目指せ! 標高1122メートル

山の神にお供して歩きつづける、ある山のぼら~の記録。ネイチャー、冒険の本もとりあげるよ。

紅葉には少し早かった八甲田山

2020-03-30 | 山行~東北

大岳 標高 1584.4m 青森県

2008年9月17日(水) 晴れ

メンバー 山の神と私

コースタイム 6:25酸ヶ湯公共駐車場6:40--7:35下毛無岱7:45--7:51急な階段--上毛無岱--8:40大岳鞍部避難小屋8:55--9:25赤倉岳山頂9:45--10:08大岳鞍部避難小屋10:14--10:33八甲田大岳山頂(昼食)11:25--12:45仙人岱下部12:50--13:10駐車場

去年8月3日の岩木山の山行記録の最後に「八甲田山へつづく」と書いて、それきり忘れていた。メモが出てきて、自分のブログを検索して気づいたしだい。ということで、さっそくつづきだ。

前泊はモヤヒルズ。4:10頃起きだして山の神と朝食の準備を始めた。前日コンビニで買っておいたおにぎりとみそ汁を食べる。テント撤収はさすがに連日となると手際よくいくものだ。さくさくと片付けて5:55山の神とともにテント場を後にした。


左:酸ヶ湯公共駐車場(トイレ完備) 右:北八甲田登山道案内図

6:25酸ヶ湯の公共駐車場(無料)に到着した。すでに車が何台も停められている。酸ヶ湯の旅館やキャンプ場にお泊りの方々、すでに登山を始められている方々の車が停まっているのだろうけど、かなりの台数だ。

6:40山の神とともに駐車場を後にした。歩き出しはブナの美林で快適。しかしそう思った矢先に、残念なやぶっぽい道になってげんなりするが、すぐに湿原の下毛無岱(けなしたい)に出る。


左:太陽がだいぶ上がってきた 右:少し草紅葉の下毛無岱

湿原は視界が開け、見晴らしがよく気持ちがいい。少し草紅葉になっていて、9月にして秋の到来が近いことを知る。ここで10分ほど休憩して再び歩き出すと、昭文社の山地図にも記載されている急な階段が出てきた。

急な階段が続く

この階段、半端なく長く下からでは終点がなかなか見えない。いつ終わるともしれないデジャヴのような同じ景色に耐えながら上がる。さらに追い打ちをかけるように階段に張り出している笹やシダ類は朝露に濡れていて、油断していると衣服を濡らすことになる。


左:上毛無岱の池塘 右:大岳への道

再び湿原が現れ、視界が広がる。池塘にはくっきりと青空が映り込み、最高の天気に感謝だ。


毛無岱を見下ろす

息を切らしながら上り坂を進み、赤倉岳と大岳のコルを目指す。振り返ると、先ほど通過してきた毛無岱が眼下に広がっていた。


左:コルから赤倉岳方面 右:大岳鞍部避難小屋

コルに出ると、夏場は放牧でもしているのかというくらいの牧歌的な場所だった。ベンチが無数に置かれていて、景色を楽しめるようになっている。奥には、比較的新しい大岳鞍部避難小屋があった。豪雪地帯であることを示すように、屋根の直下にも入口がつけられていた。


左:井戸岳の噴火口 右:整備された登山道を進む

避難小屋の前で休憩し、まずは赤倉岳山頂へ向かった。途中井戸岳の巨大な噴火口がぽっかりと口を開けていて、そのへりを歩いていく。


左:赤倉岳山頂 右:赤倉岳山頂の祠

9:25赤倉岳山頂に到着した。先着は年配の夫婦1組のみ。下に車が多く駐車していたが、歩いている人は少なかった。

この山頂から先へと登山道が伸びているのだが、やせ尾根で山地図では点線表記(2008年地図)になっている。見た感じあまり歩かれていないようだ。


赤倉岳山頂から青森市市街地と青森湾を望む

9:45山頂を後にする。来た道をたどり大岳鞍部避難小屋に引き返す。


大岳へ向けて山の神登高中

コルで一服したのち、10:14今度は逆方向に大岳へ向けて出発した。がんがん登り20分ほどで山頂に到着する。大きな山名標示があり(冒頭写真)、山の神とそれをはさんで記念撮影。展望は抜群で360度の大パノラマが広がる。そんな贅沢なおかずで昼食をとる。


奥に高田大岳と雛岳

11:25下山開始。太古は恐ろしいほどの火山活動があったことをうかがわせる山容が目の前に広がる。きれいな三角錐型の高田大岳や雛岳、小岳が見える。


仙人岱へ向けて下山

さらに仙人岱へ下っていくと、左手に折れていく木道が付いていて、その先に仙人岱避難小屋の屋根が見えていた。ここまで来れば残り1時間程度で下りられる。


左:高田大岳分岐 右:硫黄岳を見ながら下山

そうこうしているうちにだいぶ歩いて、そろそろ酸ヶ湯に着くのではないかという頃、山の神も私も足が重くなり、ここらで一度休憩を入れようということになった。かんたんにいえば、休むタイミングを逸していたのだ。休憩後20分ほどで駐車場に戻った。

その酸ヶ湯でジュースでも飲もうかと山の神と話していたとき、白神山下山後にテント泊したアクアグリーンビレッジANMONでお話を伺った福山のご夫婦にばったり会った。われわれとは逆回りで八甲田を登ったとのこと。避難小屋ですれ違ってしまったのだろうか。ご夫婦はこの後、1日休んでまた次の100名山を登るのだとか。とても楽しそうに見えた。

奥入瀬渓谷につづく
楽チンコースで岩木山へ戻る
まさかの、、、暗門の滝トレッキングへ戻る
白神岳マテ山コースへ戻る

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追悼、ホテル・エベレスト・ビューを建てた宮原巍さん

2020-03-20 | 山雑記


ホテル・エベレスト・ビュー(binks182によるPixabayからの画像) 

宮原巍(たかし)さんが亡くなっていた。まったく知らなかったのだが、たまたま日本山岳会の会報「山」2020年1月号を見ていたら、平山善吉氏が追悼文を寄せていた。検索して調べてみると朝日新聞の訃報記事が出てきた。それによれば、2019年11月24日ネパールのカトマンズ近郊の病院で逝去。享年85。

宮原さんといえば、このブログでもとり上げたホテル・エベレスト・ビューを建てた人物として有名だった。その後、ネパールをこよなく愛しネパールをもっとよくしたいという使命に燃え、こともあろうに日本国籍を捨てネパールに帰化した。それは政党をつくり国会議員を目指したからでもある。残念ながら当選はかなわなかったが。

いっぽうでは元々アルピニスト志向の方だけにエベレストへの思いが捨てきれず、還暦記念にエベレスト登頂をも試みている。その辺りの事情は著書『還暦のエベレスト』に詳しく書かれている。とてもアクティブな方なのだ。そしていまは宮原さんにとってネパールで3番目となるホテルを建設中であった。北にアンナプルナ連峰、南にポカラの街を望む景勝の地にだ。その完成を見ることなく、逝ってしまった。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

宮原さんのプロフィール(前述の「山」に掲載)
1934年 長野県小県郡青木村生まれ。
1954年 日本大学理工学部工業化学科に入学、機械工学科にも学ぶ。
    在学中は山岳部に所属
1958年 第4次南極地域観測隊に参加 
1962年 初めてネパールへ。ムクト・ヒマールのホングデ初登頂。
1965年 グリーンランド遠征。 
1966年 ネパール政府通商産業省家内工業局に就職。
1971年 シャンボチェの丘にホテル・エベレスト・ビューを建設。
1987年 ヒマラヤ・カトマンズにホテルを建設
2019年11月 カトマンズで逝去。享年85

参考:当ブログ
ホテル・エベレスト・ビューを建てる
ヒマラヤのドン・キホーテ
還暦のエベレスト

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テレ朝「天空のヒマラヤ部族」を辛口評価してみる

2020-03-15 | テレビ・映画


Squirrel_photosによるPixabayからのイメージ画像 

テレビ朝日開局60周年記念「氷と雪に閉ざされた秘境の地 天空のヒマラヤ部族 決死の密着取材150日間」(3/8放送)の録画を見た。

この手のドキュメント番組は、やはりNHKが一枚上手(うわて)だ。一枚どころか何枚もか。民放の番組だけに視聴率をかせごうという意識が優先してしまい、ドラマティックな展開にするためのいらぬ映像の挿入、必要な映像や情報を端折っているというアラばかりが目立った。それをカバーするためか、一ディレクターにすぎない「ナスD」をタレントのように起用し、彼を軸に映像は編集されていた。いっぽうでサポート、アドバイザーとして元テレビ朝日の大谷映芳氏がでんと構えているのは一行の安全面では有効だったろう。じっくりと視聴者に見せるもっと長尺で重厚なものが見たかった。とはいえ私はこの番組を完全否定しているわけではなく、ドキュメンタリーとしてそれなりに楽しめたし情報も得られたので評価したい。

番組では、ネパールのドルポ地方、最奥のティンギュー集落への行程を克明にたどっていく。2018年10月にカトマンズ入りし、スタート地点のドゥネイへ移動。そこで荷運び用のカッツァル(ラバだったか)を調達し、1頭あたり最大70Kgの荷をくくりつけ、現地雇用のポーターらと出発する。

スリガド川沿いの長く険しい、ときには断崖絶壁にやっと刻み付けたような細い道を進む。道々、ヒマラヤが原種であるとする珍しい動植物を紹介しつつ、ヒンズー教徒の村チェプカ、ドルポとチベットで古代信仰されていたというボン教の里リンモ村やトッキュー村などの集落を通過していく。途中で登場した真っ青な湖面を輝かせるポクスンド湖は圧巻の眺めだった。なぜ青く見えるのかの解説がなかったのは残念だったが。

ポクスンド湖より上は高所で活動するのに適したヤクに荷を積め替え、カッツァルはお役御免となる。高所になると酸素濃度は下がり、高山病やそれに似た症状が起きやすくなる。途中カメラマンが歩行困難となり、さらには呼吸にまで障害が出て、その様子を他のカメラマンがとらえたことも。ほかのスタッフたちは、荷物をポーターやヤクに運ばせているから比較的身軽だけれども、カメラマンは撮影しながらの行程で、自らカメラ機材を持ち運ばなければならないから、それだけ過酷さを増すのだ。

峠、峠ではルンタと呼ばれるチベットの祈祷旗が強風でバタバタと音を立てていたのが印象的だった。過酷な道行を象徴してはいるが、そこからの眺望がまたいい。聖山クーラ・マウンテンやダウラギリなどの冠雪した真っ白い峰々はヒマラヤを実感させるものだ。

そしてドゥネイから13日目にして目的地ティンギューに到着する。しかしこれは、厳冬期にこの地に入るための予行練習にすぎなかったことがすぐにわかる。一行はいったん帰国し、翌2019年1月末に再びネパール、ドゥネイに入る。

厳冬期にティンギューに入れるのか。でも番組がこうして成り立っているのだから、事故や死人が出ることなく、取材は完了したはずだとみていると、現地のポーターたちからの雪が多くてたいへんという悲鳴が聞こえてくる。日本人はだいじょうぶとナレーションが入るが、日本人スタッフはそもそも運ぶ荷物が少ないからポーターほどの負荷はかかっていない。

ときには吹雪のなかを突き進んでいく映像を見て無謀と思えたが、やがて全員無事にティンギューに到着する。事故が起きなかったのはたんなる僥倖ではないのかと思えてしまう。それはさておき、この時点からようやく本来の取材目的であったティンギューのチベット暦で行われる、おおみそかと新年の行事の取材がスタートする。

世界で初めての映像として、新年の仮面祭りが始まる。集落から少し登った丘に舞台が設けられていて、そこに参加する老若男女が参集する。集落の全員が参加するのであれば、500人となるわけだが、映像からそれほどの人数がいるようには見えない。丘にいない人たちは、どうしているのかの情報はなかった。

新年を迎えたお祝い、今年も幸あれと祈り、ごちそうを食べたあとには、過酷な日常に戻らなければならない。あるものは断食の儀(4日間のソージュン、8日間のニュンネ、16日間のものもある)に臨み、あるものは集落の家畜の放牧場所を求めて移動を余儀なくされる。

取材をした2019年の新年は雪が多く、家畜に食べさせる草を探すのが困難であったと番組では報告した。ヤクやヤギの移動を繰り返すうちにヤクは3000頭のうち2000頭が、ヤギも多数死んだという。たしかに映像では積雪が多く、いったん深みにはまれば、いかに大きなヤクであれ身動きがとれなくなるだろうと感じた。そうなると少人数の人力ではどうにもならない。映像はあえて流さなかったのか、なかった。

ここまで見て番組は終わりだと思った。しかしなんとこの後に付け足したように、120年前にこの地へ来た河口慧海を登場させ、慧海がたどったルートをたどるとして、ジョムソンから再びドキュメンタリーが始まった。また別の回に改めるべき内容とボリュームだと思った。

三たびティンギューに入り、女たちの牧畜生活をとり上げるいっぽうで、男たちは交易でチベットへ赴いているとナレーションが入るが、映像はない。彼らの生活にとって欠かすことのできない重要なものなのに省略とは。

番組の最後のころには、またポクスンド湖が出てきて鼻白む。さらにはナスDが番宣用として足元の悪い岩場の突端にあがってどうでもいいメイキング話をするのはどうか。河口慧海編は明らかな尻切れトンボで終わった。

参考:当ブログ日本の偉大な探検家、河口慧海

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吾妻耶山スノーシュー

2020-03-08 | 山行~スノーシュー

標高 1341m 群馬県

2020年2月24日(月・祝) 晴れ

メンバー 山の神と私

コースタイム 8:56ノルン水上スキー場第2駐車場--第3クワッド終点9:55--大峰山・吾妻耶山稜線--10:44コル10:55--第1クワッド終点--11:40吾妻耶山山頂11:45--11:50山頂直下の分岐(昼食)12:30--第1クワッド下のゲレンデ--14:15頃センターハウス

5:35山の神とともに自宅を出発した。本日の行き先は水上ICを下りてすぐのため、コンビニがない(あってもいいのだが)。ということで近所のセブンイレブンで昼食や行動食を購入したのち、高速に上がった。

交通量が少ない関越道を順調に進み、上里SAで朝食。赤城高原SAでコンタクトを入れ、水上へ。8:56ノルン水上スキー場の第2駐車場に入った。


左:ノルン水上スキー場第2駐車場から大峰山(左)、吾妻耶山を望む 右:第3クワッド終点

スキー場への道で、すでに路肩にすら雪がなく、昨晩降ったはずだけれども、雪はどこへ行ってしまったのだときょろきょろしながらたどりついた駐車場にもいっさい雪はなかった。車から降りて見上げる先に大峰山と吾妻耶山が並んでそびえたっていたが、山肌が真っ白に見えない。あきらかに雪が少ないように見えた。この状態でスノーシューで登っていけるのかと不安を募らせながらのスタートとなった。

ゲレンデに行くと、スキー場の中ですらコースでないところは、土がむき出しになっている。これはまずいなあと思いながら回数券2枚を購入(¥1000)。第3クワッドの乗り場へ移動した。クワッドに乗り込み下のほうに視線を移すと、スノーシューで歩いた跡があった。ということは、だいじょうぶだ。ピストンで吾妻耶山へ行ったのか、あるいは大峰山と吾妻耶山を縦走したのかなどと勝手な推測をしながら、ここに戻ってくる手もあるなと山の神と話した。


左:急斜面に取りつく 右:稜線はまだ先。やがて灌木だらけに

第3クワッドの終点でスノーシューを履き、スキー場を離れ直登に入る。うっすらとスノーシューの跡が残る急斜面をバリバリ上がっていく。やはり雪は少なめで、まるで春が訪れたように樹木の根元部分の雪が解けている。やがてツンツン枝を伸ばした灌木地帯に入り、どんどんやぶっぽくなっていく。

強引に上がっていくと、稜線に出た。すると今度は雪が解けて土が露出している箇所がところどころ出てきた。歩きにくいことこのうえない。やがて急な下りになり、こういう場所はアイゼンのほうがいいよなとつぶやきながら、スノーシューでおっかなびっくりそろそろと下る。


左:稜線はところどころ雪なし 右:道標が出てくるとすぐに第1クワッド終点

10:44下りきったコルでザックを下ろして、家からもってきたテルモスのお茶で休憩にした。ここまで誰にも会わない。山行記録もあまりなかったので、このコースは積雪期にあまり歩かれていないのだろう。それだけ、ここ数年雪が少ないのかもしれない。

10:55コルからおもむろに腰を上げ、第1クワッドの終点めがけて右寄りに進路をとる。地図をみるとまっすぐ稜線をたどるコースもありだが、この少ない雪の状態では、歩きにくそうなので無難なほうを選択した。


左:第1クワッド終点 右:雪がほとんど解けてしまった南斜面を上がる

道標の吾妻耶山を示す方角に進むと、第1クワッドの終点に出る。ここで30歳くらいの若者ボーダーたちに「どこから来たんですか」と声をかけられた。彼らは、ガリガリのところやシャーベットのようなところが多くてとこぼし、滑りを楽しめずにいたようだった。そんなところに山の神と私の怪しげながら、楽しそうな一行を見つけて、そっちのほうが楽しそうだと興味をもったようだった。彼らも次回はスノーシューになるのかも。

さて、ここから少し上がると、ああと思わず嘆息が出るくらい雪のない斜面が目についた。そんな雪のないところから、ポケットパークに車を停めて周回するのだというツボ足の3人パーティが下りてきて、それを機に山の神と私はスノーシューをはずし、ザックにくくりつけた。


吾妻耶山山頂の祠3基

吾妻耶山の雪のない南斜面を上がると、また雪が出てくるが、深くはない。ツボ足でさくさく登り、分岐から最後のひと登り。11:40だれもいない山頂に到着した。山名を記した標柱がほとんど見えている状態で、いかに雪が少ないかがわかる(冒頭写真)。

3基の祠の先に行くと樹木がそこだけ都合よく途切れていて(伐ったのか?)、周囲の雪山をぐるりと見渡せて壮観だった。そこにはありがたいことに山座同定表が写真入りで設置されていて、写真と見比べながら、あれは何で、これは何とわかるのでとても便利だった。


吾妻耶山山頂より。中央右寄りが谷川岳

さあ、メシにしようかと適当な場所を決めようとしたが、山頂は風が吹き抜けて凍えるほど寒い。山の神が少し移動しようといい始め、山頂昼食はやめて、少し下った分岐で腰を下ろすことにした。


左:セブンイレブンのPBワンタンラーメン 右:急斜面を下り始める

11:50昼食。山の神とカップラーメンをずりずりと食べていても、だれも登っては来ず、静かな山だった。

12:30下山開始。登山道でスノーシューを装着し、そこからはずれて急斜面を強引に下りていく。グリセードするには雪が少なく危険だ。途中からゆっくりゆっくり下っていく。ところが、予定のコースにゴロゴロと岩が現れ、いくつもむき出しの状態で連なっていた。雪に埋まっていれば進めるが、ここをスノーシューをつけたままでは下れない。かといってツボ足でもスリップが怖くて歩けない。さて、どうしようかと戻って、スキー場のゲレンデ近くを歩けないかと小山を回り込んで下っていくとかなりの斜度があるし、やぶで歩けそうにない。


左:下っていくとやぶで立ち往生 右:雪のない立入禁止コースを下りゲレンデへ

結局禁断のゲレンデ歩きを選択。登り返して山の神とともにゲレンデに出、邪魔にならなにように端っこを歩きだした。しかし下のほうにいくと、おそらくスキー客がつくったと思われるトリック用のミニジャンプ台が端っこに次々に登場してきた。完全に邪魔してるわと山の神に声をかけつつ、急いで下ることになった。そんなこんなで休み損ね、昼食後はノンストップでセンターハウスまで下山し(14:15)、くたくたになってしまった。

それにしても、2月だというのに雪が少なすぎた。まるで春。こんなに雪が少ない年も珍しいけれど、これからこれが普通になってしまうのだろうか。

帰りは事故渋滞に巻き込まれ、関越道にしては珍しい駐車場状態に陥った。そのため家に着いたのは19:00を優に回り、疲労は頂点に。それでもビールが飲みたいと、山の神と近所の居酒屋に繰り出したのだった。

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