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北米project 5 ~How do you like Canada? その49【2016/6/15~22】

2024-09-30 23:30:58 | 海外旅行記
今回は民間航空機の回です。
これは、トラベルエア・モデル2000 (Travel Air Model 2000) です。1925年初飛行(モデル1000)。
1930年に生産を終えるまでに1550機を受注しました。当時としては大ヒットでしょう。工芸品のような作り方だった当時の航空機製造でこれだけの数、どうやってさばいたんでしょう。
フォッカーD.VIIと外観が似ているから1920~1930年代の戦争映画でよく役者として出演していたそうな。
ちなみに、これの設計にはウォルター・ビーチ、クライド・セスナ、ロイド・ステアマンが携わりました。はい、それぞれビーチ、セスナ、ステアマンの航空機製造会社の創立者なのです。名機になるべくしてなったといえましょう。


この個体は1929年製で、オンタリオ州キングストンの企業が購入しました。1941年に使用停止するまで複数のオーナーをわたりました。その間に当局への届け出無しにエンジンを交換して馬力アップしていたそうな。違法改造ですよそれ。
1958年に個人が購入して1968年に博物館へ寄贈、1999年から12年かけて復元して今に至ります。


これは、デ・ハビランドD.H.83Cフォックスモス (De Havilland D.H.83C Fox Moth) です。1932年初飛行。
タイガーモスなどを生み出したイギリスのデ・ハビランド社の航空機です。単発複葉機の小型機ですが人員輸送用の旅客機です。よく見るとエンジンと操縦席の間に客室があります。重心の都合、客室はそこしかなさそうですが、狭そうなのとエンジンの熱で暑そうだなと。カナダでは第二次世界大戦後にブッシュプレーンとして使われたそうな。
デ・ハビランドのモスシリーズの名前だし、型番も1つ違いだしでということで設計はタイガーモスとほとんど共通にしてあります。実際輪郭が似ていますしね。
この個体は1947年にカナダで作られてブッシュプレーンとして使われた機体です。ていうことはデ・ハビランド・カナダ製ですかね。1980年代に個人が購入して、最初のフォックスモスの塗装に復元したんだそうな。


デ・ハビランドD.H.60Xシーラスモス (De Havilland D.H. 60X Cirrus Moth) です。1925年初飛行。
軍隊はもちろん、民間飛行クラブや個人でも購入・運用ができる安価な航空機として広く普及した機体です。同社のモスシリーズの始祖でもあります。
1928年からはデ・ハビランド・カナダでも生産を始めました。1930年代にはカナダで最も登録数の多い機種になって、個人飛行の普及に貢献しました。カナダ空軍でも練習機として採用されパイロット内で操縦したことない人はいないくらいの普及率でした。
この個体は1928年イギリス製です。製造後にカナダに輸入されました。モスの中でも極初期型のシーラスモスです。1962年に博物館に寄贈されて、DHCの元社員が復元しました。
ちなみにD.H.60のエンジンは生産時期により変わっていて、最初はシーラスエンジン、その後ジェネット、ジプシーの順に変わっていくようになります。この個体はシーラスエンジン装備なのでシーラスモスと呼ばれるわけです。


アブロ・アビアンIVM (Avro Avian IVM) です。1926年初飛行。
民間用スポーツ機として開発された軽飛行機です。デ・ハビランドのD.H.60モスの競合機といえます。
この個体の型番IVMはIV型のMという読み方をして、Mは胴体の骨格に鋼管を使用していることを表しています。ふつうは木製になりますね。
この個体は1930年にカナダ空軍に納品された機体ですが、カナダ空軍ではこれ以外にも導入したアビオンをほとんど使用しないまま民間に放出してしまったようです。この個体は1932年に民間の飛行クラブへ譲渡されています。その後いくつかのオーナーを転々として1968年に当館へ寄贈されています。


金属製のプロペラはこの時代にしては珍しいような感じもします。どこかの段階で交換されたんでしょうか。
エンジンは、アームストロング・シドレー・ジュネット・メジャー、100馬力、空冷星型7気筒です。


この手の軽飛行機に折りたたみ式の主翼が見受けられるのは、格納庫での収納性や陸上輸送での可搬性を考慮してのことです。特に折り畳めるおかげでガレージにも入れられたんだそうな。


デ・ハビランドD.H.80Aプス・モス (De Havilland D.H. 80A Puss Moth) です。1929年初飛行。
3人乗りの単葉単発機です。燃費の良さが売りで、2点間の長距離飛行の記録破りによく使われたんだそうな。単葉機なのと密閉式のコックピットがうまく作用したんだと思います。カナダでは9機が輸入された他、DHCでも25機現地生産されました。
前作D.H.60とはエンジンを載せたときの向きが上下逆になっています。コックピットからの視界を良くするのと、エンジンから漏れ出るオイルが風防に付着するのを防ぐためだと言われています。
この個体は1931年イギリス製で、ロンドンのアメリカ海軍武官が使っていました。第二次世界大戦も経験していて、イギリス空軍で運用されていました(たぶん連絡機として使用)。戦後はイギリスの民間企業を転々として、1969年にカナダ空軍の軍人が個人で購入、カナダへ運ばれました。1976年にその人が軍を退役すると当館に売却しました。
いま現存するプス・モスは8機いて、これはカナダで唯一飛行が認可されている機体だったそうな。


ステアマン4EMシニア・スピードメール (Stearman 4EM Senior Speedmail) です。1929年初飛行。R-1340ワスプSC、450馬力星型9気筒。
4Eジュニア・スピードメールの改良型として開発された郵便用航空機です。郵便機とも言いますね。1920年代の航空機はまだ貨物輸送や旅客輸送に使うには積載能力が不足していたか運賃が非常に高額になるかで、まだ使い物になる物ではありませんでした。そんな中で、重量が軽くなおかつ従来の陸上海上交通よりも優位な速達性を得られる郵便物の輸送が当時の航空機には適していたのです。


4EMは、エンジンにNACAカウルを装着した初期の機体です。今から見れば別に普通じゃんという形状ですが、当時は画期的な発明だったのです。これによって気流が整えられて空気抵抗低減とエンジン冷却能力向上に寄与しました。


イギリスの郵便事業者であるロイヤルメールのマーキング。カナディアン航空に委託して運んでいたようですね。
この個体は1930年にモデル4Eとして生産された個体で、スタンダード石油社に社用機として納品されました。1940年代に農薬散布機に改造されて、1965年にオンタリオ州の個人が購入してカナディアン航空仕様のモデル4EMとして復元しました。1970年に郵便輸送として飛行しながら当館へ寄贈されて今に至ります。


カーチスのなんかしらの液冷エンジン。型式を覚えていません。銘板は記録し忘れているし。


ロッキードL-10Aエレクトラ (Lockeed L-10A Electra) です。1934年初飛行。R-985ワスプジュニア、450馬力星型9気筒2発。
エレクトラって飛行機は2つあるねん。よく知っているL-188エレクトラは2代目なんですねー。
乗員2名、乗客10名乗りの双発旅客機で、ロッキード初の全金属製航空機です。ダグラスDC-2、ボーイング247が競合として挙げられています。
カナダでは1936年にエア・カナダが2機発注し、バンクーバー~シアトル線に投入。1937年にはトランス・カナダ航空も5機発注。さらに第二次世界大戦ではカナダ空軍が民間機を徴用して輸送機として使用しました。



エレクトラにはちょっとした小芝居が挟まれています。機首の扉を開けて中に荷物を詰め込んでいます。中身は郵便物ですね。1930年代後半の民間機なので航空機用レーダーはまだ存在していないわけです。
1920年代は郵便専用航空機も開発された時代でしたが、1930年代からは機体も大型化して搭載量にも余裕が出てきましたから、旅客と郵便を混載して飛行できるような機体も出てきたのです。この流れは拡大していって、次第に郵便専用機というのは淘汰されていくのです。


この個体は1937年にトランス・カナダ航空が新造機として発注した機体です。1939年から6年間カナダ空軍に徴用されていた時期もありました。1962年に個人が購入して修復して世界中を飛行したそうな。最後はエア・カナダが購入して当館へ寄贈しました。
なんでエアカナダが購入したかというと、トランスカナダ航空の社名変更後がエアカナダなので実質的に同じ会社でということです。
余談ですがトランスカナダ航空 (TCA) の親会社はカナディアン・ナショナル鉄道 (CNR) です。そうつまり、鉄道会社それも国有鉄道(当時)が運営する航空会社という構図なのです。さらにカナダのフラッグキャリアとして政府の保護もありにけり。
戦後の旅客航空の発展に伴ってTCAの路線網も拡大、それはつまりCNRの旅客鉄道と真っ向から競合することになり、最終的にCNRの旅客輸送はほぼ壊滅状態となるわけです。


ボーイング247D (Boeing 247D) です。1933年初飛行。乗員2名、乗客10名乗り。S1H1-Gワスプ550馬力星型9気筒が2発。
この頃のアメリカの双発旅客機はボーイング247、ロッキードエレクトラ、ダグラスDC-2/3がしのぎを削っていましたが、その中で先陣を切ったのがボーイング247です。先行有利が働けばよかったんですが、この機体には色々弱点が合ったので後発のロッキードとダグラスに遅れを取ってしまい、75機しか製造されずあまり売れませんでした。
技術的には先進技術を多く取り入れています。全金属製応力外板、低翼主翼、引込式着陸装置、主翼前縁配置のエンジン、可変ピッチプロペラ、過給器、トリムタブ、客室空調装置など。特に双発プロペラ旅客機の外観設計を決定づけた機体と言われていて、エレクトラもDC-3もこれの後追いに過ぎないともいえます。


主にアメリカのユナイテッド航空から発注された機体が多いです。ユナイテッド航空はもともとボーイング社の航空機運行部門を分社化したものなので、ボーイングとの結びつきがとても強いのです。
これも初めはユナイテッド航空に納品され、カナダ空軍、カナダ太平洋航空などを渡り歩いて最後はカルガリーのカリフォルニア・スタンダード石油社が使用しました。1967年に同社が当館へ寄贈しています。
247は全部で4機しか現存していないため、貴重な機体であります。


胴体は細いです。空力を考慮した影響でしょう。10人乗りなので窓一つにつき1席という具合でしょう。
左右の主翼は桁で繋がっていますが、桁が機内の床をブチ抜いているので乗客はこれをまたいで席まで向かう必要があり247の弱点でした。機体の収容力を増やそうにもこの桁の再設計が面倒だったのとエンジンの出力が弱かったので実現できなかったそうな。


ダグラスDC-3 (Douglas DC-3) です。1935年初飛行。乗員2名、乗客21名(最大32名まで)。R-1830ツインワスプ1200馬力星型14気筒。
ご存知、双発プロペラ旅客機の覇権を握った機体です。DC-2の派生型としての開発でしたが、すぐにこっちの方が有名になりました。ダグラス純正の機体だけで約11,000機、日本とソ連でライセンス生産されたものもいれると約16,000機も作られました。現在も200機くらいが現役として登録されているそうな。
もともとダグラスがボーイング247の対抗馬として開発したのがDC-2です。DC-1というのもありますがこれは1機だけ製作された試作機です。この時の設計者があのキンデルバーガー氏やノースロップ氏です。
DC-2が好評だったので、鉄道のようなプルマン寝台を備えた旅客機として使えるように胴体を大型化したのがDC-3なわけです。それでDC-3を普通の座席に座る旅客機として使えば、DC-2の1.5倍もの乗客を運べるのに運航コスト増加は僅かという高い利益率から、政府の補助金無しで運航できる旅客機として1939年の世界の航空取引の90%を占めるまでに大ヒットを記録しました。その後始まった第二次世界大戦では軍用輸送機としても大量生産されました。生産数の殆どは軍用機としての発注です。


外部電源供給用バッテリー台車です。機体が駐機時にエンジン停止中でも機内に電力を供給するための装置です。現代でも普通にありますね。


この個体は1942年に旅客機として製造された機体です。ただしこの時アメリカは日本に横っ面を張り倒されて第二次世界大戦に引きずり込まれてしまったため、すでに戦時体制。旅客機として使われることはなく、即陸軍に徴用されてしまいました。C-49Jとして軍人生活を送ったのです。
ちなみにDC-3の軍用形といえばC-47ですがこれは初めから軍用機として製造されたものを指す型番です。旅客機を徴用した機体はC-49と呼ばれとりました。他にもC-48からC-53までの型番が振られていたそうですが、どういう区分なのかはわからんので割愛。
なんとか戦争を生き延び(前線に行ったか知らんけど)、1945年にトランス・カナダ航空へ売却されました。このように戦後大量の余ったC-47等を民間へ放出することがDC-3のさらなる普及へ繋がったのです。なおダグラスは中古機の蔓延で新造機の注文があまり入ってこなかった模様。


1948年にグッドイヤーが機体を購入。1983年まで要人輸送用に使っていたそうな。その後当館へ寄贈されています。

民間機のコーナーは以上。最後の1930年代アメリカ製旅客機揃い踏みというのは、アメリカでも中々見れないんじゃないかという充実ぶりで素晴らしいものでした。
というところで今日はここまで。


その50へ→


 
 
 

【ノンスケール】RMSタイタニック【ギャラリー】

2024-09-14 22:54:01 | 模型ギャラリー
キット:ロイヤルメールシップ タイタニック(モンモデル)

タイタニックは1911年に進水したイギリス、ホワイト・スター・ラインの大洋航路船です。1912年処女航海中の氷山との衝突で沈没した悲劇的な事故により、極めて知名度の高い客船となってしまいました。あとは1997年の映画「タイタニック」のヒットもありましょう。
何年か前に「タイタニック」が地上波で放送されたのを見てからプラモデルを作りたくなったので、次の日に買いに行ってその日に作り始めました。

 

タイタニックのプラモデルはいくつもあります。お店に買いに行った先にあったのがモンモデルのデフォルメキットでした。すぐに完成させるのにもちょうどいいと思い、これにしました。


成形色にて色分け済みなので、船体などは塗装しないまま組み立てています。塗装は煙突、マスト、甲板、スクリューなど色の足りないところや塗り替えるほうがいいと思ったところだけに留めています。


船体のストライプとスクリューは金で塗装するほうが見栄えがいいです。


タイタニックの一番うしろ4本目の煙突はダミーという逸話があります。煙突が多いほど美しくて高性能という価値観があったみたいです。このキットでは4本目の煙突の排気口だけ形状が変わっていて、デフォルメキットと言えど芸が細かいです。


ちなみにRMSというのは、ロイヤル・メール・シップ (Royal Mail Ship) のことで、イギリスの郵便事業者ロイヤル・メールとの契約で郵便物輸送をしていた船に付けられる接頭辞です。





以上、RMSタイタニックでした。


 
 
 

【モンモデル】RMSタイタニック号【プラモデル製作】

2024-09-12 22:47:56 | 艦船模型製作記

何年も前ですが土曜洋画劇場で映画「タイタニック」(1997年)の放送があったんです。久しぶりに見たので盛り上がってしまって、タイタニック号のプラモデルを作りたくなってしまいました。そういえばいつも通っている模型店にあったなあと思い出して、翌日買いにいって作ることにしました。
タイタニックは極めて知名度の高いモチーフであるので、プラモデルもいくつもあります。これは中国のモンモデルが発売しているタイタニックです。ハセガワのたまごひこーきやバンダイのSDガンダムのような、丸っこくデフォルメされた形状です。まあ、初心者向けということですね。

 
 

成形品は色分けされていて、組み立てはスナップフィットです。


船体の部品ですねー。


煙突なんかはスライド金型で抜いていて、一体化されています。
色分けされていますしさくっと完成させたいので、成形色を活かしながら組み立てようと思います。


基本的に塗らないよといったそばからですが、タイタニックの煙突はオレンジ派なのでここは塗ります。


舷窓も華やかな満艦飾(?)を出すために黄色で塗ってみました。
はみ出したところは溶剤で拭き取っちゃえばOK。


甲板はタンで塗ります。


船体は鉄板を貼り合わせて建造された形状がうまいぐあいに再現されていて程よい密度感です。
スクリューは金色で塗ります。


金属線で張線も張ります。お手軽に作るはずが思わず手が込んできてしまいました。


線の張り方はパッケージを参考にしました。


そんなこんなで完成です。自分のやりたいところまで好きにやればいいのがこういうキットのいいところです。


張線のおかげでデフォルメキットに似合わず密度を上げることができました。やったね。

完成品はギャラリーにて。

 
 
 

九州project 2 ~Phantom in Kyushu. その18【2018/9/19~23】

2024-09-06 21:12:40 | 旅行・イベント記
2018年9月21日(金) 14時48分
鹿児島県姶良郡湧水町 JR吉松駅
肥薩線の観光列車「いさぶろう」号の終点、吉松駅へ着きました。さっきは宮崎県にいましたがすぐに抜けてしまい、もう鹿児島県に入ってしまいました。
肥薩線はこの先も隼人駅まで延びている他、吉都線が乗り入れています。矢岳越えの南側の拠点としてかつては機関区もある大きな駅でした。


吉松駅では列車を乗り換えるだけですが、待ち時間の間にどうしても見ておきたかった物が駅前にあるので、急いで一旦改札の外へ。それとは、駅前に保存されているC55形52号機です。実は吉松駅にはかつて2010(平成22)年に乗り換えで立ち寄ったことがありました。その時もC55を見に行ったのですが、すでに夜中で辺りも暗かったため実物は見れたものの写真撮影はできずに悔しい思いをしました。そのリベンジができる日が来たのです。

C55形は、1935(昭和10)年から1937(昭和12)年にかけて62機製造された亜幹線用のテンダー蒸気機関車です。一時、流線型の覆いを装着してスピード野郎を狙っていた頃もありました。あの頃は若かった・・・。
C51の後継機で、ひとつ前のC54が攻めた設計をした反省が取り入れられています。その割に生産数が少ないのは、早々にC57の生産に切り替えたからです。
スタイルでいえば鉄道省の制式機の中ではスマートさと力強さをうまく兼ね備えた素晴らしい形状で、一番好きです(流線型のアレを除く)。


あの時も感じましたが、ここのC55は状態が良いのです。今もほぼ変わらぬ状態を保っているのには当時以上に感動します。再び会うことができて本当良かった。とはいえ乗り換え時間短いのでやや慌てながらの観察です。


これの説明看板にも書かれている通り、スポーク車輪が大変魅力的です。さらにロッドには油が差されていて地金が出ています。ロッドがこういう状態だとよく手入れされている機関車だとわかる指標のひとつとなります。

ちなみに、おなじいさぶろう号に乗っていた乗客の1組がこのC55を見て「C55と比べると矢岳駅のD51はぼろぼろだね」みたいなことをつぶやいていました。私は矢岳のD51も状態は良好だと見受けましたが、塗装の表面状態は確かに荒れていました。そこがその乗客たちの評価の分かれ目だったと思います。
これは結構示唆に富んでいると思っていて、大抵の場合街や公園の保存車両の評価を下すのは鉄道オタクではない行政担当者や市民であるので、見た目の状態は案外重要なのです。構造が別に問題なく再塗装すれば元の姿を取り戻すような車両でも、見た目が悪いばかりに廃棄処分されてしまう事例は挙げられるでしょう。逆にとれば、とりあえず見てくれさえ良ければ素人の目は誤魔化すことができるとも言えます。まずは見た目をきれいにして、その後目に見えにくい部分の問題を直していけばいいのかもしれないですね。


この個体は1937(昭和12)年3月14日、汽車会社製。初めは小郡機関区に配置され、糸崎、鳥栖、大分、宮崎、若松、吉松、鹿児島を転々として1974(昭和49)年4月26日廃車。翌年1月14日に吉松まで無火回送されて、ここに静態保存されたのだと思います。
設置理由は書かれていませんでしたが、いつもの教育目的での国鉄からの無償貸与だと思います。機関区のある町でしたから、吉松に在籍歴のある機体を選んできたのはグッドですね。C55というのも渋くて良いです。吉松在籍時は肥薩線の吉松~西鹿児島と吉都線全線で運用されていました。


スタイル抜群です、はい。トミックスのNゲージが出たときは買いましたからね~。


キャブにも入れます。どのハンドルがどういう役割をしているのかが分かり、ありがたいです。計器類も揃っているみたいで、これすごいね。


石炭投入口の蓋が赤いのも現役の再現?
とにかく、吉松駅のC55は必見です。ぜひ行ってみよう。


そろそろ時間なので急ぎ吉松駅に戻ります。駅舎はこんな感じで地方拠点の鉄筋コンクリート造の駅舎を地で行っています。


改札内へ再入場して跨線橋を渡っていると、次に乗る列車特急「はやとの風」が出発待ちでした。発車まで残り数分なので駆け足です。


「いさぶろう・しんぺい」と「はやとの風」それぞれのキハ47形が並んでいる光景です。こういうのがいいんですよ、こういうのが。


第29走者:JR肥薩線・日豊本線特急「はやとの風」3号鹿児島中央行(キハ40系)吉松15:01→鹿児島中央16:44
それでは「はやとの風」に乗ります。2004(平成16)年、九州新幹線の部分開業時に肥薩線用に、一般用のキハ40系を観光用に大改造して特急列車用に仕立て上げてできた観光特急です。それまでの観光列車は快速列車主体でしたが、特急扱いにして特急料金を巻き上げるようになったのはこのあたりからだったような記憶です。知らんけど。
「はやとの風」はすでに走っておらず、車両は西九州新幹線開業に伴う観光列車のために召し上げられてしまいました。今の肥薩線は線路は不通だし観光列車も走らないし、一時期よりもさみしくなってしまいました。


特急料金を取るので、座席は回転式リクライニングシートです。車体の改造は例によって水戸岡鋭治によるもの。木目調の内装にこの木材の薄い座席です。やっぱり枕や座布団が薄いんですよね。


とはいえ、車内に入った時に感じる高揚感とか非日常感とかそういう演出はうまいんだよなと。


最初の停車駅、大隅横川駅に停まりました。約5分間停車するので外に出てみます。


反対側に吉松行のキハ47形が停まっていました。


大隅横川駅の駅舎。やはりこの地域は明治時代に建てられた駅舎の宝庫でありますな。


ほおずきが干されていました。こういうのは季節性や人間の営みを感じさせるので、駅舎が生きているものと認識できるのでいいですね。


三和土の床、角材の柱、土壁と、間取りは駅舎のそれですがそれよりも古民家の土間を感じさせる内装です。


大隅横川駅は1903(明治36)年開業で、駅舎は開業時のものが現存しています。太平洋戦争中は米軍の空襲や機銃掃射にも見舞われましたが生き残っている幸運な駅舎なのです。
5分間だけではちっとも堪能できませんでした。またゆっくりと来ます。

というところで今日はここまで。


その19へ→



 
 
 

九州project 2 ~Phantom in Kyushu. その17【2018/9/19~23】

2024-09-05 06:46:00 | 旅行・イベント記
JR肥薩線の観光列車「いさぶろう・しんぺい」の「いさぶろう」の方に乗って人吉駅へ向かっています。
各駅停車の観光列車なので、大畑駅の次は矢岳駅へ停まります。ここも当時物の駅舎が残っています。


広い待合室ですねー。


国鉄時代に建てられた駅舎とはなんとなく造りが違うような気がします。


さて矢岳駅といえば、駅の隣に建っている「人吉市SL展示館」です。ここにはD51形170号機が静態保存されています。いさぶろう号の停車中に合わせてここを開けてくれていて、停車時間の間に見学することができます。
なんでこんなところに・・・という感じもします。ちなみに、矢岳駅へ繋がる道路は隘路なので鉄道車両の陸送は難しそうです。なので矢岳駅までD51を走らせてきて、クレーンか何かでここへ移動させたのだと思います。


D51形170号機。1939(昭和14)年製造。九州に来たのは1945(昭和20)年で、そこから1972(昭和47)年の廃車まで熊本周辺で運用されました。
廃車後は人吉市が国鉄から無償貸与を受けて矢岳駅で展示。なので施設の管理運営は人吉市ですが、国鉄OBの方々がよく手入れをしてくれているので良好な状態を保っています。
ちなみにいまはD51だけですが、かつては8620形58654号機も隣に静態保存されていました。そう、SL人吉号として走っているハチロクと同じです。はじめここに保存されていた物をJR九州が胴体復活させるために引き取ったのです。
今は58654号機は現役を退いてしまいました。機体は人吉市に譲渡されて元の鞘に収まる形となりました。人吉駅の機関庫に置かれるようですが、かつては同じ屋根の下で過ごしていたデゴイチとハチロクが離れ離れなのはなんだかもどかしい感じがしますね。


良好な状態を保っていると評判のデゴイチですが、ちょっと表面が荒れているのが気になります。足回りには油が差されていて、見た目ほど悪いようには見えませんでした。でも時期は不明ながら今は国鉄OBの手入れが入らなくなった噂もあります。
ここの機関車に限らず、国鉄OBが手入れしていた蒸気機関車はOBの高齢化でなり手不足に陥っているような物が増えている印象があります。もちろん手入れの継承ができているところもありますので、そういう機関車が増えてくれるといいですね。


駅へ戻ってきました。1面1線ホームですが右手には平場が広がっていて、往時の構内はもっと賑わっていたのが想像できます。


水飲み場。これは近年のものっぽいですかねえ。
標高536.9mは肥薩線内最高地点で、人吉駅からえっちらおっちら登ってきた列車はここを境に下り勾配になります。


朝顔形手水鉢。奥には貨物ホームもあります。SL時代の香りです。


矢岳駅を出発するとすぐに矢岳第一トンネルに入ります。いわゆる矢岳越えの区間で、トンネル入口のあたりで熊本県から宮崎県へ入ります。矢岳第一トンネルは2,000mを超える長さで地盤も弱く、難工事だったと言われています。「いさぶろう・しんぺい」号の名前は、矢岳第一トンネルの両側に掲げられている扁額に揮毫した山県伊三郎、後藤新平に由来するのです。
矢岳第一トンネルを抜けると、日本三大車窓のひとつとして知られる矢岳越えの景色が広がります。雨も深々と降る天気だったので手前しか見えませんでしたけど・・・。次の宿題にしようと思っていますが、肥薩線は不通になってしまいました。また乗れる日はくるでしょうか。


最期の途中駅、真幸駅が見えてきました。ここもスイッチバック駅です。駅構内がカーブを描いているあたり、平地の確保に苦労したと感じられます。


真幸駅に着きました。


ここも広い構内付き駅舎です。


のんびりしていていいです。


真幸駅というのは縁起の良い字をしているので人気があるようです。みんな自動車で来るんですけどねー。


待合室はちょっと狭い。


待合室にはねこちゃんが住んでいました。


漆色のキハ47は案外矢岳の新緑と合っていて、いい景色を作り出しています。車両転用に伴ってこの列車が無くなってしまったのは惜しいですね。
では、終点人吉駅へ向けてラストスパートです。

というところで今日はここまで。


その18へ→



北米project 5 ~How do you like Canada? その48【2016/6/15~22】

2024-09-01 21:18:30 | 旅行・イベント記
カナダ航空宇宙博物館の続きです。引き続きブッシュプレーンを見ていきますよ。
これはユンカース W 34f/fi (Junkers W 34f/fi) です。1926年初飛行。ドイツ製ですね。
定員8名(うち乗務員2名)の軽旅客機で、安定した飛行性能と高い頑丈さがブッシュプレーンに適しており、1930年代のブッシュプレーンの最高峰と評価の高い機体です。ただし全金属製の機体とドイツの重い関税のため機体価格が高く、カナダに輸入されたのは9機だけでした。
この個体は1931年製で、翌年カナディアン航空に納品。何度か所有者を変えたあと、最終的にカナディアン航空創業者婦人のもとに行き着きました。1962年に当館へ寄贈されています。このときブリティッシュコロンビア州から当館まで自力で最終飛行してやってきています。博物館入りするために自力飛行してやってくるというのは、こっちでは珍しいことではないですね。たぶん陸上輸送のほうがお金がかかりそう、というのもあります。



当時のユンカース機らしいコルゲートの入った全金属製ボディです。このボディを見たのは初めてだったかも?ちょっと感動しますよね。ブッシュプレーンのはずですが低翼機です。たぶん最初からブッシュプレーンとして開発されていなかったからだと思いますが・・・。
ちなみに機体の周りには小道具が置かれていて、ブッシュプレーンとはなんぞやという演出に機体ともども使われています。


ユンカースで運ぶんだろう物資ですね。この時代に段ボール箱は無いので、当然木箱です。こういうのもあって当時材木の需要は高かったわけです。


サムソン・モデルMというトラクターです。物資をここまで運んできたのかな?


機体は何をされているかと言うと、フロートの横についている車輪を外しているご様子です。そして、その横にあるスキー板へ履き替えようとしているみたいです。
車輪を浮かして取り外すためにホイストで機体を吊り上げています。


エンジンのある機体前部が重心近くなので、そこを持ち上げるほうが良いということでしょう。


車輪を取り替えているパイロットのジョー(仮名)です。一人でも交換作業ができるのが汎用性の高さに繋がっているのだ、という展示なんでしょうかの。


横に置いてあるスキー板です。これを履けば雪原で離着陸できるのです。というか冬季だとカナダ北部の辺境の湖は全面結氷するでしょうから、離着水できないんだと思います。


何年もの間ず~っと機体の横で「車輪が外れない・・・」と困って固まっているジョーくん(仮名)。飛び立てる日は来るのか。いや来ない。


フェアチャイルドFC-2W-2 (Fairchild FC-2W-2) です。1926年初飛行。
アメリカのフェアチャイルド社が航空測量用に開発した7名乗りの多用途機です。カナダ北部の遠隔地での運用にも適していて、1920~1930年代のカナダ開拓に重宝されました。カナダ空軍でも写真調査と連絡用に使われていました。
この個体は1928年製で、1940年代初めまで航空測量に使われていました。引退後はブローカーの手により保管され、その会社の創業者によって当館に寄贈されて今に至ります。
塗装はカナディアン・トランスコンチネンタル航空の形態ですが、この個体の経歴には無いはずです。


主翼は根本で折りたたむことができます。これにより小さな納屋に格納するなどが可能です。北極圏での運用では、翼を畳んで防氷シートで覆うことがあったそうな。


スティンソンSRリライアント (Stinson SR Reliant) です。1933年初飛行。
アメリカのスティンソン社で開発された4~5名乗りの多用途機。190機くらい生産されたんだそうな。
カナダでの運用実績はあまり無いそうで・・・。この個体は1933年製でウィリアム・リアの個人所有でした。ちなみにこの人がビジネスジェットのリアジェットの創設者となります。胴体の後ろ側にジェットエンジンを搭載しているからリアジェット・・・ではなくて、人名が由来なんですよね。英語の綴りを見ればすぐ分かる話なんですが、勘違いしやすいです。
その後1953年にI・I・ハンドバーグに購入されるまで幾人もの所有者の間を渡り歩き、ハンドバーグによりカナダの登録番号を得ました。これがカナダの登録番号を持った2機目のリライアントです。1963年にノースランド航空が購入してこの時に内外装を色々改造されたようです。
最後は1983年にアキーラ航空機修理社がこの機を復元して、博物館に売却したそうな。


樹体に加えて小道具が置かれていて、情景展示になっています。整備中のご様子。エンジンカウルは外された状態です。


機体に積み込む貨物もあります。


1930年代になると機体も金属化されているようです。後年の改造によるものかもしれませんけど・・・。


デ・ハビランド・カナダDHC-2ビーバー (De Havilland Canada DHC-2 Beaver) です。1947年初飛行。
ご存知、カナダの産んだ名作です。カナダで開発されたブッシュプレーンとしては初めての全金属製です。比較的重いペイロードでも発揮される短距離離着陸性能と陸上、水上、雪上で運用可能な汎用性の高さが魅力です。
1968年まで長期間製造され、製造数は1,600機以上と大ヒットでした。そのうち大半はアメリカ軍の発注でしたが。今も現役機が多数飛んでいますね。
この個体は1,600機いるビーバーの中で最初に製造された初号機です。カナダでこういう初号機が博物館で保存されている例は意外と無いんですよね。初めてかもしれないです。


機体は水上機形態で展示されています。フロートの後ろには水上タキシング中に方向を変えられるように舵が付いています。


フロートの脚と胴体はこんな感じで繋がっています。意外と細いなっていう。


尾輪の接続穴。


尾部。このくらいの小型機が好きですね。矩形断面の胴体は貨物を積むのに適していそうなのです。
ビーバーに乗ったことはないですが、撮影では何度も見かけている機体なので、ここで初号機に会うことができて嬉しかったです。

というところで今日はここまで。


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