目指せ! 標高1122メートル

山の神にお供して歩きつづける、ある山のぼら~の記録。ネイチャー、冒険の本もとりあげるよ。

SWITCHインタビュー角幡唯介×塩沼亮潤

2014-12-07 | テレビ・映画

12月6日(土)のSWITCHインタビューを見ただろうか。
生と死の境界を綱割りしてきた2人による恐るべき対話だった。生きるとは何か。死という極限の手前までいくと人間どうなるのか。その対話を行った二人とは、探検家角幡唯介氏と千日回峰行を成就した塩沼亮潤大阿闍梨(だいあじゃり)だ。

まずは、塩沼亮潤大阿闍梨の話。山上ヶ岳往復48Kmを毎日午前0:00に歩き始める。禊から始まり、クタクタになったころ最後に鎖のついた岩場をよじる。お堂で一汁一菜の食事をとり、下山する。冬の行は行わないとはいえ、毎日となると、雨の日もある。台風が来るときもある。体調を崩すこともある。毎年3ヶ月を過ぎると、血尿が出たという。しかし行を途中で断念することはできない。行を止める=死という覚悟で続けた。自決用の短刀と四手紐(しでひも)を常に持参したというから、その覚悟たるや常人には想像すらできない。体調を崩し、下痢と高熱を出したときのエピソードは、すさまじい。その初志を貫き通した信念には脱帽するほかない。

大阿闍梨がいうには、満たされた環境にいるうちは、気づかないことが多いのではないかと。それなら、自らを厳しい環境に放り出してみればどうか。その崖の淵には、「真理の花」「悟りの花」があるはずだ。

一方で角幡唯介氏は、チベットのツァンポー峡谷や北極探検を敢行したつわものだ。元新聞記者だけあって、ものごとを見つめる視線には、鋭さがある。大阿闍梨の言葉をかみしめ、市井の農業者、漁業者の厳しさを語る。探検には必ず終わりがあるが、彼らにはそれがない。探検以上の厳しさと対峙していると。探検は自然の中で生活している人たちの追体験にすぎないのだと喝破する。しかし、こうも言っている。探検をすることで、生と死の垣根が低くなった。死とはつまらないものであり、どうってことないものだ。探検家、冒険家というものは、経験を積むことで、想像力がどんどん広がっていく。反面体力はどんどん落ちていく。そのギャップが広がりすぎたときに、死が訪れるのだともいう。

大阿闍梨は、角幡氏の発言を受け、自分は死を意識することがなくなったとまでいう。千日回峰行の後に四無行という、断食、断水、不眠、不臥の行を9日間続けたことによるある種悟りなのだろう。大阿闍梨は最後に師匠の言葉を紹介する。「大行満大阿闍梨(塩沼大阿闍梨のこと)とはいっても、社会的には何の価値もない。行を終えて行を捨てよ」。

参考:
まじめ一筋。『探検家、36歳の憂鬱』
http://blog.goo.ne.jp/aim1122/e/57ba55ca8ad211a1a00789307296b4a5
狩猟をしながら探検行『アグルーカの行方』
http://blog.goo.ne.jp/aim1122/e/02f5e833d349dffdc8050e9ebf61bd59
空白の5マイル
http://blog.goo.ne.jp/aim1122/e/c0b9889ffad186d10fcd54a02400f839
雪男は向こうからやってきた
http://blog.goo.ne.jp/aim1122/e/956f993d8aad424554de2a1520db3158

大峯千日回峰行 修験道の荒行
クリエーター情報なし
春秋社

 

 


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