うちから車で40分弱、岩室温泉の「綿々亭 綿屋(めんめんてい わたや)」さんのギャラリーで、今日から8月31日まで天地人関係の展示会を催されるというので、仕事の合間を縫ってちょいと覗きに…
蒲原平野は緑一色ですな。
・
旧街道をひた走り、この標識にぶつかったら左折。
・
程なく左手に…
・
・
ここが綿屋さん。向かって右側にギャラリー入口があります。残念ながら展示物は撮影禁止とのことで、内部の画像はナシ。
さて、ワタクシのお目当ては上杉景勝が山岸氏に宛てた書状を拝見すること。現物が展示されていると聞き、我慢できずにやって来たのですよ。
ちなみに山岸氏は 『弥彦神社の神官を務め、上杉氏のもとで黒滝城主(弥彦山麓)を務めた。御館の乱では景勝方の有力な武将として…』(青字は解説より引用)と、上杉家の忠実な家臣として最後は米沢に落ち着いたそうです。その山岸氏の子孫の方が所有されているものを、この度展示品として提供して下さったんですねぇ。
おお、これがその… 全然読めませんので解説文より一部を抜粋して、
天正十一年(1583だったかな?)三月二日、上杉景勝から山岸出雲入道へ、「・・・今は景勝方の領地を堅固に守ることが第一に大切である。よろしく頼む。」
メモしてきたんですが、走り書きが爆走モードだったためこれ以上は解読不可能。古文書のみならず、自分で書いた字まで読めないとは情けなや。(T。T)
もう一つの方は、上杉景勝が家臣たちに送ったもので、あらこっちが先なのね。「柴田勝家が撤退した後の越中の仕置きのため 云々…」というもの。『天正十年六月二日に織田信長が本能寺の変で死去し、当時越中魚津城を攻撃していた信長の重臣・柴田勝家等は、同四日にこの情報を得ると急ぎ退却した。それを知った景勝が、越中に対して自らの力を誇示しようとしているのが伺える。』 なるほど。現物の「越中」の文字は読めました。
さらに、直江兼続が慶長末年頃、嫡子・平八郎景明に健康状態を案じて出した書状もあります。 ふ~ん、直江兼続はこういう書体だったのね。景勝の殿様らしい運筆とはやはり違いますな。
さて、ここまで読んで下さった方々は きっとチンプンカンプンだと思いますが、私的には良いものを見せていただいたと満足しております。
皆さまも出来ることならご自身の目でお確かめ下さいませ。