山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

オリンピック精神とスケートボード

2021年08月16日 11時46分29秒 | Weblog
 オリンピック中止世論をバッハ帝国主義とアベスガ権威主義が押し切ったのが東京オリンピックだった。7月の東京は温暖、福島の汚染水はアンダーコントロールという嘘で世界を騙して誘致した。くわえて復興五輪にコロナに打ち勝った証し。戦後最大のパンデミック下で、感染者が空前の規模に膨らむ緊急事態五輪。秋の総選挙のためには何としてもオリンピック。いやしさがまとわりつく。歴史的という言葉とは正反対の。イベント資本主義のシンボルのオリンピック。金まみれの極致だ。
 装置としてのオリンピックはもはやその本来の意義を失っている。商業主義、メダル至上主義、国家主義がここまでくると、クーベルタン男爵もオリンピックはもうやめた方がいいというだろう。いまやメダルを取った選手は必ずと言っていいほど国旗をかざして走り回る。
 今回のオリンピックで目に付いたのがスケートボードだ。今回から種目になった。13歳の少女がメダルを取ったことで一躍注目された。技を失敗すると国を超えてみんなで残念がり、成功すると共に喜ぶ姿が新鮮だった。ここに本来のオリンピックを見た。
 オリンピック種目には戦闘、武闘から発してルール化したものが多い。古代ギリシアで絶え間ないポリス間の戦争を4年に1回中止して技を競ったことに由来する。アジア発の柔道や空手やテコンドーもそうだ。いっぽう球技は遊びから発展したものだ。
 山際寿一さんは「スポーツの起源は遊びである」、本来の意味は「気分転換」であり、貴族たちの野外の余暇活動だったという(「朝日」2021・7・26)ゴリラもよく遊ぶらしい。追いかけっこ、取っ組み合い、お山の大将ごっこ、数珠つなぎの電車ごっこなど1時間以上も遊ぶそうだ。遊びの特徴は、経済的な目的を持たず、体の大きい方が小さい方に合わせ、互いに役割を交代するそうだ。子どもの遊びもそうだったし、スポーツの神髄だ。始まったばかりのスケートボードは、今は本来のスポーツ精神があふれている。メダルを取った選手たちは日の丸をまとって走り回らなかった。
 スケボーで忘れられないのは、北野定時制でのスケボー同好会のことだ。もう数年で定時制が廃校になるころの2000年に、担任をしていた2人の生徒がスケボー同好会をつくりたいといってきた。職員会議で議論したが、コンクリート上でやるためその危険性が問題となった。ヘルメット、ひじ膝の防具を付けることを条件に認めることとなった。職員は生徒の力を引き出して学校づくりをしようと考えていたので、スポーツとして活動することを認めた。
 赤いコーンを2本交互に積んで、これを飛び越えることを練習した。夜の校舎の中庭にカンカンという音が響いた。4人ほどのメンバーがいたが、担任した生徒が卒業して、2年ほどで顧問の仕事は終わった。(『北野定時制72年史』2009年)
 スケボー同好会からオリンピック種目まで20年がある。もともと道路や公園で遊んでいたスケボーはカンカンといううるさい音のために周辺住民から抗議の声が絶えなかった。困った子どもの遊びと見られていた。だからスケボーは思ったほどの広がりはなく、街中ではほぼ見かけなくなった。
 だがスポーツ化の方向で努力した人たちの力で一気にオリンピック種目になった。国家主義にまみれない、遊びから発したス純粋なポーツでありつづけてほしい。




コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« テレビ・新聞は、なぜ倉林提... | トップ | アフガン、米軍撤退がすすむ... »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事