![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/96/689113ef3590246bee45bef6ff97be85.jpg)
「5/25尹奉吉死刑判決」は架空か?
この間の資料調査で、「5/25軍法会議判決」は架空ではないかと推論してきたが、私の推論を裏付ける資料を「尹奉吉全集」(8巻+目次)の中で発見した。
1932年5月27日付の「東亜日報」「朝鮮日報」「毎日申報」は5月25日上海発のニュースを報じている。見出しはそれぞれ、「上海爆弾犯尹奉吉第1回軍法会議」「上海爆弾犯軍法会議遂開廷」「爆弾犯人尹奉吉●第1回軍法会議」となっており、その一部を翻訳してもらった。
東亜日報などには「第1回軍法会議は本日(25日)午後開かれ、…次回開催日程は未定」と書かれているが、判決のことについてはひと言も書かれていない。次回軍法会議以降に判決を予定していると読むことができる。5月25日は白川大将が死亡した26日の前日であり、白川死後の対策で忙殺されており、上海派遣軍は軍法会議どころではなかったはずだ。(写真は「毎日申報」)
このような推測以外に、次のようにも考えることができる。
5月25日の第1回軍法会議で、死刑判決を下したが、マスコミ対策として、判決を秘匿したとも考えられる。しかし、白川を死地に追いやった尹奉吉への死刑判決はむしろ排外主義を煽る好材料であり、隠さねばならない理由がない。やはり、判決は6月に入ってからなのだろう。
「新韓民報」
上海爆弾事件80周年を記念して、「尹奉吉全集」が発行されたが、これまで知ることができなかったさまざまな資料が満載されている。たとえば、サンフランシスコで発行されていた「新韓民報」には、処刑直後からくり返し追悼集会が行われていることが報道されている(下記はごく一部)。全文韓国語なので、私には読むことができないが、この全集をもとに尹奉吉研究が進むだろう。
1932年12月29日 尹奉吉義士追悼会
1932年12月29日 尹奉吉義士の捨生取義(生命を捨てて義に従う)
1933年01月05日 尹奉吉義士追悼文
1933年01月12日 尹奉吉義士追悼会
1933年01月19日 尹奉吉義士追悼会
1933年02月23日 尹奉吉義士追悼会
1935年05月02日 尹奉吉義士 尹奉吉義士●故人●歌
1941年06月05日 尹奉吉義士●●記念祝賀
1941年11月03日 尹奉吉義士
この間の資料調査で、「5/25軍法会議判決」は架空ではないかと推論してきたが、私の推論を裏付ける資料を「尹奉吉全集」(8巻+目次)の中で発見した。
1932年5月27日付の「東亜日報」「朝鮮日報」「毎日申報」は5月25日上海発のニュースを報じている。見出しはそれぞれ、「上海爆弾犯尹奉吉第1回軍法会議」「上海爆弾犯軍法会議遂開廷」「爆弾犯人尹奉吉●第1回軍法会議」となっており、その一部を翻訳してもらった。
東亜日報などには「第1回軍法会議は本日(25日)午後開かれ、…次回開催日程は未定」と書かれているが、判決のことについてはひと言も書かれていない。次回軍法会議以降に判決を予定していると読むことができる。5月25日は白川大将が死亡した26日の前日であり、白川死後の対策で忙殺されており、上海派遣軍は軍法会議どころではなかったはずだ。(写真は「毎日申報」)
このような推測以外に、次のようにも考えることができる。
5月25日の第1回軍法会議で、死刑判決を下したが、マスコミ対策として、判決を秘匿したとも考えられる。しかし、白川を死地に追いやった尹奉吉への死刑判決はむしろ排外主義を煽る好材料であり、隠さねばならない理由がない。やはり、判決は6月に入ってからなのだろう。
「新韓民報」
上海爆弾事件80周年を記念して、「尹奉吉全集」が発行されたが、これまで知ることができなかったさまざまな資料が満載されている。たとえば、サンフランシスコで発行されていた「新韓民報」には、処刑直後からくり返し追悼集会が行われていることが報道されている(下記はごく一部)。全文韓国語なので、私には読むことができないが、この全集をもとに尹奉吉研究が進むだろう。
1932年12月29日 尹奉吉義士追悼会
1932年12月29日 尹奉吉義士の捨生取義(生命を捨てて義に従う)
1933年01月05日 尹奉吉義士追悼文
1933年01月12日 尹奉吉義士追悼会
1933年01月19日 尹奉吉義士追悼会
1933年02月23日 尹奉吉義士追悼会
1935年05月02日 尹奉吉義士 尹奉吉義士●故人●歌
1941年06月05日 尹奉吉義士●●記念祝賀
1941年11月03日 尹奉吉義士