黒鉄重工

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初めての岐阜基地航空祭へ その10【2016/10/30】

2018-02-07 21:12:50 | 旅行・イベント記

楽しかった岐阜基地航空祭もこれでお開きです。帰り際にもう一度機体を見ていきますか。順光になりましたし。
異機種がずらずら整列しているのはいいですねぇ。



XF-2A (63-8502)
ガンダムみたいな試作戦闘機。



F-2A (93-8553)
F-2は海外ではどの程度人気あるんでしょうかね?洋上迷彩なので珍しがられてはいそうですけども。



F-15J (02-8914)
やっぱでけぇなって。



F-4EJ (37-8318)
なんだかんだみんな好きよね。



T-7 (36-5909)
これのプラモデル、出ないだろうか。国内メーカーでは出ないだろうな・・・。海外だとAモデルかAZモデル辺りとかどうかな・・・?



基地から撤収します。
帰りも名鉄に乗りますので、最寄りの三柿野駅まで歩いていきます。人混みに沿って歩いていけば着くのだ。
途中で踏切を渡りますので、名鉄の電車が横切ります。



三柿野駅に着きました。
驚くほどスムーズな撤収で、鉄道の輸送力の高さに驚いています。やはり駅から直で基地入りできる航空祭は強い・・・。それでも入間は人多すぎだと思いますが。
犬山・名古屋方面行きの2200系と2000系が並んでいましたので撮影。三柿野駅、今時にしては構内踏切があります。
2000系ミュースカイも三柿野駅に停まるんだ、と思いましたが普段は朝に1本しか走らないそうなので、航空祭向けの臨時列車なんだろうなと(飛行場発飛行場行きの特急ですか)



私が乗るのはこっち。各務原線岐阜行きの3300系です。これで岐阜まで乗ります。こういう時でもないと各務原線完乗なんて出来ないぜ。
各務原線って高山本線と結構並走するんですね。しかも近い距離で。



岐阜駅。
各務原線と名鉄本線って別々の乗り場で、線路が繋がっていないんですね。ということは各務原線は元は別の鉄道を名鉄が吸収してできた路線なんでしょうか。
名鉄の駅とJRの駅はびみょーに離れているので歩かねばならない。
駅前ではワインの飲み屋の露店が出店していて、後ろ髪を引かれましたが先を急ぎます。



JR東海道線に乗って西の大垣駅へ。
待ち時間の間に駅前でバスでも撮っておきます。名阪近鉄バスの日野レインボーIIです。最近各地で導入が続いているフルカラーLED表示器を付けた車両でした。



乗るのはこちら。大垣から出ている養老鉄道という私鉄です。帰りの新幹線までに全線乗れて駅にも何駅か降りれそうだったので、なんとなく選びました。
車両も旧塗装の復刻塗装が何種類かあるのであわよくばそれも見ておきたいと思ったのです。まあこっちはダメだったんですが。



養老鉄道の大垣駅はJRと直結していますが、駅舎は独立した建物です。
典型的な始発駅という感じ。とりあえず乗り放題切符を買います。1500円しましたが、元は取れてませんでした・・・。



大垣駅は養老鉄道の途中駅なのですが、スイッチバック駅なのでホームは櫛形です。
車両は全てが600系という近鉄からの中古車です。見た目も中身も近鉄のものと同じ。
いきなりマルーン一色の近鉄時代の旧塗装を見られるなんてラッキーだと思いましたが今はこのマルーンが養老鉄道の標準塗装になっているんですね。

今日はここまで。


最終回へ→

北米project 4 ~Is the order a warbird? その32【2016/03/04~10】

2018-02-06 20:45:39 | 海外旅行記

前回のエンタープライズ格納庫を通り抜けると外に出ます。そこには大きい飛行機が置かれています。
おや、もしかしてB-17ですかい?



B-17でした。初めて見ました。専用の展示場所があるのか。やっぱり人気なんだなぁ。
ボーイングB-17Gフライングフォートレス(1935年・110機目)はアメリカ陸軍の戦略爆撃機です。日本では爆撃機としてはB-29に次いで知られているんじゃないでしょうか?まあ太平洋じゃ目立った活躍してませんけども。
エンジンは4発、しかも当時最先端だった排気タービンを各エンジンに搭載するというドえらい爆撃機です。初飛行は1935年なのでアメリカ参戦時には旧型機みたいなものでしたが、それでも陳腐化せずに最後までアメリカ陸軍の主力機として戦い抜いたんですから、ちょっとしたオーパーツのような爆撃機ですねコイツ。

あの無敵ドイツを火の海にした爆撃機・・・ということでアメリカでは人気の高い機体です。保存機は47機にもおよび、うち動態保存機は10機程度いると言われています。保存機の扱いもよく、POFのこの機体のように専用の展示場所が誂えられている場合もあります。
一方、日本人にとって憎い憎い憎い存在のB-29はあんまり人気がありません。保存数も扱いもB-17よりも一段落ちている・・・という印象です(原爆を投下したあの2機は別格として
ここらへん、地域差があるんだなぁと。



今日はP-47の飛行展示があったためでしょう、機内が公開されていました。
右舷の扉から機内に入って機首へと向かいます。中は結構狭くて、屈んで歩かないといけません。爆撃機は見た目はデカいですけど、胴体は意外と細いのですね・・・というのを実感します。

右舷に防御機銃が有りにけり。B-17の最終生産型で総生産数12,700機(日本軍のあらゆる機種の航空機の生産数よりも多いのだ・・・)の3分の2を占めるG型は、とにかく武装強化をした型式で、搭乗員は10名にのぼります。こんだけの搭乗員を撃墜されて喪失したらたまらんなぁ。



機銃はご存知傑作M2機関銃です。吹きさらしの中射撃すんのか。



B-17といえばこれ、ボールターレットですね。機体のお腹に搭載された旋回式の銃座です。
ボールターレットは数社が造っていましたがB-17のそれはスペリー社製でした。同社製の特徴は空気抵抗を抑えるためにめちゃくちゃ小型に造ったこと。ここに配置されるやつは搭乗員の中で一番背の低いやつだったそうな。身長低いとこういうところで損をするのだな。
基本は機外から乗り込むんですが、緊急脱出用に機内側にも扉があります。また、B-17の場合は離着陸時の事故でボールターレットがお釈迦になった時に一緒に潰されないよう、高度を上げてから機内の扉から入り込むようでした。


銃手はこういう体勢で任務につきます。尻を着いて頭は機銃と同じ高さにして、脚は上に上げて・・・。無茶言うなって。
下半分には人間とM2機関銃が収まり、上半分には弾薬があります。

B-17の任務はドイツへの長距離爆撃でしたから、5~10時間はこの姿勢のままです。キツイ。
ただし、意外と生存率は良かったりしたそうで。一番死ぬのはやはり尾部銃手です。それでもこんなところに長時間詰め込まれたらおかしくなりそう。



外から見たボールターレット。よくアメリカ人この中に入れたね。



航法士の席。無線機なんかが置かれていますね。
これより前の爆弾倉、操縦士や爆撃手の区画へは立ち入れなかったのでここまで。



爆弾倉は航法席と操縦席の間にあります。なんだか意外だな。でも、ちょうどこの位置から主翼が伸びているので、重心点に重量物である爆弾を置くのはまあ当然だなと。
胴体の下半分・・・つまり機内の床より下が爆弾倉かと思いきや、ほぼ断面全体に爆弾を置ける構造になっているのも初めて知りました。



機外から見るとこんな感じ。戦争でもすんのかって感じですね。

こんなところで今日はここまで。


その33へ→

ビクトリアの専用線跡の遺構を探る 前編【2016/02/01】

2018-02-04 23:53:14 | 日常記
今回は少し予備知識が要りますので、まずはその説明から。
以前の記事で、ビクトリア周辺を走っていた3つの鉄道路線について書きました。
ビクトリアからナナイモを経てコートニーまで走るエスクイモルト&ナナイモ鉄道(E&N鉄道)、ビクトリアからシドニーまで走るビクトリア&シドニー鉄道(V&S鉄道)、そしてビクトリアからスークを経てカウチンレイクまで走るカナディアンノーザンパシフィック鉄道(CNoP鉄道)です。

CNoPは以前の記事でスーク方面の探索をしましたがCNoPにはまだ続きがありまして、シドニー方面にも路線を持っていました。



サーニッチ半島を走っていた3社の鉄道路線の地図です。
ビクトリアからシドニーにかけて広がる半島はサーニッチ半島と呼ばれ、この地域はサーニッチ地区 Saanich となっています。
サーニッチ半島には実に3社もの鉄道路線がありました。供給過多だろ。

赤い線がカナディアンノーザンパシフィック鉄道(Canadian Northern Pacific Railway; CNoP) 、今回廃線跡を調査した区間です。
青い線がブリティッシュコロンビア電気鉄道(British Columbia Electric Railway; BCER)、バンクーバーを本拠地にするインターアーバンです。
ピンクの線がビクトリア&シドニー鉄道(Victoria & Sidney Railway; V&S)、3社で一番最初に開業しました。
経由地は各社異なるものの3社ともビクトリア~シドニー間の鉄道であり、激戦区と言えるでしょう。

3路線も建設されたのはなぜか?と言うと、シドニー側の線路の終端を見るとわかるかと思います。どこも海と接していますね。
線路の終点から鉄道連絡船を介して本土バンクーバーと連絡していたのです。これら3社の真の経路はバンクーバー~ビクトリア間なのです。それにしたって多いなと思いますけどこれもチーム事情というものがありましょう。


■Photo credit: BC Archives, Reference code: G-05059

最初に開通したのは1894年6月1日のV&Sでした。シドニーの中心部に乗り入れいていたのはここだけです。当初は唯一の交通機関だったのでよく利用されていました。ところがV&Sは1902年にグレートノーザン鉄道により買収。その年から収益は悪化し始めます。
1913年にはBCERが競合する形で同区間に路線を開業。V&Sよりも運行サービスが良かったようで、V&Sの客を奪います。
さらに、CNoPも1916年にビクトリア~パトリシア湾に線路を開業。3社競合時代が幕を開けました。

先述の通り小さな半島に3社もの路線が競合するのは供給過多であり、最初にくたばったのがV&Sでした。CNoP開業の翌年1917年に廃止を発表、1919年に廃線になりました。路線のシドニー側、CNoPと交わる部分から北側はCNoPに継承され、後年まで使われたとのこと。
廃線跡はエルク湖とビーバー湖の西岸の遊歩道などに再利用されていますが、部分的に断絶されていて、当時を追うのは少しむずかしい様子。



■Photo credit: BC Archives, Reference code: G-03772

次にお亡くなりになったのはBCERで、1924年11月1日に廃止。やはり乗客減が原因です。
唯一の電化路線で、ビクトリアでは市内電車と接続してダウンタウンとその周辺まで結んでいたんですけども・・・。ただし市電は後年まで運行が続きます。
廃線跡はビクトリア空港周辺で断絶されている以外は当時の線形のまま道路に転用されています。特にインターアーバン・ロード(Interurban Rd.)はBCERがインターアーバン鉄道だったことが由来と見られ、現在も道路名に面影を見ることが出来ます。

最後にやられたCNoPですが、1918年にカナディアンナショナル鉄道(CN)に買収されて同鉄道になります。そして1935年にビクトリア~パトリシア湾線は廃線になります。ただしビクトリア側の数kmは工場への専用線として1990年代まで残されました。今回探索するのはこの区間です。
廃線跡はほぼ全線が残っていて、ロックサイド・トレイル(Loch Side Trail)という遊歩道に転用されています。特に90年代まで残っていた区間は遺構がよく残っています。


そんなこんなでサーニッチ半島の鉄道は1930年代には全滅という比較的短い一生なのでした。現在のビクトリア~バンクーバーの公共交通機関はBCトランジット(路線バス)~BCフェリー(カーフェリー)~トランスリンク(路線バス)~スカイトレイン(地下鉄)となっています。


今回のきっかけは、クリスマス前のダウンタウンで行われていた鉄道模型の展示会でした。鉄道模型クラブがレイアウトを広げて運転しているところを見せてくれるのです。
その会場で流れていたビデオに90年代のCNの映像が映っていたのです。よく見てみると、CNのスイッチャーが貨車1台をとろとろ引っ張りながら工場線へ押し込む様子と共に、毎日通勤で使っているギャロッピンググース・トレイルの遊歩道と同じ背景が流れているではありませんか。
ギャロッピンググース・トレイルのスーク側の区間が鉄道廃線跡の転用だということは以前の記事で記した通りですが、ビクトリア側の区間はそれっぽい遺構や状況証拠が揃いつつも、まだいまいち確信を持てていませんでした。それがこのビデオひとつで一気に確信に変わったのです。
そして、これは一度この目でその時の光景を追いかけなくては・・・と思い立ち、今日実行に移したのです。


ビクトリア在住時には今回の区間以外にこの3路線を認識していなかったので、サーニッチ半島の鉄道調査は今回だけになっています。知っていたらチャリを飛ばして調査したんでしょうけど。ちょっと悔しいですね。

以上、予備知識でした。



今回探索する区間はこちら。
ダウンタウンのジョンソンストリート橋からロックサイド・トレイルを北上していって、ロイヤルオークのロックサイド小学校までを走ります。



起点のジョンソンストリート橋です。青い塗装からブルーブリッジと呼ばれることもあるそうな。1924年1月に供用開始した歴史のある橋なのです。
青い橋桁以上に目を引くのが手前側のコンクリートの塊です。橋に明るい人ならピンときたと思いますが、これは可動橋です。中でもバスキュール橋という跳開橋の一種です。
バスキュール(Bascule)はフランス語で天秤を意味する言葉。それが表す通り橋にはカウンターウェイトが備えられていて、橋全体で釣り合いが保たれています。日本では採用されなかったのか、適切な日本語訳が無いです。跳開橋というには厳密には違う気がします。

バスキュール橋にもいくつか方式があるんですが、これは固定トラニオン式です。コンクリートのカウンターウェイトが路面の上に設置されています。この橋を渡る度に、古い橋だしこの塊が落ちてきたら・・・と考えてしまいます。
カウンターウェイトとつながっている回転軸が動くと塊は橋に組み込まれるように下の方へ移動していきます。同時に橋が跳ね上がっていく・・・という感じです。


【Johnson Street blue bridge in Victoria BC】

動画を見たほうが早いな・・・ということで、可動しているところの動画をば。面白い動きをするでしょ?
橋が架かっているのは川ではなくて湾の海面です。動画で言うと右が河口、左が湾内です。動画ではタグボートが砂利を運搬するいかだを動かしていますが、他にも湾内には船渠やプレジャーボートの停泊地があります。なのでここを行き交う船は多く、中には橋よりも背の高い船も時折通りますので、可動する頻度は意外と高いです。運が良ければ割りと動く光景を見られると思いますよ。ただし、事前告知等は無いようです。それに、橋が跳ね上がる時間は5分か長くても10分かからないので、たまたま見かけた時はスピードが命です。



橋の手前側を見る。
ジョンソンストリート橋は現在は道路橋だけですが、数年前までは鉄道橋も平行して建っていました。3車線分の道路橋に対して単線分の鉄道橋だったので、道路橋を細くしたような見た目で、あとは青い橋桁とコンクリートのカウンターウェイトという道路橋と同じ様式でした。



■Photo credit: BC Archives, Reference code: I-04746

鉄道橋はエスクイモルト&ナナイモ鉄道(E&N鉄道)の線路で、橋のすぐ先にE&N鉄道の起点ビクトリア駅がありました。古風な駅舎に見えますが、意外とたった数十年前に建てられた駅だそうで。
奥にはジョンソンストリート橋の鉄道橋が見えます。線路の他に歩道もあったそうな(なので今残っている道路橋には片側にしか歩道が無い
ここからVIA鉄道の旅客列車マラハット号はコートニーまで2011年まで走っていました。しかし、鉄道橋とビクトリア駅は後述の理由により2012年に解体されています。



ジョンソンストリート橋からストア・ストリートを見る。
E&Nの線路は1980年代辺りまではビクトリア駅から先(正確には駅ホームとジョンソンストリート橋の間から分岐していた)のストア・ストリートにも少し延びていました。写真左から線路がやって来て、左カーブして道路の奥へ続いていきます。
ストア・ストリート上の区間は道路の路面上に線路があるいわゆる併用軌道でした。沿道の工場に貨車を運ぶための専用線として使われていました。
現在では線路は埋められています(掘れば出てきそうなものだが)。沿道の工場で専用線の面影を探してみましたが、目立った痕跡はありませんでした。



ジョンソンストリート橋を渡って、渡った先から橋を眺めます。
橋の左では道路工事をやっています。これは新ジョンソンストリート橋の建設です。もう90歳超えという現橋を置き換えるのです。ここに架かる橋はこれで4代目となります。
現橋の北側の隣に架けるのですが、すぐ隣に建設するので道路橋の横にあった鉄道橋とその先にあるビクトリア駅が建設上障害になったので、ここの鉄道設備は早々に撤去されてしまいました。これがビクトリア駅解体の理由です。
当時は2016年には供用開始するみたいな話だったんですが、延びに延びて開通を見られないまま帰国。ですが2018年3月についに供用開始する見込みです。現橋を見たい人は急げ!
4代目もバスキュール橋になっていますが、方式は今の3代目と異なっていて、どうもローリングリフト式っぽいですね。軌道の上を転がることによって橋を跳ね上げる方式です。カウンターウェイトも路面の上ではなくて脇に設置され、橋桁と一体化された設計になっていて未来的で美しいです。
3代目は恐らく解体されるでしょう。この橋は毎日渡っていたのでそれが消えるのはやっぱり寂しいですね。

で、CNoP/CNの線路はこの写真の左手あたりが起点なのですが、起点から逆方向(南向き)にも延びていて、ちょうどこの辺りでE&N鉄道の線路と接続していました。
今回の調査区間はCNが末期に工場への専用線として使っていた区間です。この時期にCNはこの専用線以外に路線を持っていなかったので、どこから貨車を持ってきていたのか?という話になるわけです。
そこで出てくるのがE&Nとの接続線です。貨車はE&Nの線路を経由して走ってきた、と見るのが妥当でしょう。
さらに、E&Nはビクトリアから北に100km離れたナナイモという町で鉄道連絡船を介して本土と繋がっていましたので、本土からやって来たということもありえますね。



地図上だとここからの眺めです。



ちょっと廃線跡から道を外れて扇形車庫を見ていきましょう。ここはE&N鉄道のビクトリア扇形車庫です。
今日は敷地の外からの眺めなんで車庫までは行かなかったんですが(車庫の写真等はこちらから)、扇形車庫は1913年に竣工した大変古い建物です。その上、今までの間ほとんどの期間を通じて使用されていながら、竣工時の原型をよく留めていると言われています。なので、カナダの国定史跡に認定されています。そのせいか、今に至るまで他の建物や転車台、留置線ともども解体されずに残っています。



地図上だとここらへんからの眺め。



脱線から戻ってきて、CNoPの廃線跡探索を再開します。
エスクモルト・ロード Esquimalt Rd. からハーバー・ロード Harbour Rd. へ右折します。
右折した辺りがCNoPの起点になっているんですが、前述の通りE&Nと線路が繋がっていたので、明確に分かる起点というのは無かったのではないかと。0マイルポストでもあれば別なんですけど、あるんですかねそういうの?
で、この道路沿いに線路があったはずなんですが、この辺りは再開発されているんで面影は無いと見て良いかと思います。



話は逸れますが、この道路沿いに小さな船渠があります。漁船やカナダ海軍のフリゲートなんかが入渠するので、立ち寄ってみるのも一興です。
巨大な転車台もありまっせ。



ここから北西方面を眺めた感じです。



ここから廃線跡転用の遊歩道「ロックサイド・リージョナル・トレイル Lochside Regional Trailに入ります。正確にはここから4km先の分岐点まではギャロッピンググース・トレイルだそうだけど。トーテムポールが目印。Lochsideというのは湖畔という意味です。自動車は進入禁止なので、歩くか自転車で通行しましょう。バイクもダメだぞ。
この遊歩道はビクトリアからフェリーターミナルのあるスワーツベイまでの29kmの道のりがあります。先に書いた通り、CNoPの廃線跡を転用しています。おおよそ当時の線形に沿っていますが、シドニー手前(先述のCNoPとV&Sの接続点)でV&Sの廃線跡に転線、シドニーの町まで向かいます。シドニーから先は鉄道由来の経路ではなく州道17号線と並走した経路になって終点まで延びます。詳しい経路はこのリンクから
大規模な整地が必要ない遊歩道ですので、線路の遺構はある程度残っています。線形等はよく留めていますね。ただしここから後述のセルカーク橋までは再開発で線形は失われていると見ていいでしょう。



この自転車屋あたり。



遊歩道に入ってすぐに、橋が見えてきます。ポイント・エリス橋です。
1896年5月26日、ここを走っていた路面電車が定員超過による重量超過が原因で橋から墜落し、55名が亡くなった事件があったそうな。今は普通の道路橋です。通勤時間帯は混みます。



遊歩道の入り口からポイント・エリス橋の間には晩年の専用線時代に運用されていたCNの機関車用の車庫があったのですが、跡形もなくなっています。車庫と言っても簡易なものでして、建屋は無く、機関車を金網の柵で囲っただけの露天留置でした。様子から見て機関車も1~2機だけだったようです。
このまま進むと橋の袂と橋脚の間を潜るのですが、ここは鉄道があった時代も同じ位置を潜っていました。



この辺りも留置線があったはずですが、宅地化されまくってます。南無。



第1のヤマ場、セルカーク橋 Selkirk Trestlleが現れました。木造トレッスル橋でして、初めは橋を架けるなんて遊歩道にしちゃ金掛けてるな・・・なんて思っていましたが、実は鉄道時代から使われていたものをほぼそのまま転用した重要な遺構です。
詳しくはここで記していますが、この橋は鉄道時代より可動橋でもあります。写真、橋の奥が上り坂になって盛り上がっているのがわかると思います。あの部分が跳ね上がって海上交通に支障をきたさないようになっています。ただし、先のジョンソンストリート橋よりはその稼働頻度は格段に落ちます。私は1年間ほどこの橋を行き来していましたが、1度しかその機会に立ち会えませんでした。



場所はここです。




橋の盛り上がった部分から対岸を眺める。盛り上がりの部分は遊歩道転用後に改造されたもので、鉄道時代は水平な橋でした。
橋は中間から少し右カーブしています。



橋脚。年季が入っていて、大部分の橋脚は鉄道時代から使われ続けているものでしょう。



橋を渡るとゴージ・ロード・イースト Gorge Rd. East と交差し、その下をくぐります。この立体交差もただの遊歩道にしては凝った造りになっている・・・と疑問に思っていたわけですが、鉄道の遺構となると納得できます。橋の高さはちょうど鉄道車両の寸法に合わせているんですね。
遊歩道の右側には小川が流れています。

はい、今日はここまで。


中編へ→

【1/700】アメリカ海軍戦艦USSアイオワ【ギャラリー】

2018-02-03 23:59:52 | 模型ギャラリー

■キット:タミヤ WLアメリカ海軍戦艦アイオワ
■仕様:1944年時
製作記



2016年3月に実物のアイオワを見たのがきっかけで作りました。
3色の迷彩塗装がされた1944年時の形態(キットそのまま)で作りましたが、気が遠くなるようなマスキング作業に嫌気が差してしまい、途中制作を中断、完成までに10ヶ月くらいかかりました。
アイオワは戦艦の堂々とした威容と細長い船体の美しさを両立した姿が魅力であります。射撃管制レーダーを用いた近代的な射撃能力にも惹かれます。



迷彩塗装ってどの程度効果があったんでしょうね。






艦首。空いている空間には機銃を載せるのだ、という意気込みが伝わるような機銃の多さは戦艦らしくて良いですね。作ってみるとたまったもんじゃないですが。



測距儀による目測ではなくレーダーで射撃管制を行うのがアイオワの特徴でした(完成度は高くなかったらしいですが
なので一番高い構造物はレーダー塔で、艦橋はえらく低いのです・・・というのが分かります。
主砲はもちろん副砲も満載していて、戦艦というのはなんて暴力的な兵器なんだと。



艦尾にはキングフィッシャー水上偵察機が2機居ます。飛行機は塗装が面倒っちいんですが、ちゃんと作ってやると艦を引き立ててくれますね。



以上、戦艦USSアイオワでした。

【1/700】戦艦USSアイオワ 製作【タミヤ】

2018-02-02 21:50:06 | 艦船模型製作記
2016年3月にロサンゼルスを訪れた際に記念艦として保存されているアメリカ海軍の戦艦USSアイオワを見に行ったことはだいぶ前に書きました。
実物を見るとプラモデルを作りたくなる性なので、アイオワにもそういう感情を抱いてしまうのは自然なことなのです。
そういうわけなので、タミヤのウォーターラインのキットを買ってきました。
ロサンゼルスで見たアイオワは近代化改装後の晩年の姿でしたが、キットは1944年時の姿を立体化しています。近代化改装後のアイオワ級はUSSニュージャージーで再現されているそうなので、そっちもいずれ作りたいですね。


内容はこんな感じ。船体と底、あとは細々した部品のランナーから構成されています。2005年発売のキットなので、出来は問題ないです。
実は戦艦を作るのは今回が初めてでした。でもまあ、巡洋艦を大きくしたような感じなので、やることはあまり変わりません。迷彩塗装以外は・・・。


大まかな形に組み上げていきます。
構造物や主砲など大きい部品は予め組み立てていき、機銃やボートなど細かい部品は塗装しやすいようにランナーから切り離さないでおきます。
大きいというより細長いな、といったところ。幅に制限のあるパナマ運河を渡れるように導かれた制約なわけですが、この細長い形状がアイオワの好きなところなわけです。


さて、アメリカ海軍の艦は迷彩塗装がされていることが多いです。アイオワもそうです。垂直面は灰色と青、水平面は全て紺色で塗装されています。
今回の場合、水平面の塗装がやっかい極まりなかったです。あらゆる水平面という水平面は全て紺色で塗るわけですから、主甲板はもちろん、上部甲板、主砲、副砲に至るまで全ての水平面を紺色に塗らねばなりません。真上から見たらほぼ紺色の塊に見えるわけです。これくっそめんどいぞ・・・。


まず水平面を紺色で塗ります。そしたら水平面を全てマスキングして、その後垂直面を塗るという算段です。
ですが甲板を全部覆ってしまえば良いというものではなく、甲板上の突起物なんかは垂直面の塗装で塗るので、その部分のマスキングは避けなければなりません。
これがまた細かい箇所ばかりなので、マスキングテープの細切りを何百枚と刻みまくり、貼っていかなければなりません。先の見えない作業についに飽きと嫌気が来日してしまい、投げ出して別のキットを組み立て始めました。
アイオワのマスキング地獄よりは楽なのでそっちの方に集中してしまい、アイオワは次第に忘れられてしまいます。最初のうちは作業の合間の気分転換に一時再開していましたが、その頻度も次第に落ちていってやらない期間のほうが長くなりました。
これを作り始めたのは実は2017年2月でマスキング始めは2月末なんですが、マスキングを終えたのは10月末でした。8ヶ月くらい掛かったんですね・・・。


だらだらと8ヶ月掛けてやっつけた水平面のマスキングをしたら、垂直面を塗ります。まずは灰色から。


その後マスキングします。水平面に比べたら楽なものですぞ。
マスキングの境目は当たりを付けてやらにゃならんのですが、自分はエイヤッと目測で貼り付けました。上記の塗装図を型紙にすればより精度の高い物ができます。


塗装を終えてマスキングを剥がします。
貼り付けてから時間が経ってテープが剥がれていた主甲板を中心に塗装漏れががが・・・。ここはリタッチして修復しますが、エアブラシと筆塗りで塗膜の艶が異なってしまったので(筆塗りのほうが艶が強い)、つや消しクリアを上から吹いて艶を統一しました。


あとは構造物を乗せていけば完成です。長かったぜ・・・。
塗料はMr.カラーの「WWIIアメリカ海軍艦船迷彩色セット2」をそのまま使いました。タミヤの指定色とは異なるのですが、アイオワの色味は諸説あるような感じなので、これでも間違いではなかろうという考え。

初めての戦艦でしたが、最初に書いた通りやることは駆逐艦や巡洋艦の拡大版で、キットの出来も良いのでストレスをあまり感じず組み立てられました。
ただし迷彩塗装は地獄でした。当分やりたくないです。この点我らが大日本帝国海軍の軍艦は基本的に灰色一色なので大変塗りやすいです。帝国海軍の数少ない良い点です。

<使用塗料>
■船体(白):Mr.カラー SC16ライトグレー
■船体(紺):Mr.カラー SC14ネイビーブルー
■甲板:Mr.カラー SC15フライトデッキステイン(以上、WWIIアメリカ海軍艦船迷彩色セット2)
■喫水線・煙突:アクリジョン N2黒
■機銃:アクリジョン N18黒鉄色
■ゴムボート:水性ホビーカラー H51ガルグレー
■主砲キャンバス:水性ホビーカラー H55ミッドナイトブルー 


以上です。完成品はギャラリーにて。