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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20190715年表・旧優生保護法による不妊手術について

2019年07月15日 | 社会的差別
年表・旧優生保護法による不妊手術について

【年表】
明治初期 福沢諭吉らによって優生学が導入された―『遺伝的天才』(イギリス)の紹介
1910年代 断種法問題の議論が始まる
1910年 海野幸徳『日本人種改造論』『興国策としての人種改良策』
1919年 丘浅次郎が『最新遺伝論』のなかで、「優生学」と訳して、普遍化した
1920年~精神疾患患者の断種に関する外国文献の紹介
1921年 東京精神病学会例会で、マーティン・バーの講演―断種法の必要性
1922年 サンガー夫人(アメリカ)の来日―優生学的見解(子どもをいつどのように産むかは女性自身が決定する権利、
    障がい者が子どもを産めないようにして人類の資質を向上)→加藤シヅエ、福田昌子、太田典礼
1928年 【スイス】ヴォー州で「精神病者に関する法律」(断種法)―ヨーロッパで最初。
1929年 【デンマーク】「不妊化の許可に関する法律」(断種法)成立→34年、知的障がい者の強制不妊
1930年 日本民族衛生学会創設―特定の民族や人種の健全性や優位性の確保をめざした
    →1936年、断種法案を起草して国会議員に働きかけ
    →戦後、優生学とは訣別→2017年「優生」に関与した歴史の検証に着手(他の学会での検証はない)
1933年 【ドイツ】遺伝病子孫予防法制定、34年施行→「遺伝病を持った子孫の数を減らす、ドイツ民族体の向上」
    →40万人の不妊手術
1934年 【スウェーデン】断種法成立。
1936年 (財)日本民族衛生協会―断種法案を発表←ナチス・ドイツの遺伝病子孫防止法(1933年)の影響
    →断種法に反対した精神科医(金子準二、植松七九郎、菊池甚一など)
1937年~ 民族優生保護法案(議員提案)―3度提出
1838年 戦争政策遂行のための人口増強策
    →1941年、人口政策確立要綱―結婚の早期化、出産奨励、家族制度強化など(産めよ殖やせよ)
1940年 国民優生法(政府提案)制定→人口増加策の一環として施行
    →中絶禁止法として機能―当時の政府は優生学的に奨励すべき出産と回避すべき出産とを区別し、
    優生学的中絶を合法化(第14条)→この考えは戦後の優生保護法の思想に継承
1940年 第14条(優生学的中絶)を削除し、第6条(強制断種)を凍結→不妊手術総件数=538件、強制断種=0件
1940年 健民運動―健民=良い子=天皇の赤子=天皇に命を捧げる国民、
    健康が国民の義務、不健康や障がい者は非国民
1944年 朝鮮では強制断種の準備―「朝鮮人ノ現在ノ動向二就テ」(戦前期外務省記録)に
    「<極秘>朝鮮統治施策企画上ノ問題案」
    →「抑制方策ニ即応スル優生法ヲ施行ス。本方策実施ノ為ニハ凡ユル機関要スレバ国体又ハ公営ノ機関ヲ通ジ
     之ガ指導ヲ為サシメ20年間ニ凡ソ500万ヲ抑制スルヲ目途トス」
    →国民優生法の強制断種条項が凍結されていたにも拘わらず、
     朝鮮では強制断種の準備(今田真人著『極秘公文書と慰安婦強制連行』2018年)

敗戦後
 経済の荒廃、食糧不足で餓死者→妊娠中絶を求める声→「人口の質が劣化する逆淘汰」論(谷口弥三郎)。
 谷口―「強制手術を認める優生保護法」を主張→優生保護法第1条:「不良な子孫の出生を防止」
1947年 社会党案(加藤シヅエ)―不良な子孫の出生を防ぎ、以て文化国家建設に寄与…
    戦前の国民優生法の手術は任意だったので、効果なかった→強制手術を認める法案提出
1948年 谷口―本人の同意がなくても優生手術をおこなうもの
    →修正案…強制手術の対象者を「社会生活をする上で不適当な者、生きていくことが悲惨であると認められる者」
    →優生保護法、全会一致で成立→9月11日施行
    →現場では「(強制は)人権を侵害するのではないか」との声
    →1949.10.24厚生省通達―公益上必要→憲法の精神に背くものではない
1949年 国通達「(本人同意のない不妊手術は)不良な子孫の出生防止という公益上の問題があり、
    …憲法の精神に背くものではない」
1950年 推進議員「(強制手術の件数)想定より遠く及ばない」→再改正へ
1951年 強制不妊手術の対象を精神病と精神薄弱に拡大する改正
1952年 強制不妊手術の対象を遺伝性を問わず、精神障がい者、知的障がい者に拡大する再改正(第12条新設)
    →全会一致で可決成立
1953年 ハンセン病患者の隔離政策の続行(らい予防法)
1953年 「事務次官通達」(身体の拘束、麻酔薬施用又は欺罔等の手段を用いることも許される)→1996年まで放置
1955年 手術件数=1362件(ピーク)、1956年手術件数=1264件、以後減少
1955年 福田昌子・社会党議員―「遺伝的な犯罪者への断種」を主張
1962年 池田内閣―「人口資質向上対策に関する決議」(7月)―優生政策の目標は「民族復興」から「経済成長」へ
1965年 社会開発懇談会(佐藤首相の諮問機関)―「コロニー構想」→障がい者の隔離政策
1966年 兵庫県―不幸な子供の生まれない運動→全国化(産婦人科医が推進)→障がい者差別と優生思想の拡散
    →1974年、障害者団体などの抗議で、兵庫県の対策室は廃止
1967年 カトリック医師会、生長の家―優生保護法改正期成同盟
1969年 「日本医療新報」の中で、青森県優生保護審査会委員「4条手術は憲法違反の疑いがある」と指摘、廃止を主張。
1970年 日本医師会「優生保護対策について」―先天異常児発生の予防対策=胎児条項を主張
1970年 重度障がい児殺害事件(横浜)
    ―減刑嘆願書(生存権を社会から否定されている障がい児を殺すのは、やむを得ざるなりゆき)
    →青い芝の会「親をそこまで追いつめたのは障がい児とその家族を白眼視する地域社会」
    →胎児条項反対運動→「産む・産まないの自由」批判→ウーマンリブ優生思想批判の共有→障がい者と共闘
1971年 教科書『保健体育』(一橋出版)―優生保護法を肯定的に紹介→1977年、優生保護法の再検討
    →1978年高校学習指導要領から優生に関する項を削除
1972年 優生保護法改正案(経済的理由削除、精神的理由追加、胎児条項新設)―女性と障害者の反対運動高揚
    →1974年、優生保護法改正案廃案←産む・産まないの選択の自由=中絶の合法化(英、米、仏、西独)
1974年 第14回日本先天異常学会―発表者8人中2人が第4条(公益上の必要)批判
1974年 全国「精神病」者集団結成
1970年代 社会党女性議員―政府案(経済的理由による中絶の禁止、障害がある胎児の中絶を認める)に反対
1981年 国連国際障がい者年にむけて、法規中の「不具」「廃疾」を改訂。法改正→「おし」「つんぼ」「盲」の言い換え。
1982年 厚生大臣―経済的理由の削除を約束→優生保護法阻止連絡会による反対運動→1983年改正案上程阻止
1983年 自民党・優生保護法等検討小委員会―優生という概念自体への疑問
    →今日の社会思潮と医学水準に照らして法の基本面に問題がある
1884年 厚生省、母子保健法改正検討作業→母性管理・優生政策の強化←反対運動で見送り
1988年 DPI女性障害者ネットワーク設立。堤愛子―優生保護法廃止に取り組む
    注:DPI【1981 年の国際障害者年を機に、シンガポールで国際障害者運動のネットワークとして結成された。
    現在 130 カ国以上加盟。障害のある人の権利保護と社会参加の機会平等を目的に活動をしている国際 NGO】
1993年 障がい者基本法公布(障がい者にたいする差別や偏見を助長する用語や資格制度における欠格条項の見直し)
1994年 国連人口開発会議で、優生保護法=障がい者の不妊化を正当化←国際的非難
    安積遊歩―優生保護法廃止を訴え→世界化(安積遊歩=1956年生まれ。1975年の障がい者運動の影響)
1995年 全国精神障がい者家族会連合会の要望書
    (優生という言葉の削除、強制的な優生手術の規定廃止、人工妊娠中絶の要件から遺伝性精神病の字句削除)
1996年 らい予防法の廃止→優生保護法の「らい疾患」に関する条文削除
1996年 優生条項削除→母体保護法(橋本内閣=自民+社民+さきがけ)→謝罪・救済なし
1997年 強制不妊手術に対する謝罪を求める会(1999年、優生手術に対する謝罪を求める会)。
    強制不妊手術被害者ホットライン(第1回、1999年第2回)。
    1999年まで3回厚生省交渉→厚生省「合法的」「優生保護法改正で問題は終わった」と無視
1998年 国連人権委員会勧告(2008、2014年も)→日本政府は無視。
    国(厚生省)「プライバシー問題があり調査は無理」「当事者の方々にはお気の毒である」
    「優生手術は合法的、調査は不要」
1999年 宮城県の飯塚淳子さん、当事者として名乗り。国(厚生省)「優生手術は合法的」「調査は不要」。
2001年 ハンセン病患者への不妊手術=人権侵害…熊本地裁判決
2001年 斎藤美穂「女性誌に見る優生思想の普及について―国民優生法成立に至るまで」
2004年 福島瑞穂―国に実態調査、救済制度要求→国は無視
2015年 飯塚さん日弁連に人権救済申し立て(宮城県)→2年後「対政府意見書」
2016年 国連女性差別撤廃委員会―法的救済、加害者の処罰を勧告
2017年 日弁連「補償などの適切な措置を求める意見書」→政府は無視。宮城県庁で、「優生手術台帳」発見
    →佐藤由美さん、記録入手
2018年1月 佐藤さん仙台地裁提訴(1/30)→仙台地裁への国側準備書面「救済義務なし」。
    3月 超党派議員連盟(3/6)、与党ワーキングチーム(3/7)
    5月 全国優生保護法被害弁護団結成(184人)、
2018年12月 優生被害者・家族の会設立
2019年2月 優生保護法被害弁護団まとめ 
      2019.2.8現在、原告19人(うち優生手術被害者本人15人)―全国7地裁に13の訴訟が係属中
      【北海道(札幌地裁)】 第1~2次 原告3人(うち被害者本人2人)
      【宮城県(仙台地裁)】 第1~4次 原告5人
      【東京都(東京地裁)】 第1次 原告1人
      【大阪府(大阪地裁)】 第1~2次 原告3人(うち被害者本人1人)
      【兵庫県(神戸地裁)】 第1次 原告4人(うち被害者本人2人)
      【熊本県(熊本地裁)】 第1~2次 原告2人
      【静岡県(静岡地裁)】 第1次 原告1人
2019年3月14日 強制不妊 一時金320万円に 与野党が救済法案決定
2019年4月11日 強制不妊救済法案衆議院通過
2019年5月10日 強制不妊手術、一時金申請12件
2019年5月28日 【仙台地裁】強制不妊訴訟初判決で賠償認めず、旧優生保護法は違憲
2019年6月16日 【金沢市内】強制不妊手術シンポジウム、
        国家賠償請求訴訟を起こした原告女性の義理の姉が宮城県から参加した。

【推薦論文】
「旧優生保護法と強制不妊手術―優生思想とたたかうために」
(2019年7月『展望』23号 飛田一二三)

〔Ⅰ〕強制不妊手術に対する国家賠償法請求訴訟と5.28反動判決
 (1)判決に至る被害当事者の闘い―経過概要/(2)5.28仙台地裁の反動判決を批判する/
 (3)5.28判決に関連する諸問題/(4)原告・家族、障害者団体、弁護団の反動判決への怒り
〔Ⅱ〕旧法のもとでの人権侵害と不法・無法
 (1)被害の概要/(2)甚大かつ底無しの人権侵害と不法・無法―その一端
〔Ⅲ〕旧優生保護法について
 (1)旧法は戦後と私たちを問うている/(2)旧優生保護法を批判する/
 (3)安倍改憲攻撃―「公益」の前面化
〔Ⅳ〕優生思想をのりこえるために
 (1)「津久井やまゆり園事件」/(2)「新たな優生」とのたたかい/
 (3)1981年「国際障害者年」国連決議

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