、下の本↓のタイトルに指導が入った。冒険家はスケッチしないだろう。冒険と探検がごっちゃになっている。ワダヨシ氏が小さくなっていったのはいうまでもない(笑)。人のことはいえないが、、、

冒険家たちのスケッチブック 発見と探検のリアル・グラフィックス
クリエーター情報なし
グラフィック社
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階段でいえば、踊り場にいる~竹内洋岳講演会

2012-11-11 | イベント

立正大学公開講座 竹内洋岳「挑戦し続ける想い~14座の軌跡を語る~」

2012年11月10日(土) 15:00~17:00

【プログラム】
立正大学学長挨拶/8000メートル峰14座完全登頂の軌跡映像竹内さん講演/立正大学在校生の質問コーナー

001img_6347五反田の立正大学で、竹内洋岳さんの講演を聞いてきた。こんなに弁がたつ人とは思っていなかったので、非常に驚いた。

冒頭、いきなり地球の太古の生物の話を引く。海から陸へ上がり始めた生物は、海から這い上がって2,3歩で苦しいといって海に帰り、次は5,6歩で苦しいといって海に帰り、結果陸にあがる。8000メートル峰の登山もそれと同じで、高度馴化のために、C1やC2に上がっては、BCに戻る。ちょっとずつ高度に体をならしていく。

人間のもつ潜在能力という面から、ジャック・マイヨールを引いたのも面白い。すでに故人であるが、海洋の潜水世界記録をもつフランス人だ。彼が生前いっていたのは、人間は人間に進化する前に海にいた記憶が機能として身体に刻み込まれている。だから自分は潜在能力としてのその機能を呼び覚ますことで、潜水記録を打ち立てることができたのだと。このエピソードから人間は、環境の変化によっては、鯨が陸から海へ生活の場を変えたように、人間も海に生活の場を変えるかもしれないというのだ。

印象深かったのは、ラルフやガリンダとの出会い。きっかけはラルフの公募隊への参加だ。それから毎年いっしょにヒマラヤの山を登るようになり、8000メートル峰をいくつも登った。そしていっそのこと14座すべてを目指そうとなる。ラルフはドイツで初めてのサミッター、ガリンダは世界で女性初のサミッター、竹内氏は日本で初めてのサミッターになるという目標がこの3人の中でつくられた。結果はご存知のとおり、全員がその目標を達成した。

圧巻は、あちこちで書かれたり、語られてきたガッシャーブルムⅡ峰で雪崩に巻き込まれた話だ。ついこの間の出来事のように、よどみなく語られていく。塩野米松さんの本にも書かれていたと思うが、入院中に毎日見舞い客が訪れ、雪崩のいきさつを説明するものだから、どんどん話なれてうまくなった。会場を沸かせたのは、「そのとき!」などと盛り上げ方もうまくなったと白状したときだった。

ガッシャーの事故は傾斜50度くらいのところを登高中のときだった。アックスを2本突きたてながらのルートファインディング中に足元の雪がどっと動いて300メートル落下した。同行していたドイツ人2人が亡くなっているから、よほど運がよかったのだろう。

このとき、竹内さんは「運」についての見解を披露した。「運」などという言葉で人の命を軽々には語れないと。自分はこの現場にいた山仲間に命を分けてもらって今ここにいる。本来なら自分の足で下山していないということは、もう死んでいるということなんだ。だからこの命は山に行くことで、その仲間たちに、たしかにここに存在するということを示さなければならない。

14座目のダウラギリのエピソードもまた強烈な印象を受けた。中島ケンロウさんが途中6800メートル地点で高山病でリタイアしたわけだけど、このとき中島さんはこういったという。「竹内さん、必ず迎えに行きます」。その言葉を信じて、竹内さんはダウラギリ登頂を、日没前のギリギリの時間まで粘ることになった。当初の山頂到着予定は12:00だったのだが、17:30の登頂と大幅に遅れた。それは下山途中で、仮にヘトヘトになっても、中島さんが来てくれるという安心感そして彼への信頼からだった。それに登るときに、道々ビバークポイントをチェックしていたというから恐れ入る。

締めは、よく聞かれる質問「14座の次は何をする? どこへ登る?」についてコメントした。14座完登は、自分にとってはたんなる通過点にすぎない。階段の踊り場みたいなもの。14座の目標を遂行するにあたって、排除してきた7000メートル級の山もあると添え、そうした山も視野にあるとした。また店頭でのケーキ選びにたとえて、とにかくどこの山に行くかあれこれ考えるのは楽しい時間であると。

行き先や時期は、内緒。それは決めて公言した時点で、セレクトしている楽しい時間の終わりを意味するだろうし、その山が日本人の登山者だらけになるかもしれないからだろう。

まだまだプロ登山家竹内洋岳さんの挑戦は続くのだ。

参考
竹内洋岳の友人が挑む「K2」の頂~ナショジオ2012年4月号
ついに8000メートル峰14座制覇! 竹内洋岳

写真は会場で配布された「立正大学学園新聞2012年7月1日発行 Vol.118」 

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