黒鉄重工

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東海project 2 ~with Noritetsu☆Tabi Kippu. その10【2018/6/9~10】

2022-08-30 22:21:27 | 鉄道撮影記
近江鉄道彦根駅を降りてこの日彦根駅構内で開催されている「ガチャコンまつり2018」へやって来ました。
鉄道会社がよくやつ車庫公開イベントで、現役の電車はもちろん近江鉄道が保存している歴史的な電気機関車も見ることができます。この電気機関車が目当てなのだ。
これらの電気機関車は「近江鉄道ミュージアム」の収蔵品の一部として保存されていて、ガチャコンまつりでなくても月に1日程度の頻度で一般公開されていたものです。ところがこのガチャコンまつりの後、近江鉄道は近江鉄道ミュージアムを2018(平成30)年12月に閉館(その後現在は八日市駅に移転)。所蔵していた電気機関車も基本的に解体される方針となりました。
日本の電気機関車黎明期の機体がいくつも現存する貴重な場所でしたが、民間企業単体で保存するには厳しかったのかもしれませんし、企業が私有する形での保存が必ずしも安泰でないことを示す例になりました。
話が逸れました。ガチャコンまつりに戻りましょう。


ED14形4号機と3号機。輸入箱型電気機関車の趣が深くていいですね。
ED14形は1926(大正15)年に鉄道省が4機を輸入したアメリカ・ゼネラル・エレクトリック製の直流電気機関車です。東海道本線、中央本線、飯田線などを転々として最終的に1966(昭和41)年に4機全てが近江鉄道に譲渡されました。貨物列車廃止後も近江鉄道には4機全てが現存していましたが、閉館後は逆に全て解体され消滅した運命を辿りました。


ED14形3号機です。黄色い台枠に水色の車体は近江鉄道の標準塗装です。
貴重な輸入電気機関車の生き残りですが、長年の現役生活のうちに所々改造されていて、新造時の原型は喪失しています。分かりやすいのは窓の改造です。前面窓は本来は幅がもっと狭くて縦長の長方形をしていました。片側4つある側窓も窓サッシが本来十字形だったものが、中央2つの窓は横のサッシがなくなり両端の2つは十字形サッシ自体がなくなってしまいました。両端の窓はサッシが無くなったのでスッキリしましたが電気機関車にしては妙に大きい窓に見えるようになりました。


ED14形4号機。当時の鉄道省は欧米先進国の各メーカーから2機ずつ電気機関車を輸入してゆくゆくは国産化のための品定めあるいは技術習得をしていたみたいですが、このED14形は4機を購入、さらに同じゼネラル・エレクトリックからED11形2機を先行して購入しています。合計6機、通常の3倍の数を買ったわけですが、よほどゼネラル・エレクトリック製が優秀だったのでしょうか?
この4号機だけは塗装が鉄道省時代のぶどう色に塗り直されています。たぶん色の塗り直しだけで車体の形態などは復元されず近江鉄道末期のままだと思いますが。


2つの台車の距離はかなり近くて、車体長さは台車のそれにきっちり合わせたものになっています。なので現代から見れば小さい車体ですが結構密度感のある印象を与えます。
側窓は左から2つ目の窓は原型をとどめているみたいですね。


ED14形は、アメリカ製電気機関車では珍しい板台枠台車を装着している点が目を見張ります。アメリカ製台車といえば一般的にはでかいイコライザを付けた物です。
もうひとつ、この角度からだとデッキの影で見えないですが、機関車の連結器が台車に直結しているのも珍しいです。台車の動きに合わせて連結器も首を振る、Nゲージで言うところの台車マウントカプラーなわけです。
この点はだいたい同時期に輸入されてかつ現存する同社製ED11形と比較した時に明確に異なる点です。板台枠台車も台車マウント連結器も結局日本では根付かなかったので、日本の鉄道車両史の特異点のひとつといえるかもしれません。


ED14形を反対側から。


ED14形2号機です。


2号機を反対側から。意外と目立つような個体差は見受けられないですかね。窓のサッシの数くらいなものです。


さっき説明した台車マウントカプラーです。連結器が車体からではなく台車から生えているのが分かるかと思います。


ロコ1100形1101号機です。これは1930(昭和5)年に阪和電気鉄道(現JR阪和線)が自社線と省線の間の入換用機として導入した30t電気機関車です。これは東洋電機/日本車両製。
1951(昭和26)年に近江鉄道に譲渡されて、今よりも構内の広かった彦根駅で入換作業などに従事していたみたいです。ミュージアム閉館に際して引き取りては現れず、解体された模様です。阪和電鉄の現存車両は秩父鉄道三峰口駅に電気機関車が1機いましたが、それも2019(令和元)年に解体されてしまったため、阪和電鉄由来の車両は絶滅したことになります。

車体は可愛らしい凸型をしています。運転室扉をキャブの妻面に付けていて、そのためボンネットは向かって見て右側に片寄っています。


これも板台枠台車ですな。ED14形と比べるとリベット多めでごつい感じ。
ちなみにこの機体は古めかしい直接制御式だったそうな。


左から100形、ED14形1号機、ED31形3号機。


ED14形1号機です。それにしても同形式の保存対象車両が複数ある場合、大抵は1台だけ残してあとは解体なのですが、ED14形は4機全て保存されたというのは当時の近江鉄道の担当者たちの並々ならぬ思いがあったのでしょうか。


こちらはED31形3号機。これだけは他の機関車よりも塗装が綺麗でした。
元々は1923(大正12)年に伊那電気鉄道(現JR飯田線)が6機(デキ1~デキ6)導入した電気機関車です。製造は芝浦製作所/石川島播磨です。
これも凸型機関車ですが、やたら長いボンネットと開口部の小さい窓のおかげで特異な平べったいシルエットをしています。戦車や装甲車みたいな雰囲気を出していて、あんまりかっこよくはないかな・・・。
なんやかんやあって1950年代後半に6機のうち1号機~5号機の5機が近江鉄道へ譲渡されました。残りの6号機は上信電鉄へ譲渡されて現存しますが、現役時代に原型とは似ても似つかぬ箱型車体へ魔改造されています。
2000年代に全機が引退状態になってミュージアムの収蔵品となっていました。今回ここへ来るちょっと前の2017(平成29)年に3機が解体されています。残る3号機と4号機も解体の運命だったみたいですが、既の所でそれぞれ引き取り手が現れて解体の危機から救われました。今回の閉館に際して生き残ることのデキた2機です。3号機は、これを製造した芝浦製作所が現在の東芝という縁から東芝が2020(令和2)年に引き取り、府中工場にて他の電気機関車と共に保存されとります。府中工場はここぞという時に手を差し伸べてくれるやね。


ED31形4号機。
こちらはびわこ学院大学の大学生がクラウドファンディングを立ち上げて輸送費と移送先の土台と線路の建設費を賄ったことで解体を免れました。これが選定されたのは、国産電気機関車の初期の機体で日本のものづくりにおいて価値が高いだからだそうな。
ED31形2機だけ現存するという片寄った形になりましたけど、先に機関車保存に名乗りを上げたのはこの大学生チームみたいですし、後手になった東芝は自社製のED31形以外に選択肢はないですし、仕方ない面はあるかもしれないです。残りのED14形とロコ1100形もこの先も保存されるに値する機関車だったので、残せなかったのはちょっと残念でした。


国産機という扱いですが、一部の部品は輸入品のようです。台車はイギリスのドーマンロング製です。輸入から国産への過渡期の機関車という方が正確でしょうな。


思うにボンネットの根本の背が高いのがかっこ悪い要因だと思います。


謎パンタグラフ。

というところで今日はここまで。次回は機関車以外の展示物です。


その11へ→



 
 

東海project 2 ~with Noritetsu☆Tabi Kippu. その9【2018/6/9~10】

2022-08-25 08:05:00 | 鉄道撮影記
近江鉄道全線乗車を果たすために多賀線多賀大社前駅を降りました。列車の折り返しが発車するまでの時間は数十分あるので、その間に多賀大社を参拝しようと思います。参道の入口には大きな鳥居がありにけり。


参道にあった多賀町のマンホール蓋。
町章、町の鳥(うぐいす)、町の木(杉)、町の花(ササユリ)が配された正統派の蓋です。町の鳥と木は町章の中にあるのが特徴でしょうかね。


歩いていて楽しくなる適度な道幅とカーブの参道です。沿道の木造建築も良き。


延命地蔵尊。きれいなところですね。


糸切餅本家ひしや。趣き深い角地にある商店です。
糸切餅というのは多賀で江戸時代から親しまれてきた生菓子です。今回は多賀大社を往復するだけで時間いっぱいだったので買えず。
糸切餅屋は他に2軒あって、それぞれ総本家と元祖を名乗っており、ここの本家と並んで互いに譲らない模様。まさに元祖と本家の戦いです。


神社が近くなると参道っぽさを醸し出す舗装になってきました。


料理屋の亀屋。ここもいい店構えですな。


他にも色々。


やっと多賀大社へ来ました。ちょっと余裕こいて歩いていたら駅からここまで10分掛かりました。ちょっと時間が押しててまずいですわね。
結局入り口に立ってやあ!と挨拶をしただけで引き返しました。鳥居すらくぐれなかったよ。


帰りは早歩きでトンボ返りでした。
自転車操業・・・。


第17走者:近江鉄道多賀線高宮行(800系)多賀大社前10:25→高宮10:30
高宮駅へ戻ってきました。乗り換えまで時間があるので駅の外へ出てみます。乗り鉄☆たびきっぷなので乗り降りは自在です。


高宮駅のホームは大変古めかしいものですが、駅舎は2002(平成14)年に建て替えられた新しめの建物です。


駅舎は大きめですが、大半は高宮地区のコミュニティセンターとして使われています。


第18走者:近江鉄道本線彦根行(700系)高宮→彦根
彦根へ向かいます。乗るのはまたもや700系。今日はよく会いますね。


彦根駅で下車して、今日最大の目的地「ガチャコンまつり2018」会場へ!

というところで今日はここまで。


その10へ→




北米project 5 ~How do you like Canada? その18【2016/6/15~22】

2022-08-18 06:13:02 | 海外旅行記
カナダ海軍駆逐艦HMCSハイダの続きです。それじゃあ乗船します。敷地内にある事務所で入館料を支払って乗船します。


左舷甲板から乗船。


この格子のある構造物は、ボイラーへの空気取入口です。この位置にあるのね。上下には蓋もあるので必要に応じて開閉できるみたいですよ。


内火艇の留具ですね。で、あの白い矢印の先が順路です。


厨房、いわゆるギャレーです。


横には食料庫(General mess stores)があります。昔の船ですからね、缶詰ばっかりですよ。アイルマーという銘柄の缶詰ですが、これは実在かつ現存する物です。


艦首へと続く廊下です。まあ狭いですな。床がチェック模様のタイル貼りなのがおしゃれ。


ここは送信室(Transmitting station)です。通信室とは違い、外部との通信で使われることはありません。ここでは主砲の照準と発射に必要な情報を処理・送信する部屋です。
射撃指揮装置、Mk.34レーダーで取得した目標の距離、方位、移動速度、移動経路とHMCSハイダ自身の動きと合わせて、火器管制装置に入力するのです。
この情報は手動入力だったそうな。たぶんあの黒い箱だと思います。これはたぶんアナログコンピュータじゃないかな。
送信室のある場所は艦橋の真下なので、やっぱり重要区画なのでしょうな。


艦首は食堂(Canteen)になっていて、その一角には酒保があります。タバコ、酒、清涼飲料水、髭剃り、洗髪料、手紙と筆なんかを売っていたそうな。


ここが食堂です。


食堂と言ってもここぞという時は戦闘区画になります。あちらこちらに戦争の匂いが。


これは主砲の弾丸の荷揚げ装置(Ammunition ramp)です。弾丸は船の下層に収納してあるので、射撃する時は砲弾を主砲のあるところまで上げてこないといけません。
弾薬庫にある砲弾はホイストを使って食堂のある階層まで引き上げられます。そしたら人力でこの荷揚げの傾斜ランプへ収めます。最後にこのランプごと上に持ち上げて主砲へ砲弾を運ぶのです。
この4インチ砲弾の薬莢含めた重さは約30kg(68lbs)あります。持てなくはない重さですね。


天井はそれなりに低いです。食堂は艦首にあるので、舷窓のある壁は艦首形状に沿った複雑な形をしています。


艦内の中でも広い空間でありますので、食堂として使うだけでは勿体ないです。なので就寝時は天井にたくさん取り付けてある留具からハンモックを吊るして、水兵はここで寝ます。
他の写真を見ると天井の至る所に留具が付いているのがわかると思います。


下層への階段。降りれませんでしたが。


食堂を出ます。


倉庫・補給事務所(Stores office or Supply office)です。
HMCSハイダに搭載されている食料、水、清掃具、各種予備品の在庫管理をこの部屋でしていました。


在庫表っぽい書類の束が置かれています。


洗面台(Wash place)です。洗面台は10台もないですが、これだけで180人以上の水兵の手洗いうがい洗顔髭剃りなんかを賄っていました。1人に割り当てられる時間は数日に1回数分だったそうな。


通信室(Radio room)です。HMCSハイダにはそれぞれ役割の異なる4部屋の通信室がありにけり。この部屋の通信室は、通信内容の送受信と監視をしていた主となる通信室でした。
通信にはモールス信号が用いられました。HMCSハイダの通信士は、毎分平均25単語の速度で通信していたそうな。


おトイレですねえ。


廊下の天井の配管。やはり配管の種類についてちゃんと書かれているんですな。

というところで今日はここまで。


その19へ→