20211016 ヨネさんを偲ぶ
2008年にヨネさんが亡くなってから13年が過ぎた。ヨネさんは私たち共通の友人だった。ヨネさんは博識で誠実だったが、シャイな男だった。「障害者」自立センターの高さんや中尾さんの介護を熱心に引きうけていた(当ブログ中の『「障害者」が自立して生きることの意味』参照)。
あるとき、卯辰山の喫茶店で、向かい合ってコーヒーをすすっていると、ヨネさんが突然、「後ろの客 . . . 本文を読む
文弥へ 2021年10月4日
文弥が遠くへ旅立ってから、もう9年も過ぎてしまった。
はじめて会ったのは、あの汚い映研の部室。
段ベッドだったか、天井裏だったか、
ごそごそと音がして、はしごを伝って降りてきて、
やおら鏡に向かって、その濃い髭を剃り、
オールバックの髪をなでつけていた。
まあ、おしゃれな男だった。
そして、
1969年、教養部のバリケード封鎖が始まって . . . 本文を読む
「熱(ほとぼり)」公演 (第二次公演:2005年12月19日、石川県立音楽堂)
先月(2021年6月)、大沼栄さんが亡くなった。そんなに長く、深い付き合いではなかったが、不二越強制連行訴訟立ち上げ時期にご一緒した。私より15も若い人で、エネルギーに満ちていた。2005年12月19日に石川県立音楽堂で「熱り(ほとぼり)」が上演され、大沼さんは実行委員として働き、上演後下記の感想を寄せている。
< . . . 本文を読む
「戦争体験者の責任として」 中村信 (第三次小松基地騒音訴訟原告)
日本は四〇数年前に戦争に負けて、こりごりな目にあいました。戦後私たちは憲法九条によって、どれだけ貧乏しても、二度と戦争をしないと世界に宣言したのです。だから憲法九条は絶対に守らねばならないと思います。
軍隊なんていらないと思います。「国を守らねばならない」と言いますが、戦争をしなければ守れないような国なら、滅ぼされてもい . . . 本文を読む
2020年4月11日 小嵐兄が逝く 蟻食を 噛み殺したまま 死んだ蟻(鶴彬)
なんとはやい旅立ちか。
3月10日に、
手紙をくれたじゃないですか。
いつもの、荒々しいタッチで、
封筒、所狭しと、宛名を書いて、
「1932年上海爆弾事件後の尹奉吉」を送れと。
まだ読み終わらないうちに、どこへ、いってしまったのだ。
今、バッグから、「尹奉吉」を取り出して、
灯りのしたで、背を屈めて、
メガ . . . 本文を読む
翁長さんが亡くなった
ここに、「同志は倒れぬ」を献げる
正義にもゆるたたかいに 雄々しき君は倒れぬ
血に汚れたる敵の手に 君はたたかい倒れぬ
沖縄人民の旗のため
琉球人民の旗のため
踏みにじられし民衆に 命を君は捧げぬ
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昨年8月、小松のTさんが亡くなられました。Tさんは小松市教組三羽ガラスのひとりで、小松・能美地区の革新に力を尽くしていました。わたしが小松基地問題に取り組み始めてから、ときどき訪問してはいろいろ教えていただきました。
2000年8月、大東亜聖戦大碑が除幕され、県内外から激しい批判の声があがり、Tさんは聖戦をめぐる歴史認識についてレポートしました。その時の発言録を再掲し、こころからご冥福をお祈りします。 . . . 本文を読む
9月1日、林えいだいさんが亡くなった。
一面識もないが、かつて一度だけ、林さんの仕事をしたことがある。
梅軒(尹奉吉)研究会の機関誌『キョレイ(はらから)通信』第8号(2004年)に林さんから原稿「樺太転換坑夫」が送られてきて、その校正をしたことがあり、何となく親近感を感じてきた。そして、1カ所だけ誤植をしてしまった悔しさを今でも引きずっている。
とはいえ、林さんがなした大きな仕事に . . . 本文を読む
2015年3月28日、中村信さんが目を閉じました。92歳でした。歩兵第83連隊の1兵卒としてベトナムに出兵したときの体験をお聞きして、パンフレット「兵戈無用(兵隊も武器もいらない)」に収録しました(1999年)。
誠実な農民であった信さんへの追悼の気持ちを込めて、信さんの訴えをここに採録します。 . . . 本文を読む
安倍は湯川さん、後藤さんの殺害に際して、自らの失政がふたりの死をもたらしたことを認めようとせず、家族に謝罪もしていない。このまま安倍に政権をゆだねることは日本をふたたび侵略戦争の道に導くことであり、世界の人々と日本人に災厄をもたらすことになる。安倍政権を打倒しなければならない。 . . . 本文を読む