福島原発事故に至るまでおよびその後のマスコミの報道のあり方について、『朝日新聞』は2012・12・28夕刊に、1年間連載した「原発とメディア」をふりかえる特集記事を2ページにわたって載せた。自らを検証する作業を1年間つづけた努力は認めたい。『朝日』自身原発容認だったことを認めた。だが、原発反対運動を報道しなかったことを、民意をとらえるアンテナがマスメディアは低かったという程度で、反省の度合いは低い。
朝日はじめ各社は、原発事故以後、澎湃とわきおこる反原発運動を存在しないかのように無視し続けた。これが事実だ。事故以前の原発容認推進、原発広告費による事実上の買収以上に、事故後の運動敵視、運動無視の姿勢こそが悪質だとわたしは思っている。その中では、運動敵視・無視を批判され、姿勢を大きく改めた『東京新聞』が唯一評価できるものだ。東京の何人かの知人は『朝日』をやめて『東京』に替えた。外国の政治動向をさぐるときには、労働者の運動、反政府運動を詳しくとりあげるのに、おひざもとの日本の政治については、運動の動向は一切無視し、政局報道に血道をあげる。これが日本のマスコミの姿だ。これでは真実に接近できないことはもとより、事実を国民の目から隠すという犯罪的結果をまねく。日本のマスコミがウソつきだといわれるのは決して極端な見方ではない。わたしはすべてウソだというのではない。政治権力、経済権力に有利なように事実報道を操作していること、とくに労働者・国民の運動を一切報道しないことが虚偽報道なのだ。
わたしがここでとりあげたいのは、総選挙での原発報道だ。選挙報道は問題によってさまざまな内容がある。ここで各政党の原発政策を報道することは、選挙報道であるとともに、原発報道でもあるということを、いささかもあいまいにしてはいけない。
『朝日』では、選挙報道の枠組みを、民主、自民、未来・維新の3つの極の対立とし、最後までこの枠にあてはめて報じつづけた。原発問題をこの枠組みで見ることが、総選挙で正しい判断をみちびくことになるのか。『朝日』は確か3度、やや大きい原発政策の検討記事をのせた。わたしはこれを見て、朝日新聞は死んだと思った。なさけない記事だった。怒りがこみあげた。
2039年までにゼロをめざす民主、何の反省もなく推進姿勢がみえみえの(今は改めて新設を表明している)自民、国政進出の目玉にできると政治利用満々だったが石原との合併で平気で方針をかえた維新、10年後に卒業という未来、この4つだけが原発政策でとりあげる価値のある政党だという見立てを『朝日』はおこなった。最後までこれを貫いた。未来の小沢一郎氏は選挙中一度(最初にして最後)官邸前の脱原発集会にきて、テレビカメラを前にスピーチをして、し終わったらさっさと帰って行った。(報道するならこんなことも報道しろ!)こんな4つの政党のどれをいじくりまわしても福島の惨事に真正面から応える道はでてこない。
原発即時ゼロで廃炉の過程に入ることを提起している共産党、社民党を選択肢から排除する原発選挙報道を虚偽報道といわずして何というか。とくに共産党は日本が原発を導入する時から、各地の原発建設に地元住民とともに建設反対を貫き、多くを断念に追い込んできたたたかいの歴史を持ち、福島についても吉井英勝議員が巨大地震による電源鉄塔の倒壊、津波による電源喪失を指摘し、緊急の対策を求めてきた。この共産党のこれまでの取り組み、政策を無視して排除し、民・自・未・維の政策を検討すれは選挙での原発問題の正しい判断ができると、読者を誘導した。今も16万人が避難をしている未曾有の原発事故を政治的に判断する機会を、明らかに誤った枠組みに読者国民を引きずって行こうとしたのは、報道機関の死を意味する。
総選挙の原発報道は原発報道の結論部分だといっていい。ここであきらかなウソ、虚報が堂々とまかり通ったことに怒りを禁じえない。反原発運動をまったく報じない、途中からは申し訳程度に報じる、しかし共産党などの原発へのかかわりを国民の目から隠すということは徹底するという報道姿勢は不変だ。12月27日までつづいた原発報道の検証記事が、選挙での原発政策を原発報道だと認識していないのは、検証記事として失格だ。
朝日はじめ各社は、原発事故以後、澎湃とわきおこる反原発運動を存在しないかのように無視し続けた。これが事実だ。事故以前の原発容認推進、原発広告費による事実上の買収以上に、事故後の運動敵視、運動無視の姿勢こそが悪質だとわたしは思っている。その中では、運動敵視・無視を批判され、姿勢を大きく改めた『東京新聞』が唯一評価できるものだ。東京の何人かの知人は『朝日』をやめて『東京』に替えた。外国の政治動向をさぐるときには、労働者の運動、反政府運動を詳しくとりあげるのに、おひざもとの日本の政治については、運動の動向は一切無視し、政局報道に血道をあげる。これが日本のマスコミの姿だ。これでは真実に接近できないことはもとより、事実を国民の目から隠すという犯罪的結果をまねく。日本のマスコミがウソつきだといわれるのは決して極端な見方ではない。わたしはすべてウソだというのではない。政治権力、経済権力に有利なように事実報道を操作していること、とくに労働者・国民の運動を一切報道しないことが虚偽報道なのだ。
わたしがここでとりあげたいのは、総選挙での原発報道だ。選挙報道は問題によってさまざまな内容がある。ここで各政党の原発政策を報道することは、選挙報道であるとともに、原発報道でもあるということを、いささかもあいまいにしてはいけない。
『朝日』では、選挙報道の枠組みを、民主、自民、未来・維新の3つの極の対立とし、最後までこの枠にあてはめて報じつづけた。原発問題をこの枠組みで見ることが、総選挙で正しい判断をみちびくことになるのか。『朝日』は確か3度、やや大きい原発政策の検討記事をのせた。わたしはこれを見て、朝日新聞は死んだと思った。なさけない記事だった。怒りがこみあげた。
2039年までにゼロをめざす民主、何の反省もなく推進姿勢がみえみえの(今は改めて新設を表明している)自民、国政進出の目玉にできると政治利用満々だったが石原との合併で平気で方針をかえた維新、10年後に卒業という未来、この4つだけが原発政策でとりあげる価値のある政党だという見立てを『朝日』はおこなった。最後までこれを貫いた。未来の小沢一郎氏は選挙中一度(最初にして最後)官邸前の脱原発集会にきて、テレビカメラを前にスピーチをして、し終わったらさっさと帰って行った。(報道するならこんなことも報道しろ!)こんな4つの政党のどれをいじくりまわしても福島の惨事に真正面から応える道はでてこない。
原発即時ゼロで廃炉の過程に入ることを提起している共産党、社民党を選択肢から排除する原発選挙報道を虚偽報道といわずして何というか。とくに共産党は日本が原発を導入する時から、各地の原発建設に地元住民とともに建設反対を貫き、多くを断念に追い込んできたたたかいの歴史を持ち、福島についても吉井英勝議員が巨大地震による電源鉄塔の倒壊、津波による電源喪失を指摘し、緊急の対策を求めてきた。この共産党のこれまでの取り組み、政策を無視して排除し、民・自・未・維の政策を検討すれは選挙での原発問題の正しい判断ができると、読者を誘導した。今も16万人が避難をしている未曾有の原発事故を政治的に判断する機会を、明らかに誤った枠組みに読者国民を引きずって行こうとしたのは、報道機関の死を意味する。
総選挙の原発報道は原発報道の結論部分だといっていい。ここであきらかなウソ、虚報が堂々とまかり通ったことに怒りを禁じえない。反原発運動をまったく報じない、途中からは申し訳程度に報じる、しかし共産党などの原発へのかかわりを国民の目から隠すということは徹底するという報道姿勢は不変だ。12月27日までつづいた原発報道の検証記事が、選挙での原発政策を原発報道だと認識していないのは、検証記事として失格だ。