もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

179冊目 小栗左多里「英語ができない私をせめないで!」(大和書房;2004)評価4

2012年03月16日 05時15分35秒 | 一日一冊読書開始
3月15日(木):

今年の3月は、仕事と雑用と心配事に追われて、読書習慣が風前の灯状態です。

213ページ  所要時間3:00

著者38歳(1966生まれ)、「ダーリンは外国人」の売れっ子漫画家。夫は、アメリカ人ジャーナリストで、語学オタクでもあるトニー・ラズロ。

英語勉強法の本は、たいてい成功者である“雲の上の上級者”が「こうやればいいんだよ。もちろん学問に王道なしだけどね」って感じで、書かれている。嫌みなだけの奴もいるけど、「ははー、やっぱりそうですよね。そうなると視野も世界観も広がるし、素敵ですよねー、理想的ですよねー、…」と説得力のある本もたくさんある。

多くの場合、彼らの読者に対する姿勢は、父性的で、上から「頑張れ、頑張れ!」と引き上げようとする「“慈”の愛」である。しかし、本書のスタンスは、全く逆である。著者自身が、「私もダメなのよ」と認め、日本中にあふれている市井の英語上達渇仰者たちの代表である。迷える初級者・中級者と思いをともにして、「どうしたら英語が上達するのかしら?」とまさに体当たりで暗中模索、さまざまな方法を試みてくれるのである。その有難いお姿は、母性的で、多くの市井の悩める英語庶民の目線に立ち、「一緒に頑張りましょうよ。何か良い方法が見つかったらお互いラッキーよね」と心を寄せてくれる「“悲”の愛」である

そう、本書は、「“悲”の愛」のスタンスをもつ希有な英語上達法の書物なのである。それだけに同様の試行錯誤の経験をもつ俺としては深く共感してしまった。

さまざまな英会話スクールの実態取材、英語読書、ネット利用の勉強、英会話喫茶に潜入、月2万円で通い放題英会話スクール、ネット利用の先生探し、ラジオ英会話などその他有象無象さまざまな方法を試してみて、その中から役に立つ多くの情報を発掘した成果が盛り込まれている。

目次:
STEP1 まったく英語が話せない!
STEP2 トニーに相談してみた!
STEP3 英会話スクール初体験!
STEP4 英語の本を読んでみた!
STEP5 ネットで勉強してみた!
STEP6 英会話スクールに通ってみた!
STEP7 ネットで先生を探してみた!
STEP8 ラジオ英会話を聴いてみた!


その挙句に、「私の結論は、地味。/やっぱりこれしかないです。」「私の場合、明らかなゴールはないし、「不合格」もない。「意思の疎通」が目標だから、やり続ければやらないより必ず理解度は深まる、はず。やるか、やめるか。自分との戦いだ。うっ。戦いが始まったあたり、私はやっぱり「英語が好き」じゃないんだなーと再認識してしまいました。やばい。/いや、でも人と話すのはとても好きだし、広い世界を知りたいと思っているので、それを心の支えにして、がんばります。/のんびりだけど、あきらめない。/あきらめないかぎり、昨日より上達する。/そう信じて、今日もラジオのスイッチを入れます!」と結ばれる。

これが、我われ市井の英語上達渇仰者にとって、真実の声以外の何ものであろう! これこそが、真実の福音であると俺は考える!

ちょっと調子に乗って「よいしょ」し過ぎだけど、楽しい本だったし、それでいて、意外と本書には、生きた、実用的な方法が紹介されているのだ。評価4もその点を考慮したものである。

例えば:・鈴木陽一「DUO」(ICP)
 ・ネットサイト:週刊ST、アルク、All about Japan、perapera、理解.com、sennseisagasu.com(先生探す.com)

※俺は、著者の姿勢に好意をもっている。読んでいて楽しい内容だが、意外と中身は濃厚で実のある本である。読書習慣に挫けそうな俺にとっては、有難い本だった。

現在、am5:20で、明日は、am8:00起きである。ちょっと厳し過ぎるので、もう寝ます。
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120314 明日は確定申告最終日、焦ってます。& ◎アーカイブ

2012年03月15日 01時47分48秒 | 日記
3月14日(水): 明日が確定申告の最終日というのを忘れていて、今パニックです。

確定申告したからといって、数千円程度の還付金かもしれないけれど、ブック・オフだったら数十冊の古本が買える!血税から返してもらえるなら、「わずかでも返して欲しい!」というのが、貧乏な小生の本音なのです。

本日も、読書お休みです。本当に申し訳ございません。m(_ _)m

◎アーカイブ:

高野孟「最新・世界地図の読み方」(講談社現代新書;1999)評価5 290ページ 所要時間2:40 2005年9月18日
テキスト。6年前の本だが、瑞々しさを保っている。慧眼!現代の国際状況理解にも十分役に立つ。

江村洋「ハプスブルク家」(講談社現代新書;1990)評価4 247ページ 所要時間1:30 2005年9月26日
・眺め読みだったが、結構良かった。マクシミリアン1世、カール5世、マリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフ帝

祝田秀全「忘れてしまった高校の世界史を復習する本」(中経出版;2003)評価4 431ページ 所要時間2:25 2005年12月28日
・予備校の先生の本。眺め読みだが、アクセントがあって、読みやすかった。細かい事項と文化史は物足りないが要所は押さえていた。読み通せたことが何より嬉しかった。忘れていたり、案外知らなかった内容の発見もあって、世界史の奥深さと面白さを再確認できた。

青木祐司「(旧版)世界史講義の実況中継(上)」(語学春秋社;1990)評価5 285ページ 所要時間4:35 2005年11月18日
テキスト。オリエントが無い。ギリシア・ローマ、中国史、イスラム。読んでいて世界史の楽しさを思い出し、発見があった。

青木祐司「(旧版)世界史講義の実況中継(中)」(語学春秋社;1990)評価5 288ページ 所要時間4:30 2005年12月23日
テキスト。ヨーロッパ中世・ルネサンス・大航海時代・宗教改革・絶対主義諸国の盛衰・フランス革命・産業革命。

青木祐司「(旧版)世界史講義の実況中継(下)」(語学春秋社;1990)評価5 350ページ 所要時間8:15 2005年12月25日
テキスト。ウィーン体制・ドイツ帝国・「東方問題」・第一次世界大戦・ロシア革命・戦間期国際政治史・第二次世界大戦・中国革命史・米ソ冷戦の展開。近現代史の面白さを細かい所まで堪能できたが、こんな複雑な講義はとてもできない。ヒトラーのナチス台頭を許したのも、誕生間もない中国共産党に破滅的対決をさせたのもスターリンのコミンテルンだ。  ※俺は、スターリンが、どうしょうもなく嫌いだ! バルカン戦争の記述は新鮮で面白かった。不謹慎だが、ブルガリアが滑稽。著者の毛沢東・長征礼讃には辟易するが、これは世代的に仕方がない。本当のことが隠されていたのだから。

青木祐司「(旧版)世界史講義の実況中継(文化史)」(語学春秋社;1991)評価5 301ページ 所要時間7:00 2006年2月7日
・コメントなし。面白かったことは間違いない!
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120313 その2:大阪府立高校「校長による卒業式での君が代、教師口パク調査」に対する所感

2012年03月14日 03時13分32秒 | 日記
3月13日(火):その2

ここ数日の、ニュースを見ていて、20年ほど前、卒業式での君が代が問題になった時、過去の日本の植民地支配の歴史によって今だ厳しい差別を受けている「在日朝鮮人の教え子たちに、君が代斉唱時に金魚のように口をパクパクさせて歌う真似をさせて良いのか? 生徒の人間としての尊厳を踏みにじる断じて許されない暴挙だ!」と思いながら、何もできなかった大勢の教師たちがいた。でも、彼らは「とりあえず、自分は在日朝鮮人ではなかったから…」。そして、その問題意識すら持つ教師が少なくなった今になって、その教師たちが、君が代で金魚のように口をパクパクしている姿すら許されず、声を出して歌っているかどうかの監視と処分の対象にされている。笑うべき歴史の皮肉である。でも、必然の歴史だ!

大阪府立高校の校長(意外なほどの若造だ!弁護士らしい…)が行った恥知らずな「君が代に対する教職員の口パク調査・報告」は、論評にも値しない。この男は、校長たる自らに向けられている教え子や保護者の眼差しよりも、権力者からの評価をこそ優先させた時点で、既に教育者ではない。いつの世にも、権力に阿り恬として恥じない人でなしの輩はいる。

その行為を絶賛する橋下大阪市長と某(名前覚える気がしない)大阪府知事のニュースを見ながら、ドイツの牧師マルティン・ニーメラーの詩を思い出した。「大阪維新の会」とファシズムの近似性は、今回の件に極まった感がある。大阪の方々、日本の方々、まだこんな胡散臭い連中の本質に気がつかないのですか…? まだ「彼らが、世の中を良い方向に変えてくれる」と信じているのですか…?。俺は、もう絶対に無理です。彼らはただ権力のにおいに群がる烏合の衆で、ハエのような連中としか思えない。ハエに日本の未来は託せない。俺は、間違ってますか…?

◎『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』(マルティン・ニーメラー)

「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。/ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。/ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。/ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。」


【1976年版】
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
私は共産主義者ではなかったから。

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。

////////////////////////////////////////////////////
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。
////////////////////////////////////////////////////

そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。

秋原葉月さんのブログで以下のような橋下批判を発見した。世の中、捨てたものじゃないですね。
【ニーメラーの警句、日本バージョン 】(2010/04/18)
「彼(橋下大阪府知事)が保育園の芋畑を無惨に掘り起こし、母子家庭の女子高生を泣かせたとき、彼を拍手喝采した人々がいたが、なにもしなかった/ついで彼は公務員を攻撃し、君が代を強制した。私は前よりも不安だったが、公務員ではなかったから何もしなかった。/ついで地方主権の名のもとに道州制が導入され、地方は財界と新自由主義の食い物になり、貧困層が増大してどうしようもなくなった。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。/ふくれあがった彼らははついに憲法を攻撃した。私はついに動いた―しかし、それは遅すぎた。」

秋原葉月さんのブログは、本日の一番の良き発見・収穫でした!。私は、トラックバック他、簡単な技も使いこなせませんので、言葉で推薦します。「是非、秋原葉月さんの良質なブログ「Afternoon Cafe」を訪れてみて下さい。」私も、今後折に触れて、勉強させてもらいにいくつもりです。


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120313 その1:イザヤ書五三章 イエスは旧約聖書で預言(予言?)されていた!

2012年03月14日 03時04分47秒 | 日記
3月13日(火):その1

祝? 40000PV突破 ;昨年10月9日から156日:トータル 閲覧40160PV 訪問者14931IP      
日々の書きなぐりのノート・駄文をご覧頂き、誠に感謝致しております。特に、最近はパワーダウンで申し訳ありません。m(_ _)m

本日も、心のエネルギーが全く足りません。

三浦綾子「旧約聖書入門―光と愛を求めて」から『イザヤ書五三章』を掲載します。

「恐らくすべての人が心打たれるであろうところの、あのイザヤ書五三章である。

<誰がわれわれの聞いた事を信じ得たか。/主の腕は誰にあらわれたか。/彼は主の前の若木のように、/かわいた土から出る根のように育った。/彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、/彼は侮られて人に捨てられ、/悲しみの人で、病を知っていた。/また顔をおおって忌みきらわれる者のように、/彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。/まことに彼はわれわれの病を負い、/われわれの悲しみをになった。/しかるに、われわれは思った。/彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。/しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、/われわれの不義のために砕かれたのだ。/彼はみずから懲らしめをうけて、/われわれに平安を与え、/その打たれた傷によって、/われわれはいやされたのだ。/われわれはみな羊のように迷って、/おのおの自分の道に向かって行った。/主はわれわれすべての者の不義を、/彼の上におかれた、/彼は虐げられ、苦しめられたけれども、/口を開かなかった。/ほふり場にひかれていく小羊のように、/また毛を切る者の前に黙っている羊のように、/口を開かなかった。/彼は暴虐なさばきによって取り去られた。/その代の人のうち、誰が思ったであろうか、/彼はわが民のためにうたれて、/生けるものの地から断たれたのだと。/彼は暴虐を行わず、/その口には偽りがなかったけれども、/その墓は悪しき者と共に設けられ、/その塚は悪をなす者と共にあった。/しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、/主は彼を悩まされた。/彼が自分を、とがの供え物となすとき、/その子孫を見ることができ、/その命をながくすることができる。/かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。/彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。/義なるわがしもべはその知識によって、/多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。(中略)/彼は多くの人の罪を負い、/とがある者のためにとりなしをした

わたしはこのイザヤ書五三章を読んで、幾度胸を熱くし、涙を流したことだろう。ここには、わたしたちのイエス・キリストの像がくっきりと描き出されている。それは何と不当に苦しめられ、報われなかった生涯であったことか。何と不遇な、孤独な一生であったことか。ここには、ただ黙々と人の罪を負いつづけ、そのゆえに十字架に最期をとげたイエスのみ姿がある。
<彼はわれわれの病を負い/われわれの悲しみをになった>/<主はわれわれのすべての者の不義を、/彼の上におかれた>/<彼は多くの人の罪を負い、/とがある者のためにとりなしをした>  
ここを読んで、キリストの愛の一生を思わぬ人がいるであろうか。このキリストの姿が、福音書に具体的にあらわれていることに、思い至らぬ者があろうか。
 聖書は、つまるところ、新約、旧約共に、このイエスこそ、キリストであり、救い主であることを、指し示す本なのである。わたしたちが、もし新約聖書の中に疑問があれば、旧約聖書を開いて読むことが、もっとしばしばあっていいと思う。」

※三浦綾子さんは、一時期私の心の支えとなった作家さんです。蛇足だが、曾野綾子と三浦朱門は大嫌いで軽蔑している。
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120312 白骨の御文章(御文)

2012年03月13日 01時23分59秒 | 日記
3月12日(月):

 本日は、多事多難、疲労困憊のため一日一冊は、お休みです。代わりに、ウィキペディアで調べた蓮如上人の「白骨の御文章(御文)」を掲載します。

◎原文 [編集]
夫 人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀スルニ オホヨソハカナキモノハ コノ世ノ始中終 マホロシノコトクナル一期ナリ
サレハ イマタ万歳ノ人身ヲウケタリトイフ事ヲキカス 一生スキヤスシ イマニイタリテ タレカ百年ノ形躰ヲタモツヘキヤ 我ヤサキ 人ヤサキ ケフトモシラス アストモシラス ヲクレサキタツ人ハ モトノシツク スヱノ露ヨリモシケシトイヘリ
サレハ 朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ ステニ无常ノ風キタリヌレハ スナハチフタツノマナコ タチマチニトチ ヒトツノイキ ナカクタエヌレハ 紅顔ムナシク變シテ 桃李ノヨソホヒヲウシナヒヌルトキハ 六親眷屬アツマリテナケキカナシメトモ 更ニソノ甲斐アルヘカラス
サテシモアルヘキ事ナラネハトテ 野外ニヲクリテ夜半ノケフリトナシハテヌレハ タヽ白骨ノミソノコレリ アハレトイフモ中々ヲロカナリ サレハ 人間ノハカナキ事ハ 老少不定ノサカヒナレハ タレノ人モハヤク後生ノ一大事ヲ心ニカケテ 阿彌陀佛ヲフカクタノミマイラセテ 念佛マウスヘキモノナリ アナカシコ アナカシコ


* 補注(原文にはない濁点を補い、旧仮名遣いも現代仮名遣いに、カタカナもひらがなに改め、漢字を補足する。)
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら觀ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露(つゆ)より繁しと言えり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。


*意訳 [編集]
さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。
そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏に頼み申上げて、念仏申すべきであります。

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178冊目 三田誠広「夫婦って何?「おふたり様」の老後」(講談社+α新書;2007)評価3

2012年03月12日 03時48分25秒 | 一日一冊読書開始
3月11日(日):

183ページ  所要時間1:55

著者59歳(1948生まれ)。「団塊の世代」。子育てを完了し、世間では定年退職の年齢である。

定年退職、年金生活で毎日が日曜日の老後に、突然妻から離婚を突きつけられる不幸に襲われる。そんなことにならないように、夫たる者が、妻に愛想を尽かされないための、定年退職後の夫の持つべき心得・夫婦生活のマナーを説く。

内容的には、目新しい情報・データは何一つなく、新聞・テレビのニュースを毎日見聞きする程度で、それ以外は家の中で著述作業か、近所を散歩する程度の日常生活から頭に浮かんだアイデアをあれこれと書きならべただけである。「もっとまじめに書け!」と一喝したくなるのだが、肩の力を抜いて等身大の語り口で、飄々とした味わいのある文章に「まあええわ」と読み進むことになった。

まず、著者が、2人の息子をともに育てた妻のことを掛け替えの無い存在だとして深く認識して愛していることが分かる。そして、その妻から愛想を尽かされないために、どうしたらいいのかを徹底的に<妻の側からの目線>に立って、夫がどう映っているのか、それをどう改善すべきなのかが説かれていく。結局、それはある意味、当たり前のことを当たり前に実践するということ。

会社で働き、稼いでいた時のような気分で、妻に命令指図しない。家の中でゴロゴロして妻の場所を奪わない。できれば家の外に新しい生きがいや、交友関係を広げて、家を留守にする。その時には、現役時代の「部長」「課長」といった肩書に頼らない。素の人間としての「何ができるか」などをよく考える。「妻との関係の対等さ」を再確認し、その関係の維持・発展のために言葉で努力する。理屈でやり込めるのではなく、言葉にならない妻の顔色をうかがう。

いろいろなアイデアが述べられていたが、根っこは、人生の大切な時間を長く共有してきた妻との関係の大切さを説き、定年により夫が常時家に居るようになることは、妻のストレス(「主人在宅ストレス症候群」)を極端に高めてしまうので、夫婦関係の危機を生み出すことがある。夫たる者、その危機を回避するために本気で考え、自らの身を処すべきである。そんなに、難しいことをやる必要はないが、常に意識して怠らないことが、夫婦の新しい豊かな老後の出発となるであろう、と勧めているのである。

この本の内容は、定年まで勤め上げ、退職金を得て、子育てを終え、年金生活でもてあました時間をどうするか、などを前提にしている。現在の終身雇用制の崩壊、人間を「モノ」と見る派遣・契約によるワーキングプア問題。14年連続自殺者3万人。離婚の多発と、それにともなう母子家庭・父子家庭の貧困・家庭崩壊、子どもの貧困の深刻化などの現実から見れば、あまりにも脳天気過ぎる。全共闘の「団塊の世代」もこの程度の社会問題意識なのかと、少し鼻白む感じは否めないが、「男女平等意識」「高齢者の政治勢力化の勧め」など期せずして新しい社会観が示されていたり、「団塊の世代」の「胡散臭さ」「先進性」の両方を自然に備えている。「古いと言って、捨て切れないところがあるのが、「団塊の世代」の強かさかな」というのが実感だ。また、人間の人生は、著者の対象としている中間層の問題も、やはり間違いなく存在しているのも事実なのだ。


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177冊目 司馬遼太郎「項羽と劉邦(上)」(新潮文庫;1980) 評価5

2012年03月11日 07時09分09秒 | 一日一冊読書開始
3月10日(土):

◎ドナルド・キーン博士の日本国籍取得、万歳!、感謝感激である。3月10日朝日新聞朝刊「天声人語」の「震災後、外国人の日本脱出が続いた。その人波をかき分けるように、来るべき人が、来るべき時に来てくれたと思う。」という一節に、思わず涙が出そうになってしまった。心の中で、合掌して感謝をしてしまった。110冊目 ドナルド・キーン「日本の面影」(NHK人間大学4月-6月;1992)評価5 をまた読んでみて下さい。

◎閑話休題 408ページ  所要時間10:10

完全な失敗読書だ。予定時間を大幅にオーバーし過ぎてしまった。何も書く時間がない。

全盛期の司馬遼太郎の作品は、やっぱり圧倒的だ!。内容、充実し過ぎて、ウィキペディアの記述の相当部分が、この作品の影響下にあるようだ。司馬さんが生前「俺の書いた小説の内容が、歴史的事実と勘違いされて世間で受け止められてしまって困る」みたいなことを言っているが、読んでると、2000年前の中国大陸の大勢の多種多様な立場の人物たちが目の前で生き生きと息づいていて、内容の面白さに圧倒されるばかりで批判する余力なんてほとんど持てない。恐らく、この作品を批判できるのは、中国古代史の学者・専門家だけだろう。

秦の始皇帝、宦官趙高、二世皇帝胡亥、陳勝・呉広、項梁、項羽、范増、沛公劉邦、蕭何と曹参と樊噲、宋義、懐王、秦軍の名将章邯、etc.

俺は、司馬さんのファンで幸せです。老い先短い?人生、死ぬまで司馬文学に付いていきます。司馬さんに騙されて悔いなし! 「文句あっか!佐高信!」というのは、冗談で、俺は、佐高信さんのファンでもあります。俺が一番嫌悪して、唾棄すべき連中は、司馬さんの作品にたかって利用する藤岡某、谷沢某の自由主義史観(マスターベーション史観)のウンコバエ野郎たちです。他人のふんどしでエラそうに偏狭なエスノセントリズムを吐くな!恥を知れ!と言いたい。

どうも、タイムリミット・オーバーとサントリー角瓶の摂取で、下品だけど正直な本音がもろに出てしまった。御気分を悪くされた皆さまには、深甚なお詫びを申し上げます。

寝ます。
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176冊目 眞淳平「世界の国1位と最下位―国際情勢の基礎を知ろう」(岩波ジュニア新書;2010) 評価3

2012年03月10日 07時10分54秒 | 一日一冊読書開始
3月9日(金):

248ページ  所要時間3:55

著者48歳(1962生まれ)。所謂その手(統計比較)の無難な本、というのが印象だ。統計資料に対する掘り下げが表面的で浅過ぎる。思い切った提言も無い。例えば、今後の日本にとって、人口問題が重要だと強く指摘しておきながら、子どもを増やすことが大事だ程度で終わってしまう。もう一歩、外国人労働者や移民受け入れ政策の是非、日本社会の異文化への閉鎖的悪癖の現状などへの指摘は一切無いのだ。

最後の若者たちへのメッセージでは、「ハーバード大学への日本人留学生が一人しかいない」と嘆いてみせて、若者たちにもっと外国に目を向けましょう、と呼びかける。しかし、結局、「国際化」を表面的にしか捉え切れていないのだ。日本社会の<内なる国際化>の視点には踏み込めない。読んでいて、万事そんな感じでもどかしかった。

「謙虚な振りして、著者は、ことの本質を実際にわかっていないんじゃないのかな?」「少なくとも著者は自らが汗をかいて真実に迫るタイプではない」と思わされて不満だった。昨日読んだ本が、熱い内容の本だっただけに、そういう不満を強く感じたのかもしれない。まあ、まさに中学・高校生レベルの本だということか…。評価3は厳しいかもしれないが、俺にとっては、既知のことが多く、むしろ著者の踏み込みの甘さが目について、あまり新鮮な情報ではなかった。志操の高さをあまり感じられなかったのだ。

目次:
第Ⅰ部 地勢・人口

 第1章 面積:国土面積と国力/ロシアという巨大国家/拡大したロシア/ロマノフ王朝下での領土獲得/アメリカの国土/アメリカの領土拡大/戦争がアメリカを発展させた/「メイン号を忘れるな」/中国の国土/歴代王朝の領土/元以降の中国/世界最小の国バチカン/バチカンの歴史/そのほかの極小国/日本はどうだろう?/日本の問題点
 第2章 人口:5万年間の人口推移/将来の人口/出生率の低下/人口大国・中国/中国の一人っ子政策/急速に進む高齢化/インドの人口の未来/第三の人口大国/人口が減少する日本/「超高齢社会」となった国/2030年の姿/出生率が増えた北欧やフランス/フィンランドの少子化対策/人口最少の国・バチカン/そのほかの人口小国
第Ⅱ部 経済・政治
 第3章 GDP(国内総生産):
西暦1年以降のGDP/ヨーロッパとアメリカ/アメリカの経済/急激な発展とひずみ/第二の経済大国になる中国/EUという存在/一体化しつつある経済/ユーロ参加の代償/巨大なEU経済/BRICsとネクスト・イレブン/経済規模がいちばん少ない国/サントメ・プリンシベ/GNH?
 第4章 税金:行政サービスと税金/国民負担率/国民負担率が大きな国/政府の割合が大きいヨーロッパ諸国/予算の内訳はどうか?/福祉関連の予算規模/税金が最も安い国/課税なくして代表なし/タックス・ヘイブン/日本は先進国一の累積債務を抱えていた/ジンバブエに迫る日本の状況
 第5章 軍事力:総額115兆円!/アメリカの巨大な軍事力/地球の海を支配する海軍力/153か国に兵員を派遣/戦略の変化/米軍が抱える課題/最新兵器の開発も進む/中国の軍事力/核戦力と空母の保有/ロシアの強大な核戦力/世界でも有数の日本の軍事予算/アメリカとの関係/軍事力が世界一小さい国/コスタリカ/アイスランドのケース
 第6章 石油・天然ガスの生産、輸出:石油という資源/オイルメジャー/OPECの石油支配/現在のメジャー/ピークオイル説/最大の石油産出国はどこか(ロシア)/サウジアラビア/そのほかの大産油国/アフリカの石油/石油の埋蔵量/輸入大国/天然ガス/天然ガスと国際情勢/ロシアの影響力/ロシアの資源戦略/ロシアがかかえる弱点
第Ⅲ部 社会
 第7章 貧困率:
世界でもっとも貧しい国/1日2ドル未満で生活している人々の割合/「国内貧困線以下」の人々の割合/人間開発指数/後発発展途上国(アフリカ・サハラ以南の国々=最底辺の10億人)/植民地支配とゆがんだ経済構造/四種類のわな/巨額の債務/マイクロファイナンス/グラミン銀行/効果的な投資による援助/教育や基幹インフラへの投資/最貧国を救うための費用/相対的貧困率が低い国/日本の相対的貧困率(OECD加盟国で最下層)
 第8章 食料自給率:食料自給率とは/金額ベースと品目別の食料自給率/先進国における「カロリーベースの食料自給率」/「穀物自給率」を見る/穀物自給率が低い国/日本の自給率/急増する食料需要/厳しくなる食料需給/輸入食品の安全性/遺伝子組み換え作物に対する懸念/日本に特有な事情/日本の課題
 第9章 進学率:教育とその国の未来/ユネスコの資料/キューバ/韓国の高い進学率/進学率の低い国/アフリカとアジア・太平洋地域/中等教育への進学率/高等教育/新たな変化(世界全体で就学率が増加している)/日本の生徒の学力/勉強が楽しくない?/
第Ⅳ部 これからの世界と日本 新興国の急成長/超国家機関EU、多国籍企業/国際機関、NGO/テロ組織の活動/世界的な難問の出現/日本の経済と人口/日本の難題について考える/巨額の累積債務への対処/高い技術力が日本の強み/世界標準をつくる(新幹線競争)/皆さんへのメッセージ

寝ます

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175冊目 生田武志「貧困を考えよう」(岩波ジュニア新書;2009) 評価5

2012年03月09日 08時23分27秒 | 一日一冊読書開始
3月8日(木)

223ページ  所要時間5:25

なんとか読み終われたが、コメントの時間がない…。著者45歳(1964生まれ)。意欲的で熱い内容の本だ。テキスト。内容の豊富さ、ボリューム感に圧倒される。一読だけでは、頭に入りきれないが、何度も読み返す価値がある152冊目 生田武志「ルポ最底辺―不安定就労と野宿」(ちくま新書;2007)評価5の著者でもある。

それにしても、今、「貧困問題」を扱った著作が本当に充実している。
・170冊目 湯浅誠「どんとこい、貧困! よりみちパン!セ」(イースト・プレス;2011)評価特5
・169冊目 堤 未果「社会の真実の見つけかた」(岩波ジュニア新書;2011) 評価5
・156冊目 阿部 彩「子どもの貧困」(岩波新書;2008) 評価5
・86冊目 青砥恭「ドキュメント高校中退―いま、貧困が生まれる場所」(ちくま新書;2009)評価5
・38冊目 湯浅誠著「反貧困―『すべり台社会』からの脱出」(岩波新書;2008) 評価5
・35・37冊目 堤未果「ルポ 貧困大国アメリカⅠ・Ⅱ」(岩波新書;2008・2010) 評価5・4

少し思いつくだけでも、これだけのテキストが、挙げられるのだ。理由は明らかだ。この貧困問題がそれだけ日本社会をむしばむ深刻かつ喫緊の社会問題なのだ

「新自由主義」という美名のもとにアメリカのあとを追いかけて、「小さな政府」「規制緩和」「何でも民営化」「労働者派遣法改悪」「(自立できないのに)障害者自立法(応能負担→応益負担)」「女性の自立支援法」etc..小泉・竹中時代を中心に、自民・公明連立政権と財界が調子に乗って、人間をモノとして扱い、社会のセーフティ・ネットを食い散らし、大切な中間層を崩壊させて、深刻すぎる富の偏在・格差と貧困層(ワーキング・プア)を造り出してしまったのだ。そして、何よりも許されないことは日本の未来を担う大切な子どもたちの世界に深刻な格差と貧困を生み出してしまったことだ。

自分は無関係だという顔をして「自己責任論」を振りまわす、財界も政治家(特に自民党・公明党)も本当に恥知らずだ我々大人は、子どもたちに対する責任を深く自覚するとともに、まず自分ができることから手を付けて、早急に行動を始めるべきなのだろう。そのために、本書をはじめ、上記の著作は力強い指針となることを、俺は皆さまに保証します!。間違いないです!。

それにしても、橋下大阪市長の市長選での私怨に基づく権力闘争ごっこのニュースは、何とかならんものか…。彼はラグビーをしていたのなら、ノーサイドという言葉を知っているだろう。市長になって彼は権力者の地位に就いたのだ。今さら自分に敵対した公務員の組合員を、市長の権力で、批判勢力を血祭りに上げる行為を有権者の誰が彼に期待したというのだろう! その結果として、市役所内をイエスマンばかりの“さら地”にした後に、どんな建設的な政策が実現できるというのか。大阪市内の人々の暮らしを、つぶさに周知しているのは、市長が強く批判している市役所職員たちだろう。彼らの多くを血祭りに上げてしまっては、血の通った行き届いた政策・住民サービスは不可能だろう。

国政とはシステムの違う地方自治で、直接選挙で選ばれた市長が、議会の中に国政気どりで彼の下品な与党(大阪維新の会)を持って、好き勝手な恣意的政治をしようと考えているとすれば、もう息苦しさを覚えてしまう。

しかも、橋下大阪市長の目指すのは、日本の社会の良質なコア部分を壊してしまった小泉・竹中時代の市場原理主義、新自由主義、弱者切り捨てというより弱者に無関心な政策である。何の目新しさもない! 古臭い見世物を、毅然として?弱者を叩き伏せる(強きに阿り、弱気を挫く)形で演じようとしているのだ。もう、ええわー、臭過ぎる。橋下大阪市長の臭い田舎芝居に付き合う余裕は日本にも大阪にももうない。

社会保障制度を世界で最初に整えたのは、あのドイツのビスマルクだ! 彼はドイツを弱くするために、社会保障を充実させたのではない! 逆に、ドイツ国民一人ひとりを大切にすることによって強いドイツを実現したのだ。今、日本に必要なのは、真の強い日本・大阪を生み出すためにこそ、貧困問題の早期解決をめざす社会保障制度の再建・強化を強く推し進めることだ。そのための、痛みであれば、きつくて辛くても俺は、受け容れるつもりだ。

念のために言っておくが、俺は、大阪市役所の関係者では全くありません。一市民の立場からの純粋な意見の表明である。

あれれ、本書の内容紹介が、全然できていない。時間がないです。また、書き加えることができればやりたいと思います。とにかく、本書はテキストです!

*裏表紙:「大阪市のある区では、就学援助支給率が50%にもなっているという。いま、経済的理由で進学できなかったり、中退する生徒も各地で急増している。子どもや若者、また女性や高齢者の生活に重大な影響をおよぼす貧困、その実態を見つめ、問題解決の方法を考えてみよう。」

■目次
 いすとりゲーム/自立って……/気球社会から砂時計社会へ/カフカの階段
1章  二人のひろし:1999年9月8日・池袋/1993年の子どもの貧困/1993年7月「ホームレス中学生」/1993年の父子家庭の貧困
2章  日雇労働者の貧困――あいりん小中学校:1986年・釜ケ崎/釜ケ崎の子どもの貧困―あいりん小中学校/日雇労働者がリハーサルし、フリーターが本番をしている/
3章  子どもの貧困:子どものための炊き出し―児童館の取り組み/「100年に1度」の世界不況の中で/病院に行けない子どもたち/学校に行けない子どもたち/子どもの貧困大国・日本/母子家庭の貧困/母子家庭への「自立支援」政策/子どものためにお金をどう使っているのか/親の経済力におうじて、経済力に不平等に教育を受ける/貧困と学力・意欲の格差/貧困の連鎖/貧困と暴力・児童虐待と子どもの野宿/
4章  大阪市西成区で
 1 ケース会議:大阪市立鶴見橋中学校・西川先生の話/大阪市西成区の公立中学校・T先生の話
 2 反貧困の教育:西成高校の人権総合学習/肥下先生の話/子どもへのベーシック・インカム
5章  激化する貧困:貧困とは何か―経済大国で貧困大国の日本/格差と貧困/先進諸国にひろがる「新しい貧困」/自殺か刑務所か野宿かの究極の三択/なぜ貧困が拡大するのか(1)―ワーキングプア・失業・無業、小売店・農漁業の衰退/なぜ貧困が拡大するのか(2)―高齢化・所得再配分の弱さ/女性と貧困/パイの分配とお金持ちのおこぼれ/「カフカの階段」で貧困問題を考える/Aさんの話/障害者の貧困/上野耕一さんの話/家族からの排除・脱出/Dさんの話―DVの問題/住居からの排除―ハウジングプア(住居の貧困)/金銭からの排除/崩壊したセーフティネット/外国人は生活保護を受けられるのか/はし本郁さんの話/野宿者と「ホームレス自立支援法」
6章  貧困の解決のために:壁から階段へ/いすとりゲームとカフカの階段/柔軟性と生活保障―フレキシキュリティ/「ネットとトランポリン」/貧困ってなんだろう―経済の貧困と関係の貧困
あとがき―池袋から秋葉原へ


もう寝ます。
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174冊目 山口幸夫「新版 20世紀理科年表」(岩波ジュニア新書;1998) 評価3

2012年03月08日 06時25分41秒 | 一日一冊読書開始
3月7日(水):

226ページ  所要時間4:20

体調激悪・怒涛の睡魔! 最近こればっかり…、でも少し疲れてるのは事実だ。4月になれば新採や転勤の連中が入ってきて、職場の雰囲気も慌しくなって、さらに疲れるんだろうな…。今のうちに英気を養っておかねば、とは思うのだが、いまいち盛り上がらない。

20世紀の大発明・大発見及び科学技術上の出来事などが、1901年~1997年まで1年ごとに、1ないし2項目ずつ取り上げて紹介されている。さらに、その年の大きな出来事、他の大きな発明・発見とノーベル賞(科学分野のみ)が列挙されている。

良書である。評価3は、俺の体調にもよる。理系の素養については、大昔の受験で、生物Ⅰ、化学Ⅰ(独学)、数学ⅡBまでやったが、所詮は公式を文系流<こんじゃう>丸暗記で対応したわけで、今さらに「よくもまあきれいさっぱり忘れ果てたものじゃわい…」と呆れるばかりである。しかし、そんな人間でも、数式の公式は忘れ果てても、科学技術のわかりやすい解説には心魅かれるのである。

1903年ライト兄弟の飛行機発明が、わずか10数年後の第一次大戦末期に最高時速200km、高度5000m、200馬力の戦闘機が大量に出現するとは、驚くしかない。さらに36年後の1939年には、メッサーシュミットBF-113R型機が最大時速755kmを達成するのである!

1914年Uボート、1915年毒ガスと火薬、1916年戦車の登場、1941年海軍零式艦上戦闘機、1942年マンハッタン計画、1944年V2のロンドン攻撃、1945年ヒロシマ・ナガサキ、1945年ビキニ水爆実験、1957年スプートニク・ショック&原子炉の火ともる(茨城県JCO),などを見ると、科学技術の発展と戦争・軍備との関わりの深さを、いくら馬鹿な俺でも感慨を覚えざるを得ない。

1901年の医学・生理学賞では、北里柴三郎を差別した「ノーベル賞委員会の馬鹿野郎ー!」と叫びたくなるし、1910年オリザニン=ビタミンB1、1920年インシュリン、1928年セレンディピティ(釣りの外道)でペニシリン発見、1953年二重らせん―DNAの構造、1955年森永ヒ素ミルク事件、1956年水俣病、1978年試験管ベビー(今では当たり前の不妊治療!)、

1994年のトップクオーク発見の記述に、日本の小林誠先生と益川敏英先生の業績がしっかり取り上げられていたのには、さすがだなと思った。

読むほどに、科学技術の発展が世界と日本の近代史に不即不離の関係にある。我々は科学技術の発展が「どのように展開されていくのか」の、その“仕方”にまさに強く関心を寄せざるを得ないのだというのを痛感させてくれるのだ。

旧版が、1986年チェルノブイリ原発事故で終わり、新版が1997年「もんじゅ」の事故で終わっているのは、1901年ノーベル賞がレントゲンのX線の発見で始まるのと並んで、非常に象徴的だ。放射能・放射線に始まり、原子力で終わる。今であれば、間違いなく2011年福島第一原発事故となるだろう。

もう寝ます。
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173冊目 南淵明宏「ブラック・ジャックはどこにいる?」(PHP研究所;2003) 評価3

2012年03月07日 04時21分04秒 | 一日一冊読書開始
3月6日(火):

182ページ  所要時間3:40

仕事の疲れで、読書の途中強い睡魔に襲われ、同じページの上で足踏みをしてるような状態になった。

著者45歳(1958生まれ)。日本有数の心臓血管外科医。医学部卒業後、医局入りを拒み、研修医から、オーストラリアのシドニー・セント・ビンセント病院で、日本では絶対不可能な年間100を超える心臓バイパス手術をこなす。日本に帰国後、医局・学閥的背景がないことで一時窮地に陥るが、神奈川県大和成和病院に心臓外科を開設。年間200例の心臓バイパス手術を執刀する。

タイトルの副題は、「ここまで明かす医療の真実と名医の条件」

目次:
第1章 医者だって手術は恐い
第2章 この国の医者のつくり方
第3章 世界に飛び出して見えてきた日本の医療界
第4章 知っておきたい病院選びの裏ワザ24
第5章 ブラック・ジャックはどこにいる?


「まさに、何が起こってもおかしくない世界。執刀医が人為的なミスを犯すことは許されないが、それを超えた部分は、神様が決めているとしか思えない」ということで外科医は、すごく「ゲン」かつぎ意識が強いし、日常、手術への恐怖で満たされている。「恐怖ゆえに不断の集中力が生まれ、惨事を逃れたい一心で難事を打ち負かす闘志が心胆にわきあがる。もし自分が恐怖心を感じない人間になってしまったら、私は医者を辞めるべきであると決めている。略。人は権威や威容にひれ伏すかもしれない。が、日常私が対峙している「心臓」は、どの医師に対しても常にフェアに反応してくれる。病院の大きさや執刀医の肩書きなど全く気にしてくれないのだ。」

「医師国家試験に実技試験はない。論述試験も面接試験もない。この択一式のペーパーテストに通れば、みんな医師だ。略。落ちるほうが珍しいという試験である。たった一回限りのペーパーテストに合格すれば、その人の腕に関係なく、生涯にわたり医療行為をすることが許される。」

研修医の給料はとても安い。著者の時、県立の大学病院が月給が15万8千円。私立の大学病院は、つい最近まで月給5万円。バイトをする研修医たちが、土日の当直のバイトで一晩10~15万円。大学病院での研修医の月給分を、夜間に民間病院で働けば土日の一晩だけで稼げるのだ。略。医師の給料というのは、いったい何によって決まっているのか、分からなくなる。不思議なほど、理不尽な世界になっている。

著者は、日本の医療・医学界に蔓延る医局制度と学閥意識の存在を徹底的に批判する<異端児>的存在。医局・学閥を背景に権勢を誇る大学病院の教授も年間30例程度、月2~3回の手術しかしないサンデードライバーに過ぎない。それに比して、著者のように年間100~200例の手術をし、毎日のように執刀している医師は、肩書きは無くてもF1レーサーのようなもので、実力は全く比較にならない、と豪語する。

「日本で権威を誇っている大学病院の教授たちも、自分の命がかかっている場合は、おそらく権威のあるなしなどは全く考慮せず、世界中を探してでも、経験豊富な良い医者を見つけ、治療をしてもらうだろう。それが医者のホンネだ。」という記述は、いみじくも9年後の今年2月18日の天皇の心臓バイパス手術の執刀を、本書で未来のブラック・ジャックとして紹介されていた著者の仲間の天野篤順天堂大学教授が行い、象牙の塔たる東大医学部チームが完全に後塵を拝したことで明確に証明された。


もう寝ます。

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172冊目 藤野彰「臨界点の中国 コラムで読む胡錦濤時代」(集広舎・中国書店;2007) 評価5

2012年03月06日 05時05分50秒 | 一日一冊読書開始
3月5日(月):

346ページ  所要時間4:00

著者52歳(1955生まれ)、読売新聞記者として1988年以来通算約11年(上海1、北京3)、中国特派員生活を送る。

本書の構成
「臨界点の中国」への視点-序にかえて
I 改革と軋轢-胡錦濤時代の政治潮流
II 苦悶と模索-胎動する過渡期社会
III 負債と暗闇-鈍色の現代史
IV 自尊と混沌-台湾・民族・宗教
V 不信と誤解-呻吟する日中関係
二十一世紀中国年表(2001~2007年5月)/参考文献/キーワード索引
あとがき-中国特派員のモノローグ

著者紹介
1955年、東京都生。78年、早稲田大学政治経済学部卒業。同年、読売新聞社入社。86~87年、中国政府奨学金留学生として山東大学に留学。上海、北京特派員、シンガポール支局長などを経て中国総局長を2度務める。2006年12月から東京本社編集委員。

各章ごとに、10~15程度のコラム記事&キーワード解説を基本とし、インタビューや資料記事を配する構成になっている。111冊目で、池上彰「そうだったのか!中国」(集英社;2010(2007))を読んでいるので、びっくり仰天するほどの新事実は、大きな事実関係では特になかったが、やはり現場にいた人でしか書けない臨場感・説得力という点では圧倒的だった。

また、読売新聞というある種保守本流的立場から、中国に対して率直な厳しい目で記事が書かれている。決して間違った内容ではない。ただ、むき出しに書かれてるだけに読み手は、かなり情緒的に強い影響を受け、中国に対して厳しい目を向けてしまう。

俺はすでに、池上さんの本で「大躍進政策の失敗、文化大革命の過ちを、毛沢東の権力欲による大罪として、きちんと認めて反省できない中国政府が、特に江沢民政権以来、共産党自身の不正・矛盾・歪みの隠れ蓑にするために<反日教育>を徹底し、不法な<反日行為>を容認・扇動?している。

一党独裁の社会主義市場経済(矛盾の固まり)、開発独裁体制の限界、内陸農村部の貧困と沿岸都市部の富裕、少数民族に対する漢民族の支配(資源問題)、13億の人口、チベット・ウイグル・内モンゴル他の独立運動に対する武断弾圧、台湾独立問題、鼻につく大国意識、天安門事件の胡耀邦・趙紫陽への過誤を反省できない非民主性、さらに拝金主義の横行、共産党員の役人の腐敗・汚職の横行、私有財産保護(2007年)が促す「社会主義の空洞化」の問題!、さまざまな問題を棚に上げて、日本のODA協力も無視して、<反日>を手段にして、中国の若者をアメリカ同様の夜郎自大の世間知らずにしてしまおうとしていること、等々」に対して、既に俺は十二分に中国に対して厳しい目をもってしまっているのに、この本を読むと、ますます火に油を注がれてしまった感じになってしまったのだ。

政治小話「マルクスから電話がかかってきた。問い「資本家はみんな滅びたかね?」/答え「共産党中央に入りました!」/雷峰からも電話がかかってきた。問い「地主はみんな打倒されたかい?」/答え「全員、共産党に加入しました!」

断わっておくが、俺は、日中戦争は、間違いなく「侵略戦争」だし、「南京大虐殺」も痛切に反省すべき歴史的事実だし、それ以前に本多勝一「中国の旅」の読者である。「百人切り競争」「万人坑」「731部隊による人体実験の数々」の事実を知っている。日本政府は侵略戦争の歴史をアジア諸国に対して認めている。1952年サンフランシスコ講和条約他で国家レベルの賠償は終わっている。しかし、被害を受けた個人レベルでの適切な賠償はきちんとすべきだ、と考えている。例えば、韓国・朝鮮の従軍慰安婦だったハルモニたちに対して早急に賠償補償をすべきだ。靖国神社については、首相・閣僚の公式参拝には断固反対だし、困難でもA級戦犯を分祀すべきである。そもそも1978年の合祀が間違いだったのだ。これは昭和天皇の意志でもあるはずだ、と考えている人間である。 

そんな俺でも、本書を読むと、「すでに冠たる大国になっている中華人民共和国が、自国の一党独裁、非民主主義的矛盾、何よりも毛沢東の大罪と向き合えない誤魔化しを正当化するために、夜郎自大な大国意識と<反日教育>を利用しようとしている姑息さ、いじましさ」に対しては、やっぱり腹が立つということだ。中華人民共和国は、少し角度を変えて見れば、あの<北朝鮮>と何も変わらない国ではないのか!、とさへ見えてしまう残念な瞬間が何度もあった。…いかん、ちょっと泥酔モードになってきたぞ、やばいなあ…。

俺は何者かに、操られてるのか…?。でも、嘘や矛盾を隠している者は、結局その部分を糊塗するために無理・無茶をせざる負えないという真理に鑑みれば、やはり今の中華人民共和国は、あまりにも糊塗すべきことが多過ぎて、まともな外交を結ぶことができる状況にはないのではないか、と思えてしまう。しかし、このGDP2位と3位の国は隣国同士であることをやめることはできない。戦争するなんて有り得ないのだから、きちんとした交渉・付き合いができる環境が整うまでは、両国関係が決定的に悪化しないように、うまく付き合っていくしかないのだろう!、と思うのである。

結局、著者の言葉をそのまま書くことはなかったが、趣旨は随分と反映して書いたつもりである。
261ページ「自然と、中国社会には「反日」を口にしていれば安全という空気が流れ、「反日」なら、ある程度ハメを外しても大目に見てもらえるといった甘えが横行している。スタンドで「反日」を叫んだ中国人観衆にそれがなかったとは言えないだろう。/中国当局がこうした状況を作りだしている理由は、対日外交戦力上、「歴史カード」が依然として有効だと判断していることにあると見ていい。」

結局、今の中国は、大きな過渡期に差し掛かっているのだろう。


※ネットから本書の北海道大学の高井潔司教授(中国メディアの研究を中心に、日中関係、現代中国政治など)の短い書評と長い書評を添付する。といっても、トラックバックなんて気の利いたことはできないので、書評文のみのコピペでご勘弁下さい。

高井潔司教授(短い書評):<全うな現代中国論>として 推薦コメント「巷にあふれている現代中国論、現実の中国から出発せず、中国脅威論や崩壊論、あるいはそれらとは対極の中国待望論がほとんどである。著者は、10年を超える中国特派員の経験と知識を活用し、中国全土を歩き回り、様々なレベルの中国人の声を集め、それを基礎に穏当な中国論を展開してている。地に足の着いた中国論である。好きであれ、嫌いであれ、日本の将来にとって、対中関係のあり方はますます重要になっている。そのためには、まず中国の実像をしっかり抑えておく必要がある。本書は極めて有用な視点と知識を提供してくれよう。」と述べている。

高井潔司教授(長い書評):
「ようやく陽の目を見たバランスの良い「現代中国論」」 【コラム】
2007/07/17(火) 11:54
中国を読み解く視点(45)-高井潔司(北海道大学教授・サーチナ総合研究所客員研究員)

 記者時代の後輩である読売新聞社の藤野彰編集委員が最近、新著『臨界点の中国―コラムで読む胡錦涛時代』(集広舎発行、中国書店発売)を刊行した。日本の書店に並ぶ中国関係図書には、反中感情を売り物にしたものや、ためにするための議論が近ごろとみに目立つが、本書はそうした際物と違って、極めてバランスの取れた上質の現代中国論である。長年書き溜めたコラムを中心に編集したものだが、序文を読むだけでも、中国を考えることの意味を十分に知らせてくれる。最近の出版社はこうした良心的な原稿をなかなか出版しない。今回の出版も、福岡の書店の手によるものだ。中国を刺激する本を刊行し台湾当局から勲章をもらった出版社もあったが、今回の出版には著者と書店にエールを送りたい。

◆謙虚な視点が何よりいい

 藤野編集委員は、これまでに北京特派員を3回、上海特派員1回、通算中国で11年間の記者生活を送った。しかも、特派員前に2年間、山東大学に留学した経験も持っている。2006年に内モンゴル自治区を訪問して、31のすべての省、自治区、直轄市の「完全踏破」を果たしたという。まさに中国通というにふさわしい経歴の持ち主だ。ちなみに後輩とはいってみたものの、同じ支局で仕事をしたことも指導をしたこともない関係である。

 輝かしい経歴以上に素晴らしいのが彼の中国を見る視点だ。「私たちは普段あまり疑問を感じることなく、『中国は』とか、『中国人は』とか、一語で括って論議する。しかし、中国大陸東西南北の民族・歴史・文化の多様性をよくよく考えれば、かなり乱暴な物言いをしていることになる。この「一つの世界」は迷宮のように底知れず、不気味で、魅力に富み、興味が尽きない」

 さらりと書いているが、われわれは中国というと傲慢になりがちだ。まさに彼が指摘するように、「日本では昨今、歴史的な変革期のただ中にある中国の現場を知らずに、また、知ろうともせずに、中国の脅威をいたずらに煽ったり、非難のための非難に終始したりといった、偏狭で、安直な“中国論”がまかり通っている。中国の崩壊や分裂を予測する本や評論は、これまでにいくつも現れたが、中国の実態を踏まえた分析に基づいていないため、ことごとく見通しを誤っている」。にもかかわらず日本の出版界は、飽きもせずに中国脅威論、崩壊論の生産を繰り返しているのである。これでは中国の拝金主義の風潮を批判できまい。

◆事態は多様で錯綜している――必要な変化の視点

 といって、彼は中国を賛美しているわけでない。実際に中国をどう見ているのか。

 長年、中国をウォッチしてきた記者らしく、長期的な変化の中で中国を見ている。まず国際環境の変化と自国の大国化の中で中国の外交戦略にも変化が現われ、「責任大国」への自覚も見られると以下のように述べている。

 「中国は韓国と国交樹立に踏み切るなど、全方位外交を積極的に推し進めてきた。政治、経済、軍事など各方面での中国の国力増強に伴い、国際社会は中国に「責任ある大国」としての立ち居振る舞いを強く求めている。そして、北朝鮮の核問題をめぐる六か国協議のホスト国を務めていることからもうかがえるように、中国自身、それに応えようとしている」

 また、国内政治とりわけ言論の自由の問題についても、「急速な経済自由化やグローバリゼーションに後押しされるようにして、中国における『言論の自由』が一定の範囲内で、遅々とした歩みながら、すそ野を広げつつある」と指摘する。

 もっとも、彼は中国の民主化が進捗しているなどと単純に評価しているわけはない。それどころか、「中国憲法は『言論の自由』を明記しているが、共産党や政府指導者を公に批判する自由がないことは、国民の誰もが知っている。反体制派や民主活動家は依然として当局の厳しい監視下にあり、身柄拘束は日常茶飯事だ。新聞をはじめとしたメディアに『報道の自由』はなく、当局の気に入らない記事を載せれば、すぐに停刊処分を受けたり、編集長が更迭されたりする。一党独裁維持のための強権的な統治システムは大枠で変わっていない」と述べる。

 だが、「しかし、よく観察すれば、その機能はだいぶさびついてきている。四半世紀の改革・開放と市場経済の拡大は、都市部中産階級の台頭、多様な利益集団の創出など社会構造を揺るがす多元的変革をもたらしただけでなく、絶対的存在と見なされてきた党権力を相対化させ、個人の権利・自由や価値観がもっと尊重されなければならないとの国民意識を高めた」と述べ、当局の意図とは別に、社会の底流で“変化”が着実に進行しているというのである。

 「かつての『物言わぬ(言えぬ)民』は、すでに『物言う民』へと変貌を遂げたのである」とは、現場でさまざまな中国の人々と意見を戦わせた彼だから出てくる言葉である。その上で、「これらの観点から眺めると、70年代末に毛沢東の継続革命論と決別し、『中国の特色を持つ社会主義』という名のトウ小平流資本主義をしゃにむに進めてきた中国は、激しい変革のうねりに突き動かされて、国家、共産党、社会、国民のすべてを巻き込みながら、時代が新たな別の次元へと転移していく臨界点を迎えつつあるのではないか」というのが彼の結論であり、またこの本のテーマでもある。

◆いま必要なのは「知中」論だ

 といっても、中国はもはや日本にとって他人事ではない。「東アジア共同体」の問題一つ取り上げても中国の存在は不可欠だ。

 「将来、仮に欧州連合(EU)のような地域統合をモデルとして考えるとすれば、政治的価値観の共有なしに真の共同体実現はありえない。その意味では、東アジア域内総人口の6割余を占める中国の安定発展と民主改革の成否が決定的なファクターになってくる」

  「前途に待ち受けているものが、中国の望む『秩序ある持続的発展』であるにしろ、想像したくない『制御困難な混迷』であるにしろ、今後の中国のありようが世界情勢に甚大な影響を及ぼしていくことだけは疑いない」

  だから、彼は以下のように、中国を見る視点の重要さを改めて強調する。

  「こうした情勢を虚心坦懐に見つめれば、中国との共存なしに21世紀の日本は存立しえない。われわれが真剣に考えなければならないのは、驕らず、おもねらず、中国とうまく付き合っていくにはどうしたらいいか、ということだ」

  実際に中国が臨界点を迎えているのかどうか。あるいは彼自身が自問しているように「中国が政治面で徐々に軟着陸の道を歩めるかどうか。また外部世界が中国の水面下の変化を見逃さず、民主と協調という国際潮流の中に組み込んでいけるかどうか」は、それぞれ意見の違いがあるだろう。

  しかし、「今の日本に最も求められているのは、『親中』でも『反中』でも『嫌中』でもなく、バランス感覚をもって現実を直視する『知中』の精神である」。

  藤野編集委員の著作を客観的に紹介しようと努めたが、まともな中国論が流通していないぶん、ついつい絶賛調になってしまったようだ。中国留学などほとんど考えられなかった私の世代と違い、生きた中国語をしっかりマスターし、中国全土を歩いて現場を見てきただけでなく、膨大な資料、内部資料にも目を通し、上質の中国論を展開している。うらやましい限りだ。

  本稿では、彼の視点だけを紹介するに留めた。実際の彼の「中国論」は、ぜひこの本を手にしてご覧頂きたい。


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171冊目 近藤雄生「旅に出よう 世界にはいろんな生き方があふれてる」(岩波ジュニア新書;2010)評価4

2012年03月05日 06時15分11秒 | 一日一冊読書開始
3月4日(日):  本日PV468名、一日の最多記録更新です(cf.2/6の449名)。勿体無いことです。m(_ _)m

197ページ  所要時間3:30

著者34歳(1976生まれ)。著者にとって帰国後なんとかして書き上がった記念すべき第一作が本書である。

結婚3カ月の夫婦が、2003年6月日本を発ち(26歳)、2008年9月アフリカ・マラウィで帰国を決める(32歳)まで5年3カ月のオーストラリア、東南アジア、中国、中央アジア・イラン、ヨーロッパの各地で旅と定住を繰り返しながら出会った数多くの人のうち、特に印象に残った出会いを紹介した旅のハイライト集である。

著者は、東京大学工学部大学院を卒業しており、この基礎教養の高さは、ルポライターとしての大きな武器になっている。旅先での新しい言語習得(中国語、ロシア語)、英語による取材能力、旅先での問題発見、テーマ設定能力も高い。また、夫婦の旅は、相手を安心させるのに有効に機能したかもしれない。

目次:
オーストラリア編  
1 平和な国に暮らす意味 ジンバブエからの移民(西オーストラリア州バンバリー)     
  2 国ってなんだろう? 国を造ったおじいさん(ハットリバー公国)
東南アジア編
  1 食料を得るとは? 捕鯨村の人々(インドネシア)
  2 勉強できることの幸せ ビルマからタイへ来た若い難民たち
  3 世界はみなつながっている 「残留」を選んだ日本兵(ビルマ・タイ国境地帯)
中国編
  1 絆を求めて旅をする 路上の二胡引き(雲南省昆明市)
  2 腕一本で生きていく 格闘家の日本人(上海)
ユーラシア横断編
  1 見ることと聞くことの違い イランで出会った人たち
  2 帰る場所 亡命チベット人(スイス)

*ジンバブエからの白人親子の移民は、南アフリカなどで白人から黒人政権への移行にともなう白人住民の移住先にオーストラリアがなっていることは、ぼんやり知っていたが、ジンバブエでも、ムガベ黒人独裁政権から避難する白人がいることを知った。
*インドネシアの僻村で、古くからの捕鯨漁が行われ、イルカも捕獲されてるのを知り、すぐそばのオーストラリアのシーシェパードのことが気になった。
*ビルマ(ミャンマー)国内の民族紛争と、タイで難民として暮らすカレン族との交流。
*ビルマ・タイ国境で無謀なインパール作戦の傷跡として残留日本兵を追い求めるのは、渋すぎる。あんた、歳はいくつだ?
*スウェーデン人の勧めで中国の昆明に一年間住みついた話は、羨まし過ぎる。「ぼくらは昆明の街なかに部屋を借り、大学の語学学校に通って中国語を学ぶ生活を始めました。昆明は物価がとても安く、借りていたマンションの部屋は、とてもきれい三LDKで100平方メートルぐらいあるのに家賃はわずか1万5000円ほど。食事は、100円以下でも十分に満たされるぐらい食べることができるし、大学の授業料も、週四回一年間通っても10万円程でしかありません。」その上、気候が随分良いそうだ。
*昆明で身に付けた中国語を生かして、上海で夫婦ともに仕事を見つけて1年半、旅の資金を稼ぎはじめる。著者は、さらりと書いているが、基礎教養の高さがなければ難しいだろう。それにしても羨ましい…。
*イスラム教シーア派の牙城イランに、決死の覚悟で乗り込んでみたら、地方毎に差異はあっても、どこでも非常に親切に泊めてもらい、歓待を受ける。テヘランで「ぼくら若い世代は、ほとんどイスラム教なんて気にしていないんですよ。酒だって飲むし、パーティだってやります。イランは街なかにそういうものがないだけで、家の中にはなんでもあるんです。日本やアメリカと同じですよ。礼拝も、九割ぐらいの人はやってないんじゃないかな」と聞かされ、いろんな人に質問するが「礼拝はたまにする。でも酒は飲むよ」が平均的な答えであるのを確認する。そして実際「アミール(仮名)はプラスチックのコップにウィスキーをコーラのようにゴボゴボつぎだして、まずは一気飲み。「ぷはー、うめえー!」といった具合で、飲みまくるのです。そうしてぼくにも、さあ飲め、と……。その後アミールの家に帰ると、僕はすっかりアルコールが回って、すぐにバタンと寝てしまいました。」そして、著者は「ぼくらの旅の中でも、イラン人のホスピタリティ(歓待)に及ぶ国はほとんどなかった」と述懐するのである。まさに、自分で行ってみなけりゃ分からない真実があるのだ。イランのイメージは、アメリカによって随分悪く操作されているのだろう。確かに、イスラム革命が起こる前まで、イランは最も親米国家だったことを思えば、著者の体験の方が納得がいく!。それに、著者によれば「厳しく身体を隠すイランの女性のチャドルの内部が、略、ジーンズとセーターといった全く“普通”の洋服だったことにも驚かされました。」と言っている。
チベット人の聖地カイラス山(標高6600m超)をめぐる標高5000mほどの50kmに及ぶ巡礼路の話。
*インド、ネパール、アメリカに次ぎ、ヨーロッパ最多のチベット難民受け入れ国はスイスである。「国際的なルールとして、すでにある国で難民として受け入れられた人がさらに他の国に行って新たに難民として受け入れてもらうことは、普通はできません。つまり、すでにインドで難民として受け入れられてインドで暮らしているチベット人が、故郷チベットでの厳しい生活を理由にさらに別の国に難民としてやってくることはできないはずなのです。しかし実際には、少なくないチベット人が、より豊かな生活をしようと夢見て、インドから先進諸国に移り住んでいます。」と述べて、スイスのトゥーンで会った18歳の少女ドルマ(仮名)との交流、帰る故国のないドルマがスイスで非常に肩身狭く生きている姿を紹介する。

※この夫婦の旅は、著者にとって自分探しの旅でもあった。

寝ます。
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120304 やっぱりおかしいですよ!橋下大阪市長

2012年03月04日 20時45分03秒 | 日記
3月4日(日):

3月2日の169冊目 堤未果「社会の真実の見つけかた」(岩波ジュニア新書;2011)を読んで、

「アメリカでは2002年春、ブッシュによって市場原理中心の教育政策である「落ちこぼれゼロ法」が施行。全国一斉学力テストの実施、学力ノルマ基準を満たせず「落第」とされた場合、責任と非難は現場の教師一人ひとりに集中し、減給・解雇が行なわれる。公立学校も、国からの予算カット、廃校、民営化(チャータースクール)に追い込まれる。これによって、現在公立学校の先生たちの多くが、国から要求される子どもたちの学力ノルマ達成とワーキングプア化して余裕を失った保護者からの大量の難くせに追い詰められて<低廉な給与>と<疲弊の極み>でバーンアウト(燃え尽き)が急速に進行している。この政策は、2014年までに全米の公立高校の九割近くが「落第」になる見通しで、教育現場を荒廃させたというだけで完全に失敗に終わっている。この教育現場に市場原理を導入というのは、橋下大阪市長の言説とほぼ同じである。彼の教育政策はパフォーマンスではあるが、その破綻は実施する前から既知の事実なのだ。「公的予算削減と競争市場主義が生む教育格差が、民主主義を弱体化させれば、結局は国にとっても膨大なコストになる」ということだ。/略。なぜ、彼は長い時間と育むゆとりの必要な教育の現場に土足で踏み入り、市場原理で現場の取り組みを簡単に切って捨てて見せる<見世物>にしてしまったのか。」

と論じたが、本日3月4日の朝日新聞朝刊3ページで「落ちこぼれゼロ 夢の果て」「大阪に先行10年 NY150校淘汰」という【記者の署名入り特集記事(阿久沢悦子 記者)】が載っていた。

「大阪市の橋下市長が、矢継ぎ早の教育改革を打ち出している。教育をサービスととらえて保護者や子どもに学校を選択させ、選ばれなかった学校を統廃合して学力低下に悩む現場を立て直す構想だ。米国でも似た施策が進む。ブッシュ前政権が10年前につくった「落ちこぼれゼロ」法。教育から格差をなくすという理想を掲げて学校に競争と淘汰を導入したが、成果が上がらず見直しを求める声が強まっている。どこでつまずいたのか。」と提議して、「テストで選別」、「弱者置き去り」、「オバマ政権転換」の小見出しで記事は続く。最後は「批判の高まりを受け、オバマ大統領は1月24日の一般教書演説で「テストのための教育をやめよう」「もう教員を責めるのはやめよう」と宣言した。教員確保や、学区ごとの福祉・教育支援に予算を付け始めている。」とまとめている。また、「米国と大阪の教育改革の類似点」が表にして、学力テスト、教員評価、学校統廃合、留年、教育委員会、バウチャーと項目ごとに示されている。これを見ると、両者は、ほぼ同じ政策と言える。

橋下大阪市長は、「全く新しくない!」のだ。アメリカが、10年をかけて大きな犠牲を払って失敗を証明し、まさにやめようとしている<誤った教育政策>を、橋下市長は強引に押し付けようとしているのだ。

俺は、別に橋下さん自身に対して好き嫌いはない。ただ、彼の「善玉か、悪玉か」、「敵か、味方か」を単純に決めつけて、悪玉を敵として徹底的に血祭りに上げて見せる<勧善懲悪の田舎芝居>はもう十分過ぎるほど見飽きたのだ。そんな安っぽいメッキのまがいものによって、これ以上、日本の社会が育んできた深層の良質なコア部分が深く傷つけられて取り返しのつかないことになるのだけは我慢がならないのだ

もう臭い田舎芝居に騙される時代は、ブッシュと小泉・竹中だけで勘弁して下さいよ、「大阪維新の会?」ってもう名前だけで十分に臭いし、猿芝居っぽいじゃないですか!と言うのが本音なのだ。「王様は、裸だよ」って、そろそろどこかの子どもが叫んでもいいんじゃないか。こんな連中に、またもや日本は振りまわされていいのか?。そんな余裕はもうないはずなんだが…。

※昨日読んだ、170冊目 湯浅誠さんの「どんとこい、貧困! よりみちパン!セ」(イースト・プレス;2011)で教えられた人間の尊厳や市民社会に対する丁寧なまなざしや感覚で「大阪維新の会」という存在を眺めると、正直こっけい過ぎて仕方がないのだが…。しかも、「ぼくちゃん、お腹が痛いので総理大臣やめまちゅ」の安倍晋三まで、はしゃぎはじめてるのだ…。もう、うんざりである。我々は、もっと世の中を丁寧に見直す落ち着きを取り戻すべき時期に来ているはずだ。

乱文、失礼しました。
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170冊目 湯浅誠「どんとこい、貧困! よりみちパン!セ」(イースト・プレス;2011) 評価特5

2012年03月04日 06時42分01秒 | 一日一冊読書開始
3月3日(土):

294ページ  所要時間6:10

著者42歳(1969生まれ)。テキスト。市民社会の<活動家>を自任。非常にきめ細かく丁寧に優しい目線で人間の内面に配慮して見る人だ。一方で、弱い者いじめをする上から目線の傲慢無礼な輩に対する闘争心を堅固に持している。

目から鱗が落ちるように、強い説得力をもって社会を見る目を変えさせられた。特に、前回38冊目 「反貧困―『すべり台社会』からの脱出」(岩波新書;2008)を読んだ時、どうしても違和感を払しょくできなかった「生活保護制度の積極的活用の勧め」について、その意義を本書によって非常によく腑に落ちて理解できた。読み進む途中で、何度か目の奥がむずむずして、泣きそうになった。「確かにそうだよなあ」と深くうなづくことが多かった。「貧困をめぐって今の社会が抱えるもっとも困難な問題について、これほど説得力をもって迫った本はかつてなかった」(重松清)の評にまったく同意である。「文は人なり」とはよく言われることだが、本書には理屈を超えた、著者自身の人間性がよく読みとれ、なかなか出合い難い<珠玉のような名著>だ!、と思う。

内容紹介(ネットから引用)
「「自己責任」よ、これでさらばだ! 競争、無関心、上から目線。誰もが誰かを、そして自分を痛めつづけ、人間の尊厳も社会のシステムもボロボロになってしまったいま、派遣村村長が静かな情熱をもって書き下ろす。ごまかさずにあきらめずに、もう一度、希望をつくりだそう! この国に生きるすべての人、いまこそ必読。 /今社会を覆う「貧困」の問題を真っ正面から、真摯にわかりやすく語ります。イス取りゲームの話から、努力不足じゃないか、生活保護で食べていくなんてずるい、など皆が感じている思いを受けて本当の問題が何であるか丁寧に説明。自己責任論ですますのはやめて「がんばり地獄」「貧困スパイラル」から抜け出そう!と日本中にエールを贈ります。今回の本では、自分がなぜこういう活動をするようになったかにも触れ、生きかたを模索している若者にも希望を与えます。」

目次:
第1章 どんとこい、自己責任論!
  その1 努力しないのが悪いんじゃない?
  その2 甘やかすのは本人のためにならないんじゃないの?
  その3 死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?
  その4 自分だけラクして得してずるいんじゃないの?
  その5 かわいそうだけど、仕方ないんじゃない?

コラム どんとこい通信
  知らなきゃソンする!働くときの基礎知識
  目ん玉飛び出る!日本の教育費
  おかしくないか!富の再配分
  とっても大変!「ネットカフェ難民」
  どうなってるの!派遣労働と「派遣切り」
  関係なくない!ホームレス問題
  頼りにしてるぜ!生活保護
  どえらいこっちゃ!世界大不況
  そうだったのか!社会保障の歴史
  なんじゃこりゃあ!グローバル化経済競争

まとめ 自己責任論は上から目線――そんな社会で、まだ暮らしたい?

ちょっとひと休み あなたの「溜め」度を測ってみよう!

第2章 ぼくらの「社会」をあきらめない。
  その1 きみがいま、あるいは将来そのさなかにいるのならば
  その2 変わるべきはぼくらの社会だ、ときみが思うならば
  その3 きみが、生きやすく暮らしやすい社会を目指すならば
どんとこい対談 真摯に、そしてひとかけらの笑いを 重松清×湯浅誠

※冒頭、イス取りゲームを紹介し、座れなかった人間に注目するのを「自己責任論」、イスの数が足りなかったことに注目するのを「構造的見方」と紹介し、世間一般は「自己責任論」をとり、「がんばり地獄」さらに「ずるさ狩り」に落ち込んでいるが、著者は一貫して後者の「構造的見方」こそ本質的問題であると主張する。

*貧乏と貧困は違う。幸せな貧乏は存在するが、幸せな貧困は存在しない。

*117ページ:貧困状態に放置された人の選択肢は五つのみ:①家族に頼る、②自殺する、③罪を犯す、④ホームレス状態になる、⑤NOと言えない労働者になる。 ⇒「NOと言えない労働者」とは、寝る場所が無いから「寮付き、日払い」の仕事しか探しようのない人たち。彼らの存在を「かわいそうだが、仕方がない」と無視、放置することによって、実は労働市場全体の労働条件がずるずるっと下がって、日本社会はこの十数年間、ずっと「<貧困スパイラル>の墓穴を掘ってきた!」のだ。生活保護の積極的活用によって、彼らが“溜め”を保障されることで、「寮付き、日払い」にNOと言える労働者になり、労働市場全体が売り手市場になって、これまでとは逆に上昇を始める条件が整うのである。社会保障制度の成立が、1880年代(帝国主義時代)のドイツのビスマルクによるのも偶然ではない。社会保障制度は、歴史的に、お荷物どころか、どの国でも国力を強化するために採用・充実されてきたのである!。

第1章のまとめは、著者の感性と心意気が横溢していて、実に秀逸で、大いに首肯した!。カタルシス!。これだけでも、本書には値打ちがある
「自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることだ。/弱っている相手を黙らせること。これは弱い者イジメだ。/弱い者イジメをする人間は、いつの世も、強い者には絶対に歯向かわない。強い者に対しては「自分も仲間に入れてください」と媚びる。自分が強い側にいなければ、弱い者イジメができなくなるから、弱い者イジメをしている自分はいつか仕返しされるんじゃないかと怯えているからだ。だからかっこ悪い。/そして、弱くイジメられている者たちは、なんとかそのみじめな状態から抜け出そうとして、より弱い者たちをイジメようとする。そうすると、自分が強くなったような錯覚をもてるからだ。そうやって、大きい弱い者イジメの下には、たくさんのプチ弱い者イジメが横行し、それがまた下にさらに小さい弱い者イジメを生み出していく。/誰もが誰かにはイジメられつつ、同時に誰かをイジメているような状態だ.。こうなると、世の中全体がかっこ悪くなる。生きづらい社会になる。/このポイントは、誰も幸せでない、ということ。誰ひとり、満ち足りて幸せを感じられる人がいない社会。誰もが誰かには「足りない」と言われ、誰かに対しては「足りない」と言い、結局誰も彼も「足りない」、満ち足りない社会。自己責任論は、そういう社会をつくる。/そういう社会で暮らしたい? 私は暮らしたくない。」

*185ぺーじ:「できることなら、この社会全体が安心できる居場所にならないものかと考えている。/それは具体的にどうすればいいのか。どうすれば、生きやすく暮らしやすい社会になるのか。どうすれば、“がんばり地獄”から脱け出して“ずるさ狩り”を止め、上から目線の自己責任論を唱える人たちがいなくなるのか。どうすれば“貧困スパイラル”が止まるのか。少なくとも、そういうことはみっともないことだ、止めなければならないものだ、という価値観(見方)が社会に定着するのか。私にもわからない。だから、私も探し中だ。/あなたの探しものはなんですか? それはひょっとしたら、私と同じものじゃないですか?」

*著者の文章を読んでいて泣けてきた。
205ページ:「出てきた結果をくらべて、そこからさかのぼって努力の量を測れば、大きな結果を出した人はたくさん努力したことになり、小さな結果しか出せなかった人はあまり努力しなかったことになる。こういう見方(「成果主義的努力観」という)が、自己責任論を増やし育てる培養器になっている。「結果がすべてだよ」という考え方だ。/そこで見ようとされていないのは、「その人なりの努力」だ。「その人なりの」とは「その人の“溜め”に応じた」というのに等しい。そして私は「その人なりの努力」をきちんと見て評価できない社会は“溜め”の小さい、貧困な社会だと思う。/なぜなら、そういう社会では、自分と相手の“溜め”の大きさのちがいを自覚せず「そんなこともできないのか」と簡単に人をバカにする人間が増えるから。人の人生をナメた輩が増えるから。そういう社会は、ひとりひとりを伸ばせないから。」

*267ページ:「スポーツにルールがあるように、市民社会にもルールがある。それは、つぎのようなものじゃないだろうか。/①自分の意見に自分の人格を埋没させない。真剣に意見を主張しながら、でもどこかで「反論をどうぞ」という余地(“溜め”)を残しておく。/②意見を交わす相手の“溜め”を増やす。一方的に説き伏せても、相手の“溜め”は増えない。“溜め”が増えれば関心が広がる。それが、自分が大切にしているテーマに対する尊重につながる。/そのルールを守るのが「市民」で、活動家やプチ活動家たちは、市民の中の市民だ。そうしてはじめて試合が成立する。そのフィールドが「市民社会」―私は、そんな世の中を夢想する。それはきっと、いまよりもずっと、生きやすく暮らしやすい社会なんじゃないか、と。もっとずっと貧困の少ない社会なんじゃないか、と。」

※ちょっと限界です。寝ます。もっともっと、書き出したいことは、あるけれども体力・気力の限界!(千代の富士かよ)。これは、良書です。推薦します。橋下大阪市長にも読んで欲しい!。皆さま、お休みなさいませ。
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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)