3月3日(土):
294ページ 所要時間6:10
著者42歳(1969生まれ)。テキスト。市民社会の<活動家>を自任。非常にきめ細かく丁寧に優しい目線で人間の内面に配慮して見る人だ。一方で、弱い者いじめをする上から目線の傲慢無礼な輩に対する闘争心を堅固に持している。
目から鱗が落ちるように、強い説得力をもって社会を見る目を変えさせられた。特に、前回38冊目 「反貧困―『すべり台社会』からの脱出」(岩波新書;2008)を読んだ時、どうしても違和感を払しょくできなかった「生活保護制度の積極的活用の勧め」について、その意義を本書によって非常によく腑に落ちて理解できた。読み進む途中で、何度か目の奥がむずむずして、泣きそうになった。「確かにそうだよなあ」と深くうなづくことが多かった。「貧困をめぐって今の社会が抱えるもっとも困難な問題について、これほど説得力をもって迫った本はかつてなかった」(重松清)の評にまったく同意である。「文は人なり」とはよく言われることだが、本書には理屈を超えた、著者自身の人間性がよく読みとれ、なかなか出合い難い<珠玉のような名著>だ!、と思う。
内容紹介(ネットから引用)
「「自己責任」よ、これでさらばだ! 競争、無関心、上から目線。誰もが誰かを、そして自分を痛めつづけ、人間の尊厳も社会のシステムもボロボロになってしまったいま、派遣村村長が静かな情熱をもって書き下ろす。ごまかさずにあきらめずに、もう一度、希望をつくりだそう! この国に生きるすべての人、いまこそ必読。 /今社会を覆う「貧困」の問題を真っ正面から、真摯にわかりやすく語ります。イス取りゲームの話から、努力不足じゃないか、生活保護で食べていくなんてずるい、など皆が感じている思いを受けて本当の問題が何であるか丁寧に説明。自己責任論ですますのはやめて「がんばり地獄」「貧困スパイラル」から抜け出そう!と日本中にエールを贈ります。今回の本では、自分がなぜこういう活動をするようになったかにも触れ、生きかたを模索している若者にも希望を与えます。」
目次:
第1章 どんとこい、自己責任論!
その1 努力しないのが悪いんじゃない?
その2 甘やかすのは本人のためにならないんじゃないの?
その3 死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?
その4 自分だけラクして得してずるいんじゃないの?
その5 かわいそうだけど、仕方ないんじゃない?
コラム どんとこい通信
知らなきゃソンする!働くときの基礎知識
目ん玉飛び出る!日本の教育費
おかしくないか!富の再配分
とっても大変!「ネットカフェ難民」
どうなってるの!派遣労働と「派遣切り」
関係なくない!ホームレス問題
頼りにしてるぜ!生活保護
どえらいこっちゃ!世界大不況
そうだったのか!社会保障の歴史
なんじゃこりゃあ!グローバル化経済競争
まとめ 自己責任論は上から目線――そんな社会で、まだ暮らしたい?
ちょっとひと休み あなたの「溜め」度を測ってみよう!
第2章 ぼくらの「社会」をあきらめない。
その1 きみがいま、あるいは将来そのさなかにいるのならば
その2 変わるべきはぼくらの社会だ、ときみが思うならば
その3 きみが、生きやすく暮らしやすい社会を目指すならば
どんとこい対談 真摯に、そしてひとかけらの笑いを 重松清×湯浅誠
※冒頭、イス取りゲームを紹介し、座れなかった人間に注目するのを「自己責任論」、イスの数が足りなかったことに注目するのを「構造的見方」と紹介し、世間一般は「自己責任論」をとり、「がんばり地獄」さらに「ずるさ狩り」に落ち込んでいるが、著者は一貫して後者の「構造的見方」こそ本質的問題であると主張する。
*貧乏と貧困は違う。幸せな貧乏は存在するが、幸せな貧困は存在しない。
*117ページ:貧困状態に放置された人の選択肢は五つのみ:①家族に頼る、②自殺する、③罪を犯す、④ホームレス状態になる、⑤NOと言えない労働者になる。 ⇒「NOと言えない労働者」とは、寝る場所が無いから「寮付き、日払い」の仕事しか探しようのない人たち。彼らの存在を「かわいそうだが、仕方がない」と無視、放置することによって、実は労働市場全体の労働条件がずるずるっと下がって、日本社会はこの十数年間、ずっと「<貧困スパイラル>の墓穴を掘ってきた!」のだ。生活保護の積極的活用によって、彼らが“溜め”を保障されることで、「寮付き、日払い」にNOと言える労働者になり、労働市場全体が売り手市場になって、これまでとは逆に上昇を始める条件が整うのである。社会保障制度の成立が、1880年代(帝国主義時代)のドイツのビスマルクによるのも偶然ではない。社会保障制度は、歴史的に、お荷物どころか、どの国でも国力を強化するために採用・充実されてきたのである!。
*第1章のまとめは、著者の感性と心意気が横溢していて、実に秀逸で、大いに首肯した!。カタルシス!。これだけでも、本書には値打ちがある。
「自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることだ。/弱っている相手を黙らせること。これは弱い者イジメだ。/弱い者イジメをする人間は、いつの世も、強い者には絶対に歯向かわない。強い者に対しては「自分も仲間に入れてください」と媚びる。自分が強い側にいなければ、弱い者イジメができなくなるから、弱い者イジメをしている自分はいつか仕返しされるんじゃないかと怯えているからだ。だからかっこ悪い。/そして、弱くイジメられている者たちは、なんとかそのみじめな状態から抜け出そうとして、より弱い者たちをイジメようとする。そうすると、自分が強くなったような錯覚をもてるからだ。そうやって、大きい弱い者イジメの下には、たくさんのプチ弱い者イジメが横行し、それがまた下にさらに小さい弱い者イジメを生み出していく。/誰もが誰かにはイジメられつつ、同時に誰かをイジメているような状態だ.。こうなると、世の中全体がかっこ悪くなる。生きづらい社会になる。/このポイントは、誰も幸せでない、ということ。誰ひとり、満ち足りて幸せを感じられる人がいない社会。誰もが誰かには「足りない」と言われ、誰かに対しては「足りない」と言い、結局誰も彼も「足りない」、満ち足りない社会。自己責任論は、そういう社会をつくる。/そういう社会で暮らしたい? 私は暮らしたくない。」
*185ぺーじ:「できることなら、この社会全体が安心できる居場所にならないものかと考えている。/それは具体的にどうすればいいのか。どうすれば、生きやすく暮らしやすい社会になるのか。どうすれば、“がんばり地獄”から脱け出して“ずるさ狩り”を止め、上から目線の自己責任論を唱える人たちがいなくなるのか。どうすれば“貧困スパイラル”が止まるのか。少なくとも、そういうことはみっともないことだ、止めなければならないものだ、という価値観(見方)が社会に定着するのか。私にもわからない。だから、私も探し中だ。/あなたの探しものはなんですか? それはひょっとしたら、私と同じものじゃないですか?」
*著者の文章を読んでいて泣けてきた。
205ページ:「出てきた結果をくらべて、そこからさかのぼって努力の量を測れば、大きな結果を出した人はたくさん努力したことになり、小さな結果しか出せなかった人はあまり努力しなかったことになる。こういう見方(「成果主義的努力観」という)が、自己責任論を増やし育てる培養器になっている。「結果がすべてだよ」という考え方だ。/そこで見ようとされていないのは、「その人なりの努力」だ。「その人なりの」とは「その人の“溜め”に応じた」というのに等しい。そして私は「その人なりの努力」をきちんと見て評価できない社会は“溜め”の小さい、貧困な社会だと思う。/なぜなら、そういう社会では、自分と相手の“溜め”の大きさのちがいを自覚せず「そんなこともできないのか」と簡単に人をバカにする人間が増えるから。人の人生をナメた輩が増えるから。そういう社会は、ひとりひとりを伸ばせないから。」
*267ページ:「スポーツにルールがあるように、市民社会にもルールがある。それは、つぎのようなものじゃないだろうか。/①自分の意見に自分の人格を埋没させない。真剣に意見を主張しながら、でもどこかで「反論をどうぞ」という余地(“溜め”)を残しておく。/②意見を交わす相手の“溜め”を増やす。一方的に説き伏せても、相手の“溜め”は増えない。“溜め”が増えれば関心が広がる。それが、自分が大切にしているテーマに対する尊重につながる。/そのルールを守るのが「市民」で、活動家やプチ活動家たちは、市民の中の市民だ。そうしてはじめて試合が成立する。そのフィールドが「市民社会」―私は、そんな世の中を夢想する。それはきっと、いまよりもずっと、生きやすく暮らしやすい社会なんじゃないか、と。もっとずっと貧困の少ない社会なんじゃないか、と。」
※ちょっと限界です。寝ます。もっともっと、書き出したいことは、あるけれども体力・気力の限界!(千代の富士かよ)。これは、良書です。推薦します。橋下大阪市長にも読んで欲しい!。皆さま、お休みなさいませ。
294ページ 所要時間6:10
著者42歳(1969生まれ)。テキスト。市民社会の<活動家>を自任。非常にきめ細かく丁寧に優しい目線で人間の内面に配慮して見る人だ。一方で、弱い者いじめをする上から目線の傲慢無礼な輩に対する闘争心を堅固に持している。
目から鱗が落ちるように、強い説得力をもって社会を見る目を変えさせられた。特に、前回38冊目 「反貧困―『すべり台社会』からの脱出」(岩波新書;2008)を読んだ時、どうしても違和感を払しょくできなかった「生活保護制度の積極的活用の勧め」について、その意義を本書によって非常によく腑に落ちて理解できた。読み進む途中で、何度か目の奥がむずむずして、泣きそうになった。「確かにそうだよなあ」と深くうなづくことが多かった。「貧困をめぐって今の社会が抱えるもっとも困難な問題について、これほど説得力をもって迫った本はかつてなかった」(重松清)の評にまったく同意である。「文は人なり」とはよく言われることだが、本書には理屈を超えた、著者自身の人間性がよく読みとれ、なかなか出合い難い<珠玉のような名著>だ!、と思う。
内容紹介(ネットから引用)
「「自己責任」よ、これでさらばだ! 競争、無関心、上から目線。誰もが誰かを、そして自分を痛めつづけ、人間の尊厳も社会のシステムもボロボロになってしまったいま、派遣村村長が静かな情熱をもって書き下ろす。ごまかさずにあきらめずに、もう一度、希望をつくりだそう! この国に生きるすべての人、いまこそ必読。 /今社会を覆う「貧困」の問題を真っ正面から、真摯にわかりやすく語ります。イス取りゲームの話から、努力不足じゃないか、生活保護で食べていくなんてずるい、など皆が感じている思いを受けて本当の問題が何であるか丁寧に説明。自己責任論ですますのはやめて「がんばり地獄」「貧困スパイラル」から抜け出そう!と日本中にエールを贈ります。今回の本では、自分がなぜこういう活動をするようになったかにも触れ、生きかたを模索している若者にも希望を与えます。」
目次:
第1章 どんとこい、自己責任論!
その1 努力しないのが悪いんじゃない?
その2 甘やかすのは本人のためにならないんじゃないの?
その3 死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?
その4 自分だけラクして得してずるいんじゃないの?
その5 かわいそうだけど、仕方ないんじゃない?
コラム どんとこい通信
知らなきゃソンする!働くときの基礎知識
目ん玉飛び出る!日本の教育費
おかしくないか!富の再配分
とっても大変!「ネットカフェ難民」
どうなってるの!派遣労働と「派遣切り」
関係なくない!ホームレス問題
頼りにしてるぜ!生活保護
どえらいこっちゃ!世界大不況
そうだったのか!社会保障の歴史
なんじゃこりゃあ!グローバル化経済競争
まとめ 自己責任論は上から目線――そんな社会で、まだ暮らしたい?
ちょっとひと休み あなたの「溜め」度を測ってみよう!
第2章 ぼくらの「社会」をあきらめない。
その1 きみがいま、あるいは将来そのさなかにいるのならば
その2 変わるべきはぼくらの社会だ、ときみが思うならば
その3 きみが、生きやすく暮らしやすい社会を目指すならば
どんとこい対談 真摯に、そしてひとかけらの笑いを 重松清×湯浅誠
※冒頭、イス取りゲームを紹介し、座れなかった人間に注目するのを「自己責任論」、イスの数が足りなかったことに注目するのを「構造的見方」と紹介し、世間一般は「自己責任論」をとり、「がんばり地獄」さらに「ずるさ狩り」に落ち込んでいるが、著者は一貫して後者の「構造的見方」こそ本質的問題であると主張する。
*貧乏と貧困は違う。幸せな貧乏は存在するが、幸せな貧困は存在しない。
*117ページ:貧困状態に放置された人の選択肢は五つのみ:①家族に頼る、②自殺する、③罪を犯す、④ホームレス状態になる、⑤NOと言えない労働者になる。 ⇒「NOと言えない労働者」とは、寝る場所が無いから「寮付き、日払い」の仕事しか探しようのない人たち。彼らの存在を「かわいそうだが、仕方がない」と無視、放置することによって、実は労働市場全体の労働条件がずるずるっと下がって、日本社会はこの十数年間、ずっと「<貧困スパイラル>の墓穴を掘ってきた!」のだ。生活保護の積極的活用によって、彼らが“溜め”を保障されることで、「寮付き、日払い」にNOと言える労働者になり、労働市場全体が売り手市場になって、これまでとは逆に上昇を始める条件が整うのである。社会保障制度の成立が、1880年代(帝国主義時代)のドイツのビスマルクによるのも偶然ではない。社会保障制度は、歴史的に、お荷物どころか、どの国でも国力を強化するために採用・充実されてきたのである!。
*第1章のまとめは、著者の感性と心意気が横溢していて、実に秀逸で、大いに首肯した!。カタルシス!。これだけでも、本書には値打ちがある。
「自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることだ。/弱っている相手を黙らせること。これは弱い者イジメだ。/弱い者イジメをする人間は、いつの世も、強い者には絶対に歯向かわない。強い者に対しては「自分も仲間に入れてください」と媚びる。自分が強い側にいなければ、弱い者イジメができなくなるから、弱い者イジメをしている自分はいつか仕返しされるんじゃないかと怯えているからだ。だからかっこ悪い。/そして、弱くイジメられている者たちは、なんとかそのみじめな状態から抜け出そうとして、より弱い者たちをイジメようとする。そうすると、自分が強くなったような錯覚をもてるからだ。そうやって、大きい弱い者イジメの下には、たくさんのプチ弱い者イジメが横行し、それがまた下にさらに小さい弱い者イジメを生み出していく。/誰もが誰かにはイジメられつつ、同時に誰かをイジメているような状態だ.。こうなると、世の中全体がかっこ悪くなる。生きづらい社会になる。/このポイントは、誰も幸せでない、ということ。誰ひとり、満ち足りて幸せを感じられる人がいない社会。誰もが誰かには「足りない」と言われ、誰かに対しては「足りない」と言い、結局誰も彼も「足りない」、満ち足りない社会。自己責任論は、そういう社会をつくる。/そういう社会で暮らしたい? 私は暮らしたくない。」
*185ぺーじ:「できることなら、この社会全体が安心できる居場所にならないものかと考えている。/それは具体的にどうすればいいのか。どうすれば、生きやすく暮らしやすい社会になるのか。どうすれば、“がんばり地獄”から脱け出して“ずるさ狩り”を止め、上から目線の自己責任論を唱える人たちがいなくなるのか。どうすれば“貧困スパイラル”が止まるのか。少なくとも、そういうことはみっともないことだ、止めなければならないものだ、という価値観(見方)が社会に定着するのか。私にもわからない。だから、私も探し中だ。/あなたの探しものはなんですか? それはひょっとしたら、私と同じものじゃないですか?」
*著者の文章を読んでいて泣けてきた。
205ページ:「出てきた結果をくらべて、そこからさかのぼって努力の量を測れば、大きな結果を出した人はたくさん努力したことになり、小さな結果しか出せなかった人はあまり努力しなかったことになる。こういう見方(「成果主義的努力観」という)が、自己責任論を増やし育てる培養器になっている。「結果がすべてだよ」という考え方だ。/そこで見ようとされていないのは、「その人なりの努力」だ。「その人なりの」とは「その人の“溜め”に応じた」というのに等しい。そして私は「その人なりの努力」をきちんと見て評価できない社会は“溜め”の小さい、貧困な社会だと思う。/なぜなら、そういう社会では、自分と相手の“溜め”の大きさのちがいを自覚せず「そんなこともできないのか」と簡単に人をバカにする人間が増えるから。人の人生をナメた輩が増えるから。そういう社会は、ひとりひとりを伸ばせないから。」
*267ページ:「スポーツにルールがあるように、市民社会にもルールがある。それは、つぎのようなものじゃないだろうか。/①自分の意見に自分の人格を埋没させない。真剣に意見を主張しながら、でもどこかで「反論をどうぞ」という余地(“溜め”)を残しておく。/②意見を交わす相手の“溜め”を増やす。一方的に説き伏せても、相手の“溜め”は増えない。“溜め”が増えれば関心が広がる。それが、自分が大切にしているテーマに対する尊重につながる。/そのルールを守るのが「市民」で、活動家やプチ活動家たちは、市民の中の市民だ。そうしてはじめて試合が成立する。そのフィールドが「市民社会」―私は、そんな世の中を夢想する。それはきっと、いまよりもずっと、生きやすく暮らしやすい社会なんじゃないか、と。もっとずっと貧困の少ない社会なんじゃないか、と。」
※ちょっと限界です。寝ます。もっともっと、書き出したいことは、あるけれども体力・気力の限界!(千代の富士かよ)。これは、良書です。推薦します。橋下大阪市長にも読んで欲しい!。皆さま、お休みなさいませ。