日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

広島原爆体験記(2/6)

2008-08-03 18:23:37 | Weblog
 どのくらい空中にいたのだろうか?ふと気が付くと大木の折れる音、家屋の崩れる音、その他もろもろの轟音のする暗い民家の中から助けを求める声、呻き喚く声、人間であって人間の声ではない。先程までの広島は何処にあるのか?一体地球はどうなっているのか(どの様に表現したらいいのかわからない)。そして、先程まで私が引率していた部下は今何処にいるのか、一体、今どうなっているのか?
 私には重大な責任がある。あの物凄い爆風がだんだん薄れて行くに従って明るくなってくると、私と行動を共にして来た部下の姿が見え始めてきた。私の身近にいるはずである。まだ、はっきりと見えない。(後でわかったことだが、私は、右眼を負傷して視力がなかった)。
 やっと見えた。中腰になって戦友を助けている姿が、4、5名見えて来た。先程まで男前であった部下の美男子の顔は、今や一人もいない。汚れ果てた長虫が、血の中でのたうち回ってうごめいている。どうしようもない。私は今どうしたらいいのか?再び爆弾が投下されれば、私はどうでもいいが、全員が死んでしまう。 
 「早く防空壕に入れ!」と何回もどなっているのに通じない様である。一体、自分の口から声が出ているのか、それもわからない。
 私は戦争でいつ戦死しても悔いのない、女性も知らない独身者である。部下の多くは、妻子のある兵である。何とかして一人でも部下を救いたい。ふと頭に過(よ)ぎった。陸軍兵器学校時代、実行演習中、相模原で(陸士と同じ場所)泥沼田の中で銃を両手に支え、泥まみれになり、ブドウ畑を前進中、若井区隊長から「近本、貴様、腰が高い」と言われて、鞘付きの軍刀で強く腰と尻を殴られ、非常に痛かった記憶が甦って来た。
かくなる上は、私の最後の手段を使う。一名の部下でも助けたい。尊い部下を助けたい。私はとっさに軍刀を腰からはずして持ち、正に鬼と化し、のたうち回る可愛い部下の連中の中に飛び込み、「早く防空壕に入れ!」と鞘の付いている軍刀で部下の背中・腰・尻を殴っていた(だが、実際にそうしていたかどうかわからない)。私は人間ではない、気違い野獣と化していたと思われる(果たして近くに避難すべき防空壕があったのだろうか)、ああっ、眼が見えない。無惨になっている地球が見えない。地球のどん底にいる(ここまでしか記憶にない)。後でわかったことであるが、この時、私は、頭部に3、4箇所のひどい裂傷を負い、血まみれになり、出血多量で倒れていたのである。
 
 「ガタン。」、私の体に大きなショックがあったのだろうか?何となく変だ。右の眼は全く見えない。左眼でボーッとかすかに何かが見える。私は何をしているのだろうか?ここは一体どこなのか?私は普段は、柔らかいベッドで寝ている筈なのに、今の背中の下は硬い。すぐに当番兵を呼んだ。寝ている私の足下に二人の兵がぼんやりと立っているのが見えた。オオ、俺は大負傷している。私の体は全身血まみれで、ハエが蜜蜂の様にブンブンとくっついていた。私は生きていた。足下に立っている二人の兵に、「早く連れて行ってくれ!」と声を掛けた。 
 とたんに兵は、「上官殿は生きているぞ!」と言い、頭の傍に立っている兵に、「どうしようか・・・」と言っている。私は、生きているので、病院か本隊に連れて行ってくれるものと思っていた。「どうしようか」とは、何事ぞ。「とぼけたことを何を言うのか」、この野郎何を考えているんだ。気力のない私は、頭を左に傾けた。
 3、40メートル先に、赤々と大きな火の固まりが燃え上がっている。4人の兵は、茫然として立っている。
 わかった!私を死体置き場に運搬中なのだ。今にも火の中に投げ込まれる寸前であった。「おう神様仏様、人間、生と死の間は、どちらを取っていいのでしょうか。私は、生を取りました。生と死は、わずか2、3分間で決まりました。

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広島原爆体験記(1/6)

2008-08-03 11:56:40 | Weblog
  「おおう、今日もB29が1機空高く飛んでいるなあ。」と、私は隣の町田伍長に話し掛けた。
 「そうであります。4、5日前から毎日飛んでいるのに、爆弾1つも落とさないで、何の目的で飛来しているのかわからないですが、高射砲の弾丸でも怖いのでしょうか?」1万メートルの高度にて飛行中である。
 私は、陸軍兵器学校の専門の生徒の出身であり、三年生卒業前に大阪造幣所局に実習に行った時、高性能の自動一式高射砲が試作中であるのを知っていた。この新型高射砲は、軍事機密であった。当時広島には旧式の88式高射砲の陣地しかなく、高度5千メートルしか爆発信管調整が出来ないことを知っていた。だから、頭上高く飛来しているB29は、平気そのもので飛行中であったのだろう。私は船舶司令部整備教育隊より兵60名を引率し、比治山の兵器所に向かう軍事行動中にあった。
 その日、8月6日の朝8時頃であったろうか、雲一つない晴天に太陽は燦々と照り輝き、炎熱の電車通りを目的地に行軍中にあり、再び隣の伍長に「何処か涼しい近道はないか、暑くて堪らん。」
 実は、部下達も皆そうであった。とても細い路地道に軍行を進め、眼前に比治山公園を見た。思い出せば、数カ月前に田淵少尉と一緒に比治山公園の広場にて、初年兵の徒手教育訓練をしたなあと思った瞬間であった。
 突然にピカピカキラキラとあたかも電気のスパークの如き青白い光線が空を走って広がり、オレンジ色と化した。思わず熱いと驚いた間一髪、地球が破れんばかりのドカン、バリバリの強烈なる爆発音、耳は勿論、五体も張り裂けんばかり。とっさにあの大きなガスタンクに爆弾が命中したのかなと思った瞬間、今度は、ゴウーと物凄い音の轟く爆風の渦の中に巻き込まれ、一瞬、真っ暗な中で地上の全ての物が吹き飛ばされた。生き地獄の中の真っ只中にあり、私は地球上には立っていなかった。

 (この内容は、被爆者の方の御好意により頂きました。本人から浪人の時に大変お世話になり、又、何度も、当時のこと聞かされました。今は、残念なことに、故人となられていますが、故人の奥様とは、今も安否の連絡を取り合っています。被爆関係者の生の記録です。しばらく、続きます)

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咳止め雑感

2008-08-03 09:55:30 | Weblog
 去痰剤として医師になりたての頃よく使っていたビソルボンなる去痰剤、これって、痰が多くなるだけで、却って良くない感じがしているが・・・。レフトーゼやノイチ ームなどの去痰剤、子どもではアレルギーが怖くて、使い難いと思っています。よく使われているムコダイン、発疹が出た子がいましたが、めったになかったことなので、私は、ムコダイン+ムコソ ルバンを頻回に使用しています。
 去痰剤を使用したその夜は、かえってよく咳が出ることが多いので、親御さんにはそう説明しています。2晩目からは、咳が軽くなることが多いです。去痰剤と同時に気管支拡張剤のメプチンやホクナリンテープを処方することも多いですが、メプチンで副作用の出る子がたまにいます。メプチンよりも頻度は少ないですが、ホクナリンテープでも、気分が悪くなる子が時にいます。
 小さな子どもの場合には、その多くで咳止めは無意味なことが多いと私自身は思っています(全てではないが、大半が)。小さな子どもの場合、直ぐに湿性の咳になることが多く、咳止めで却って治りを悪 くしているのではと思うことが経験的に多いです。
 抗ヒスタミン剤(ペリアクチンやポララミンなど)+アスベリンでは、痰が粘稠になって、却って良くないのではと思っていますが、この処方をされているケース、多いですね。むしろ、乳児の喘鳴では、私自身の個人的な意見では、禁忌ではとまで思っていますが・・・。
 (冬に乳児に多くRSウイルスが原因のことが多い)細気管支炎での吸入は、吸入の時間や回数など、点滴の速度と同じく、かなり細かく診てして行くべきだと思っています(私の場合、早期から漢方薬の清肺湯を使用していますが)。
 時に、細気管支炎と思っていたら、クループや喘息のこともありますし、又、細気管支炎と合併していることもあり、兎に角、小さければ小さい程急変することが多いので 、随時よく診ることが必要だと思っています(3カ月未満は、小児科医にとっても、急変するだけにその判断は難しいです)。
 抗生物質は、当たり前ですがウイルスには無意味(しかし、麻疹の時には、免疫力が落ちて細菌感染を引き起こすことが多いので、抗生剤をしばしば使用することがありますが)。強い抗生剤は、個人的には、腸内細菌のバランスを強烈に崩すので、禁忌とさえ思っています(やむなく抗生剤を使用した後は、殆どの例で、漢方薬を追加していますが)。
 退院後に咳が止まらず、その原因が何かよく分からず、長いこと掛かって父親(時に母親や祖父)の喫煙と判明したことがありました(最近では、咳が止まらない場合、まず、同居の人の喫煙の有無を尋ねています)。つい最近の痛い経験では、大きな子どもの百日咳( 百日咳の多くでは、熱がなく、予防接種をしていたり、大きな子どもさんですと百日咳独特の咳をしないことがあります)があり、(独特の咳を典型的にするまで百日咳を疑わなくて)見落としていました。


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