日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

小児科外来での出来事(その10)

2018-06-23 07:33:58 | Weblog
 長いこと仕事をしていると、病気で病んだ人を相手にしている仕事だけに、いろんな出来事があります。佐伯での開業生活では、8年半余で、毎日たくさんの子どもさんを診察していて、カルテ番号が、1万人ちょっと切っていましたが(←ダブリ全くなくて・・・)。

 開業前の病院で関与していた未熟児が大きくなって、高校に入学した時に挨拶に来た子どもさんもいましたし、今も、年賀状を頂いている(もう、大人になっていますが・・・)ケースもあります。
 仕事だからと割り切って、きつくても一生懸命に頑張らなければいけないと思いながらも、患者さんから感謝の気持ちを頂くと、とても嬉しくて、今までの苦労も吹っ飛んでしまいますね。

 平成27年3月14日、自分のブログに、以下の様なとても有難いコメントを頂いたことがありました。(これ以外にも、時々、突然、私のブログに、感謝のメイルを頂いて、感激すること、ありますが、残念なことに、どんな人だったか、思い出さないことが多くて・・・)
 先生、お久しぶりです。
 先生が佐伯市で医師をされていた頃、何度も入退院を繰り返していた者です。(小児喘息持ちだった女児…といっても沢山いるので分かりませんよね^^;)
 ふと先生の事を思い出したので検索してみたところ、このブログを発見しました。今も現役で多くのお子さんの命を救っているのですね。
 私も幾度となく先生に命を救われました。あまりに幼かったために当時の記憶は曖昧なのですが、それでも先生への感謝の気持ちを無くした事はありません。大分を離れたらしいという事は知っていたのですが、その後どちらへ移られたかまでは存じ上げておりませんでした。ですので今日このような形で先生のご無事を知る事ができ、大変嬉しく思っております。
 ・・・(以下省略)

 天草で、あるドクターから「いい話」を聞きました・・・→名古屋まで、結婚式に呼ばれたそうで・・・→
 「その子(女児)が小さい時に、白内障の手術をし、その時、自分はまだ若い研修医で、自分がメインで手術をしてなかったが、主治医だったので、その後、その子のコンタクトレンズ装置の管理などで、その親御さんと二人三脚で苦労しながら経過を診ていました。そして、その子が(九州の国立大学を卒業し)、立派な社会人となって、その子の結婚式に呼ばれました。で、参列して、驚きました・・・→何と、親族中心のこじんまりとした結婚式で、新郎側と違って新婦側は5人しかいなくて、私達夫婦と新婦の兄と新婦の両親だけでした・・・」と。
 で、言われました、「こんなことがあるから、小児科の先生も、小児科が辞められないんでしょうね・・・」と。
 そうですね、私の場合は、今は、もう、外来では、子どもを診察すると言うより、昔と違って、ゆっくりと診察している関係で、子どもと一緒に楽しく遊んでいるって感じ、いや、子どもから遊んでもらっているって感じですかね・・・いつも、子どもからパワーをもらっています、ありがとうございます(感謝合掌)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小児科外来での出来事(その9)

2018-06-22 06:58:57 | Weblog
その1、新生児が産まれる時、産科医が2回吸引しました。その後の経過を母親に説明に行くと・・・祖母もいて・・・祖母曰く→
 「この子(母親)も、ここで産まれました。その時は、こんなもんじゃなくて、何度も吸引して、心配しました。その後、そこがハゲて・・・今もハゲていますが・・・。この程度、もう慣れています・・・」と。

その2、小学校低学年の男児が頭部打撲で(慌てた感じの)母親に連れられて来ました。母親曰く・・・→
 「隣の人がつい最近交通事故に遭って、骨折して救急車で運ばれて行き、ちょっと遅れて(反対側の)隣の人が倒れて救急車で運ばれて入院し、こりゃ、次は私所ではと思っていたら、案の定、この子が頭を打って(救急車は利用しませんでしたが)・・・こんなことってあるんでしょうか?」と。

その3、幼児に喘息発作が起きて、幼児を(母親が仕事で忙しいので・・・祖母が連れて来ること、多くなっていますが、時に、祖父も・・・)祖母が連れて来て、私との会話・・・→
 「ばあちゃん、ずっと毎日飲んでる薬、なかったろ?」
 「いや、毎日、ちゃんと言われた通りに飲んでますよ?」
 「計算が合わないんですよ・・・」
 「いや、ちゃんとあげてますよ・・・」
 (これ以上、代理人を追求するのは非人間的と思って、ここで終わりにして、いつもの喘息の抗アレルギー剤を処方していますが・・・)

ぞの4、
 「先生、風邪でしょうか?」
 「風邪と言う病名、ないんですよ。」
 「園に言わないといけないんで、何と言えばいいでしょうか?」
 「急性鼻咽頭炎ですね。」
 「つまり、風邪って言うことでしょうか?」
 「そうですね、少し喉が赤いので、ウイルスと思います。」
 「と言うことは、風邪って言うことですね?」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分が言ったのですが・・・

2018-06-21 06:53:36 | Weblog
 フェイスブックで、次女(バイオリニストWAKAKO)が、友達に紹介していて、見ると、内容が納得出来る内容なので、紹介させて頂きます。(2013年6月4日に次女に送った内容、父からのメールより)
 『お誕生日、おめでとう。1日1日が大切だけど、それなりに充実感を持って毎日を過ごしていれば、いいかな。「いつするか?→今でしょ・・・」で有名になっている予備校の林修先生が、 「アイウエオ」人生が大切とテレビで言っていましたが・・・→
・ 「アイ(愛)」を大切にして、
・ 「ウン(運)」を信じて、
・「エン(縁)」を切らずに、
・「オン(恩)」を忘れずに、生きる事が大切って感じで言っていました。
 この広い世界で、沢山の人間がいる中で、自分に関わっている人何て、その割合から見ると、0.00000000・・・・1%しかない。そう思うと、人の悪口を言ったり、ぶつぶつ言っても、しょうがないね。
 お父さんの好きな言葉は、「カキクケコ」人生だよ。
  「感謝」して生き、「緊張」を時々して、(緊張ばかりすると自律神経のアンバランが起きるので) 時々「くつろぎ」、途中であきらめることなく「継続」してある程度ものにし、そして、常に「志を高く」立てて生きる。
  「誠実・寛容・感謝」大切だね。「人間、万事塞翁が馬」で、人生に無駄はないよ。
 父 』
 林修先生の「アイウエオ」は、完全に忘れていました。私の「カキクケコ」は、今も、しばしば、周りに話しています。
 佐伯にいた時は、講演をよく頼まれて、いろんな所で話していました。で、数が多くて、どこでどんな話をしたか、覚えていなく、突如、「先生から言われた、・・・の言葉、今も、大切にしています・・・」何て言われて、言った本人が覚えてなくて、気まずい思いをしたこと、しばしばあります。誠に、申し訳ありません。
 今は、講演依頼、ないです。(院内の母親学級ぐらいでしょうか)

*写真は、平成17年7月のトロント、平成24年4月の鎌倉、平成24年6月のパリ。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気もらいます・・・

2018-06-20 06:53:12 | Weblog
 藤井聡太七段(15歳)、四段からアッと言う間に、五段、六段、そして七段になった。
 その腕、AIの読みを超えた対局もあって、AI越えとか言われている。
 対戦中の姿、正に、武士って感じで、どう見ても、高校生に見えない。実際は、今年、愛知県の高校に入学している。科目の中では、答えがはっきりしている数学が一番好きとのこと。
 私も、詰め将棋、毎日、頑張っています。ボケ防止にいいかな?!
 高校生で、世界ランキング10に入っている、卓球女子の伊藤美誠(17歳)と平野美宇(18歳)、両者とも、中国勢に勝っての優勝の経験がある。
 それに、世界ランキング10位になっている中学生の張本智和(15歳)、先の試合で、中国勢に勝って、シングルで、伊藤美誠と同じく、優勝した。
 卓球は、一般の人にも、手頃なスポーツだけに、親しみが沸く。見ていて、こちらも力が入る。
 (今は、故障でちょっと残念ですが)投打に活躍して、ベーブルース以来の逸材と言われている、メジャーで大活躍の大谷翔平(23歳)。目標は、メジャーでトップになることはもちろん、それを長く維持したとのこと。目標が凄いなあ。
 羽生結弦(23歳)、連続してオリンピックで優勝した。喘息持ちで、体調も良くなかったのに。それに、絶えず、もっともっとと技を磨いている。そのたゆまない努力は、折り紙付きだなあ。
 スポーツ選手、何故か、こちらも元気もらいます。この強者達、若いだけに、まだまだ、一緒にしばらく楽しめそうだなあ?!(→これからも、楽しませて頂きます。)
 京都マラソン大会に参加した(私と同じ職場で仕事をしていた)身近な人が・・・「ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥氏(55歳)がいて、一緒に走ったけど、スピードが自分と全然違って、メチャ速くて、直ぐに見えなくなって、驚いた・・・」と言われていました。
 高齢になっても、山登りで頑張っている三浦雄一郎氏、75歳で、エベレスト登頂に成功(世界最高齢)、こちらも、元気もらいます。 
 中曽根康弘さんも、100歳越えて、元気ですね。お茶をたしなんでいるせいでしょうか?!
 アッ、それに、佐伯出身の嘉風関(大西君)、彼が勝つと、ホント、元気出ます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生で後悔していること・・・

2018-06-19 07:19:18 | Weblog
 アメリカでの興味深いデータですが、80歳以上の老人のアンケート調査ですが、「人生で、最も後悔しているのは、何ですか?」の質問に、70%の人が、全く同じ回答をしています。それは、以下の20です。
 貴方はどうですか?

1,他人がどう思うか、気にしなければ良かった。
2,幸せをもっと噛みしめて生きるべきだった。
3,もっと他人の為に尽くせば良かった。
4,くよくよと悩まなければ良かった。
5,家族ともっと時間を過ごせば良かった。
6,もっと人に優しい言葉を掛けていれば良かった。
7,あんなに不安を抱えながら生きなければ良かった。
8,もっと時間があれば・・・
9,もっと思い切って冒険すれば良かった。
10,自分を大切にすれば良かった。
11,他人の言う事よりも自分の直感を信じれば良かった。
12,もっと旅をすれば良かった。
13,もっと沢山恋愛すれば良かった。
14,もっと一瞬一秒を大切に過ごせば良かった。
15,子ども達に好きな事をさせてやれば良かった。
16,言い争いなどしなければ良かった。
17,もっと自分の情熱に従うべきだった。
18,もっと自分の為に頑張れば良かった。
19,もっと自分の本音を言うべきだった。
20,もっと目標を達成すれば良かった。

 70%もの人が同じ後悔をしていると言うことは、80歳にまだならない人にとっては、いい助言になるかと思います。
 時間は、皆、平等に与えられています。この世にオギャーと言って産まれた時から、既に、全ての人に、亡くなるまでの生きる期間が、毎日毎日、一瞬一瞬、短くなっています。それがいつゼロになるのか、予想は立てられても、(地震と同じで)正確に言い当てることは、誰にも出来ません。
 生きる上で、今が一番若い訳で、今からでも、それなりに修正が効きます。
 「時は今!(今でしょ!)」です。
 今日は、今から、何をして、過ごしますか?明日は?来週は?来月は?そして、来年は?更には、5年後は?10年後は?
 生きる目的は何ですか?それを達成する為の取り敢えずの目標は、何ですか?

https://www.youtube.com/watch?v=lzqjhh3WRuo






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小児科外来での出来事(その8)

2018-06-18 06:43:58 | Weblog
 「明日、運動会があって、人数が少ないので、本人が主役のもあり、出ない訳にいかないんですが、駄目ですか・・・?」何て、質問をしばしば親御さんから受けます。
 「まあ、医者の立場では、いいとは言えないけど、・・・まあ、結婚してもいいですかと聞かれて、駄目と言っても、結婚することあるでしょ、それと同じかな?病気は、直ぐには治りませんから。まあ、明日になって、考えて下さい・・・」何て、返答していますが・・・。

 「目やにが出てくるので、目薬下さい。虫刺されがあるので、付け薬下さい。で、熱冷ましとテープ下さい。アッ、それから、乾燥肌のいつもの保湿剤も下さい。」
 こんな感じで、よく言われることが多くなりました。咳止め、鼻水止め、抗生剤、要求されることもありますが、その点に関しては、必要ないと思えば、説明して、遠慮してもらっていますが・・・。

 私の子どもが小さい時、外来で、時々言われていたことですが・・・
 「先生の奥さんって、いいねえ。子どもが病気になっても、病院に行かなくても、診察いつでもしてもらえるし、薬、待たなくても、簡単にもらえるし・・・。」と。
 ところが家内から次の様に私は言われていました、「子ども、聴診器しっかり当てて、咳長いんだから、ちゃんと診てね。もう、自分の子どもには、いい加減なんだから・・・」と。

 佐伯で開業していた時、外来で、時々、尋ねられていました。
 「先生の子どもさん、先生の後を継ぐんですか?」と。「いや、それはないです。それは、全くないです。子どもは、子どもの人生ですから・・・」と答えていました。
 で、3人の子ども、疲れ切った私の姿をいつも見ていたので、医療の道に進むことに関して、マイナスのイメージしか与えてこなかったと思っていたのですが、一番上の長女が、カイロプラクターになって、今、ニューヨークで平成22年に開業して、配偶者と一緒に頑張っています。
 アメリカでは、カイロプラクターは、医学部と同じく大学卒から入学し(大学院的存在)、医学部並みに、人体解剖などの実習もあり、しかも、国家試験も、4回もあって、なれるまでが大変でしたね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐伯・・・

2018-06-17 16:46:14 | Weblog
 佐伯に2泊してきました。で、とても悲しいことがありました。私のよく知る同級生が、他界されていました。
 1ヶ月程前に、佐伯に帰った時、金水苑で、一周忌を忍ぶ会が開催されていて、名前を見て、驚きました。高校の時に同じクラスにいた人で、市会議員をしていて、住んでいる所も、私の家の直ぐ近くで、その彼が、1年前に他界していたのです。全く存じ上げなく、ただただ、残念の気持ちで一杯でした。
 それから、今までに(この1年以内に)、(レストランを経営している私と同級生の話だと)H君が亡くなり、S君が亡くなり(息子が小さい時に彼の奥さんから絵を教わっていた)、Y君が亡くなり、驚きの連続でした。そして、医師のY君も、他界されていました。
 Y君は、小学校の時にも、高校の時にも、同じクラスで、小学校の時は、自宅(父親内科小児科医で開業)に行って、一緒によく遊んでいました。
 Y君は、特殊な分野で、周りのドクターも、一目置いていて、私も、相談したことがあり、ユニークな年賀状を毎年頂いていました。残念無念。
 このまる1年前後の間に亡くなった同級生の中に、女性の名前はなく、全て男性で、皆、穏やかで、人当たりが良く、皆に好かれていました。佐伯に住んでいる人ばかりだったので、もっと、生前に、話をしておかば良かったなあと悔やまれます・・・(合掌)。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小児科外来での出来事(その7)

2018-06-17 14:53:26 | Weblog
 乳児とまだ2歳の共に男の子で来院した母親に、「お母さん、上の子ども、大変でしょう・・・」と言うと、「いや、もっと大きな男の子が、一番手を取ります・・・」って感じで言われて、初め何のことか、分からなかったのですが、母親と看護師さんが笑っているので、そうかと気が付きました。(今は、イクメンの男性も、多くなりましたね)

 兄弟で来た時は、私は、年長者から診察をします。で、時に、下の子が、初めにしてと言い張るケースもあり、仕方なく、そうすることもあります。付き添いで来て、診察してくれないと言って、駄々をこねる子もいます。昔は、病院って、怖いところだったのですが、今は、そうでもないようですね。

 子どもが喘息発作(今は、急性喘息憎悪と言うべきか?)で、しばしば来院していて、その母親から言われたことがあります、「先生の写真、もらえないですか、先生の顔を見ると、発作が軽くなるんで、家に張っときたいのですが・・・」と。
 更には、又、別の母親からは、「先生の家の近くに引っ越そうかとも思っているんですが・・・」と。(私が佐伯で開業して入院設備を持っている時、大分市の方からわざわざ来て、入院となるケースもありましたが。)

 前の職場(天草)でのことでしたが・・・
 独りで小児科の入院を持って、(小児科医の応援なく)休むことなく時間外も頑張っていて、頭痛が時々して、血圧が高めになっていました。それを、外来の看護師さんにもしばしば話していました。
 ある時、病院のピッチを、住んでるアパートの部屋に忘れた状態で、医局でゆっくりしていました。で、外来に小児の急患が来て、いつもは、私が直ぐに出て返事をするのに、しないものだから、救急外来の看護師さんが、大慌て。「田原先生が、高血圧で、部屋で倒れているんじゃないか・・・?!」と言うことになって、鍵を持って、私の部屋を開けるまでになって。
 で、私が、ふと医局から救急外来に行くと、「センセーイ!、もう、ドキドキして、部屋に見に行きましたよ・・・」と言われました。(申し訳ありませんでした)

 今の職場(延岡)でのことですが・・・
 外来で、大きな音がしました。で、調べると、授乳部屋のペイパーホウルダーの留め金が外れて、下に落ちた時の音でした。
 看護師さんから、言われました、「田原先生が倒れた音かと思いましたよ。先生でなくて、良かったです。」と。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶道と私・・・

2018-06-15 07:01:14 | Weblog
 趣味は、篠笛(福原流)、和太鼓(盆太鼓を含む)、ハーモニカ、手品、独りボランティア演奏、書道、旅行(国内・海外)、多国語(フランス語5級、韓国語5級、中国語準4級、ドイツ語4級)、囲碁、将棋、ヨガ、太極拳(剣)、ブログ記載(日本の心・さいき)、執筆(為になるかも知れない本を2冊、自費出版)、茶道(裏千家)などと、いろいろありますが、その中で、一番エネルギーを費やして来たのは、茶道です。
 茶道(正確には、ちゃどうと言います)の奥の深さに、驚かされます。ただ、お茶を飲むのに、これだけの凄い体系が創られているのです。
 佐伯市にある救急病院にまる8年間勤務後に、大学から独り小児科医常勤を派遣して頂いて、その時に、時間が出来たので、仕事以外の趣味を考えました。で、何をするかといろいろ考えて、精神的なものと体力的なもの、それぞれが必要と思って、それを、「茶道」と「ヨガ」としました。
 茶道を習得する時、弟子を持つと腕が飛躍的に上がるとのことで、看護師さんに下手なりにも教え、スタッフを次第に集めて、お茶会をする寸前まで行ったのですが、崩御の時と重なって、遠慮しました。(私の案で、西田病院茶道同好会が出来、私がその会長でした。)
 佐伯市では、自宅の近所の子どもさんを集めて(私の次女と長男も参加して)、「子ども茶会」を創設し、それによるお茶会を頻回にしました(母の手創りのお菓子を添えて)。又、外国の人にも教え、お茶会では、お点前もして頂きました。
 たはら小児科医院では、開業の時も、閉院の時も、お茶会をしました。途中、佐伯市立の茶室「汲心亭(きゅうしんてい)」で、佐伯市民を招いて、お茶会をしました。私の師匠による(たはら小児科医院の)月1回の茶道教室では、しばしば、この汲心亭を利用しました。
 大川市の高木病院に就職した時にも、お茶会をしました(茶道具を持って行ってました)。それも、数回。
 その後、大分市戸次の「天心堂へつぎ病院」でも、持って行った茶道具で、お茶会をしました。
 そして、天草に来てからは、毎年の文化祭の時に、しばしば、お茶会で、亭主として、点てました。(←篠笛演奏も、亭主でない時に、しました。)
 今は、残念なことに、お茶の練習は、していません。座ると脚が痛くなり、お茶会があっても、立礼(りゅうれい)しか、参加できない状態になっています。
 (倉庫に眠っている)茶道具を有効に使える方法を思案中です。

*写真は、高木病院→天心堂へつぎ病院→(上天草市立上天草総合病院に隣接する)上天草市立上天草看護専門学校でのものです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルコールと私・・・

2018-06-14 19:09:32 | Weblog
 大学にいた時、時々、〇〇町立病院に1週間程、泊まり込みで行って、診療していました。
 そこに勤める常勤の内科のドクターと一緒に、夕方から、アルコールが入って、雑談していました。
 翌朝、私が回診していると、一緒に飲んでいたドクター、二日酔いって感じの顔をして、回診していました。
 で、言われました、「こんな強い人、初めて・・・」と。
 前日の夕方からの雑談の時、ダルマ(ウイスキーサントリーオールド)を1本空けて、それも、私が、チョビチョビでなく、グイグイと、水を飲む感じで・・・更に、ダルマ半分程空けていましたが・・・。(殆ど、私が飲んだ感じで)
 アルコールとの本格的な出会いは、大学に入った時で、歓迎会で、ビールや焼酎などを飲まされて、帰ると、息苦しくて、背中が痛くて、長いこと眠れなくて、難儀したことを覚えています。
 ジンフィーズが美味しいなあと思っていたのですが、大学卒業後、たまたま、カカオフィーズを勧められて、飲んだ時があって、これ、美味しいなあと思って、それを飲む時期がしばらく続きました。
 しばらくして、ウイスキーのダルマを飲む機会があって、これが、更に美味しいと思い、それに変更して飲む時期がかなり続きました。
 更に、好みが、いろいろと変化して行き、ウイスキーがブランディーになり、それが、イイチコや二階堂麦にもなり、そして、冷酒へと変化して行きました。ワインがとても美味しいと思う時もありました。
 で、アルコール瓶を集めることにも懲り、自宅の半地下室には、100本近く程、(空けてない)ボトルが並んだこともありました。(←今は、残念ですが、1本もないです。)
 で、今は、年に5回もアルコールを取ればいい方で、それも、ワインのことが多い感じですが。
 今の私は、宴会でも、全く飲まないので、昔の私を知っている人は、驚きます。元々は、アルコールには、父からのDNAの関係で、強いのでしょうが、今は、ちょっとでも飲むと、翌朝、頭が痛くなり、又、血圧も上がりますので、飲まないと言うより、飲めません。
 家内と一緒に食事をする時も、家内は、ビール(やワイン)で、私は、ウーロン茶を飲んでいます。
 昔、佐伯の救急病院で勤務をしていた時、夜、MRさんと一緒に、(救急医療の合間に)飲みに出て、電話があれば、又、病院に行って、又、飲みに出てって感じのことが何度もありました。
 時々、大学から来てもらって、代診してもらっている時は、スタッフ沢山と一緒に食事会をして、必ず、二次会もすることが多く、二次会では、メチャクチャ、飲んでいました。フラフラ状態になるまで。(←こんなことが長く続けば、必ず、身体を壊しますね。周り見ると、酒とタバコを殆ど毎日欠かさない生活をして、仕事が超熱心な人、例外なく、倒れていますね。私は、タバコは、全く無縁でしたが。)
 いつから、アルコールを飲まなくなったのか、私自身も、はっきりと分かりません。いつの間にかですね。
 そのきっかけは・・・→佐伯の救急病院勤務の時、小児科の忘年会で、どうしても代診がなくて、しかし、控えめに飲んでいたのですが、夜の8時過ぎに、脱水のひどい子が来て、どうしても点滴をしないといけないことになり、いつもは入る点滴が、入らなくて、何度かしてやっと入り、そのことで、しばしばナースから、「先生、あの時、入らなかったね・・・」と、何度も言われて・・・(←ああ、やっぱり、医療をする時は、アルコールは、少しでも駄目だなあと思う様になって・・・)。
 又、やはり、佐伯の救急病院勤務の時ですが、アルコールの匂いがしない様にと、普段の平然とした顔をして、親御さんの顔を見ないで話す様にして、診察していると、親御さんから、「小児科の先生、大変ですね、こんな時(土曜日の夜)に、皆、宴会で飲み歩いているのに、先生の場合は、酒も飲まないで・・・」と言われました。飲んでいるとは、言えず、ああ、やはり、救急医療をする医者は、飲めないなあと思いました。
 で、今は、宴会でも、アルコール全く飲まず、ウーロン茶を飲んでいます。晩酌したことも、ありません。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする